4.山井の家・後編

「あらー! 彼女来てたの?」

 気づけば玄関から明るく元気な甲高い声が聞こえた。わたしたちが固まっているうちに、その声の主はとととと、と足音を立てて近づいてきて、

「あら!」

 と喜びとも驚きともつかない声を上げた。山井の母は、普通のお母さんだった。焦げ茶色の髪をひっつめて低い位置で一つに結び、ベージュのトレーナーのようなものをジーンズに合わせていて、手には買い物袋と紺色の布の塊を持っていた。

「あれー? 母さん、またエプロンつけたまま出かけた?」

 山井がからかうように言う。山井の母は、てへへ、と言わんばかりのお茶目な表情になって、布の塊を持ち上げた。どうやらそれがエプロンらしい。

「肝心のチーズを買い忘れちゃってねー。財布掴んで急いで買いに行ったら服装もそのままだったの。ところで彼女は紹介してもらえないのかな?」

 彼女はきょろっとわたしのほうを見て、山井を見た。山井はでれでれした顔になる。

「たった今彼女になった、倉科花子さん。どう?」

「いいと思う!」

 山井の母はいきなり同意した。何に対する同意だろう? にこにこ笑いながら、彼女は「髪がきれいなのは確かにって感じ!」と続けたあと、こう言った。

「かわいいじゃーん! ツカサ君ったら面食い!」

 と大分前の女子高生のような物言いをする。わたしはかわいいと言われて顔が熱くなった。今日は人生で初めて親類以外にかわいいと言われた日だ。ちなみにツカサ君というのは山井の下の名前だ。「司」と書いてツカサと読む。

「初めまして。わたし、お土産とか持ってきてないんですけど、山井くんのお母さんがご飯を用意してくれてるって聞いて……。ありがとうございます」

 わたしは一応礼儀正しくぺこりと頭を下げ、山井は顔をほころばせ、山井の母は「まあっ」と笑い、花は咲き乱れ天使はラッパを吹き空からは花吹雪が舞い落ち……となるような気がしたがそんなにうまく行くわけがなく、山井の母が「まあっ」と言った直後に、

「わたしは認めないからねっ!」

 という甲高い声が響いた。

「お兄ちゃんはわたしと結婚するの。こんなどこの馬の骨とも知れない女に渡さないからっ」

 う、馬の骨……。振り向くとそれは末っ子の花音ちゃんで、今にも泣かんばかりに震えながら立ち上がっていた。双子の姉たちは顔を合わせ、花音ちゃんを囲んでこう慰める。

「花音ー、お兄ちゃんとは結婚できないって言ったでしょ」

「そうそう。法律で決まってるんだよ」

「仕方ないよ。どこの馬の骨とも知れなくてもさー」

「花音はどんな人ならいいの?」

 花音ちゃんはぶるぶる震えながらわたしを睨み、

「火星の女王くらいならいい」

 と謎の発言をした。火星? 何故女王? 色々謎は深いが、花音ちゃんが絶対に山井をわたしに渡したくないのは伝わってきた。火星の女王なら滅多に地球に来ないからね……。

「花音、お兄ちゃんはお兄ちゃんが選んだ人と結婚するんだよ。それは仕方のないこと」

 山井の母が静かに、しんみりと言葉を挟んだ。いやいやいつ結婚の話になった?

「じゃーわたしは選ばれなかったって言うの? お母さんの馬鹿! わたしはお兄ちゃんと結婚するもん! お兄ちゃんと結婚できることは知ってるんだからね!」

 その瞬間、山井と彼の母の顔が凍りついた。わたしは何が何だかわからないまま、二人を見た。花音ちゃんはぷいと顔を背け、部屋の隅に体育座りする。山井は、そっと立ち上がり、母親に「じゃあ、しばらく花子連れて歩いてるね」と言い、わたしに手招きをした。わたしはそっと立ち上がり、山井にくっついて玄関を出た。


     *


「花子、まずはありがとう。これでめでたくおれは花子の彼氏だ」

「はあ」

 わたしは気のない声でうなずいた。わたしたちは公園の隅にいた。ベンチに座り、少しだけ距離を置いて隣同士に座っている。

「花子とつき合えるのって、何か夢のような気分だ」

 わたしは黙って顔を赤らめた。山井にとってわたしにそんな価値があるとは、今の今まで思いもしなかった。

「妹たちも、花子と会えば喜んでくれると思ったのになー。すごいな、嫉妬」

「え、嫉妬?」

 山井はうなずく。

「詩織と香織は母さんが褒めたことで納得したみたいだけど、花音はなー。手強いなー」

 嫉妬か。わたしが嫉妬されるような存在になったのは、今も昔もこのときだけだろう。妹たちは山井が大好きなのだ。

「花音ちゃんが言ってたこと、何だったの?」

 わたしはおずおずと訊く。山井は考え込み、続けた。

「おれ家族と血が繋がってなくてさー」

 びっくりした。あんなに仲のよさそうな家族なのに、意外だ。山井は猫背になりながらため息をついた。

「おれ父親の連れ子でさ、父さん死んじゃったから、母さんおれをわが子として育ててくれたんだ。妹たちは母さんの連れ子。まあ結婚はできるよな」

「何か、少女漫画みたいだよね。山井が妹さんに恋愛感情を持ってないだけで」

 山井は声を上げて笑った。

「そういう感想? 気の毒がられるかと思った」

 わたしは、あ、そうか、とつぶやく。山井はそんなわたしの背中をばんばん叩く。

「そういう考えが一切ないところが花子のいいところだよ。おれ幸せだし、母さんも妹たちも好きだから、何の問題もなし。ただ、母さんにあまり苦労はかけたくないかな」

 だからバイトをしているのだ。山井はすごいな、と思う。

「さ、話は済んだし、家に戻ろう。ご飯もできてるだろうし」

 山井は笑った。わたしはうなずき、山井について行った。


     *


 ご飯は見事だった。唐辛子の入ったペンネ・アラビアータは絶品で、スープはきちんと洋風のだしを取ったもので、つけ合わせの野菜も彩りが美しい。プロみたい、と言うと、山井は「母さんは料理人なんだ」と言った。

「どれもこれもおいしい。こういう変わった形のパスタ、初めて食べるし、すごい、すごい」

 わたしが興奮して食べていると、山井のお母さんはにこにこ嬉しそうに笑った。

「でっしょー?」

 謙遜する気はないらしい。まあ、プロだから当然か。

 山井の妹たちは静かに食べている。山井が時々花音ちゃんの口許を拭いてあげたり世話を焼いたりする。花音ちゃんはすねたように口を利かない。

「花子ちゃんはさあ」詩織ちゃんが訊く。「お兄ちゃんとどうなりたいわけ?」

 また難問だ。つき合いたてでそんなものが思い浮かぶわけでもなく、わたしは思い悩む。

「結婚式はどこの式場とか、新婚旅行はハワイとかないわけー?」

 歌織ちゃんが気だるげに訊く。それは具体的すぎるし新婚旅行がハワイはセレブすぎるだろう。わたしはなおもうなりながら悩む。

「まだ山井と知り合って間もないし、そういうのはあまり考えてない……」

 妹たちはダメだこりゃ、という顔をする。そんなにダメか。

「わたしは山井の隣にいられるだけで幸せな気がする」

 妹たちははっとわたしを見た。何だか究極の答えを見つけた顔だ。そうか、これが正解か……。と満足していたら、山井が隣で相好を崩していて、しまった、と思う。妹たちの話が進みすぎているから乗せられてしまった……!

「二人とも愛し合っているのねー」

 山井の母がにこにこしながらペンネをフォークで口に運ぶ。違う! 違う! ……と思う。

 そのままつつがなく食事は済んだ。後片付けを手伝うことにしたわたしは、山井の母と山井と三人で皿を洗ったりテーブルを拭いたりした。山井の母が狭いシンクで皿を洗い、わたしがそれを拭いているとき、山井は何かを探しに台所を出た。そのとき、彼女は言った。

「司、ほんとにいい彼女を持ったね。嬉しいな」

 振り返ってわたしに笑いかける。わたしは照れ笑いをする。

「あの子も苦労してるからね。あなたみたいな人がそれを癒してくれるのは、すごくありがたいことだと思う。ありがとう」

 山井はこの血の繋がらない母親から愛されているのだ。わたしはそう思った瞬間、じんときて泣きそうになった。

「わたしも、司君と知り合えてよかったです」

 山井が戻ってきた。わたしは誤魔化すように視線をコップに移した。山井が近づいてくる。おずおずと、切り出す。

「あのさ」

「何?」

「あとで、髪をアレンジさせてもらいたいんだけど……」

 この間の約束か。わたしは軽い気持ちでうなずいた。山井はにっこり笑い、楽しみであるかのようにこぶしを作った。


     *


 山井の手がわたしの髪に触れる。それだけでどきどきした。髪に手を差し入れ、指ですく。

「あ、アレンジってどんな?」

 どもりながら訊くと、山井は後ろからぼんやりした声を出す。

「まあ完成したらわかる」

 前髪を留めていたピンが外された。何だか裸にされたような気になった。山井はわたしの前に回り込み、わたしをまじまじと見つめた。

「やっぱりかわいいな」

「なな、何を……」

「キスしていい?」

「え」

 ちゅ、と濡れた音が鳴って、わたしの目の前には一旦離れた山井の顔があった。

「な、な、な」

 わたしがわなないていると、山井は真っ赤な顔でうつむき、「駄目だ!」と叫んだ。途端に空気は色っぽいものから普段の呑気で気楽なものに戻った。

「こんな邪な気持ちじゃ、アレンジなんかできない!」

「え、そう、なの?」

「髪を触るのは何かエロい!」

「え、エロ……」

「また今度な」

 山井は突然立ち上がり、部屋のドアを開けた。そこには花音ちゃんがいて、しかめ面で「エロいって?」と訊く。山井が慌てながら「何でもない!」と答える。

「さあ、花子ちゃんが帰るぞ! みんな送り出す準備をして!」

 山井の言葉に、わたしはぎょっとする。いつわたしが帰ると言った?

 妹たちは、はーいと集まってきて、わたしたちを取り囲んだ。山井の母は「あらー、もう帰るの?」と残念そうだ。

「さあ、皆、花子にさよならを言って」

 山井の言葉に妹たちが「さよーならー」と声を合わせる。

「また来てね。狭苦しいところだけど」

 山井の母が手を振る。もう帰るしかない。

「……じゃ、お邪魔しました」

 山井は真顔で手を振る。わたしも手を振る。ドアを開ける。出る。閉める。

 ……何だか閉め出された気分だ。

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