『海の色は何色』29


 *


 真彩との新婚生活は順調に進んでいた。


 新婚生活というと、慣れないことの連続で思わずボロが出てしまい、夫婦喧嘩になってしまう……というイメージがあったのだけれど、真彩とは全くそんなことにはならなかった。


 幸せな毎日だった。

 こんなにも満たされた日々は今までの人生で他にないと思う。




 でも、そんな日常の中でも悲しみはある。毎日、世界のどこかでは誰かが悲しみ、苦しみ、そして死んでいる。



 結婚して三ヶ月が経った、六月の雨の日。



 三橋店長の旦那さんが、静かに息を引き取った。



 そして、それに続くように店長も一週間後に亡くなった。疲労が原因だった。



 今日は店長のお通夜。

 僕は喪服を身に包んで、葬儀場に向かっている。


 その途中で、セーラー服を着た女の子に出会った。その子の横顔に見覚えがあった。


「なっちゃん」

 呼びかけると彼女は静かに振り返る。


 ベリーショートだった髪は肩の長さまで伸び、少しだけ赤くした唇が大人っぽく見えた。背丈も幾分か高くなっていて、初めて会った頃の彼女とは見違えるほど女性らしくなっていた。たった一年でも、子供というのは変わるものだ。


 僕のことなんてもう忘れてるかなと思ったが、それは杞憂だった。


「物書きのお兄さんじゃん。久しぶり」


 そう言って笑いかけた彼女の中身は、まだ小学生のあどけなさを残していた。




 僕は今日、そんな彼女にも、暗く重い一面があったことを知る。




 *


 僕はなっちゃんの後ろに参列し、お線香を上げた。


 写真の中の店長は、優しく笑っていて、幸せそうだった。


(お疲れ様でした。店長のお店は、遺言通りきちんと引き継ぎます)


 手を合わせて、僕は店長にそう語りかける。実は店長が亡くなる数日前、僕はお店を引き継いでほしいと頼まれていたのだ。


(どうか、旦那さんに会えますように)



 





 *


「物書きのお兄さん。時間ある?」


 お通夜が終わってすぐ、なっちゃんが僕を呼び止めた。真彩が家で待っているだろうが、ここでなっちゃんを放っておくほど僕は薄情ではない。


「うん、大丈夫。行きたいところがあるんだよね? 付いていくよ」

「当たり前。そのためのお兄さんなんだから」


 口癖なのか、「当たり前」という高飛車な態度はしっかりと健在していた。


「どこ行くか聞いてもいいかな」

「……どうせ検討ついてるでしょ。黙って来てよ」

「はいはい」


 葬儀場を出て、なっちゃんはすぐに浜辺に繋がる道を歩き出した。スタスタと歩く彼女の後ろを、僕はゆっくりと付いていく。


 彼女は、花をたくさん抱えていた。


 中学生の彼女のお小遣いでは花屋の花は買えなかったのだろう。その腕に抱えられているのは、どれも道端で生えているような野花だった。けれど、それが返って美しく見えた。誰かに育てられた高貴な花よりも、人に踏まれ、揉まれ、雨を浴びてきたそれらの方がずっとずっと綺麗だ。


 なっちゃんも、そんな野花のようだった。







 *


 彼女が向かった先は、海岸だった。

 ……例の店長の旦那が意識を失った場所である。彼女の言ったとおり、なんとなく検討はついていたから、驚きはしなかった。


「お兄さん、ところでさ」

 なっちゃんが聞いた。



「死ぬのは怖い?」



 その問いは、僕の時を止めるのに充分すぎるほど唐突で衝撃的だった。


 僕はすぐに、「そりゃまあ……」と曖昧に答える。この場所で、そういう話をするのはいささか不謹慎な気がしたからだ。


 しかし、なっちゃんはそのまま続けた。


「私はね、めちゃくちゃ怖いよ」


 そう言ったなっちゃんの手は、震えていた。


 なっちゃんはゆっくりと浜辺に腰を下ろす。僕もそれに習って、彼女の隣に座った。あの日の真彩と僕と、同じように。そうすれば、本音を話せる気がした。


「死ぬのが怖いって自覚は、実は事故が起こるもっと前からあったんだ」


 なっちゃんはゆっくりと話し始めた。それと同時に、彼女は抱えていた野花を一本ずつ、海へと流す。


「なんていうのかな……ある日突然、『無になるって、どんなかんじだろう?』って考えちゃったんだよね。それが小4のとき」


 なっちゃんは小さなピンクの花を流した。あれは、確かアカツメクサだ。以前、花屋で働いていたこともあってか、花の名前や特徴についての知識はソコソコあったから知っていた。


「そしたらね、もうパニック状態。自分が消えることの恐怖が襲ってきて、思わず叫び出したよ。逃げられない恐怖に頭が追いつかなかった。『死』は、平等に誰にでも____自分にもやってくることを、このとき初めて理解したんだと思う」


 なっちゃんは自嘲気味に笑った。その表情は、中学一年生の女の子のそれとはまるで違った。


「誰だって一度は死について考えると思う。だけど、私のは異常の域を超えるほどだった。小学生なんて、遊んで楽しむのが仕事みたいなものでしょ。それなのに、私はその頃から死ぬことに怯えて生きてたんだ」


 彼女は、アカツメクサをもう一本流した。


 アカツメクサの花言葉は、「少女の思い出」。


「理不尽だなって思った。他のみんなは楽しそうに生きているのに、なんで私だけ、って。なんで気づいちゃったんだろう、って。どうせ同じ死ぬのなら、人生楽しんだもん勝ちなのに、って」


 アカツメクサは黒い海の悪魔に飲まれ、やがて原型を崩す。


「私にとっては、私の世界が全てで、私が死んだら私も終わりで。それなのにこの世界にとっては、私の死は日常に過ぎなくて、今日も回り続ける。それがどうしようもなく許せなかったし、やるせなかった」


 そんなことない。少なくとも僕は、なっちゃんが死んでしまったら、日常を過ごせないと思う。


 そう声をかけようとしたが、そんな安っぽい言葉は今のなっちゃんには逆効果だと気づき、口をつぐんだ。


「怖くて怖くて、どうしようもなくて、私は家族に相談した。でも、みんな本気にしてくれないの。『そんなことを考えてる暇があるなら、毎日を一生懸命に生きろ』とか『日頃の行いが悪いせいだ』とか『思春期でも来たんだろ』とか……そんなありふれた言葉とか適当な言葉しか掛けてくれない。挙げ句の果てには『あんたの頭がおかしいんだ』って諦められる始末」


 なっちゃんの手から、今度はアザミの花が流れた。


「私は誰にも頼らないって決めた。頼っても意味がないって、悟ったから。一人で恐怖と戦うしかなかったの」


 アザミの花言葉は「独立」。


「誰も見ていないところで、私は散々泣き叫んで、時には自分を傷つけて、何度も何度も壊れて……それが二年近く続いた。でもある日、死ぬことを考えなくなった。さらに新たな恐怖が襲ってきたから」


 アザミの花も、じわじわと悪魔に飲まれていく。


 儚い紫色の花は、もうどこにも見当たらなかった。


「今度は、存在することが怖くなった。それが、あの事故のとき」


 冷たい風が吹き、僕は反射的に空を見上げた。遠くに雨雲がある。梅雨ばいう前線だ。もう少しで、雨が降る。


 夜の空は、孤独な海底のようだった。


「そもそも『この世』とか『あの世』ってどこだろう? 私たちはどこにいるんだろう? 宇宙はどこにあるんだろう? 生きるって何? 死ぬって何? 時間って何? 存在って何? ここはどこ? 私は……どこにいるの?」


 そして、次のなっちゃんの言葉が、僕の胸に突き刺さった。


「……おじさんは、どこにいるの?」


 それは、僕が病室で初めて彼に会った時に思ったことと、全く同じだった。


「もう生きることも死ぬことも、よく分からなくなって、本当に頭がおかしくなった。……しかも誰にも理解されない。全てを投げ出したい気分になった」


 それでも!!


 なっちゃんは唇を噛み締め、それからまた言葉を続ける。


「こうしてみんなの前では、明るく気丈に振る舞って生きてこれたのは、まだおじちゃんが生きていたから」


 男の子っぽい口調。

 ちょっと高飛車な態度。

 友達を必死に助けようとする姿。


 あれらは全部、なっちゃんの強がりだったのだ。


「でも、おじちゃんが亡くなって、そのあとおばちゃんまで亡くなって。……本当はどこかで『何とかなる』って信じてたんだ」


 僕も、そう思っていた。


「だけど、何ともならなかった!」


 そこでなっちゃんのタガが外れた。


 彼女の瞳からは、大粒の涙が次から次へと溢れ出した。


「うわあぁぁぁっ……!!」


 野花は全て、彼女の手から離れて海へと流れる。夜の海は容赦なくそれらをさらう。


「……」


 僕はひたすら彼女の背中をさすっていた。それくらいしか、僕には出来なかった。







 *


「これは僕の独り言だけど」


 なっちゃんが落ち着いてきた頃、僕はぽつりぽつりと話し始めた。


「死後の世界があるかどうかだけど……科学的にはどう考えてもありえないよな。だって、僕らがこうして感じ合ったり、意思を示し合ったりしているのは、結局のところ脳の働きに過ぎないのだから。頭蓋骨になってしまえば、そこには『無』しか残らない」


 なっちゃんの表情が強張る。僕は「もう一度言うけど、これは僕の独り言だから」と念を押しておいた。


「でも、本当にそうなのかなって疑問もあるんだ。よく『心』はどこにあるのか、って聞かれるでしょ。一体どこにあるんだろう、って僕は考えた」


 するとなっちゃんは、あんなに僕が独り言だと言ったのにも関わらず、「頭の中?」と聞いてきた。まあ一応なっちゃんに聞かせるために喋っているのは確かだけど。無視するのは失礼なので、僕はきちんと返答した。


「僕はそうじゃないと思うよ。あと、心臓でもないと思う。というより、心っていうのは、そもそも肉体にはないんじゃないかなって」


 じゃあどこに?

 なっちゃんが目でそう尋ねてきた。


「ここにある」


 そう言って僕は、なっちゃんと自分との間にある空間を指差した。


「目には見えないけれど、人と人とが触れ合ってるこの空間に……思い出の中に、僕は心があると思うんだ」


 母との思い出。

 父との思い出。

 クラスメイトや元カノとの思い出。

 編集者さんとの思い出。

 店長との思い出。

 なっちゃんとの思い出。


 真彩との思い出。


 僕の心は、いつもその中にあって、今でも色褪せず残っている。


 チラリと横を見ると、なっちゃんの暗い表情は消えていた。僕の視線に気づいたのか、なっちゃんは照れ臭そうに笑った。


「……思い出の中に心がある、か。変わった考え方だ。やっぱり物書きは一味違うねぇ、お兄さん」


 軽口を叩いたなっちゃんを見て、少しだけ安心した。最後に一言、僕は付け足した。


「『心』がないと、人は生きていけないと思う。だけど、逆に『心』さえあれば、人は時も場所も……死をも超えて生きていける。だから店長たちも生きてる。僕はそう信じてるよ」


 なっちゃんが、ふっ、と笑った。

 それが本来の彼女の笑い方なのだと、すぐにわかった。


「私さ、自分と同じことを考えてる人いないかなって思って、たくさん文献読んで調べたの。そしたら、『死恐怖症』とか『タナトフォビア』って呼ばれる症状だったみたい。でもね、死ぬまで治らない可能性が高いんだって」

「え……」

「あぁ、そんな辛い顔しないで。治りはしないけど、一時的に収まることはできるらしいから。……で、お兄さんの言葉聞いたら、ちょっとマシになった。やっぱ相談して良かったわ」


 なっちゃんは僕の目を見て、ニッと笑った。


「ありがとね。これで私は、やっと前を向いて歩けるよ」



 風が吹く。

 雨雲が僕らの頭上に被さる。


 雨が降ってきた。


 だけどそれは、不吉な出来事を象徴するような雨ではない。




 どこかの古本屋の店主夫婦に似た、優しい、優しい雨だった。











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