第1話

 彼女はこうして草の上に寝転ぶことが好きだった。そもそも不死身である彼女にとって眠りは必要ない。しかし彼女はほとんど毎晩、こうしてここで眠ったふりをしているのだ。

 彼女はさっき一頭の狼が来たことも知っていた。彼女はちゃんと起きていたわけだが、それでも狼の心遣いは嬉しかった。

 狼が去ってどれくらいたったであろうか。彼女は自分と同等の力を持つ存在の気配を感じて起き上がった。同時に弓を構えている。

「誰?」

「僕です。姉上」

 現れたのは美しい青年だった。娘とどちらが美しいかを比べることは困難なことだ。たかが人間ごときの鑑賞眼では、無限と無限のちょっと上との区別などつけようはずもない。どちらも限りなく美しいとしかいいようがない。

 青年は上半身に何も身に着けておらず、逞しい裸身がむき出しだった。奇妙な帽子をかぶり、羽の生えたサンダルを履き、2匹の蛇の巻き付いた杖を持っている

「ヘルメス・・・。今日はまたお父様の使いかしら?」

 青年は頷いた。

「なるべく急いで来てほしいとのことです」

「わかったわ。すぐに行きます」

 言い終わるとすぐ、娘の背中に翼が現れた。ヘルメスはそれを見届けると、空中に駆け上がった。サンダルの羽が羽ばたいている。

 娘もすぐに後を追った。

 二人は風よりも速く飛び、海を越えすぐに目的地に辿り着いた。

 そこは山の頂にある、巨大な神殿だった。神殿は荘厳で気高く、そして美しかった。

 この神殿は他の神殿と大きく違うところがある。ここは全ての神々が集うところであった。この神殿のある山はオリュンポスと呼ばれている。

 神殿の入口で待っている者がいた。

「お久しぶりです。姉上」

 待っていた青年は娘とよく似ていた。そして今、その顔には喜びが溢れている。

「出迎えありがとう。アポロン」

 愛情をこめて娘が答えた。

「もっとオリュンポスにもいらしてくださればいいのに」

 そういうアポロンに、娘は半ば自嘲的な微笑を浮かべた。

「私はやはり、森で生き物に囲まれている方が性に合っているの。ここは少し窮屈だわ」

 二人の再会にヘルメスが口を挟んだ。

「あまり父上をお待たせするわけにもいきません。そろそろ参りましょう」

 二人は賛成して彼の後についていった。

 神殿の入口からすぐの部屋は、もし人間がみたら考えられないほどの広さであったと言ってよかっただろう。しかし、今やってきた3人にとって、ここは見慣れた部屋に過ぎない。

 ここはオリュンポスの神殿の中で最も広い部屋、必要とあれば神々から無数のニンフに至るまで収容することのできるゼウスの謁見の間であった。

 壁には永遠に消えることのない松明が並び、明るく照らしていた。部屋の奥まったところは数段高くなっており、玉座が2つ並んでいた。今その1つは空いていたが、もう1つには豊かなあごひげを蓄えた威厳のある人物が座っていた。

 彼こそがオリュンポスの主、ゼウスであった。ゼウスは目を閉じてじっと考え込んでいて、3人が入ってきたことにすら気づかなかった。

「父上」

 ゼウスの前に出てヘルメスが言った。ゼウスは目を開いた。

「お言いつけ通り姉上を連れてまいりました。」

「うむ、ご苦労だった。ヘルメス」

 ゼウスはヘルメスの労を労うと、自分の娘に向けて破顔した。

「久しぶりだな。アルテミス。たまにはここにも顔を見せてくれ」

「先程、アポロンにも同じことを言われてしまいました」

「そうだろう。皆、お前の顔が見えないと寂しがっておったのだぞ」

 ゼウスは急に真顔になった。

「ところで、お前を呼んだ理由のことだが、その前にアポロン、ヘルメス、すまんが席を外してくれ」

 二人は訝しく思ったが、それを口に出しはしなかった。

「わかりました」

 二人はすぐに出て行った。彼らが立ち去るのを確かめてから、ゼウスは口を開いた。

「お前に至急話さなければならないことがある。お前だけにだ」

「いったい何なのですか? そんなに重大なことなのですか?」

 ゼウスは直接その問いには答えず、逆にアルテミスに尋ねた。

「お前は人間をどう思う?」

「人間、ですか?」

 なぜそんなことを聞かれるのか、まったくわからなかった。ゼウスの催促するような視線を受けて、アルテミスはようやく口を開いた。

「最近の人間には怒りを抑えきれません。人間は自分の偏った欲望のまま、多くの生物を犠牲にしています。森を切り開き、必要以上に肉を求めています。このままでは自然のバランスは大きく崩れ、結局人間自身も滅びることとなるでしょう。大地ガイアは怒りを解放します。すでにその兆候も表れています」

「うむ」

 ゼウスは大きく頷いた。

「狩猟を司るお前だ。兆しには気づいていると思っていたぞ。狩るものと狩られるもの、すべての生命がお前のもとにあるのだからな。人間自体も含めて」

「いったい何をおっしゃりたいのですか?」

 アルテミスの声が大きくなった。

「回りくどい言い方をせず、はっきりとおっしゃってください」

 ゼウスはなおも言い渋ったが、とうとう意を決して言った。

「戦が起きるのだ」

 アルテミスの顔がみるみるうちに青ざめた。

「戦・・・」

「そうだ。戦だ」

 アルテミスの心に映像ヴィジョンが浮かんだ。上がる鬨の声、武器の打ち合う音、軍馬のいななき、そうした戦の喧騒の中で、多くの若者が断末魔の悲鳴を上げた。略奪される町では火の手があがり、女たちが犯され、子供が泣き叫んだ。

 それ以上見ることに耐え切れず、ヴィジョンから心を逸らせた。人の行う、自然の摂理からもっとも離れた残酷な所業だ。なんの命もつながない、ただ死がまき散らされるだけだ。

「父上!」

 アルテミスの眼に現れた懇願に、ゼウスは首を振った。

「これはわしの意志ではないのだ。運命なのだ。アポロンですら、それがいつ、どのようにして起きるかは読み切れなかった。しかし、それが起きることは確実なのだ。神々のすべての力を合わせてもそれを避けることはできん」

「ですが試してみることくらいできるはずです」

「アルテミス」

 ゼウスは諭すように言った。

「戦が起これば人間の数が減る。そうなればしばらくは人間の力も衰えるだろう。そうならねば人間は10年を待たずに自然のバランスを崩してしまう。お前が一番よく分かっているはずではないか」

「すみません。取り乱してしまいました」

 口ではそう言っても、その顔から苦悩は去らなかった。そんな娘を、ゼウスは同情を込めて見つめた。

「それに関してお前に頼みがある。お前は人間の身で、その戦を見守ってほしい。それもまた、運命にとって必要らしいのだ。

 わしは先日、スパルタ王テュンダレオスの妃レダと白鳥となって交わった。やがて彼女は4人の子を持つだろう。その末子に宿ってほしい」

「父上の御心のままに」

 アルテミスは退出した。ゼウスは何も言わずそれを見送った。

 アルテミスの顔にはもう苦悩はなかった。少なくとも表面的には。

 彼女の役割は生命の存続であった。生命を守るためには、第一に生命を守りたいと言う感情がなければならない。彼女はそれを、十分すぎるほど持っていた。しかし、生命のバランスを保つ、非情な法則を最もよく知るのも彼女であった。力の強い種族は。増えすぎた種族は。故に、人間を。生命を守りながらそれを奪わなければならない、それがアルテミスの役割だった。

 アルテミスはひとまず元居た森に向かった。が、イデ山の上空に差し掛かった時、赤子の泣き声が聞こえてきた。アルテミスは声の出所へ舞い降りた。

 柔らかい草の上に、上等な衣にくるまれた赤子が捨てられていた。生まれてまだ間もないようだ。女神はその子を抱き上げた。泣き声は止まった。この上もなく優しい笑顔が女神の顔に浮かぶ。赤子の笑い声が上がった。

「私はお前を助けようと思う。母親が子を産むのを助け、その子が育つのを助けるのも私の役目。それに、お前のような捨てられた子を、ちゃんと育てたこともある。これから戦のために多くの人間が死ぬ。その代わりにも、お前には生きていてほしい」

 草を踏みやってくるものがあった。アルテミスはそれを待ち受けていた。

 現れたのは熊であった。その種の熊としては小柄な雌熊で、後にはまだ足のおぼつかない子熊が追ってきていた。熊は、彼女たちの女神に挨拶をした。

 女神は熊たちにうなずくと、赤子を差し出した。

「あなたを呼んだのはお願いがあったからです。この子にあなたの乳を少しだけ分けてやってほしいの」

 母熊は喜んで承知した。アルテミス様のお願いをどうしてお断りすることができましょう。しかし・・・。

「しかし、何?」

 人間の赤子は歩けません。それではすぐにやや神にでも食べられてしまいます。

「そのことなら心配ありません。このあたりの獣には、あなたを呼んだすぐ後に、この子を襲わないように頼んでおきました。もちろんあなた方も。この子を育ててもらう、せめてものお返しです」

 母熊が納得すると、アルテミスは赤子を下ろして、代わりに子熊を抱き上げた。

「お前にも謝らなければいけないわね。ごめんね、お母さんを少し貸してね」

 いいですよ。この人間と僕は、今日から乳兄弟です。子熊はそう言った。

「ありがとう」

 アルテミスは子熊にやさしくキスをすると、彼をそっと降ろした

「私はもう行くわ。その子のこと、お願いね」

 アルテミスは去っていった。後には熊の親子と赤子が残された。

 アルテミスは知ろうともしなかったが、この赤子の名をパリスといった。

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