第23話 二人だけの花火大会

 雲一つない夜の空には、まるで海岸の砂をちりばめたかのように星がキラキラと輝いている。夏だというのに、夜はとても涼しい。半袖のTシャツ一枚でも大丈夫だが、念のためにパーカーを羽織ってくればよかったかもしれないと朝陽は思った。


 夜の海は月明かりに照らされているが、空の色と同じように黒色で染められている。きっと夕暮れ時はオレンジ色の海だったのだろう。暗い海の色を見ていると、どこか不安げで寂しい気持ちになった。


「夜の海も、なんかいいね」

「そう?」


 その感想に、朝陽は同意しかねる。暗い海より、日中の青い海の方が何倍も綺麗なのだから。


「星空の中を、お魚さんたちは泳いでるんだよ」


 星というのは、月明かりに照らされる海面のことを言っているのかもしれない。たしかに暗い海の上では、空を横切る天の川のように月明かりがキラキラと輝いている。


「でも、お魚は見えないよね」


 その何気ない言葉に、紫乃はくすりと微笑む。何かおかしなことを言ってしまったのかと考えた朝陽は、自分の発言を振り返ってみたが、何も思い当たる節はなかった。


 紫乃は微笑みを見せたまま、昔を懐かしむように目を細める。彼女の瞳には、一体何が映っていたのだろう。


「朝陽くん、昔の紫乃みたいだね」

「え、どういうこと?」

「砂漠が美しいのは、砂漠のどこかに井戸を隠しているからなんだよ」


 その言葉に、朝陽はハッとさせられる。昔、彼女に語って聞かせた一冊の本。その中に出てくる一文。


 あの頃の紫乃は、自分が部屋の中から出ることが出来ないために、いろいろなものを見ることができずにいた。だから全てのことを諦めて、綺麗なものなんてないと思い込んでいた。


 いちばんたいせつな物は、目には見えない。


 きっと青空が綺麗なのは、そこに星があるからだ。目には見えなくても、星は変わらずそこにあるのだから。


 海が綺麗なのは、その中に魚を隠してしまっているから。


 決して目には見えないが、朝陽の目には、星空の中を魚が一生懸命泳いでいる風景にしか見えなくなっていた。


「本当だ、綺麗だね……」


 星空の海を見て、朝陽は呟いた。


「僕、昔の出来事をだいぶ思い出したんだよ」

「昔の出来事?」

「うん。紫乃と出会った頃の話。初めて紫乃の部屋に入った時、芋虫みたいに毛布に包まって、全然顔を見せてくれなかったよね」

「あの時は、すごい恥ずかしかったから……」


 紫乃も思い出したのか、頬を朱色に染める。そんな彼女に朝陽は小さく微笑んだ。


「初めてあの部屋で絵本を読んだときのこと、覚えてる?」

「桃太郎を読んでくれたんだよね」

「そうそう。それで紫乃が、犬の話に興味を示してくれて。誘ってみたら、断られちゃって」

「あの時は、ごめん……」

「今も昔も怒ってないよ。子どもの頃は、世界は広くて、なんでもできるんだって思い込んでた。でも実際は、そんなことは全然なかったんだけどね。紫乃はずっと小さな部屋の中にいたから、他の人より何倍も不安になってたんだと思う」


 外へ散歩に行くだけでも、彼女にとっては小さな大冒険だったのだろう。出かけられない理由も後押しして、自分は一生外の世界を見ることが出来ずに死んでいくのだと思い込んでしまったのかもしれない。


 でも実際は、そんなことはなかった。


 世界は残酷なように見えて、紫乃に対してはとても優しかったのだ。


「宝箱の中は、綺麗なものが詰まってたでしょ?」


 朝陽は問いかける。


 毛がふさふさの白い犬や、どこまでも広がる青い海。夏にはひまわりが咲いて、秋には紅葉が落ちる。そんなどこまでも美しい世界に、彼女は立っている。


 その事実が、朝陽はたまらなく嬉しかった。


 紫乃は迷いのない笑顔を浮かべながら、頷いた。


 しばらく波の音を聞きながら星の海を見ていると、紫乃が口に手を当てて大きなあくびをする。彼女の瞳には、あくびにより涙がたまっていた。


「眠くなっちゃった?」

「うん、ちょっと……紫乃、いつも九時には寝てるから」

「ああ、そうだったんだ」


 だとしたら、紫乃にとって麻倉家の生活パターンは、辛いものだったのかもしれない。父は早くに寝てしまうが、朝陽も朝美も母も、十一時を過ぎるまで寝ることはない。


 紫乃が本格的に眠くなってしまう前に、花火を終わらせてしまおう。そう考えた朝陽は、マッチでロウソクに火を付けた。淡い炎が揺らめき、周囲の砂浜を明るく照らし出す。


 その美しさに、紫乃は瞳を輝かせていた。


「綺麗だね」

「うん、綺麗だ」


 初めは朝陽が線香花火を手に取った。その先端をロウソクに近付けて、火が移ったらゆっくりと離す。すると、ただ先端を燃やすだけだった火はだんだんと丸みを帯びていき、綺麗なオレンジ色の球体が出来上がった。


 そのオレンジ色の球体から、パチパチと火花が飛び散る。初めは穏やかに、次第に激しく。暗闇を照らすように、世界に色を付けるように。


 しかし、やがてそれも勢いを失っていく。


 線香花火は初めと同じく、ただの丸い球体へと形を戻す。そして、突然弾けた。


 残ったエネルギーを全て吐き出すかのように、最後の勢いを見せる。パチパチ、パチパチと。それはまるで、生き物が死ぬ瞬間の最後の輝きのようにも見えた。


 しかし永遠のようにも感じられたその瞬間にも、終わりは必ずやってくる。


 オレンジ色の球体が、砂浜の上へと落下する。プシュンという音を最後に、再び辺りには静寂が訪れた。


 その一時の美しさを共有したくて、朝陽は紫乃の方へと視線を向ける。


――彼女は、涙を流していた。


 先ほどまで線香花火が弾けていた場所を見つめ、止まらない涙を流し続ける。そしてようやく自分が泣いていることに気付いたのか、慌てて紫乃は涙をぬぐった。


 しかし、一度溢れ出した涙は止まらない。


「あ、あれ……」

「紫乃、大丈夫?」

「し、紫乃……泣くつもりなんてなかったのに……!」


 涙を流しながら、彼女はしゃくりあげる。


 朝陽はそんな彼女を心配して、昨日と同じく頭を撫でてあげる。すると、次第に涙はおさまってきた。


「何か、嫌なことを思い出した?」


 紫乃は首を振った。


「そうじゃなくて……綺麗、だったから……花火が綺麗で、泣いちゃったのっ……」

「そうだったんだ」


 どこまでも心の綺麗な彼女は、涙を流しながら微笑みを見せる。その表情は、先ほどまで輝いていた線香花火よりも綺麗だと、朝陽は心の中で深くそう思った。


「……朝陽くんは、花火みたいな人だね」

「えっ?」


 その意味がわからなかった朝陽は、思わず訊き返した。


 最後の雫を拭き取った紫乃は、目の下を赤く腫らせながら、それでもひまわりのような笑顔を見せる。


「初めは、太陽みたいな人だなって思った。朝日が、綺麗だったの。暗闇を晴らしてくれた、紫乃にとっての一番大切な人……もう一度会えて、本当によかった……」


 きっと幼い頃のことを言っているのだと、すぐに朝陽は理解できた。


 一番大切な人。そう思ってくれていることが、朝陽は心の底から嬉しい。再び彼女に対しての甘い衝動が湧き上がる。


 伝えるならば、もうこの瞬間しかないだろう。どのみち明日のお祭りの間、自分の気持ちを隠しておける自信が朝陽にはなかった。それほどまでに、紫乃に対する気持ちは膨れ上がってしまっている。


 そして朝陽は、世界を塗り変えてしまう言葉を口にした。


「好きだ」


 珠樹に告白された時にも味わった感覚。周りの全ての音が消え去り、この世界にいるのは二人だけだという錯覚に陥る。


 しばらくの間が空いた後、紫乃は気の抜けた声で「……えっ?」とだけ呟いた。朝陽はもう一度、繰り返す。


「紫乃のことが、好きなんだ」


 自分の心臓の鼓動が彼女へ伝わっているのではないかと、朝陽は不安になった。しかし、自分の鼓動よりもずっと早く、彼女のそれは拍動しているのかもしれない。


「え、だって、朝陽くんには珠樹さんが……」

「珠樹には、昨日告白された。でも断ったんだ。僕は、紫乃のことが好きだったから」


 珠樹のことは、今でも申し訳ないと思っている。でも自分の気持ちを偽ることなんて、朝陽には出来なかった。伝えずに心の中にとどめておくことも。


「告白、されたんだ……そうなんだ……」

「僕は、紫乃に付き合ってほしい」


 もう一度想いを伝える。


 紫乃はまだ、首を縦に振ることも横に振ることも、返事をすることもしない。


「いつか……いつから、なの……?」

「紫乃と浜織で再会した時からだよ。大人っぽい君を見て、一目惚れだった。それから話していくうちに、自分の気持ちに気付いたんだ」

「一目惚れ、かぁ……」


 どうしてか、紫乃は声を震わせる。もしかすると、まだ彼女は泣いているのかもしれない。その表情をうかがうことが怖かった朝陽は、顔を覗き込むことができなかった。


 ただ、彼女の返事を待つ。


 その瞬間が一瞬のようにも、永遠のようにも感じられて、そろそろ朝陽の心臓は張り裂けてしまうのではないかという時に、ようやく紫乃は口を開いた。


「……紫乃も、朝陽くんのことが、好きだよ」


 その言葉だけで、朝陽の心は幸福に満たされる。もしかすると、この瞬間のためだけに生きてきたのではないかと、そう思えるほどに。


 しかし、彼女は続けた。


「でも、もう少しだけ待ってほしいの……」

「え、もう少し?」

「うん、もう少しだけ……もう少しだけ、待ってほしい……その時紫乃にもう一度告白してくれたら、ちゃんと返事を返すから……」


 深刻そうな顔をしているが、紫乃がそう言うならと朝陽は頷く。彼女が望まないのにこの場で押し切るのは、何かが違う気がする。それで付き合えたとしても、気持ちの押し付けになってしまうだけだ。


「わかったよ」

「ごめんね、朝陽くん……」

「紫乃が謝ることじゃないよ。でも、気持ちだけ伝えられてよかった」


 秘めていた想いを伝えたことによって、胸の内が軽くなったように思える。対する紫乃は、恥ずかしかったのか頬を朱色に染めていた。


 それから二人は、あまり多くの言葉を交わさずに、線香花火を楽しむ。こんな時間がずっと続けばいいのにと思いながら。

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