3.orbital flight (新山莉衣奈)

 祖母が死んだ。

 高慢で、強欲な、金の亡者だった。札束で頬を張るのが生きがいのような人。悲しみは湧かない。しいて言うなら、実の孫にこんなふうに思われる、あの人の人生そのものが悲しい。

「あいかわらず、新山家は話題にこと欠かないのね」

 木星の模型にアクリル絵の具で縞模様を描きながら、アユハがほほえむ。長い黒髪のあいまに見え隠れするどこか人の不幸を楽しんでいるような口もと、それでいて心底どうでもいいような冷めたまなざし。放課後の物理学教室は、阿由葉砂月あゆはさつきの解像度をいっそう高めてくれる。

「最初に名簿できみの名前を見たとき、どこで区切ればいいのか分からなかった」

「いきなりなに」

「アユハのそういう謎めいた雰囲気はさ、絶対その姓と名に引っぱられてると思うんだよね」

「まあ、否定はしない」

 ときおり天体図鑑を確認しながら、アユハは自分の顔より大きな球体に色を塗りかさねる。複雑な縞模様はもちろん、渦状の大赤斑まで忠実に再現する。その細かさに閉口するけれど、アユハにとってはごく当たり前のことだ。

「幼稚園の年中さんのときにふと思ったの。お星さまが大好きなわたしに、砂と月という漢字が授けられたのは運命じゃないか。だとしたら、この名に恥じぬよう宇宙についてもっと知らなくては、って」

「そりゃずいぶん奇特な幼稚園児だ」

「新山こそ、自己紹介のときからみんなを湧かせてたじゃない」

 きっとばつの悪い顔をしてたんだろう、アユハはにんまりと目を細めた。

「入学式で新山を見たときは衝撃だったなぁ。背がすらっと高くてショートカットがさわやかで、パンツスーツに細身のネクタイがとても似合ってた。ああ、女子高には王子さまがいるってうわさは本当だったのね、っておもわずため息がもれたわ」

「アユハにそんなミーハーな一面があるとは知らなかった」

「みんなそう思ってたはずよ。だから、自己紹介で教室があんなにどよめいたんじゃない。まさか王子の口からお姫さまみたいな名前が飛びだすなんて思わないもの」

 涼しい顔でそう言うと、パレットに茶色の絵の具をつぎたし、絵筆になじませる。その筆さきを漫然とながめながら思う。

 いつからだろう、自分の名前とつりあいがとれなくなったのは。

 莉衣奈という名前は、父がつけた。ちょっとかわいすぎるのではという自覚はあったらしいけど、なにしろ三人目にして待望の女の子だったから、つい舞いあがってしまったんだという。漢字の読みこそ難解ではないものの、「りいな」の響きは当時としてはめずらしかった。とはいえ、悪目立ちするほどでもなかったので、小学校の半ばまではとくに違和感もなく、友達には「りいな」「りいちゃん」と呼ばれ、自分でも自分のことを「りい」と呼んでいた。でも、身長がぐんぐん伸びるにつれて「りいな」は幽体離脱するように遠ざかり、髪を短く切ったらいよいよ別人のような表情で遠巻きにこちらを見つめてくるようになった。

 鮮明に覚えているのは、祖母のことばだ。

「背の高い女なんて、みっともない」

 いつだったか、祖母が友人たちを招いて屋敷でお茶会をひらいたことがあった。見栄の塊のような祖母は、おいしい手料理をふるまうなんて大口を叩きながらその実ろくに料理もできなかったから、その日、母をわざわざ屋敷へ呼びつけ、六、七人分の手の込んだ料理を作らせた。そして、そのほとんどをさも自分がこしらえたような口ぶりでテーブルに並べた。

 あの日、どうして自分が祖父母の屋敷を訪れ、いまわしい茶会の場に居あわせたのかはもう思い出せない。とにかく、不覚にも自分の姿が有閑マダムたちの目にとまり、「あら、莉衣奈ちゃん?」と不本意な注目を浴びてしまったのだ。

「大きくなったわねぇ。上のお兄ちゃんかと思ったわ」

「背が高いのはおじいちゃま譲りかしら」

 おほほうふふと盛りあがるご友人たちに、祖母はふだんより一オクターブ高い声音で「そうなのよぉ」と応じ、言った。

「お恥ずかしいわ。まるで男の子みたいで、みっともないったらありゃしない。いまからあんなに背が高くっちゃ、将来お嫁になんか行けないわね」

「まあ、そんなことないわよぉ!」とティーカップ片手に大笑いしていたマダムたちは、その大半がいまもご健在のはずだけれど、だれひとり祖母の葬式には顔を出さなかった。


 廊下から楽しげな声が近づいてくる。現れたのは、一年生部員の小川睦おがわむつみ福田円香ふくだまどかだった。

「あ、アユハ先輩とにぃに先輩だー」

 赤ぶち眼鏡がトレードマークのむったんこと睦が、人懐っこい笑顔で寄ってくる。

「それ、今度のこども交流会で使うやつですか?」

「そう。剥げてきたから塗りなおしてるの」

 手もとに集中したまま、アユハが答える。

 天文部では、毎年、夏休みの初めに地元の小学生を交えた観望会がある。陽が落ちるまでの間、部員たちは天体のクイズや星座神話の寸劇なんかを披露するのだけど、小学生といえど子供だましなものを見せてはいけない、とアユハは教材づくりに余念がない。

「そこに転がってる天王星と海王星も塗りなおすから、むったんとえんちゃんも手伝って。あと、面倒だけど地球はやっぱり作りなおすことにした。紙粘土がひび割れて、アフリカ大陸に謎の断層ができてるから」

「なんか、アユハ先輩、創造神みたい」

 えんちゃんこと円香がくすりと笑う。

「アユハ神」

「アユハサツキノミコト」

「やばい、ふつうにいそう」

 後輩たちと忍び笑いしていたら、

「ちょっと新山、あんたも油売ってないで手伝いなさい」

 と創造神さまから冷淡なお叱りを受ける。

「そういえば、にぃに先輩、こないだの学校説明会のとき、見学の中学生を口説いてたって聞きましたよ」

 パレットに青い絵の具をこんもりと乗せ、むったんが眼鏡の奥の目をきらりとひからせた。

「ほら、演劇部の見学に来てた女の子たち。かっこいい先輩に声かけられたってキャーキャー言ってたそうですよ」

 なんだ、そっちか。てっきり視聴覚室で自由研究を熱心に読んでた子の方かと思った。

「新山、あんたまた演劇部にお呼ばれする気じゃないでしょうね」

 アユハがこちらをちろりとにらむので、「まさか」と首をすくめてみせる。

「去年の文化祭の借りは四月の春公演で返したよ。まぁ、頼まれればエキストラくらいは出てもいいけど」

「罪作りなことはやめなさいよ。あんた目当てで演劇部に入部した一年生もいたんだから」

「そうそう、けっこう話題になったんですよ、にぃに先輩」

 えんちゃんが頬に手をあて、つい数か月まえの桜の季節に想いを馳せる。

「わたしの友達も春公演のにぃに先輩に憧れて演劇部の見学に行ったんですって。でも、そこに王子さまの姿はなくて、それならあの身長の高さはきっとバスケ部かバレー部だ、って運動部を手あたりしだい覗いたんですけど、結局見つからずじまいで」

「そりゃあ、こんな日陰の文化部にいるなんて思わないでしょうね」

 お気の毒、と言いながらも、アユハの顔には意地の悪い笑みが浮かんでいる。

「でもね、えんちゃん、入学早々この人についたあだ名、知ってる?」

「え、王子じゃないんですか?」

「ううん。イメージクラッシャー新山」

 えー、なんですかそれぇ! 後輩たちが絵筆を放りだしてけらけら笑う。これにはおもわず自分も苦笑いする。

「そうなの。俺ちゃん、見かけ倒しのポンコツ王子だったんだわ」

 バスケ部にもバレー部にもスカウトされた。サッカー部にも。でも、球技はからっきしダメなんだ。初めは謙遜だと思っていた同級生たちも、体育の授業で自分の役立たずっぷりを目の当たりにすると、なんとも言えない表情で言葉を濁し、熱烈なスカウトもすっかり無かったことにされた。

 イメージを壊すといえば、なんちゃって制服を着て学校へ行ったときは、ちょっとした騒ぎになった。

 制服のない姫ノ松女子高では、思い思いの服装ができる反面、毎日の服のコーディネートは生徒たちにとって地味な悩みでもある。自分も数か月で行きづまり、クラスメイトが制服風のブラウスやスカートを上手に着まわしているのを見て「案外、楽かも」と帰りがけに駅前のアパレルショップを覗いた。おなじみのメーカーのロゴが入った、ありがちなブレザーとチェック柄のプリーツスカート。試着室で鏡を見たときは、目のまえにいつもとちがう自分がいて新鮮だった。うん、意外とアリなんじゃない? ネクタイは入学式で締めたし、思いきってリボンにしてみようかな。

 本当に軽い気持ちだった。まさか翌朝、教室に入るなりクラスが騒然となるなんて思いもしなかった。「どういう心境の変化?」とまるで王子に女装癖が発覚したような慌てぶり。そうかと思えば、「なんだかんだ言って、新山さんも女の子なのね」なんて目頭に手をあてて謎の感動。あるいは、すこし離れたところで「でも、やっぱりちょっと違和感あるよね」とひそひそ声。

「おおげさだな。なんとなくそんな気分だっただけだよ。俺ちゃんだって中学では制服のスカート履いてたんだから」

 すました顔でちょっとガサツに足を組んで、「けど、さすがにリボンはかわいすぎたかな」なんて照れ笑いして、昨日までの自分となんら変わりないことをアピール。だけど本当は、その日一日、落ち着かなかった。後悔さえした。みんなとおなじことをしただけなのに、自分だけがこんなに特別視されるなんて。

「ふりまわされることないんじゃない」

 アユハにそう言われたのは、天文部に入って二度目の、屋上での観測会の日。並んで春の大曲線を眺めていたときだった。入学してまもないふたりが話すにはあまりにも内面的で繊細な事柄だったから、きっとあの日のアユハもクールな表情のしたに胸の動悸を隠していたんだと思う。

「女子校の王子さまなんて、女の子たちの都合のいい幻想よ。期待に応える必要はないんじゃない」

「べつに無理して演じてるつもりはないよ。運動オンチな時点でだいぶ幻滅させてるし」

「そこはあんまり関係ないと思うの」

 夜風になびく髪をそっとおさえ、アユハは言った。

「実際、運動ができなくても新山さんの人気は落ちてないんだもの。むしろそのギャップがかわいい、なんて言われてるし。要するに、スポーツのできる正統派の王子から、ちょっと翳のある文化系の王子にふりわけ直されただけかもね」

 だとしても何も問題はないと思った。恋愛ごっこ、家族ごっこなんて、女子校では日常風景だ。きらきら王子、かっこいい彼氏、頼れるお兄ちゃん、かわいい弟。そのときどきで求められる役まわりに即興で応えるのは、単純に自分自身がフィクションの男の子像に憧れているから。自分の不器用な部分に目をつぶり、スマートな紳士として黄色い悲鳴を浴びる瞬間は、幻想と分かっていても気分がよかったのだ。

「でも、去年の文化祭の劇は本当にすごかったですよねぇ」

 絵の具まみれの惑星を扇風機のまえで自転させながら、えんちゃんが言った。

「三年生の先輩のジョバンニもすばらしかったけど、なんといっても、にぃに先輩のカムパネルラが圧巻で! ジョバンニを見つめる憂いを帯びたまなざし、どこか悟ったような悲しげな口調……わたしもう、自分まで銀河鉄道に乗ってる気分でしたよ。おまけにちょこちょこ入るアユハ先輩の星の解説がまた聞きやすくて……」

「おまけじゃないの、えんちゃん。わたしの解説がメインなの」

 夢見心地の後輩にしっかり訂正を入れ、アユハは、

「だけど、たしかにあの演劇は、思いがけず新山の才能を掘り起こしちゃったよね」

 とつぶやいた。

 文化祭で演劇をやろうと言いだしたのは、当時の三年生の先輩だった。

 天文部は黙っていても部員が入る部活ではない。予算が潤沢で、設備も充実している私立校ならいざ知らず、立派なのは歴史ばかりでろくに校舎の雨漏りも直せない県立高校では、意識して活動をアピールしなければ一寸先は廃部の闇。文化祭は学内外に部の活動を知ってもらう絶好の機会であり、裏を返せば、なあなあに済ませてしまうと部の存続に後々響いてくる重要なイベントだった。

 今年はなにか目新しいことをしたい、という意見はちらほら上がっていたし、演劇というアイディアは、こども交流会で神話の寸劇を経験している分、それほどハードルは高くなかった。

 問題は演目だった。秋の星座から古代エチオピア王家の物語はどうか、やはり恋愛モノが華やかではないか、オリオンとアルテミスの悲恋は、オルフェウスの竪琴は、と当然のようにギリシャ神話に話が流れかけたとき、

「月並みですが、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』はどうでしょう」

 アユハがめずらしく手を挙げてそう発言した。一瞬、鼻白むような空気が漂ったものの、何人かの部員がすぐさまこれに賛同すると、アユハの提案は思いのほかすんなり採用された。たしかに女子高生が大神ゼウスや巨人族オリオンのいで立ちで神々の惚れた腫れたの壮大な昼ドラを再現するより、少年に扮して日本文学をしっとりなぞる方がずっと自然だし賢明だと思えた。なによりその提案が、一年生ながら抜きんでて天文の知識のあるアユハから出たことに妙な信頼感があったのだ。

「新山はね、初めこそ容姿だけでカムパネルラ役に選ばれたの。だけど、どうせなら本格的にやろうって演劇部の練習に混ぜてもらったら、めきめき頭角を現したんだよね」

 演劇部の人たちはみんな親切で、発声やお芝居のテクニックだけでなく、劇の内容までまるで自分たちの公演のように熱心にアドバイスしてくれた。おかげであれよあれよとオリジナルの芝居が肉付けされたけど、膨大なセリフもこまやかな芝居も、あのときの自分はなぜかすこしも苦にならなかった。

「にぃに先輩、役者とか目指さないんですか?」

「まさか。そこまでうぬぼれちゃいないよ」

「えー、いいと思うけどなぁ」

 肩をかるくぶつけあい、一年生のふたりはきらきら笑う。子犬がじゃれあうのを見ているようで、その無邪気さについほほえんでしまう。

 かわいい後輩、かわいい女の子たち。みんな好き勝手なことを言って、次の瞬間には言ったことも忘れてる。


「ねえ、おばあさまが亡くなられたなら、お屋敷にあるおじいさまの天文台はどうなるの?」

 校門を出たとき、聞かれるだろうと思っていたことをやはりアユハは聞いてきた。夏至を過ぎてまもない空は、まだ夕暮れの気配すらなかった。

「それがまだ分かんないんだよねえ。望遠鏡は使えるけど、ドームはもう何年もメンテナンスしてなかったから、錆びがひどくて。お屋敷はもう取り壊す予定だし」

「残念ね。おじいさまの思い出の場所なのに」

 星好きで通じあうものがあるんだろうか。会ったこともない友人の祖父を想い、アユハは目を伏せた。どこかの家の台所から甘いにおいが漂ってくる。それを伝えようと口を開きかけたら、アユハも顔を上げ、「あ、スイカのにおい」と鼻をひくひくさせた。

 大通りの交差点まで来たとき、数メートルさきに見覚えのある男子生徒がいた。むこうもこちらに気づき、ポケットにつっこんだ手を「ヨッ」と掲げる。

「あれ、木村じゃん。久しぶり」

 だれ、と目で尋ねるアユハに、中学の同級生、と耳打ちする。木村伸二きむらしんじはアユハをちらりと一瞥し、

「イケメンが美人のカノジョ連れてると思ったら新山だったわ」

 と、にやりとした。

「そりゃどうも。学校帰り? 瀧高、どう?」

「どうもこうも、男ばっかでむさくるしいったらねえよ。そっちがうらやましい」

「女子校なんて動物園みたいなもんだよ」

 率直に真実を伝えるも、木村は軽快に笑って受けながす。

「新山は変わんないな。むしろますます男前になったんじゃないの」

「まあ、制服ないからね。存分に好きなかっこうしてるよ」

「そのまま新しい扉ひらきそうで怖いわ」

「よく分かんないけど、それはそれでべつによくない?」

 うえー、勘弁してくれよ! と彼はことさら大きな声で笑う。おなじく鷹揚に笑いながら、ああ、そうだった、と思い出す。彼は基本的に善意に満ちた人で、他人を思いやろうという気概も強くて、だけど話しているといつも何かが嚙みあわなかった。

「やっぱ新山、おもしろいわ。今後も経過観察させてくれ」

「お好きにどうぞ。ていっても、次に会うのは成人式になりそうだけど」

「そうだなぁ。それ思うと、なんか感慨深いわ」

 かばんを肩にかけなおし、木村はすんと鼻をすする。

「楽しみだけど寂しさもあるよな」

「大人になっちゃうんだなぁ、って?」

「そうそう。おまえの場合はとくによ」

「へえ、そうなの?」

「そうだろ。だって、こんな男っぽいおまえも、いつかは男と結婚して赤ちゃん抱いてたりすんのかな、とか思うとさ」

 は?

 という声がとなりから聞こえた。さきほどからよそゆきの笑みを貼りつけていたアユハの顔が、真冬の氷柱のごとく尖りきっていた。

「そんなのあんたが決めることじゃないでしょ」

 行こう、新山。ぐいっと腕を引かれ、気づいたら走りだしていた。アユハに引っぱられるまま、点滅しかけた信号を駆けぬける。その華奢なパンプスでよくそんなに走れるなと感心しながら、彼女が体育祭のクラス対抗リレーに選抜されるほど足が速かったことを思い出した。

 シャッター街と化した商店街をまるまる突っ切って、アユハはようやく足をとめた。汗だくでぜいぜい息を切らす高校生ふたりを、通りかかる人たちがいぶかしげにふりかえる。その状況がなんだか無性におかしくて、息継ぎのすきまからくつくつと笑いがこぼれた。

「なんか、愛の逃避行って感じ」

 息も絶え絶えにあえぎながら、アユハはまだ苦虫をかみつぶしたような顔をしている。

「わたし、ああいう無自覚な人、本当にキライ」

「そんなに怒ることだったかね」

「怒るでしょ。だってあんた、びっくりした顔してたもの」

 とっさにうまく返せなかった。不意を突かれたことを悟られたくなくて、不自然な笑いでごまかす。でも、そうなのか。やっぱりそうだったのか。

 両手でぱたぱたと顔を仰ぐアユハの首筋には、まだじんわりと汗がにじんでいる。商店街を抜けたさきに目をやり、なんとなく、このまま寄り道したくなった。

「ねえ、公園行こうよ。アイスおごる」

 アユハはあからさまに眉をしかめて、

「急ねえ。電車の時間があるんだけど」

「ちょっとだけ。一番星が出るまで。それなら間にあうでしょ?」

 そう提案すると、アユハは憮然とした顔でこちらを見上げ、「まあ、べつにいいけど」と乱れた髪を撫でつけた。

 

 線路沿いの道を行き、ゆるやかな坂を上ったさきに、公園はある。ブランコは小学生たちに占拠されていたので、今日のところはジャングルジムで手を打つことにする。「ちょっと、わたし、スカート」というアユハの抗議を無視して、コンビニで買ったスイカバーのアイスを手に一番上までよじ登る。砂場のむこうで赤やピンクのタチアオイがしゃんと背筋を伸ばして咲いていた。てっぺんまで花が咲いたら梅雨が明けるのだと、いつかおじいちゃんが教えてくれた。

「ハーゲンダッツがよかったなぁ」

 ロングスカートをたくしあげながら、アユハがようやくとなりに並ぶ。

「さっき、スイカ食べたいって言ってたじゃん」

「スイカのにおいがするって言ったの」

「おんなじことでしょ」

 冷気をまとった三角形のアイスをしゃくりとかじる。となりのアユハがひとりごとのように「あ、おいしい」とつぶやき、それから、なんとなくお互い黙ってしまう。

 遠くで踏切の音がきこえる。目のまえの通りを泥だらけの野球少年たちが通りすぎ、買い物帰りのママさんが力強く自転車を漕いでいく。時計を見なくても、薄らいだ日差しと空の色、数羽で渡っていくカラスの姿になんとなく時間が分かる。下の方から「バイバイ」「また明日」と声がして、見下ろせば空っぽのブランコがちいさく手をふるように揺れていた。ああ、みんな、帰っちゃうんだなぁ。

「ごらん、ジョバンニ。あれが名高いアルビレオの観測所だ」

 淡くオレンジに染まる地平線を指さして、なつかしいセリフを叫んでみた。視界から外れたところでアユハが口もとだけで笑うのが分かる。スーツ姿のおじさんが驚いてこちらをふりむいたけど、気にせずつづける。

「なんて立派な建物だろう。それにごらんよ、あのくるくる回りあう大きなふたつの球。目の覚めるような青と黄色、まるでサファイアとトパーズみたいだ」

 仕方がない、というように首を横にふり、アユハが静かにあとを引き継ぐ。

「ハクチョウ座の嘴にあたる星、アルビレオは、肉眼ではひとつの星のように見えますが、実はそれぞれが美しい青色と黄色をした二重星です。二重星には、ふたつの星が万有引力によって互いの周りを公転する『連星』と、距離のかけ離れたふたつの星がたまたま同じ方向に見えているだけの『見かけの二重星』があります。アルビレオがそのどちらなのかはまだはっきりしていませんが、もし連星だとすれば、ふたつの星には六十光年の距離があり、十万年の周期で公転していることになります」

「まあ、最近の研究では見かけの二重星っぽいって言われてるけどね」

「ちょっと、いきなり新山に戻らないでよ」

 肩で肩をこつんと小突かれ、ふふ、とくすぐったい笑いがもれる。

 対照的な色を持つふたつの星を、賢治は互いに回りあっていると予想した。途方もない距離と時間を背負いながら、それでもはてしない暗闇のかなたに自分と引かれあう存在があるとしたら、それはどれほど孤独でたよりなく、そして心強いことだろう。吹きつける宇宙の風に、降りそそぐ塵に揺さぶられながら、それでもあなたはここにいるのだと軌道に引き戻してくれる存在があるなら。

 無理はしてない。ほんとう。演じているつもりはない。なのに、ときどき、ふいにピントが合わなくなる。

 背の高い女の行く末を決めつけた祖母、スカートを履いた王子さまにとまどう教室、どんな女も女である以上いずれ男のものになると思っている木村伸二。分かってる。みんな、可能性の話をしているだけ。そういう未来もないことはないよね、っていう可能性の話。そう自分に言い聞かせるたび、こころの奥から「りいな」というちいさな女の子がじっとこちらを見つめてくる。そのまなざしはアユハによく似ている。切り捨てるような冷笑が、やけどするほど凍てついた瞳が、「そんなもの分かってたまるか」と真綿にくるんだ感情を暴きだす。

 どうして自分の感覚を自分以外のだれかが決めようとするんだろう。軌道修正してやっているという顔で、どうしてそちらの軌道に引きこもうとするんだろう。本当の自分だとか夢見がちなことは言わない。ただ、ポンコツでもいい、失敗してもいいから、自分らしくいたいだけなんだ。

「カムパネルラ。僕たち、どこまでも一緒に行こうね」

 かつての三年生のセリフを、アユハが代わりに追いかける。そうだね、と答えた声がすこしだけ震えた。一緒に行こう。どこまでも、どこまでも一緒に行こう。

 西の空の低いところで宵の明星がかがやいている。もうすこし気づかないふりをしていようかな。となりの友人もおなじことを思っているのだろうか。手のひらについた鉄のにおいをかぎながら、アユハは「これも塗りなおした方がよさそうね」とジャングルジムのパイプをつまさきでコンとつついた。

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