第14章 血痕の謎

猫の手も借りたい


非常に忙しくて、誰でもいいから手伝いがほしいこと。「明鏡国語辞典 第二版」より



十月二十六日 午前九時十五分


 翌朝、私と理真りまは、冬科ふゆしなのアパートへ向かった。昨日、そして今朝までも、クイーンに関する一報は理真、理真のお母さん、私、誰の携帯電話にも入ってきていない。クイーンがいなくなってから、今日で三日目だ。理真のお母さんとそうは、時間を見つけては可能な範囲までクイーンを捜しに出ているという。完全室内飼いにした猫が外に出て三日間も帰ってこないというのは、おかしい。何か事故かトラブルに巻き込まれたと見るべきだろう。みなみ中学校で出会った少女、大林美緒おおばやしみお。やはり、あの子が何か知っているのだろうか。ポスターが貼られた掲示板の前でのやりとりから、理真は、彼女がクイーンのことを知っていて、それでいて隠しているのではないか? とも考えていたが。彼女がクイーンを保護してくれているなら、それでもいいのだが。だが、彼女の家にはそれらしい気配はなかった。私がそのことを理真に話すと、


「うん。私も、そのことをずっと考えてた」信号待ちでハンドルを一旦離した理真は、「あの子が、クイーンを保護してくれているっていうだけなら、それでいいんだけどね。クイーンはかわいいし人になついてるから、連れて帰りたくなっちゃうのは理解できる」

「そのことを私たちに話さないのは?」

「そりゃ、手放したくないからでしょ。向こうは向こうで新しく名前を付けて、かわいがったりしてるのかもね」

「微笑ましいね」

「うん。でもさ、美緒ちゃんの家にはいなかったんだよね」

「そうだよね。クイーンを連れて出ていたのかな?」

「どこに? 藤川ふじかわ先生の話だと、美緒ちゃんは学校に友達はいないってことだったけど……もし……」

「もし?」

「美緒ちゃんがクイーンを保護していて、それを私たちに話さないというのに、かわいくて手放したくない以外の理由があったとしたら?」

「それって……何? ――理真、青だ」

「おお」


 理真はハンドルを握り、アクセルを踏んだ。いつの間にか目の前の信号が青に変わっていた。後続車がいなくてよかった。理真らしからぬミスだ。クールを装っていても、クイーンのことを心底心配しているのだろう。そのことが事件を見る目に曇りを与えなければいいのだが。



 冬科が入居しているアパートは、各階四部屋、二階建ての物件だった。一階の部屋はアパート敷地から直接、二階の部屋は階段を上がって吹きさらしの廊下を歩いて玄関に入るという、おなじみの作りだ。冬科の部屋は203号室、二階の三部屋目に当たる。

 階段を上って二階の廊下に出る。うん、これは汚い。吹きさらしで外からいくらでもゴミが飛んでくるうえ、ろくに、いや、まったく掃除などしていないのだろう。鉄製の廊下のペンキ自体も所々剥げており、堆積したゴミや汚れと相まって、複雑な模様を形成している。アパート管理人の末席を穢すものとして、ここの管理者にひと言言いたい気分だ。私たちは203号室の前に来て屈み込む。


「……これだね」


 理真が指さした。そこには直径五センチ程度の、いびつな楕円形の赤黒い染みがある。一見、それは塗装の剥げか泥汚れとも見られるが、警察の調べで人間の血液が凝固したものだと判明している。屈み込んでそれを確認した理真は、そのまま廊下の前後を見回して、


「ここだけ、だよね」

「そうだね」


 報告では、血痕が付着しているのは、この一箇所だけだというし、実際見てみても、全くその通りだ。念のため廊下を隈無く見て回ったが、やはり、血痕が付着しているのは冬科の部屋、203号室の前だけだ。


「何で、いきなりここに血痕が出来た?」


 理真は腕を組んで首を傾げる。私も同じように腕を組んで、


「冬科さんは、何らかの理由で殺した形塚さんの血液を持ち帰ったのかな? で、部屋のドアを開ける際に、不注意から少しこぼしてしまった」

「だったら、綺麗に拭き取るでしょ」


 確かに、そんなもの、残しておくわけがない。であれば他には……、


「自分の血とか? 何らかの理由で怪我をしてしまった」


 何らかの理由ばっかりだな、私。理真は、いや、と言って、


「形塚さんと冬科さんは血液型が違う。発見された血痕の血液型は形塚さんのものだから、冬科さん自身の血ということはあり得ない。今は血液型の一致だけだけれど、DNA鑑定の結果、この血痕が形塚さんのものと完全に判明したら、警察も冬科さんの部屋に乗り込む令状が取れると思うんだけどね。血液を持ち帰ったなら、まだ部屋に残っているかもしれない」

「鑑定は超特急で頼んでるって、中野なかの刑事が言ってたね」

絵留えるちゃんの頑張り次第ってことだね」


 理真が言った「絵留ちゃん」とは、科捜研の美島みしま絵留研究員のことだ。年齢は三十を超えた、私たちよりも年上の才媛だが、背が低く童顔のため、私や理真は親しみと尊敬を込めて「絵留ちゃん」と呼ばせてもらっている。


「こっちとしても、これ以上動きようがないね」理真は腰に手を当てた。

「どうする?」

「捜査本部に寄って、新しい情報が入っていないか確認して……クイーンの捜索をしようか」

「賛成」



 私たちは上所かみところ署の捜査本部にお邪魔した。ほとんどの捜査員は出払っていたが、顔見知りの警察官の中に、城島じょうしま警部を見つけることが出来た。


「おう、理真くん、由宇ゆうくん」


 警部の方も私たちを見つけ、声を掛けてくれた。こんにちは、と私と理真は挨拶をして、警部の勧める椅子に腰を下ろした。


「どんなだった? 冬科のアパートに行ってきたんだろ」

「血痕が一箇所だけ、ぽつりとある様子が不自然だとしか、今は感じないですね。どうしてあんなものがあるんだ? っていう疑問が新たに生まれてしまいました」

「うん。血痕を発見したはいいが、かえって捜査が混乱したようなものだよ」

「冬科さんは、相変わらずの黙秘ですか?」


 警部は黙って頷いてから、「コーヒーでも飲みながら話すか」と、三人分のコーヒーを持って来てくれた。


「冬科の様子なんだがな、黙秘するにしても、どうもおかしい」

「どういうことですか?」

「形塚については、会ったこともないと知らぬ存ぜぬを通していて、アリバイのことも声高に主張するが、こと血痕に話題が及ぶと、とたんに歯切れが悪くなる。形塚殺害のアリバイについては自信満々なんだが、血痕のことには触れてほしくない、と、そんな印象を受けるんだ。一応、部屋の前にそんな血がつくようなことに憶えはない、と言ってはいるんだが」

「煮え切らないですね」

「そうなんだよ。それと、現場付近から新しい目撃情報が取れた。十月二十三日だから、形塚が殺された日だな。現場近くで、中高生らしい人物が目撃されている」

「中高生ですか。でも、現場はまさに中学校だから、おかしくないのでは?」

「その目撃された時間というのが、午後八時くらいだというんだ」

「午後八時」

「ああ、中高生が出歩くにしては、いくら何でも遅すぎるだろ。あの辺りには塾もないし。しかも、南中学の生徒ではないことは間違いないらしい」

「よその学生ということですか?」

「そうらしい。目撃したのは夜のジョギングをしていたサラリーマンなんだが、自身も南中学出身だから分かったそうだが、制服が違ったと言うんだ」

「制服が……確か、南中学の制服はグレーでしたよね」

「ああ、だが、目撃されたのは、紺色の制服だったというんだ。暗がりだったから、細部のデザインまでは分からなかったそうだが。南中学の制服でなかったことは確かだと証言してる。しかも、スカート姿だったから、女子生徒らしい。手提げ鞄のようなものを持っていたそうだ」

「よその中高生の女子生徒が……」

「まさか、犯人ではないとは思うんだがな」

「死亡推定時刻とも、少しずれていますね」

「ああ、形塚の死亡推定時刻は午後六時半から七時半だからな、最も遅い七時半としても、三十分も過ぎてからのことだ」

「紺色の制服……どこの学校だろう。あの近くだと、確か、西にし中学の制服が紺だったと思いましたが……」

「今のところ、目立った新しい情報はこのくらいだな。また、何か分かり次第知らせるよ」

「ありがとうございます」

「ああ、それと、飼い猫が行方不明なんだって?」

「え? 警部、どうしてそれを?」

「理真くんのお母様から電話をいただいてね。世間話のついでに教えてもらったんだ」

「お母さん、警部に電話してたんですか?」

「ああ、たまに連絡をくれるよ。娘と由宇くんをよろしくお願いします、って」

「もう……」


 理真はため息をついた。


「心配してるんだろうな」

「それはもう。お母さん、最初は何だかんだ言ってたのに、今では一番クイーンのことを可愛がってますからね。あ、クイーンっていうのは、猫の名前で。元はと言えばですね、宗が飼いたいって言い出したんですよ。そのくせ、結局一番面倒を見ているのはお母さんという。それで、クイーンもお母さんになついちゃって」

「はは。俺が心配してるって言ったのは、お母様が理真くんと由宇くんのことを、だよ」

「え? それこそ無用の心配ですよ。私たち、別に危険なことなんてしてないし。ねえ」


 理真は私に同意を求めてきたが、即答はしかねる。結構危ない目に遭いかけたことも何回かあるぞ。


「俺も、お母様には申し訳ないと思ってるよ」

「やめてくださいよ、警部まで」

「それに……安堂さん――理真くんのお父さんにもな」

「お父さんは、関係ないですから……」


 照れ隠しのように、理真はそっぽを向く。城島警部は笑みを浮かべて、


「まあ、本来なら、理真くんたちのような民間探偵に協力してもらわなくとも、警察力だけで全ての事件を解決できるのが理想なんだけどな」

「警部、それは言いっこなしです」

「そうだな……。話は変わるが、最近、市内で猫や鳩が殺傷される事件が起きているな」

「はい。だから、お母さんは余計に心配してるんじゃないかと思うんです。猫の死体が発見された現場のひとつが、うちからそう遠くない場所ですし」

「ああいう行為を行う人間は、次第に対象がエスカレートしていく傾向があるからな。警察でも注視していたんだが、ここへ来てこの事件だろ。なかなか手が回せなくてね」

「警部、そのことなんですけれど……」

「同一犯じゃないか、と言うんだな」

「その可能性は考えられませんか?」

「形塚さん殺害と小動物殺傷が、同一犯による仕業ということですか?」


 私は言葉を挟んだ。城島警部は、うーん、と顎に手を当てて、


「ゼロではないだろうが、どうも殺傷対象が飛躍しすぎている感があるな」

「猫や鳩から、いきなり大人の男性というのは、確かにそうですね。あ、でも、まだ露見していないだけで、被害者がすでにいるとか……」

「いや、管内で小さい子供や少年少女が殺傷されたり、行方不明になったという届け出は、ここ最近出されていない」

「そうですか。それならそれに越したことはありませんね」

「小動物殺傷事件のほうも、人員を工面して引き続き捜査に当たるのを約束するよ」

「よろしくお願いします」


 私と理真は頭を下げた。


「……さて、由宇、もう帰ろう」


 理真は椅子から立つと、すたすたと出入り口に行ってしまった。


「由宇くん」警部が立ち上がった私を呼び止めて、「君にも、迷惑かけているな」

「そんなことありませんって」


 真面目な顔で言われて、私は戸惑った。


「わ、私、理真と一緒にいると楽しいですし……あ、事件の捜査なのに、楽しいとか、不謹慎ですよね」


 警部は笑って、


「由宇くんがいてくれて、理真くんも随分と助けられてると思うよ。これからもよろしくな」

「は、はい――」

「由宇ー、行くよ」


 すでに廊下に出ている理真から声を掛けられた。


「そ、それじゃ、失礼します。皆さんも、お疲れさまです」


 私は、警部をはじめ本部に残っている捜査員たちに挨拶をして部屋を出た。


「由宇」と理真は廊下を歩きながら、「警部と、何話してたの?」

「ううん。何でもないよ。クイーンがかわいいんですよ、って話してた」

「……そう」


 私と理真は署の近くの食堂で昼食を食べて、クイーンの捜索に向かった。



 一昨日訪れた大きな公園を中心に、私たちはクイーンの捜索を開始した。警察から電話が来たら、すぐに対応できるように、今回は二人一緒に行動する。車は公園の駐車場に駐めてある。

 捜索を開始して一時間ほど経ったころ、理真の懐で携帯電話が鳴った。


「あ、丸姉まるねえ


 と応答して、理真はそのまま通話を始めた。


「……うん……うん……。分かった、ありがとう」


 理真が通話を終えると、私は即座に訊く、


丸柴まるしば刑事からだね。どうしたの?」

「DNA鑑定の結果が出た。冬科さんの部屋前に付着していた血は、形塚さんのものと断定されたわ」


 DNA鑑定の結果が出たことで、冬科には需要参考人として具体的に形塚殺害の容疑が掛けられた。家宅捜査令状もすぐに出て、部屋に警察の手が入ることになる。私たちは車で冬科のアパートへ向かった。



 アパートの狭い駐車場には全ての警察車両を収めることが出来ず、路上にも溢れている。それを見越して、私と理真は乗ってきた理真の愛車R1を、近くのコインパーキングへ駐めていた。現場へ徒歩で向かう途中から、すでに警察の到着を知った近所の人たちが出てきており、アパートに到着すると、周辺は野次馬で人だかりになっていた。


「ちょっと、通りまーす……すみませーん」


 私と理真は人を掻き分けながらアパートに向かう。非常線の前に立つ制服警官に止められるかと思ったが、


「安堂さんと江嶋えじまさんですね。どうぞ」


 私たちのことを既知だったらしく、すぐに通してくれた。「ありがとうございます」と、警察官が上げてくれた非常線をくぐろうとした、が、中腰の姿勢のまま、理真が動きを止めた。視線は、アパートの前を取り囲む人だかりに向いている。


「――待って!」


 突然、理真が非常線をくぐるのを中断して、人だかりのほうへ走り出した。何だ? 仕方なく私も追う。入るときと同じくらい苦労をして人だかりを抜けた先に、理真が立ち尽くしていた。


「理真、どうしたの?」

「……紺色の制服」

「え?」

「野次馬の中に、紺色の制服の女の子がいた」

「紺色のって……城島警部から聞いた? でも、同じ制服を着てる子なんて、いくらでもいるでしょ」

「目が合ったの」

「目が?」

「そう。その子、私のことをずっと見てた。で、私と目が合うと、いきなり逃げ出したの」

「それは……どういう?」

「分からない……」理真は、なおも、その女子生徒の姿を求めるように、視線を左右に配りながら、「分からないけど……長い髪をした、大人びた少女だったわ」

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