第35話 玉泉珠樹という少女

 なるべく早く珠樹に連絡を入れなければと思い、朝陽は家の外へと出る。昼食を食べた後では吹奏楽部の休憩時間が終わってしまう可能性があるため、紫乃のことはひとまず事情を理解している乃々に任せることにした。


 スマホを取り出して一度深呼吸をした後、珠樹への着信ボタンをタッチした。何度目かのコール音が鳴り、彼女の声がスマホのスピーカーを通して聞こえてくる。


『もしもし、どうしたの?』

「あ、えっと……」


 直前になって、朝陽は言い淀む。


 お祭りの時には彩が表へ出ていたとはいえ、吹奏楽コンクールを見に行くと言った時、珠樹はとても喜んでいた。


 以前コンクールメンバーに選ばれたと珠樹に報告された時も、朝陽が見に行くよと言えば、彼女は笑顔を見せてありがとうと言っていた。


 それなのに直前になって、その約束をキャンセルしなければいけなくなった。きっと行けなくなったと言ってしまえば、珠樹はひどく落ち込んでしまう。もしかすると、練習に支障が出てしまう可能性だってある。


 それならば、伝えない方がいいのではないのか。コンクール会場はとても広い。見に行かなくても、おそらく珠樹にバレることはない。


 黒い感情が朝陽の胸中を渦巻きだして、慌ててかぶりを振った。珠樹に嘘をつくことなんて出来ない。そんなことをしてしまえば、彼女が望んでくれた今まで通りの関係すらも、築けなくなってしまうのだから。


 言い淀んだ後もしばらく黙っていると、珠樹は何かを察したのか、いつもよりも落ち着いた声音で朝陽へと話しかけた。


『たぶん、あんまり良くないことを私に教えなくちゃいけなくなったんでしょ?』

「……どうしてわかったの?」

『朝陽のことは、誰よりも私が理解してるから。何年一緒にいたと思ってるんだよバカ』


 ずっと朝陽と一緒にいたんだから、それぐらい分かる。それは以前珠樹に告白された時にも言われた言葉だった。


『そんで、話したいことって何? お昼ご飯食べる時間なくなっちゃうし、ちゃちゃっと教えてよ。フラれた時以上に辛くなることなんて、私にはもうないんだから』


 自分が一番傷付いたことをネタにしてでも、珠樹は相談に乗ってくれる。そんな彼女の前で、これ以上逃げるわけにはいかないと朝陽は決意した。たとえ傷つける結果になったとしても、彼女とは誠実に向き合わなければいけない。


 珠樹は自分の一番大切なことを、朝陽に教えてくれたのだから。


「来週の吹奏楽コンクールなんだけど、用事が出来て行けなくなったんだ……紫乃も、コンクールを見に行けない……」


 その事実を伝えると、通話口からしばらく音が途絶えた。それはたった数秒の出来事だったのかもしれないし、数分の出来事だったのかもしれない。だけど朝陽にはその時間が永遠にも感じられて、心が申し訳なさでいっぱいだった。


 そしてまた、呟くように悲しげな珠樹の声が返ってくる。


『そんなの、やだよ……』

「ごめ……」

『……でも、そういうわけにもいかないんだよね。きっと』


 しかしすぐに、気を持ち直したようにいつもの声が届く。心に重くのしかかった重圧が、ほんの少しだけやわらいだような気がした。


『紫乃ちゃんとデート?』

「デートってわけじゃないんだけど……行かなきゃいけない場所があるんだ」

『うん。デートなんかじゃないって、ちゃんと分かってる』

「じゃあなんで聞いたの……」

『恥ずかしがると思ったから、からかってみただけ』


 くすりと、珠樹の微笑む音が聞こえる。


『朝陽は、先約があるのに土壇場でキャンセルするような奴じゃないから。きっと何か大事なことがあるんでしょ?』

「うん……」

『そしてそれを、私には絶対に教えてくれないんだ。理由は、私がコンクールに集中出来なくなっちゃうから』

「うん……」


 今まで隠していたことを、朝陽は素直に認めた。珠樹の前で、やはり嘘などつけないと再認識したから。


 自分がわかりやすいという面もあるのだろうが、彼女の言う通り、過ごしてきた時間が家族以外の誰よりも長いからだ。


『朝陽はやっぱり優しいね。わかったよ。鈍感な幼馴染でいてあげるから、全部終わったら私にも教えてよね』

「それは、そのつもりだよ」


 全てが終わったら、これまでに起こったことを珠樹に包み隠さず伝える。その時にはもしかすると、もう紫乃はいないのかもしれない。それでも……


 そこまで考えて、これ以上考えるのはやめた。これから先のことを、今は分からないのだから。


 しばらく朝陽が何も言わずに黙っていると、珠樹は今までよりも真剣な声音で問いかけてきた。


『朝陽はもしかして、私に申し訳ないとか思ってる?』

「申し訳ないと思ってるよ。約束を守れなかったんだから」

『そういうこと、これからは考えたらダメだから』

「え?」


 彼女に言われたことの意味がわからなくて、朝陽は問い返す。また真剣な声で、珠樹は続けた。


『私に申し訳なさを感じるなら、他の女の子を好きにならない方がいい。私のことなんて気にしてたら、朝陽はそのたびに迷うことになるから。優先すべきは私じゃなくて、彼女の方だよ。それとももしかして、私に申し訳ないって思ってくれてるのかな。だとしたら、私と付き合ってくれるの?』


 朝陽は言葉を返せなかった。


 珠樹の言う通り、誰かを好きになるというのはそういうことだ。いくら幼馴染であっても、優先すべきは彼女なのだから。


 珠樹以外の女の子を好きでいるためには、珠樹のことを傷つけ続けなければいけない。その覚悟がなければ、初めから人を好きになることなんて出来ないのだ。


『思い出してみて。朝陽は、いつ彼女のことを好きになった?子どもの頃?それとも、今?その朝陽の中に、私はいないでしょ?』


 朝陽は思い出す。


 始まりは、彩と出会った瞬間だった。内面や性格なんてものは分からなかったけど、彼女はきっと優しい心を持った人なのだという直感があった。


 そしてそれは、間違った認識ではなかった。


 彼女の中に紫乃が入っていたこともあった。そして、紫乃の考え方に惹かれた時もある。それは幼い頃に自分が教えた言葉ではあったけど、その言葉を今までもずっと覚えてくれていたこと、大事にしていてくれたことは、朝陽にとっては素直に嬉しいことだった。


 しかしそれとは別に、顔も知らないはずだった綾坂彩という女の子のことも、朝陽は気になり始めていた。自分と紫乃を会わせてくれた女の子。


 紫乃が命の恩人であるとはいえ、どこにいるのかもわからない幼馴染を探そうとするなんて、よっぽどの強い意志がなければ出来なかったことだ。


 いつも、一言お礼を言いたかった。


 十年前に終わった自分たちを、再び出会わせてくれた彼女に。


 乃々と出会ったことによって、朝陽は彩の内面を知った。とても強い心を持っているが、誰かが支えてあげなければ気付かないうちに壊れてしまう女の子。強すぎる心は、いつか誰も知らないところで、曲がることもなくポッキリと折れてしまう。


 そんな女の子のことを、今は支えてあげたいと思っている。彩と、今度は正面から話し合いたい。彩のことを、救ってあげたい。


 その中に、珠樹はいなかった。


「ありがとう、珠樹。ようやく、自分の心に整理をつけることができたよ」

『ん、どういたしまして。といっても私は、朝陽に質問しただけなんだけど』

「それでも、珠樹のおかげだから。本当に、ありがとう」


 もやもやとしていた自分の気持ちに、ようやく決着がついた。しかしだからといって、それは紫乃を助けないという理由にはならない。


 彼女には生きていてほしい。二人ともを救う道を、朝陽は見つけるつもりだった。


『そんじゃあ、朝陽のことを助けてやった代わりに、今度のコンクールには来てもらおうかな』

「いやだから、コンクールの日は予定があって……」

『全国大会、絶対朝陽には見に来てもらうから』


 珠樹の言葉に、朝陽はしばらく黙り込み、それからこらえきれずに笑みがこぼれる。


「わかったよ。次のコンクールは、絶対見に行く」

『それなら今回のことは、全部水に流してやるよ』


 吹奏楽は団体競技だ。珠樹だけが本気になっても、良い結果が得られるとは限らない。


 でも彼女ならば、本当に全国へ連れて行ってくれるのではないかという予感がした。だから朝陽は、素直に彼女の言葉を信じることができた。

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