死体あっての脚本部

石嶺 経

第一章

事件当日 夜

 練習をしている間にはなかなか気付くことが出来ないものだけど、日の落ちた後の学校というのは言い様のない不気味さを孕んでいると思う。明かり一つもついていない教室が僕を取り囲んでいるが、よく目を凝らせば無数の目玉がこっちを見ているんじゃないか、そんな不安な気持ちに駆られる。


 これだから夜の校舎は嫌いだ。出来れば立ち入りたくない。しかし、僕が部室を閉める役割を担っているので、そうはいかない。当番制にすれば良いものを、何故か僕が毎日毎日閉める事になっている。決めたのは顧問の鎌田でなく三年の連中である。野球部というのは連帯責任や体罰といった時代錯誤の塊ではあるが、それにしたって陰湿なものだ。僕以外の一年連中も、たまには代わってくれたって良いのに、薄情な奴等だと思う。仲間が困っていたら助け合うのがスポーツマンシップじゃないのか。


 もし、ボールの一つでもなくなるようなことがあれば、ねちねちと嫌味を言われるに違いない。自費での弁償もあるかもしれない。高校生の僕にとって、決して安い出費ではない。こういう妄想をするのはいつものことだが、辺りが暗いと妄想の内容まで暗くなってくる。最後の部員が部室から出たのを見送って部室に鍵をかける。


 案の定、外はすっかり真っ暗になってしまってグラウンドの十メートル先も良く見えない。今日は夏の大会に向けての背番号発表があってみんな残って喋っていたから、特に遅い。


 臆病な僕にとって暗闇は恐怖でしかない。何も無いくせに重苦しい質感があって、僕の周りをどこまでも追いかけて埋め尽くしてくる。せめて足元を照らそうと鞄を開けて携帯を探す。グラブやスパイクが邪魔でうまく手繰れない。左手でグラブを引っこ抜いて右腕で携帯を探す。鞄の奥底に有って苦労はしたものの、何とか数十秒かかって取り出せた。なんだってこんな苦労をしているんだ僕は。グラブを鞄に戻して、携帯で足元を照らす。目の前をただ照らすだけじゃなくて、なんとなく左右に揺らしながら校門に向かう。こうしていると、校舎から見たら人魂かなんかに見えるかもしれない。


 いや、でもなんと言っても一番怖いのは生きている人間で間違いない。ほら、あの木の辺りに僕のストーカーでも居るかもしれない。考えていたら何か怖くなって木の辺りを照らし続けていけど、特に何も無い。がさがさと風に揺れる木の葉が少し怖いぐらいだが、それぐらいならたいして問題ではない。いつも経験していることだ。


 校門前へと差し掛かったところで、いつもと校門の様子が違うことに気付いた。いつもとシルエットが違うような。恐る恐る近づいて見るとどうやら人が立っているらしいことがわかった。校門の前に現れる幽霊なんて聞いたことがない。多分、というか間違いなく怖い人間がそこに居るのだろう。だとしたら、見るまでもない。誰が立っているかぐらいは想像がつく。


「やあ神谷クン。背番号一番オメデトウ」


 三年の八木一瀬やぎいっせ――僕が言う一番怖い人間で間違いなかった。

 嫌な予感と言うものは往々にして当たるものだ……いつもそうだった。


「……ありがとうございます」


 何がありがたいのか分からないが、なんとか返事を絞り出す。

 正直、引き返したいぐらいの気持ちだったけど、これ以上遅くなるのも好ましくない。そもそも師走高校に出口は一箇所しかない。好ましくないと言えば、先輩の顔を見て道を引き返すことほど好ましくない事もないのだが、八木に限ってはそんなの関係ない。僕の事を、これ以上ないぐらいに嫌っているのだから。


「先に帰りますね」


 言って、早足で通り抜けようとするが、八木が急に片手を僕の前に出すので、立ち止まってしまった。まさか体当たりで突破する訳にも行かないだろう。取っ組み合いになんかなりたくない。大会前に怪我をするわけにはいかない。


「つれないな。ちょっとぐらい付き合ってくれよ。先輩の言うことには従うものだろう。それとも何だ、ヘタクソな先輩には付き合ってられねーってか」


「勘弁してくださいよ、僕が何したって言うんですか」


 もう泣きたいぐらいだった。先輩と夜の校舎に二人きり、この状況は幽霊だの人魂だのよりも、わかりやすく恐怖でしかない。早く終わってくれ、早く終わってくれ、と呪文のように心で唱えていた。


「何をした、だって? ふざけてんのか、お前。二年間着けてたエースナンバーを、最後の大会で一年に取られた奴の気持ちがお前にわかんのか?」


 どすの利いた声で恫喝する八木に圧倒され、肩にかけていた鞄を落とす。

 そんなの、逆恨みもいいところじゃないか。スポーツは実力至上主義だ。嘆くなら、自分の未熟さを嘆けよ。……なんて言えるはずも無い。


「何黙ってんだよ、おい」


 肩を叩かれて、後ろに倒れこむ。石畳にこすった腕が、ひりひりと痛む。後ずさりをしながら、なんとか言い訳を探すが、この状況じゃ何を言っても怒らせるだけだ。いつの間にか涙が出ていたのだろう、視界がぼやけてきた。


「馬鹿にしてんのか」


 八木が詰め寄って来る。腕の痛みと混乱、焦燥とで頭の中は滅茶苦茶だ。まともに思考も出来やしない。情景がはっきりと掴めない、薄っすらと輪郭がわかるだけだ。


「いや、そのっ違うんです、誤解です」


 自分でも何を言っているか分からない。怒らせて当然だ。


「もういいよ、お前」


 八木のシルエットが大きく変貌する。蹴りが飛んでくるのだろう。目を硬くつぶって来る恐怖に備える。仰向けに倒れている僕の下腹に、力任せに振り下ろされる。


「うごっ……おえええ」


 胃から喉から濁流のように押し寄せる液体。口で留めようとはしたものの、勢いに逆らえず亀のように丸まりながら、そこらにぶちまける。こんな目に遭いながらも、せめてスパイクでなくて良かった、などと考えていた。真剣になれないという生まれもっての悪癖だ。


「……はあー……うえっ」


 口の中が気持ち悪くて、涎がだらだらと出てくる。

 頭だけ動かして八木を見れば、こちらを見下しながら、肩に棒状のものを担いでいる。ああ、バットだ。いつも見慣れているやつだ。あれで殴られるんだろうな、などと考えていた。視線に気付いたのか、八木が動き出した。風を切るような音がしたと思ったら、右足に鈍痛が走った。


 もはや、声は出なかった。痛みが時間とともに鋭さを帯びてくる。八木が何かを叫んでいるが聞き取ることも出来やしない。ここで死ぬのか、僕は。思えばくだらない人生だったな。実感したら悲しくなったが、涙はもう出ない。出るのは胃液ぐらいのものだ。八木はバットを頭の上に構えている。あんなものが振り下ろされたら、もう一たまりも無い。少しでも死の瞬間を安らかに受け入れるために、僕は目を瞑って――


 ――死ななかった。

 自覚では数分もの間、目を瞑っていたがいつになってもバットが脳天を直撃することもなく、また、それによって死ぬことも無かった。急激に現実感がなくなってくる。さっきまでの出来事は性質の悪い夢だったのかとさえ思えてきた。


「……痛っ」


 右足が激しく痛みを主張する。やっぱり現実だったみたいだ。


 目を開け、太ももの辺りを擦る。出血しているのか、滴りそうなほどに濡れている。まったく、家族にでも見られたら何て言い訳したら良いんだよ。右足を庇いながら何とか立ち上がる。いつもの平穏な校門が広がっていた。鞄は見当たらないけど、僕の後ろにでもあるのだろう。


 そういえば、八木はどこへ行ったのだろう。僕の出血を見て大事になるとまずい、とでも考えて逃げたのだろうか。だとしたら、随分と勝手なものだ。とりあえず帰ろうと思い、後ろを振り返る。果たして、そこに鞄はあった。しかし、それに気付くのには随分かかった。なにせ、その横にさっきまで僕を精神的にも、肉体的にも追い詰めていた八木が、頭から大量の血を流して横たわっていたからだ。

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