三毛猫クイーンの冒険

庵字

三毛猫クイーンの冒険

序章 ある別れ

 目の前で、ひとつの命が消えようとしていた。

 それを見つめる私の視界は、溢れんばかりに溜まった涙のため滲んでいるはずだが、その姿は意外なほどはっきりと目に映っていた。


(ねえ、泣かないで)


 頭の中に直接声が響く。

 私の前に横たわっている、雪のように真っ白な毛に覆われた一匹の白猫。猫が言葉を発することは出来ないゆえ、こういう形で語りかけてきているのだろう。


(これは当たり前のことなんだよ。生まれてきたものは、いつか必ず死ぬ。何もおかしなことはないんだ。自然の摂理だよ)


 四肢――元気だった頃とは比較にならないほどやせ細った――をだらりと伸ばし、いつも使っているお気に入りの毛布の上に横になっている。私の頭の中で再生される飄々とした口ぶりとは裏腹に、舌を出し、荒く小刻みな呼吸を繰り返している猫の様子は、いかにもつらそうに見える。


「苦しいの?」


 胴体だけを僅かに上下させている他は、全く身動きをとらない白猫に、私は問いかける。


(苦しいか苦しくないかでいえば、苦しい)


 その答えを聞いて、私は両目を拭った。


「ごめんね……」


 私の謝る声に、白猫は、


(どうして謝るの? 私は感謝してるんだよ。本来なら、私は野良猫として生きていたはず。そうなっていたら、もっと、もっと苦しくて痛い思いをしていたはず。もっと短い生涯だったはず。大好きなまぐろ味のキャットフードも、かにかまも、あんなにたくさん食べられはしなかったはずなんだ。この家に拾われて、人間と一緒に生活できて、感謝してるんだよ)


「病気してからは、全然食べてくれなかったじゃない……」


(それはそれ。食べたいときに食べ、食べたくなければ食べない。それが猫というものだよ)


 猫が、にやりと微笑んだように見えた。……見えただけなのだろう。


(人間は、死ぬことを〈永眠〉と表現するそうだね。いい言葉だよ。猫は眠ることが大好きだから。眠るのはいい気分だよ。君たち家族に頭や体を撫でてもらうことと、かにかまの次に大好き)


 それを聞いた私は手を伸ばして、白い体を撫でた。命の最後の脈動が、白い体毛を通して伝わってくる。猫の目が細くなり、笑ったように見えた。今度は気のせいではなかった。


(永遠の眠り。素晴らしいことだよ。あんなにいい気持ちが永遠に続くなんて……)


「早く、楽になりたいの?」


(……それは結果としてさ。私は、いや、私たちは最後の最後、一分一秒まで、生きることを諦めない。抗い続ける。どんなに痛く、苦しくても。それが野生の本能。この世に生を受けたものの責務だからね)


 私は片手で猫を撫でたまま、もう片方の手で涙を拭った。


 それから、どれだけの時間が経ったのだろう。数分か、数時間か、それとも、たった数秒だったのかもしれない。


(……お別れだ)


 虚空を見つめていた、まん丸い目が、最後に私を向く。どれほどの後悔が私の心を襲っただろう。もっと早く病気に気付いていれば。定期的に獣医に診せていれば。もっと、この子のことを気に掛けてあげられていれば……。私は猫よりも自分のことを――それも、取るに足らない些細なことを――優先したことが何度もあった。その中に、この子以上に大事なことなど、なにひとつなかったと断言できる。なのに……。私はもう一度、「ごめんね」と口にしようとしたが、それは嗚咽で言葉にならなかった。


(何も気に病む必要はないんだよ。私は、猫としては十分に長い時間を生きたよ。君たちのおかげで、猫としての人生、いや、猫生を生ききったと、胸を張って言えるよ)


 まるで、私の心中を察したかのよう。


(最後にもう一度言うね。この家に拾われて、この家の猫になれて幸せだったよ。みんなに愛情をたくさんもらって、幸せだったよ。ありがとう……)


 目の前がホワイトアウトしていく。白い猫は、その波に溶けるように消えた……。

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