俺は……!5
虚無に浸る時間が長くなった。
死刑を待つ囚人の気分とは斯様なものであろうか。果てしなく流れる
試験が終わり、もはやどうでもよくなっている自分がいる。ただ死を待つのみといった心境は全ての思考を放棄させ、俺はただの木偶となった。
やる事なす事に意味はなく、死なない程度の食事と睡眠を摂り死を待つという矛盾を抱えながら生きるのみ。大袈裟な表現かも知れぬが、有村が父となった瞬間、俺は死ぬ。これまで築いて歴史が、命の軌跡が絶えるのである。母と営んできた生活を滅多矢鱈に破壊され、コンキスタドールがインカ帝国にしたように、有村は俺から故郷を略奪し支配するのだ。文化の死は精神の死である。ならば、俺は間違いなく、これから死んでしまうのだ。
母はその変革を求め、煉獄の炎の中に身を投げ爛れ転生し、侵略者と融合を果たそうとしている。それが望みだと、待ち焦がれた約束の日だと言うのだ。だが、迫り来る征服の徒を前にして俺は争い死に、暗闇に一片の影を落として、続く新たなる世の下に埋まる贄とならんとしている。人の世が勝者と敗者に別れるのは必定であり、また、大方の人間が勝者として栄えある生を謳歌したいと思うのは、これもまた必定なのであるが、俺は、あえて自ら、墓穴に繋がる薄氷を踏み抜き、敗者として蹂躙される道を選んだ。なんとも不条理な話であるが、男というのは、時に負け戦に挑まねばならぬ時が一度や二度あるのである。西郷隆盛などその最たる例であろう。奴は男だ。しかし俺には西郷どんのような大義も信念もなく、ただただ敗残の兵となっただけ。
あぁ、ただ俺は死ぬのだ。自ら破れ、自殺のように惨めを晒すのだ。歯痒い。口惜しい。だが、だが……
……情けなし。俺は後悔しているだけではないか。試験の最後、解答を掻き消えたままにしたのは、紛れもなく、俺自身だというのに。
……仮に、あの時、解を書き直していたとしたら……
……
益体も無い。たらればだ。どうにもならん。
そも、進んだ道が是が非かなど検討もつかん。それになにより、解を別記したところでやはり俺は等しく後悔していただろう。結局のところ俺を苛む事態は訪れるのだ。なればこの苦悶は必然であり、また乗り越えねばならぬし、極端な事を言えば、考えるだけ無駄ともいえる。
……
……起きよう。ちと早いが、ちまと丸まっていてもどうにもならん。身体を動かしていた方がいくらか楽だ。
起床、移動、食事完了。母は来ず。珍しいな。部屋を見てみよう
……姿がない。
有村の所だろうか。
……
……学校へ行こう。
「では、試験用紙を返却する。生野……今西……織部……」
いい加減、ホームルームで全教科まとめて渡すのはどうにかしてほしい。
「世良田……曽根……田中」
「はい……」
とうとう来たか。
致し方なし。腹を決めよう。想像したくもないが、あの中年との同居を考えねばな。とりあえず、洗濯物は別々で、風呂も有村より早く入れるよう母に言っておこう。奴が四六時中近くにいると思うと虫酸が走るが、一つ屋根の下で別々の生活をすると思えばまだ……
……
「え?」
思わず声が出る。何だこれは。
何故だ。
どうしてこうなる。
そんな馬鹿な話しがあってたまるか。
これではまるで茶番ではないか。
「……」
「……? どうした田中?」
行かねば。直訴せねばなるまい。
「申し訳ありませんが少し席を外します」
「なに分からん事を言っている。戻れ」
「戻りません!」
納得いくかこんなもの! 有村! あの腐れ教師め! 事と次第によっては鉄拳だ! いや、事と次第があっても制裁してやる! 後の事などもう知るか! 俺の怒りを思い知らせてくれる!
教室脱出!
駆ける! 駆ける! 駆ける!
廊下を疾走! 着いたぞ職員室前! ノックもいるか! 出てこい……!
「有村ぁ!」
教室から職員室まで一駆けで来たこの勢いでその頰に爆怒の拳打を食らわせてやりたいくらいだが話しくらいは聞いてやろう!
「……! 田中貴様! 先生をつけんか! 何だいきなり!」
うるさい黙れ! 左様な恫喝に今更怯むものか! 貴様は俺の質問に答えればいいのだ!
「これはどういう事だ!」
答案用紙を見ろ!
貴様は……貴様はやってはならん事をしたのだ!
「……気に入らんか?」
「当たり前だ! なんだこれは!? 情けのつもりか!?」
足りぬと思っていた試験は……満点だった。満点だったのだ! 有村は俺の覚悟を侮辱した! そして、例の設問の下には……下には……!
「なにが……なにがよく頑張っただ!」
滲み、穴の空いた回答の下には達筆な文字でそう記されている。納得できるか……承服できようはずがないだろう!
「……式は合っている。解を記した形跡もある。何より、貴様の努力を、俺はずっと見ていた。試験というのは本来、理解度と成長具合を測るものだ。それを加味した結果、最後の問いは正解とした」
尤もらしい事を言うな! 正論などが何の意味を持つ!
「……あんたは……あんたはそれでいいのかよ!」
「……是非もない」
「格好をつけるな! 同級生と逢引して離婚までした男が! 今更!」
「……」
「俺は……いいと思ったんだ! 母の幸福を……ずっと俺の為に生きてきた母の第二の人生を、受け入れようと思ったんだよ! それをなんだ貴様! 此の期に及んで善人気取りか!? 偽善者にも程があるだろう! 貴様は妻子を捨て! 教え子の母である事も承知で俺の母を……愛したのだろう!? そこまでしておいて今更体裁など気にするのか! せっかくのチャンスを棒に振るのか! この恥知らずの色欲魔め! 貴様はその汚名を背負う覚悟もなく俺の母に言いよったのだな! 情けない奴! いいか!? 手を引くのはいい! 勝手にしろ! だがな! 此度の件を決して美化などしてくれるなよ!? 貴様は俺を苦しめ、母を辱しめたのだ! 償いなどはいらん! だが一生恥じろ! 半端な自分を悔い! 女一人ものにできん不甲斐なさに心底呆れ続けるがいい! 分かったか盆暗! 分かったら謝れ! 額から血が出るほど頭を擦り付け許しを請うがいい! 決して許しはしないがな!」
悔しい! 悔しい! 悔しい!
此奴が教師である事も母の想い人である事も! 何もかもが許し難い! 認められないのだ!
「……償いはいらんと言ったそばから謝罪を求めるのか、貴様は」
「形の上での謝意は示せ!」
殴るのはその後だ! 無様な土下座を晒した貴様を無様なまま殺してやる!
「……答案用紙を寄越せ」
「はぁ!? 何だ! 何故だ!?」
「いいから……」
あ、引ったくりおったぞこいつ! どこまでもふざけ腐りおって! やはり今ここで一発ぶん殴ってやる必要が……なに?
「ほら。二十点マイナス。何時ぞやの
有村……貴様……
「……覆すのか……更に恥を重ねるのか!」
「それが郁恵を得る為ならな」
「……」
「それと、貴様を見くびっていた事、謝ろう。すまなかった」
「……」
「許す許さないは貴様に任す。ただ、約束だ。郁恵は貰う」
「……分かった」
「よし。ならば、これからは、公私に渡り厳しく指導してやる。覚悟しておけ」
「……」
突き返された答案用紙を握り締めながら、流れている涙をそのままに、崩れ、慟哭。
他の教師が近づいて来たが、それらは全て有村が制してくれた。
どれだけの時間が経ち、どれだけの涙粒を落とした分からなくなった頃、ようやく立ち上がる事ができた。
有村は、じっと俺を見据えていた。
「……」
「……」
……
「……お騒がせ致しました。解答の改め、ありがとうございます」
「あぁ」
「それでは、失礼します」
職員室を出た。廊下には誰もいなかった。ただ、俺だけが、長い廊下の端に立っていた。
一歩踏み出す。
窓から望む、満天の藍。空の海には一つの浮雲もすらなく、果てしない無限を広げていた。
それはまるで、俺の心のようだった。
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