第6章 現場検証へ

美学的に完璧なものが世の中に二つある。時計と猫だ。


アラン



十月二十四日 午後二時十五分


 安堂あんどう家に戻った私と理真りまは、クイーンの行方は依然として知れないこと、かつての縄張りを越えて、大通りを渡った先にある大きな公園にまで脚を伸ばした可能性があることを、理真のお母さんに告げた。


「まあ、クイーンが、そんな遠くにまで……」


 理真のお母さんは、頬に手を当てて心配そうな表情になった。


「それでね、お母さん、私と由宇ゆうは、事件が……」


 理真が切り出すと、理真のお母さんの表情は、さらに心配度を増す。が、それも一瞬だけのことだった。


「……気をつけるんだよ」


 そう言って笑みを浮かべた。娘を送り出す葛藤を整理したように思える。


「うん、ありがとう」


 理真も微笑みを返して、玄関に戻ろうとしたが、


「理真、お父さんにお参りしていきなさい」


 母親に言われて、素直に仏間に向かう。私も同行させてもらうことにした。私は理真と並んで仏壇の前に正座して、両手を合わせる。立てかけられている、理真の父親、安堂哲郎てつろうの写真に向かって。

 理真も素人探偵をやっているからには、危険な目に遭ったことも何度かある。理真のお母さんは、内心、素人探偵などやめてほしいと思っているはずだ。当然だろう。娘が犯罪捜査に首を突っ込むことに、いい顔をする親などいるわけがない。ましてや、警察官だった夫を失っているのだ。元新潟県警捜査一課刑事だった理真のお父さん。彼が殉職してから、もう何年が経っただろうか。理真のお父さん、理真のことを守ってあげて下さい。何て、私が頼むようなことでもないか。子供を守らない親なんて、いるわけがない。

 隣で畳の擦れる音がしたので、私も目を開けて立ち上がった。


 玄関でお母さんに見送られて、私と理真はスバルR1で安堂家を発った。


「捜査本部に行くの?」助手席から私が訊くと、

「ううん。現場で待ち合わせ。丸姉まるねえは他の仕事があるから、中野なかのさんが合流してくれるって」


 捜査一課の中野勇蔵ゆうぞう刑事。丸柴まるしば刑事と同様、素人探偵である理真のことを煙たがらず、懇意にしてくれている刑事のひとりだ。私や理真と同年代の刑事で、身長百八十センチの体格に相応しく、柔道、空手、ボクシングなど各種格闘技にも心得がある。まさに偉丈夫と渾名するに相応しい男性だ。これだけ聞くと、いかにも勇ましい無骨な男性像を想像してしまうが、その実体は、年上の丸柴刑事に頭が上がらず、好意を持っているがゆえ、理真に対してもからきし弱いという、私の目から見れば、ちょっと頼りない印象も受ける刑事だ。

 現場といえば、みなみ中学校か。ここから車でなら十数分で着く。道中、どうしても私は車窓の向こうに猫の姿を捜してしまう。が、ここでも文字通り猫の子一匹見つけられないうちに、理真がハンドルを握るR1は南中学校に到着した。学校の駐車場には、見慣れた覆面パトが駐まっている。向こうでもバックミラーで理真の愛車を確認したのだろう。運転席から、背広を着た背の高い男性が降車した。中野刑事だった。


「安堂さん、江嶋えじまさん、どうも、わざわざすみませんね」


 長身を折りたたむように、ぺこぺこと頭を下げながら中野刑事が駆け寄ってきた。「いえ、こちらこそ」と理真も笑顔で応じる。


「もう学校側に話は通してありますから。さっそく行きましょう」


 中野刑事の案内で、理真と私は校門を通って現場に向かった。

 グラウンドには生徒の姿は見られない。校舎からも、中学校特有の生徒が騒ぐ声や音なども一切聞かれない。


「あんなことがあったから、臨時休校になったんです」


 静寂の理由を中野刑事が説明してくれた。そういうことか。まあ、無理もない。体育用具室から教師の死体が見つかったのだ。もう放課後になっている時間だが、本来であれば部活動に所属していたり、帰宅せずに残っている生徒たちがまだ大勢いるのだろう。

 目指す現場はグラウンドの隅の奥まった、校舎と敷地フェンスに囲まれている空間にあった。簡素なコンクリート造りの建物があり、それが死体が発見された用具室ということだった。中野刑事は抱えていたファイルを理真に手渡した。事件の資料だ。現在は当然すでに死体は搬出されているが、資料を見れば、死体発見当時の様子を写真で確認することが出来る。

 私たちは用具室の前に立った。死体こそないが、室内の床にはまだ、被害者の頭部から流れ出た血痕が赤黒く残っている。その血痕も囲う範囲におさめ、白いテープが人の形に床に引かれている。ファイルの写真と見比べて瞭然のように、死体を縁取ったものだ。


「鑑識が徹底して調べましたから、室内に入っても、素手で物に触れてもらっても全然構いません」

「分かりました」


 答えながらも一応、理真は愛用の手袋をしてから用具室に入る。私も同じように手袋をして理真に続いた。


「凶器となった砲丸の球は、証拠品として持ち帰ったんですね」


 理真は、写真で凶器が置かれていた場所に目を落として訊いた。用具室の床には、他にもいくつか砲丸の球が転がっている。どれも全体が錆で覆われて赤黒かった。


「ええ」と中野刑事は、「室内から、その砲丸以外に凶器に相当するものは見つかっていません。血の付着していない部分を拭ったような形跡がありました。犯人が指紋を拭き取ったのでしょう。その砲丸自体は用具室の奥に転がっていました。ナルさんの話では、頭部の傷と形も一致するということです」


 ナルさんこと鳴海なるみ医師の見立てであれば間違いはない。


「この砲丸は、どれくらいの重さなんでしょう?」

「中学男子競技用のもので、五キロあります」

「五キロですか、結構な重さがありますね」

「ええ、そんなもので殴られたら、ひとたまりもありませんよ。五キロの砲丸を振り回して大人の男性の頭部に一撃、ですからね。被害者の身長は百七十五センチありますし、成人男性の犯行の可能性が高いと我々は見ていますが」

「それは偏見じゃありませんか? 女性でも、力持ちはいますよ」と理真は転がっている砲丸のひとつを掴んで、「ほら、この通り」


 片手で掌握した金属の球を、自分の胸の高さまで持ち上げてみせた。


「安堂さん、それは女子用の砲丸で、重さは二.七キロくらいのものです」

「あれ?」


 理真は自分が掴んだ砲丸を確認した。確かにそれは女子用の小さなものだった。理真は改めて男子用の五キロの砲丸を見つけて持ち上げようとしたが、球形の持ちにくい形ということもあり、両手を使ってようやく持ち上げるに至った。


「ま、まあ、いざとなれば、女性でも火事場の馬鹿力を発揮するかもしれませんし……」理真は砲丸をもとのように床に置いて、「こんなもので殴られたのですから、やはり被害者は即死だったのでしょうか?」

「通常であれば、そう見ても間違いないところですが、今回ばかりは、殴られてから死亡するまで、数秒程度の猶予はあったものと見られています」


 その理由はひとつしかない。理真は床の一角に目を向けて、


「ダイイングメッセージ、ですね」


 中野刑事は頷いた。理真の視線は、死体を縁取ったテープの頭部に当たる箇所の右側に向いている。今朝までそこには、使い古した体操マットが広げられていた。死体の右手がちょうど、マットの端に掛かるようになっており、そこに〈フユシナ〉と片仮名で血文字が書かれていたのだ。現在、マットは証拠物品として警察の保管庫に持っていかれている。


「少なくとも」と中野刑事も視線の向きを同じくして、「あの文字を書き終えるだけの時間、被害者は生きていたと考えられていますね」

「ナルさんの意見はどうでしたか?」

「傷は即死してもおかしくないものだったそうですが、数秒から十秒程度であれば、意識を保てていた可能性はある、と言われました」


 片仮名四文字を書き残す時間としては十分だろう。


「それで、その〈フユシナ〉なる人物が見つかったと丸姉から聞いたのですが」

「そうなんですよ」と中野刑事は手帳を開いて、「漢字は季節の〈冬〉に更科さらしなの〈科〉と書きます。冬科陣平ふゆしなじんぺい、二十八歳。ここから三キロほど離れたアパートにひとり暮らしをしている男です。定職には就いていないフリーターですね。これも丸柴さんからお聞きしたかと思いますが、今のところ、被害者の形塚武生かたづかたけおとの接点はありません。形塚は三十三歳で、年代も出身も違います」

「でも、その冬科さんが、このダイイングメッセージの該当人物だと目星を付けたということですね」

「ええ。というのもですね、〈フユシナ〉なる名字を持つ人間が、彼しかいなかったからです。新潟市民の名簿を検索しても。現在、さらに県全域に渡って検索を続けていますけれど、まず、新しい〈フユシナ〉さんが出てくる見込みはないでしょうね」

「珍しい名字ですものね」

「はい。それに、その冬科は出身が関西のほうで、家族や親類と離れてこちらに来たようですから」

「丸姉の話では、その冬科さんにはアリバイがあるとか」


 理真は丸柴刑事のことを愛称で呼んでいるが、相手が中野刑事だけであれば問題はないだろう。理真も他の刑事がいるような場面では、きちんと「丸柴刑事」と呼んでいる。


「そうなんですよ」と中野刑事は手帳のページをめくって、「死亡推定時刻が、昨日の午後七時を中心に前後三十分を取った午後六時半から七時半までの一時間だということは、丸柴さんから聞いていますよね。ちなみのこの時間は、ナルさんの解剖結果でも変わりませんでした。で、冬科は、午後六時五十分から八時までの間に、完璧なアリバイを持っています。食堂で食事をしていたそうです。そこは容疑者の行きつけの店で、店主や店員とも顔なじみで、その人たちから証言が取れました」


 冬科の証言と関係者への聞き込みによって得られた状況は、以下の通りだった。


 昨日の夕方から夜に掛けての時間、冬科は行きつけの食堂を訪れた。時間は午後六時五十分ほぼちょうど。そこまで正確な時間が分かったのは、店主が店のテレビを見ていたからだ。視聴していたのは午後六時台のニュース番組で、その番組では、いつも六時五十分ちょうどに天気予報コーナーを始めるのだ。そのコーナーが開始したと同時に、冬科は店の暖簾をくぐって顔を見せたという。

 冬科は店で、食事をしてテレビを観たり、店主や店員と話しながら一時間近く過ごした。食堂を出たのは午後八時三分。これはレシートに打たれた時刻で判明した。店主、店員の証言でも、冬科が店を出たのはそのくらいの時間だったという。


「ということは」と話を聞き終えた理真は、「死亡推定時刻の後半の時間に殺すのは無理。推定時刻頭の六時半から、六時五十分に店に姿を見せるまでの二十分間が勝負ということになりますね」

「ええ、そうなんですが、現場――ここですね――からその食堂まで、歩いて一時間は必要なんです。冬科は車を持っていなくて、移動はもっぱら徒歩。タクシーを使えば、十分掛からずに行けますけれど、その時間に冬科を乗せたタクシーというのは該当がありませんでした。タクシー以外に、知人の車に乗せてもらったという可能性も考えられますが、午後六時半から七時って言ったら、通勤の車両で道路がめちゃめちゃ混んでる時間帯じゃないですか。果たして二十分あっても、現場から食堂まで行けるかどうか微妙なんですよ。途中、幹線道路を必ず通る必要があるので渋滞は不可避です。バス路線からも大きく外れていますからね」

「二十分で、ここから食堂まで移動するのは無理、ということですね」

「そうなんです。食堂の店主や店員も、来店した冬科には何も変わった様子はなかったと証言しています。まだ漠然とした容疑の段階なので、冬科に殺人の疑いが掛かっているとまでは言いませんでしたけれどね。人ひとり殺した来たようには見えなかった。そう捉えても問題ないような口ぶりでした」

「冬科さん自身も、当然容疑は否認しているんですね」

「いえ、そこまでには至っていません。アパートを訪れて、『昨日の午後六時半から七時半までの間、どこにいましたか』と訊いただけなんです」

「そうですよね。中野さんも今おっしゃったように、まだ面と向かって『人を殺しましたか』と詰問できる段階ではありませんよね」

「そうなんですよ。冬科が容疑者として浮上したのは、被害者が残したメッセージひとつだけが理由ですからね」

「他に容疑者は、まだ浮かんできていませんか?」

「ええ、まだです。同僚の教師や生徒、知人に訊いても、殺された形塚はいたって真面目で穏和な性格だったらしく、恨みを買うような人間ではないと、口を揃えて皆証言しています」


 そこまで聞くと、理真は一旦黙って、ファイルをめくり始めた。死体発見当時の写真などが掲載されている。


「財布を所持していなかったんですね」


 被害者の所持品が列記された欄を見て、理真が訊いた。


「そうなんです。ですので、物盗りの線もあるとして捜査を進めています」

「被害者が、死亡時刻にこの体育用具室にいた理由というのは、推測されていますか?」

「それはまだ不明です。被害者の形塚は国語教師で、体育には無関係ですし、図書室管理担当で運動部の顧問でもないため、ここには用事がないはずなんですよ。他の教師たちもそう証言しています」

「死体に動かされた形跡も……」

「ありません。現場を調べた鑑識と、解剖したナルさんのお墨付きです」

「そうですか。他には……」と理真は資料をめくって、「腕時計が壊れていたんですね」

「ええ。それも、少しおかしな点ではあります」


 理真の横から資料を覗き込んで、私にも中野刑事が言った「おかしな点」というのが何か理解できた。


「時刻が……六時になっていますね」


 理真が呟いた通りだった。写真にある被害者のしていたアナログ腕時計は、ガラス面に亀裂が入っており、その下の針は、六時ほぼちょうどを差していた。


「そうなんですよ。被害者のしていた時計は電波時計なので、時刻が狂うことはないはずなんですけれどね」

「これが午後六時を示していて、頭を殴られて倒れた拍子に壊れたのであれば、最も早い死亡推定時刻とは三十分のずれが生じてしまいますね」

「おっしゃる通りです。検視と解剖から得られた死亡推定時刻は、午後六時半から七時半ですからね。捜査陣の中には、この時計を指して、死亡推定時刻は午後六時なのでないか、という意見を述べるものもおりました」

「医学的見地から、それはどうなんですか?」

「否定されました。ナルさん言うには、六時に死んだということはあり得ないと。死亡推定時刻を七時から前後に三十分の猶予を持たせたこと自体が大サービスなんだ、と唾を飛ばしながらおっしゃっていました」


 死亡推定時刻の幅をサービスって……。


「ということは、この時計が死亡時に壊れたのだとしたら、形塚さんは三十分から一時間半も時間がずれている時計をしていたということになりますね。いくら何でもずれすぎですよね。そもそも電波時計というのは、勝手に電波を受信して時刻合わせをするため、故意に時計の針を動かすことは不可能なんじゃないですか?」

「いえ、電波時計とはいえ、電波受信機能を切って自分で時刻調整することは可能です。形塚は何かしらの必要があって、電波を受信しない手動モードで使っていたのかもしれません。よく、わざと時計を進めておいて、時間的な余裕を作ろうという人がいますけれど」

「ああ、分かります。時計を見て、五時だ、と思っても、実際は四時五十五分で、気持ち的に五分間のゆとりが出来るというやつですよね。でも、今回は、それとは逆に遅らせていますよね。意味がありますか?」

「僕は、近いことを学生時代にやっていたことがあります。教室の時計を五分遅らせておいて、そのことを意識して忘れるよう努めるんです。そうすると、時計を見て、ああ、まだ授業終了まで五分もあるな、と思った瞬間にチャイムが鳴るんですよ。この快感ったら、なかったですね。あまり遅らせすぎると変なので、五分くらいが限界でした」


 中野刑事、何やってたんだよ。理真は少し呆れたような顔をして、


「それにしたって、最小でも三十分というのは遅らせすぎですよ」

「ええ、全くの同感です」

「実際の午後六時の時点で事件とは無関係に時計が壊れたのだとしても、そんな時計をずっとしているというのは、やはり変ですし……。現場に時計をぶつけたような跡はありますか?」

「ご覧の通り、ここの床はコンクリート敷きで、用具の出し入れでたくさんの傷がすでに付いていますから、どれがと特定するのは困難ですね」


 中野刑事の言った通り、ここ用具室の床は、大小様々な無数の傷で覆われている。用具の出し入れの際に面倒がって、引きずりながら移動させている生徒も大勢いるのだろう。


 理真は、時計を写した写真にもう一度目を落とした。死亡推定時刻から一時間ずれた時計。この壊れた時計が何か意味を持ってくるのか?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る