世界の主役は俺だった2

 校舎を後にして走る事三分。俺は離れに見える、公園に咲く、見事な桜に目を奪われた。

 早々に帰宅し自堕落の限りを尽くすのもよいのだが、たまには雅に風流に。花を愛でても悪くはなかろう。そうと決まれば方向転換。駆け足落ち着け深呼吸。桜並木に立ち入れば、なんと見事な花吹雪。まるで別世界のようではないか。周りの酔っ払いどもが邪魔で仕方がないが、好事魔多しと諦めよう。斯様な絶景を前に怒るは無粋極まる。篤と静かに穏やかにだ。どれ。ここは一服、小休止と洒落込もう。

 俺は設けられたベンチに座り、しばしの風流を楽しみながら、脳内にて細やかな妄想を広げるのであった……





 

 二人並んで歩く桜道。麗華で、長く艶やかな黒髪には花弁が散りばめられている。彼女の名前は……そうだな。仮に、加代。としよう。加代は慎み深く控えめで、三歩下がって影を踏まぬように着いてくる大和撫子だ。彼女の肌は白く、透き通った首筋が薄いカーディガンから覗いている。唇は薄く、宙を舞う桜と同じ色で、瞳の黒を見ていると、深い泉に吸い込まれていくような錯覚を覚えるのだった。


「あぁ……儚きかな……」


 呟く彼女の表情は虚ろで、化生を思わせる怪しげな魅力を放っているのだ。俺はそんな彼女の肩をそっと抱き、「移ろう季節なればこそ」と、艶やかな台詞を吐くのである。すると加代はきっとこう返すだろう「愛しています」と!


 ここまで想像するのであれば、二人の馴れ初めもまた創作せねばなるまい。

 あれは一年前。今と同じく桜が舞う季節。俺はこの公園で読書をしていた。読んでいたのは……そうだな。ライプニッツか、ショーペンハウアー辺りががいいだろうか。ともかくだ。認識論だか意思と表象としての世界だかを読んでいる最中。ふと目の前に現れたのが加代だった。着ている服はワンピースでも学生服でもいい。ワンピースの場合は、まだ肌寒い季節だからカーディガンやストールなどを身に付けているだろう。化粧はしていない。というより、その美しさには、もはや過剰な彩り不要であった。


「もし」


 女の美しい声が俺に届く。加代との遭遇である。すぐさま反応したいところだが、ここは一度我慢だ。俺はあくまで難解な哲学書を読み、めまぐるしく渦巻く生命の根源について耽っていなければならないのだから、軽々しく浅はかに、外界の事象に対して意識を移してはならないのである。


「もし、そこのお方」


 二度目の声は、先よりもはっきりとして、強い口調だった。俺はようやく気付いたように分厚い本から目を逸らして彼女に呼応する。


「おや。鳥が騒がしく囀っているかと思えば、とんだ極楽鳥がいるではないか」


 わざと嫌味な台詞を吐く。ニヒルな為人を演じ、相手の心を揺さ振る恋愛の基本テクニックである。


「あの、私、ここで貴方が本を読んでるのを、毎日、ずっと見ていました……」


 こんな事があるかもしれぬからと、俺はたまにこの公園で読書をしていたのだ。それが功を制する日がきっと来る。その日の為の空想である。いざ事が起こってから、想定していませんでした。では、無様が過ぎるというもの。男はいつでも準備しておかねばならぬ。常在戦闘というやつだ。


「そうかい。生憎と、見世物になったつもりはないんだがな」


 まだ媚びる時間ではない。出会って一言二言交わしたくらいで靡くような男として見られとあっては堪ったものではないからだ。如何に傾国の美女とはいっても、そう簡単に絆されては男児の名折れ。今はあくまで、加代については「囀る鳥」としてしか見ていない風に徹しなければならない。


「そんなつもりは……」


「だがまぁ、いいだろう。丁度、読書の虫となるのにも飽いていたところだ。茶の一杯でも付き合ってほしいのだが、どうだね?」


「……! はい! お供いたします!」


 そうして俺達は二人で喫茶店に入るのだ。店は予め見繕ってある。この近くに居を構える一押しの良店。落ち着きのある小洒落た茶処は、鹿鳴館風の内装で厳かかつ華麗であり、俗世からの逃避には最適な場所で、まさに男女交友にはうってつけなのである。この数ヶ月、少ない小遣いをやりくりして毎日のように味も分からぬコーヒーをそこで飲んでいた俺がいうのだから間違いない。故に、きっと彼女は、「良いお店ですね」と言うだろう。いや、言うに違いない。彼女は「良いお店ですね」と言ったのだ!


「良いお店ですね」


「そうだろう? 俺は通い詰めているんだ」


 ここで常連である事をアピールする。得意気にならず、さも小慣れてる感を醸し出すのがポイントだ。


「ここは茶葉も良くてね。舶来品のを使っているから、香りが違うよ」


 嘘である。茶葉の原産地など知るわけがない。そもそも俺はコーヒー党だ(好んでいるわけではないが)。が、どうせ相手も俺と同じだろう。実飲してどこの国の茶葉が使われているかなど分かるはずがない。ならば盛大に騙しても問題がないという事。恋愛とは駆け引きと騙し合いである。


「そうなのですか。随分、お詳しいのですね」


 加代は心底感心して僕を見つめる。白い頰は、窓の外にある紅葉のように赤く染まって……いや、季節は春だったな。まぁいい。ともかく、加代は俺に惚れて顔を赤くしていたのだった。


「よしてくれ。照れてしまう」


 ここでようやく相手側に心を傾ける。いつまでも興味のないフリをしていては女を得る事はできない。これもまた、駆け引きである。


「私、貴方の事が……」


 加代の視線は俺から離れない。両の眼は潤み、切な気な表情を浮かべ、じっとこちらを見つめてくる。もはや言葉は不要。俺はそっと加代の下顎をつまみ、唇を寄せる。重なり合おうとする互いの花弁には、熱い吐息が……

 まて。果たして店内で接吻をしていいものだろうか。番いであっても、公序良俗に反する行いは些かまずい気もする。破廉恥はよくないのだが……まぁ良しとしよう。店側も気を遣って見て見ぬ振りをするに違いない。なれば俺はこのタイミングで接吻をする。せねばならぬのだ。接吻……接吻だ!


 口付けを交わす俺と加代。恋愛成就である。だが、俺は何事もなかったかのように彼女から離れ紅茶を啜る。そう。ここでも駆け引きだ、そっけない態度で相手は俺に首ったけという寸法だ。


「……ずるい人」


 微笑む加代。俺は鼻で返事をして、そっと窓の外に目をやる。そこから見える、霞む空には、幾千、幾万の花弁が……






「田中君! 奇遇じゃないか!」


 突如と俺を現実の世界へ呼び戻したのはだれだぁ! あ! 陰気ガリ勉の佐川じゃないか! おのれ眼鏡! 気安く声などかけおって! お陰でこれまで紡いだ淡い恋の物語がご破算ではないか! 


「何か用かクソめが……いや佐川君よ! 俺とて忙しいのだがな!」


「そうなのかい? 申し訳ない。桜の下で呆けていたものだから、暇なのかと思ったよ」


 失礼千万である。まったくどのような教育を受けてきたというのか。親の顔を見てみたい。


「ところで田中君、僕はこれから、そこのルノワールでお茶でもしようかと考えているのだけれど、君もどうかい?」


 なんだと! こいつあの喫茶店を知っているのか! 


「さ、佐川君……君は、あの喫茶店には、よく行くのかい?」


「? まぁ、チェーン店だからね。僕はいつも一人だから、入りやすいよ。チェーン店といっても、洒落てるから好きなんだ」


 チェーン店……あの店は、チェーン店だったのか……そうか……すまない加代……


「どうしたんだい田中君。田中君。田中? 田中君! 田中く……君、泣いているのかい?」





 俺は、佐川に慰められながら、件の喫茶店。ルノワールにて、いつも飲むコーヒーを啜った。しかし、いつもと違い、味はよく分かった。それは、涙と鼻水と、胃酸が絶妙にブレンドされた、吐瀉物そのものであった。

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