第12章 三毛猫クイーンの名前
なぜあの猫にエラムスという名をつけたのかと質問してみたところ、彼はまじめな顔で、神のみぞ知る、と応えた。
堀江敏幸
十月二十五日 午前十時零分
懐で携帯電話が鳴った。明日菜は慎重な動きで、ディスプレイに表示された発信者の名前を確認してから着信を受けた。
「
「明日奈……あのね……」
「何? 何かあったの?」
スピーカーから聞こえる美緒の声が息せき切ったものだったためか、明日奈は尋ねた。
「ちょっと……走っちゃったから……あのね……」美緒は呼吸を整えてから、「ミケちゃんが……」
猫の名前を耳にして、明日奈は自分の膝の上を見た。三毛猫は変わらず喉を鳴らしている。
「ミケが、どうかしたの?」
「あのね……事件の捜査で、探偵が学校に来てて……」
「探偵?」
「探偵がね、私も知ってる作家だったの……名前がね……」
「……
作家の名前が明日菜の口から漏れると、クイーンは薄目を開けて、ぴょこんと耳を立てた。
「でね……」美緒の息はまだ完全に落ち着いてはいなかった。時折、呼吸音を交えながら、「その、安堂理真がね、作家で、探偵で……ミケちゃんなの」
「……どういうこと?」
明日菜は眉間に皺を寄せる。
「ミケちゃんは、クイーンなの」
「クイーンって、女王ってこと? 確かにミケはメスだけど」
「ミケちゃんの本当の名前……ミケちゃんはね、安堂理真って人の猫で、クイーンっていう名前なの。一昨日逃げ出したんだって」
「ミケが、探偵の……猫?」
明日菜は視線を落とす。同時に見上げた三毛猫と目が合った。
「美緒、今、どこ?」
「学校を出たとこ」
「私は、ランタの公園にいる。落ち合おう」
わかった、という返事のあと、美緒のほうから通話は切れた。しばらく、通信が切れたままの携帯電話を耳に当てていた明日菜だったが、携帯電話を懐にしまうと、三毛猫を抱き上げた。
「あなた、クイーンっていう名前なの?」
話しかけると、三毛猫は「にゃー」と鳴いた。
(初めて本名を呼んでもらえた)
三毛猫はゆっくりと尻尾を振って喉を鳴らし、ご満悦だった。
「クイーン……探偵……そんな名前の名探偵が昔いたって聞いたことあるけど……」
「うみゃあ」
(そうそう、そのクイーンだよ)
名探偵の名前をいただいた三毛猫は、首肯するように耳をぴくぴくと動かした。
公園に美緒が到着した。
「美緒」明日菜はベンチから立ち上がって、「どういうことなの? 詳しく聞かせて……」
そこまで言って周囲を見回した。公園には、人の姿がちらほらと確認できる。
「うちに行こう」
明日菜は三毛猫を入れたバスケットを持つと、美緒を連れて自宅に向かった。
「お父さんもお母さんも仕事でいないから、楽にしてね」
お邪魔します、と呟いて玄関を上がった美緒に、明日奈が言った。美緒は、明日奈の先導で居間に入る。ダイニングキッチンと一体になった、広い居間だった。
「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「あ、コーヒーで」
「ミルクと砂糖は?」
「どっちも多め」
「分かった。適当に座って」
キッチンに入った明日奈がお湯を沸かし始めると、美緒はソファの端に腰を下ろした。足下にはバスケットが置いてある。
「あ、ミケも放していいよ」
「いいの?」
「うん。今日はお父さんもお母さんも泊まりだから。一日猫がリビングにいたくらい、分からないわよ」
「だって。よかったね、ミケちゃん」
美緒は嬉しそうにバスケットの蓋を開ける。のそりとクイーンはバスケットから出ると、美緒の脚に頬をこすりつけた。
「ふふ、かわいい」
美緒は三毛猫の頭を撫でてやる。
「そうだ、ミケのトイレとご飯、持って来よう」
明日奈は居間を出て階段を上がっていった。
美緒は大きなサッシ窓から外を眺める。そこには、広い庭が目にできた。庭の隅に立つ木、その根元に視線が向く。父親や母親にみつからないようにと、明日菜が目立たない程度の小さな枝を墓標代わりに差した、昨日、明日菜と二人だけで作ったランタの墓。ひとりになると急に寂しさが襲ってきたのか、美緒は足下の三毛猫を持ち上げて抱きしめた。「にゃー」とクイーンは鳴いたが、拒否の意味合いではなかった。その証左として、クイーンは喉を鳴らしながら美緒の頬を舐める。
「くすぐったいよ」
と言いながらも、美緒は顔を引いたりはせず、猫がするに任せた。クイーンは頬を舐め続ける。しょっぱい味がした。
明日奈は、新しい猫砂を敷き詰めたトイレを居間の隅に置き、猫缶の蓋を開けた。すでに美緒の手を離れて、今か今かと尻尾を振って待機していたクイーンは、猫缶の中身が皿に盛られると同時に襲いかかる。人間二人は、その様子を見て笑顔を浮かべながら、コーヒーカップに口を付けた。
「で、どういうことなの」明日奈は、すでに半分以上のご飯を平らげているクイーンから美緒を向いて、「ミケが、探偵の猫?」
「そうなの……」
美緒は、学校を訪れたときのことを話した。
この日も休校になることを連絡網のメールで知った美緒は、またしても様子を見る目的で
「ミケだった、ってわけね」
明日奈が言うと、美緒は頷いた。
書かれている内容によると、猫の本名は「クイーン」と言うらしい。そのポスターを携帯電話のカメラに収めた美緒が、なおも猫の写真を眺めていると、
「声を掛けられたのね。その女性が、安堂理真。本業は作家だけど、素人探偵としても活動していて、寄りにもよって、この事件の捜査に介入してきたってことね」
「そうなの。私、もうびっくりして……。安堂さんひとりじゃなかった、ワトソンも一緒だったよ。そっちも若い女の人だった。丸い眼鏡を掛けてる」
「探偵とワトソンが二人とも女の人なんて、珍しいわね……」明日奈は、ひと口コーヒーを喉に流し込んでから、「それで、間違いないのね、そのクイーンっていう猫と、ミケが同一人物……じゃなかった、同一猫っていうことは」
「うん。絶対だよ。首輪も同じだし……見てみる?」
美緒は携帯電話を操作して、撮影したポスターの画像を明日奈に見せた。それをじっくりと見ていた明日奈は、
「……クイーン」
と呼びかけた。すでに猫缶を完食して皿を舐めていた三毛猫は、自分の名前を呼ばれたことで、「にゃー」と返事を返した。
「間違いないわね……」
「でしょ。どうする? やっぱり、教えてあげたほうがいいよね?」
「……」明日奈はすぐに返答しなかった、少しの間、何かを考え込むように黙ってから、「ううん。それは危険。事件の捜査をしている探偵と接触するなんて」
「でも――じゃあ、拾った公園に放してあげようか?」
「それは……もう少し、このままでいましょう。このことはあとで考えるわ」
「明日菜がそう言うなら、分かった」
二人が黙り込むと、いつものように、洗い終えたかのごとく皿をピカピカに舐めきったクイーンが、とことこと二人の足下に近づいてきた。
「まさか、探偵の猫を拾っちゃうなんてね」明日奈はクイーンを抱きかかえると、その黒い瞳を見つめて、「これも、何かの縁なのかな? ……おい、どう思う?」
「にゃー」
クイーンは鳴き声を返した。
(それはそうと、かにかまは、ないの?)
そう訴えかけたのだが、通じるはずもなかった。「私も」と今度は美緒が三毛猫を抱きしめて、
「私、もっとミケちゃんと一緒にいたいな」
そう言いながら猫に頬ずりをする。
(クイーンなんだけど……)
せっかく本名を呼んでもらえたのに。と思いながら、クイーンは喉をごろごろと鳴らした。
「そういえば、明日菜、今日、学校は?」
「行く振りだけして、お父さんとお母さんが仕事に出かけた時間を見計らって、帰ってきちゃった。で、ミケを連れて、公園でゆっくりしてたの」
「えー、悪い子だ」
「ちゃんと学校には仮病を使って連絡いれてあるわよ」
「そういう問題じゃない」
「ふふ」と明日菜は笑って、「学校って気分じゃなかったし……それに、今日はうち、両親とも仕事で泊まりなんだ」
「そっか、さっきも言ってたね」
「うん、だから、もしよかったら、美緒も今日、うちに泊まっていってよ」
「やったー! 泊まる泊まる!」
「決まりだね。でも、一応、おうちの人には連絡してね」
はしゃいでいた美緒だったが、それを聞くと途端に表情を曇らせた。
「……どうしたの? 美緒」
「しなくていい」
「えっ?」
「連絡とか、しなくていいの」
「そういうわけにはいかないでしょ」
「うちね、お母さんしかいないの」
「……そうだったんだ。でも、だからって、連絡しなくていいことにはならないよ」
「いいの。お母さんも、私がいないほうがいいって思ってるはずだから……」
「美緒……」
「……ねえ」と美緒は明るい顔を明日菜に向けて、「お昼ご飯、二人で作ろうよ」
「いいね」
「ミケちゃんにもさ、猫缶じゃなくて、何かおいしいもの作ってあげようよ」
「にゃーん」
クイーンが賛同の意で高く鳴いた。
「ふふ」と明日菜も笑って、「でも、ミケじゃなくて、クイーンなんでしょ」
「ううん。ミケちゃん」美緒は床に座る三毛猫を抱き上げて、「私たちの中では、この子はミケちゃん。それでいいよね」
「……そうね」
明日菜は、三毛猫を抱き寄せて満面の笑みを浮かべる少女を、やさしい笑顔で見つめる。
「ミケちゃん!」
美緒はクイーンをさらに抱き寄せて頬ずりをした。
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