俺は……!2

 やって来たのは夜長に染まる赤提灯。ガラガラと扉を開いた先には古ぼけた居酒屋風景。





「いらっしゃい」


「ビール。瓶で」


「はいよ」







 暖簾をくぐるやいなや酒など注文しおって。随分慣れているではないかヤンキー。

 それにしても、どこへ連行されるかと思えば……紫煙と共に下品な声がこだまする、千差万別ウェルカムな千客万来万々歳の大衆居酒屋ではないか。活気があるのは結構な事だがな。どうもここはいかん。好きになれん。皆が皆、一席一席、判を押したように馬鹿な話に馬鹿笑いを響かせ酒を煽っておるが、何がそんなに楽しいのか皆目検討もつかぬ。ボロの服に汚れた顔。そして注がれているのは安そうな酒である。まさしく清く正しい底辺労働者然とした客ばかりではないか。笑わせてくれる。たまには斯様な吹き溜まりに巣食うプロレタリアートを眺めるのもいいかもしれんが、それにしても……



 ……



「はいよ。瓶ビール」


「どうも。あと、お新香と鯉の洗いとヘボね」


「はいよ」


 ……


「……」


「……」




 ……斯様なところに未成年を連れてくるな! 


 まったく常識がないのか常識が! 酒気帯び犇めく堕落の巣窟に子供を招くとは言語道断! 処断されるべき案件である事は明らかであるぞ!? これだから学も教養もない馬鹿は嫌いなのだ! 人間を堕落させる事に、一抹の罪悪感すら抱かないのだからな!




「なんだおかしな顔をして。飲むか?」


「僕は未成年です!」


 馬鹿を言うな馬鹿ヤンキー! 貴様には倫理観がないのか!


「情けない事を言うねお前は。俺は辻髪の頃からやっているぞ?」



 法くらい守れ!

 あぁまったく苛々させてくれるな此奴は! 


 いや、落ち着け。一旦深呼吸だ。馬鹿を相手に真面目に相撲を取ってどうする。わざわざ同じ土俵に上がる必要はない。この腐れヤンキーは法令遵守さえできぬ無法者。左様な人間との対話など糠に釘である。真面目に取り合うだけ馬鹿を見るのだ。では、どう対応するかといえば……





「……それで、何だって俺をこんな場所へ?」



 ……もう色々と面倒なのでさっさと目的を聞いてしまう事にしよう。酒が入ってクダを撒かれても困るしな。




「なに。しょぼくれた顔をしていたからな。酒の肴に惰弱な悩みでも聞いてやろうと思っただけだ」


 性格が悪いな! というか寂寥の慰みが欲しいだけか貴様! 俺はカナリアではないぞ! 話を聞きたいのであれば女の店にでも行けばよいではないか!


「ほれ、話してみろ。込み入った話ならば、何も知らない他人の方が返って言いやすいものだぞ?」


「……」


「はいよ。洗いにお新香にへぼだよ」


「どうも」


 「どうも」ではない。大将も大将だ。今料理を運ぶか普通。空気を読め空気を。というか、もう完全に晩酌の体制に入っているではないかヤンキー。え、なんだこれ。虫? 虫食べるの? 下手物マジかよこいつ。信じられん……いや、そうではない。貴様、もう酩酊する気満々ではないか。斯様な状態で話などできるものか。第一、ヤンキー如きに俺の苦悩が、煩いが理解できようはずもないだろう。貴様のようなデリカシー欠落症者に深淵たる俺の憂患が分かってたまるかという話だ。一昨日に出直してこい愚か者め。せめてTPOを弁えるくらいの常識を身に付けてからな!


「……」



「……話さんか。強情なやつだ」


「店長には、関係ありませんからね!」



 言ってやったぞざまぁみろ! どうだヤンキー! 返す言葉も思いつかぬだろう! 窮鼠猫を噛むとはこれこの事! 何事も、貴様の思い通りに運ぶと思うなよ!? 


「……いるんだよなぁ。気位だけは強い小心者ってのは」


「……」


 挑発か? 安い。安いなヤンキー! 買う気にもなれん喧嘩だな! それとも酒のせいで質が悪くなっているのか!? だとしたらより低俗粗悪だな! 酔った勢いで言を発するものではないぞ愚か者め!?


「人に弱さを見せられんのを強さとは言わん。ただくだらないプライドに縋っている俗物だ。そんな虚勢は負け犬の遠吠えにすら劣る。分かるか? 今のお前は、愚劣なんだよ」


 ……なんだと?



「……俺が、愚劣?」


「そうとも。愚劣だ。人間として少しも優れていない、本当に哀れな奴だよ。お前は」



 なるほど。

 なるほどなるほど。

 酒のせいで質が悪くなったなど、とんでもない話であった。貴様はただ出し惜しみしておっただけなのだな。食えぬやつよなヤンキーよ。作用な売り言葉を用意しておったとはこれはびっくり仰天だ。まったく、笑いが止まらぬよ。


 いいだろう……買ってやる。その喧嘩をな!





「貴方に何が分かるんですか!」


 ちっとも笑えぬは! ふざけるなよ何様だ!



「分からないから聞かせろといっているんだ」


 

 居直りおった! 何と根性の悪い!






「近頃、お前一人で学校行ってるだろ」


「は? え? まぁ……」


 ……何故知っている。いや、それがいったいなんの関係が……


「お前らが待ち合わせている公園な。俺の部屋から見えるんだよ」


 ……次から待ち合わせ場所を変えよう。次があるかは知らぬが。


「知らないだろうが、お前が現れなくなってから友達の二人、いつも何やら暗い顔をしているぞ」


 ……


「別に、関係ないじゃないですか。店長には」



「そうさ。単なるお節介だよ」


「開き直りですか」


「……倉木さんがな。ずっとお前の話をしてきていたんだよ。退職するまでな」


「……倉木さんが?」


 あの婆が!?


「あぁ。あの子はいい子だからとか、優しい子だとか。また会いたいとか。とにかくくだらない話しをいつも聞かされてな。終いには、何かあったら力になってあげてと勝手に約束させれたんだ。正直面倒だし、他人の人生に首を突っ込むのは好きじゃないが、無視をしたら枕元に立たれかねんからな。仕方なく。と、いうわけだ」


 枕元に立つ……? まさか……!?


「死んだんですか倉木さん!?」


「いや。ご健在だ」


「あ、そうなんですか……」



 ならば不穏な言葉を使うな縁起でもない!




 しかし、そうか。倉木の婆め、そんな事を……




「 そんなわけで、話だけでも聞いてやろうと言っているんだ。どうせ他に相談する相手などいないだろう」



 ……知ったような口を聞いてくれるではないか。まぁ、その通りなのだがな。




「……倉木さんは、元気ですかね」


「あぁ。先日、誕生日を迎えたとメッセージがあったよ。お孫さんが手作りのクッキーをくれたそうだ」


「そうですか……」


「……俺もお前も望んでいる事じゃないがな。死にかけた老人の心を汲んでやれ」


「……」



 


 店長が二本目の瓶ビールを飲み始める頃、ポツリポツリ言葉を落とす。

 親元を離れた事や、母と有村の事。佐川や原野に、抱く漠然とした不安。

 それらを口にしているのが自分でも不思議で仕方がない。誰かに聞かせるような話でもないのだ。それをこんな男に、何を血迷っているのかと、打ち明けながら自問自答する。



「そりゃ難儀な事だな」



 相槌すら打たなかった店長が話の終わりにそう言うと、何か認められたような、気恥ずかしい感じがした。他人に自分の心情を吐露するのは初めてだった。左様な行為は無意味だし、そも精神の惰弱を晒すなどあってはならぬ事だと、ずっと思っていた。しかし、いざ、こうして思いの丈をぶちまけてみると、なんとも肩の荷が下りたというか、胸のつっかえが取れたような気になって、カビのようにこびりついていた苦悩が、少しばかり剥がれたような気がしたのだった。そして、店長は「可哀想だね」と言うだけ言って知らん顔を決めるような人間ではなかった。




「まぁ、多感な時期に起こったゴタゴタだ。一物残るのも無理はない」


「……」



「だがな。だからといって逃げていいわけじゃない。嫌だ無理だと現実から目を背けた先にあるのは弱者の墓標だ。諦めた人間は死にながら生きていくしかないぞ」


「……はい」


「お前は人の機微に敏感だ。しかし、それを免罪符にできる程世の中甘くはない。お前は人が怖いんだ。怖いから、否定し、逃げているんだ」



「……」



 そうだ。俺は逃げていたのだ。佐川や原野を信じる事をせず、いつか見放されるのではないかと、勝手に信頼を疑い、裏切ってきたのだ。そして、それは母に対しても……



「店長。ありがとうございます」


「単なる辻説法だ。気にするな。それより、何か食うか?」


「いえ。申し訳ありませんが、そろそろ失礼させていただきます」


「あぁ。分かった。まぁ、達者でな」



 礼を述べて店を出る。

 そして、走った。


 肺に満ちた寒気が体内で温まり、身体中に伝わっていき、心臓が痛くなっていく。

息が上がり、脚が震え出し、苦しく、苦しく、苦しく……


 だが、止まらなかった。止まりたくなかった。走り続ける事が、心に巣食った邪弱を打ち消する手段だと思った。

 



 しばらくすると、雪が降った。例年より早く観測された氷の結晶は冷たく、風と共に容赦なく俺を打ち付けるも魂の熱は冷めず、宿った炎が燃え続ける。

 俺は、俺自身がその炎で焼き尽くされる事を願った。灰となるまで轟々と灼熱し、そして、新たなる俺として生まれ変わる事を願った。佐川も原野も母も。しっかりと自らの足で地を踏みしめ進んでいる。そんな中で俺は、俺だけは、いつまでも立ち尽くし、それを見てやっかんでいるだけだと、気付いたのだ。


 変わらねばならぬ。


 進まねばならぬ。


 それは焦りでもあり、望みでもあった。そして、覚悟でも……


 


 広がる夜と吹雪。俺はずっとここにいた。暗鬱とした闇と寒さが支配する世界の中で、延々と泣き叫んでいたのだ。


 決断の時が来た。


 ここで座して死を待つのか、それとも、明ける空を求め走り出すのか。




 答えは決まっている。決まっているのだ。そう。俺は……俺は……!









 俺は走り、進むのだ! 太陽が輝く、明日へ向かって!

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