第4話 野火

 稼働前にヨハンが俺に望んだことは、箱庭のかじ取りではなかった。


 箱庭には人手が足りなかった。AIで賄いきれない部分はある。精神的なカウンセリングや――人の目による監視が必要になった。基底意識には組み込まれなかった職員や機関の世界各所の支部から、精神鑑定で『優良』の判定を受けた者たちがその対象となった。遠隔で箱庭に干渉するためのシステムを積んだチップを脳に埋め込んで。そこから根を張るように、基底意識はほんの少しずつだが、箱庭の外へと拡散していった。人間の持つ共感力やミラーリングは伝播していく。それを受け取ることができる、アンテナさえ持っていれば、だが。


 こうして、箱庭は疑似社会として確立していった。

 10年の間に遠隔施術を受けて箱庭に登録された人口――『レシピエント』は一つの小都市に匹敵するまでになった。100人の子供たちのための社会は、世界の各地の共通理解の概念に安定をもたらすための芽吹きの種となった。


 かくいうおれは徹底して箱庭への干渉を許されることはなかった。


 分かってはいたことだが――おれの思考や精神が『優良なもの』であるとは客観的にも認定されなかった。それだけのことだった。少し、ショックは受けたが。

 だから、ただただ来る日も、来る日も、モニタリングを続けた。追加の人員の選定も、おれには何もできなかった。文字通り、指をくわえて成り行きを見定めるだけ。計器の動きをみて基底意識提供者が脳に異常をきたしているようであれば報告をあげる。必要な治療の提案をすることさえ、許されなかった。


 意地にはなっていたのだろう。

 ヨハンの描いた理想があるというのなら、それを見届けると約束したのだから。


 観測を始めて3年目のある日、不思議なことが起こった。

 モニタ越しに、一人の少年と目が合った、気がした。天気の日にふと青空を眺めるようにして、少年はひょいとこちらを見上げた。天気に似合わない、底の真っ暗な瞳をしていた。登録された100人の基底意識は統合されている。だが、同一人格ではないために、パラメータの多少のバラつきは認められていた。

 少年はしばらくこちらをじっと眺めていた。焦点の定まらない目つきではなく、明確にこちらを窺っていた。こちらから視線を外すことなく、ゆったりとした動きで一度、白い首を傾けた後、ああ、と。色の薄い唇が動いた。何かを悟った顔つきになる。そうして不意に表情を和らげると、彼は踵を返してすたすたと歩いて行った。光学迷彩ドローンに追わせた彼は、真っ先に図書館へと向かい資料を漁り始めた。その作業の緻密なこと、切り口の大胆なこと。住む世界を暴くという行為であろうと熱のまるでこもらない仄暗い瞳を見て、おれもまた同時に理解させられた。ヨハン・スミスという意識が溶け落ちることなどなかったということを。安息を願ったヨハンにそれが許されるはずなどなかったことも。

 図書館で調べれば箱庭の外側に憶測が届いてしまうのは、世界に仕掛けたギミックのようなもので、けれどもそれを解くことができるのはヨハン・スミスに他ならなかった。あいつらしい賭けだった。少年が自分のいる社会がイン・ビトロの実験場だと理解しなければ、ヨハンの意識はとっくに基底意識に溶けてしまっていたということの実証になる。あいつの苦しみは、何の変哲のないものとして拡散されて終わり。そうなることを、ヨハンは少しくらいは期待していたようにも思うが。


 基底意識を利用した社会の破壊ではなく、救済措置としての、役割を。

 

 全ては憶測だった。


 現実では、おれ宛のメッセージも手記の一つも見つからなかった。遺書もなかった。もっとも、帰還を想定して造られていたため、遺書を遺してサーバベースとなった機関員は多くはなかった。堅実なサムエル・スピアーズは遺書を遺していたそうだが、おれは読んでいない。

 延髄サーバの実稼働、および、箱庭試験の開始に伴い、ヨハン・スミスのあらゆる記録は監査官によって没収されてしまっていた。ヘムロックがおれの許を訪れたのは、僅かばかりの善意だったのか。ヨハンの希望によるものだったのか。


 確かめようもないこと。手遅れのことだらけだ。

 もっと早くヘムロックのことを知れていられればと思わざるを得ない。

 ヘムロックとは、彼女が機関を辞してからも年に数回は連絡を取り合っていた。彼女がおれの古巣に赴いていたのは、驚きだったが。変わった偶然もあるらしい。ヘムロックも施術を受けることはなかったが、遠隔地でのレシピエント選出のアドバイザーとして時折招聘され、この計画から外れることは叶わなかったらしい。

 彼女は。善く在ろうとした人だった。

 彼女が苦しみに見舞われることなく、健全でいられれば僥倖だが。

 人間の底をこれ以上覗きたくないと思った彼女にとっては、長らく苦しい時間が続いただろうとおれは思う。




 そうして、今。

 保全室から自分の研究室に移動してきたおれは、一人煙草をふかしている。全く使い慣れないAKを机に置いて。リコイルがひどくて使い物にならないが、ないよりはいい。もとより銃にはそれほど詳しくない。


 ヨハンがいなくなって、延髄サーバが稼働し、10年の年月が流れ、臨界点を迎えた延髄サーバが落ちて、実に10日後。

 箱庭内での虐殺は機関内に飛び火した。


 箱庭内の少年少女たちは、銃社会も民族問題も多神教も原理主義も一緒くたに処理することができた。それらに対してかくあるべきと自然と答えを導き、平穏なままに不和となる要素を排することができた。彼らにとっては呼吸と等しく他者を理解できたのだから。


 不快であるとされる情動コントロールに非常にたけていた、と思っていた。


 ひとつの共通意識をもつ、ということは、それ以外の要素、全く異なる異物を集団内に発見した際に、不可解である要素を排除しようとするということだ。いくら理性でその要素を容認しようとしても、本能的に組みこまれた共通理解の領域で弾かれてしまう。抗原抗体反応のように。


 あの少年がサーバを落とす前に、こちら側の存在に気付いたものが複数いた。『サム』という少年だ。彼は、こちら側の干渉に成功。ありていに言えば、閉鎖空間であるはずの箱庭試験場から脱出した。そのまま、近くにいた観測中の機関員を殺害。続いて複数の被験者が試験場を脱出。この段階で箱庭の完封が決定。処理が開始される。基底人格との連結を断たれた被験者十数人と機関員とで戦闘が起こったが、半狂乱に陥った機関員がたまたまそこを通りがかった機関員に銃を乱射。レシピエント同士の撃ち合いから瞬く間に狂気は伝播し、ラボは壊滅。保全室は、少年がサーバを落としたのと同時に、その役目を終えた。もう二度と、その扉を開くことのないガス室となって保全室は100人分の棺になった。


 おれは。自分にできることをしようとした。機関員の中には、断続的にデータ配信を行っている者もいて、そういった者からが銃撃戦に加わっていった。良心のはじけ飛んだ暴徒と化した機関員と、本来の自我を奪われた青年たちの銃撃戦。データチップが脳髄に埋まっていない機関員の退避、救難信号の発信、退路の確保、もろもろ。


 だが、安定状態にあった基底意識というものは思いのほか、あれば精神や思考にバランスをもたらすものだったらしい。それを突然欠くということは善悪の判断も付かないまでの混沌まで突き飛ばされるようなものだったのか……おれは施術を受けていないからわからないが。ラボの中は創世記さながらの様相だった。人が人らしい生活を築き上げるまでの過程が蒸発して、近代文明だけが残るとこうなりますよ、という例をおれたち生存者たちはまざまざと見せつけられた。


 ……困ったことといえば、救難信号と一緒に不可解な信号が飛んでいったことだ。切迫状況のため確認不十分になってしまった上に、外との通信が取れなくなった現状、何がどうなったかなどわからない。ただ言えることは、おれの立ち入ることができなかった領域で、長い時間をかけて仕組まれていた状況だということ。いつ仕込まれたのか・誰の仕業だったのか知れないが、床に硝子細工を叩きつけたように、緊急時マニュアルによる安全神話は崩壊した。


 いくつかのデータは別ルートに格納しておいた。おれの研究室には個人回線を引いていた。わざわざここへ帰って来たのはそのためだ。こればかりは賭けだったが通信は生き残っていた。電気系統が死んでいたらどうにもならなかっただろう。

 誰かにバトンを渡すのならば、彼女しかいない。バックアップデータの格納先とパスワードを記したメールを、別々で送っておく。怒りは露わにしないだろうが迷惑そうに顔をしかめるヘムロックの顔を思い浮かべながら、続いて端末を初期化させる。クリーンインストールを開始しますか? はい。コマンドをいくつか入力し、HDDをディスク領域ごと初期化。リカバリメディアは作っていない。続いてAKを端末に向けて掃射。跳弾しようがお構いなしだ。マザーボードまで物理破壊したのを確認し、再び机に置く。


 長い息を吐いた。


 終わった。


 ヨハン。これでいいか。


 呟いたが、当然返事はなかった。ふと笑いが漏れ出し、何がおかしいのか分からないが、一度笑い始めると止まらなかった。ひどく乾いた笑い声がおれの喉からひっきりなしにあふれてくる。


 ガス室と化した保全室。ヨハン。血の気のない顔。穏やかに、眠るように死んでいた。この10年だって、きっと、何も変わりなかっただろう。それでも、穏やかになったか? 生きている時よりも?

 箱庭で頭を撃ち抜いた少年。破壊したサーバに身体を預けたまま。目を閉じた少年も。


 ヨハン。

 おまえの、苦しみは終わったのか。

 なあ、結局、どうにもならなかったのか。

 死ぬしかなかったのか。おまえは。


 だったら。おれも連れて行ってくれたら、よかったのに。


 頭に浮かんだ考えを、首を振って消した。何もできなかったおれとしては、十分な罰だ。……おれは、道化としては、いい役目を果たしたのではないだろうか。友人も犠牲にして自滅した、馬鹿な男として。


 ひとしきり笑った。息が苦しかった。喉がひりつく。

 笑い過ぎて目じりから、一筋、涙が零れた。

「……馬鹿じゃねえの、おれ」

 2本目の煙草に火を灯した。クローヴの甘い芳香。ぱちぱちと、灯にかざす掌の内側で小さく火花が散る。こんな風に、燃え尽きて死ぬのだ。ぱっと輝いて。燃えて。死ぬ。


 ずっと、そう思ってきた。こうやって、終わる時は一瞬で、呆気のないものなんだろうな、と。



 不意に、区画の銃声が激しくなり、しん、となった。そのあと、幾つか声が聞こえてくる。が、それはおれの期待したものではないらしい。


 油圧プレスの気の抜ける音と、騒々しい足音。鋼の装備がぶつかる音。数人が部屋に入って来た。真後ろで、止まる。

 やっと救助が到着したんだろう、と肩の力を抜きかけたところで、

唐科カラシナ技官。ご同行願います」

 銃身が近寄る気配がした。

 背後で起きる撃鉄の音に、緊張が走る。

「手をあげてください」

 振り返らず、ホールドアップ。

「あなたには複数の重大な嫌疑がかけられています」

 硬い声だった。とても、救助に来たものとは思えない。

 それに、いま何と言った。

「嫌疑……? 私に?」

「機密データリーク、および、虐殺罪、加えて実環境試験での犯罪幇助、共謀罪」

「はあ!?」

 緊張感の欠片もない声がでたところで、殴られた。火花が飛ぶ。無論、ガラムの火花ではない。

「実環境シミュレータ……箱庭試験場から、あなたのシリアルの入ったライターが発見された。救難信号の認証は貴官のものだった。それに付随した研究データ、映像、および管理記録の最終確定者は、唐科技官、あなたのものだ」

「試験場から、私のライターが? ……私の立ち入りは許可されていない。確かに今は紛失しているが、そんなものは証拠にならない」

「あなたが立ち入った記録もある。発信に伴うデータリークの件もあなた名義の記録が確認されている」

「私が関与した記録はない。断言する。私に権限は持たされていない。救難信号に研究データを添付するような余裕などなかった。管理記録の確定者が私でも、ログを辿れば明らかだろう。確認を要求する」

「証拠の隠滅を図ろうとする行為を見過ごすわけにはいかない」

「隠滅……? でたらめを、うっ」


 再び火花が飛ぶ。頭を机に押さえつけられ、両腕が強引に後方に引かれた。

 ここで、丁寧な対応はおれから消え失せた。何が起ころうとしているのか。いや、何かが起こった後なのだと察しがついて、おれは低く呟く。


「……クソッタレ。全部擦り付ける気か」

「拘束しろ」

 取り付く島もない。手首を結束バンドのようなもので縛られる。手際がいい。即席の部隊じゃない。

「誰の指示でこんなことを。瀕死の研究者ひとり取り押さえてる暇あんのなら……生き残ってる奴らを」


「あなたで最後ですから」


 一瞬で、肝が冷えた。


「……避難した連中はどうした。最初に、脱出用ポッドへ向かったやつらは。無事なんだろうな」

「つれていけ」

 襟元を引っ張り上げられて立たされる。膝から下に力がまるで入らない。……血が、少ないからだ。きっとそうだ。

「第1区画に向かったやつらは? 何人生き残ってる?」

 ボディチェックをされた。煙草と誰のともしれないライターくらいしか、もう持っていないのだが。

 2度目の問いに、一団の内の1人が、

「その……」

 と、口ごもるが、リーダーらしき男が諌めるのが早かった。

「シックル・ツー、発言は許可していない」

「しかし」

「ディックス少尉。黙っていろ」

 答えかけた人物は、それきり閉口してしまった。


 続けて拘束装置が幾つか取り付けられ、軽い電気ショックが首筋から下肢へと走った。歩行系統を制御する装置の類か。のろのろと、おれの足は歩行を始める。ゾンビのようだった。

 構わずおれはしつこく訊いた。

「生存者はどうした」

「何度も言わせないでください。ギリコ・E・唐科。『あなたで最後です』」


 先程のリーダーらしき男が答える。ヘルメットにごついゴーグルにガスマスク。声がかなりくぐもって聞こえる。火災による有毒ガスの発生を予測してのものではなく……例えば、意図的にガスを使用することを目的としたような、重装備。


「言い方を変えるが……避難したやつらは外で、保護されているんだろうな」

「こちらも言い方を変えましょうか、技官。、最後ですよ。脱出用ポッドやシェルターに向かったものは不運でしたね。中で、全員の死亡が確認されました。第1区画の大部分が気温低下と食糧不足に陥り、早晩。不運でしたね。こんなことに関わらなければ、命まではとられなかったでしょうに」

「……殺したのか」

「滅多なことを仰らないでください、技官。あなたと、スミス技官の奸計に巻き込まれた不運な方々を、我々が手に掛けたかのように聞こえます」

 言葉には一切の嘲笑もないのが、かえってショックだった。さも当然の事実のように吐き出された言葉を理解するのに、少々時間を要した。

「満足しましたか」

「……解放してくれ。生存者が、いるんだ。おまえたちが何て言おうと……いるはずなんだ。それに、データリークがあったのなら事態を納めなくてはいけない」

「事態を? 納める?」

 リーダーらしき男がおどけて聞き返した。背後で誰か1人が噴き出し、続いて散発的な笑いが起こった。

 はは。ははは。は。ははは。

「何を、どう、納めるというのですか。唐科技官」

 非常に、不愉快だった。


 連中の口ぶりからして分かっていないわけがないのだ。こいつらが誰の指示で動いていようと自らの働きには自覚的だ。誰の差し金かは連れていかれた先で分かるのだろうが、癪に障る。


 おれは口を堅く結び、とりあえずは大人しく連行されておくことにした。逃げ出すには、血が足りない。おまけに丸腰ではさすがにどうすることもできない。逮捕されたにしても、軍部の病院に運び込まれて長い長い聴取が待っているだろう。そこで明らかにすれば、それでいい。


 弁明や釈明の猶予があるならば、だが。


 制御室から、貨物輸送用のエレベーターの方向へと向かってるようだった。あちこちで争ったあとがあり、機関員や箱庭から抜け出してきた青年たちが折り重なるようにして死んでいた。日数が経ったものは腐敗が始まっていた。錆びた空気が蔓延している。開いたエレベーターの中も、同様の光景だった。おれたちを乗せるとエレベーターの箱は静かに上昇を始めた。エレベーターはまだ死んでいなかったらしい。ならばなおのこと、先に避難した連中が外で死んだのには納得がいかなかった。



 最上階に着くなり、外の輸送口へと押し出される。どっと、冷たい空気に包まれた。崩れた髪と風雪が、荒く頬を打つ。

 顔を上げると、雪に覆われた山脈が目に入った。強風に攫われた箇所だけ黒い山肌が覗いており、駐車スペースの向こうでぷっつりと雪が途切れ、先には尾根の連なりが見えた。かなりの切り立った崖になっているようだ。駐車スペースには軍用車両が数台見えた。なるほど、搬入路の近くらしい。ここまでなら車で上がってくることができる。……医療系の装備を備えていそうな搬送車は、なし。救助者を乗せられることができそうな車両も、なし。……初めから、救助に来た訳ではない、ということか。遺体を運び出す気もないのだろうな、と思う。ここにいるだけの人数とたっぷりの火薬を乗せてくることはできただろうが。


 おれが連れて行かれたのは駐車スペースの奥、崖の近くだった。そちらにも、武装した10人ほどの一団が控えており、それぞれ物々しい武器を提げている。


 おれは、何となく自分の命運を悟りつつあった。おれが生きて山を下りることはないという予感である。

 ここが、おれの最後の場所になるのだろう。

 そんな予感だ。


「ノース大尉。ギリコ・E・唐科を連行致しました」

「ご苦労」


 大尉と呼ばれた男が鷹揚に片手を上げた。30半ばの男だ。精悍でいかめしい顔つきはいかにも軍属、といった風で、手元のデバイスで、おれの顔だかプロファイルを確認していた。部下らしき連中がおれの虹彩や指紋、鎖骨下と手首に埋め込んだIDチップをそれぞれ検めにかかる。ここまで引っ張って来ておいておれがギリコ・E・唐科でなければどうするつもりだろうと思うと場違いに滑稽だったが、そういったことは屋内で済ませて欲しかった。一団は防寒装備を着込んでいるのだろうが、おれは普段着に白衣を羽織っただけの恰好の上、防火装置のスプリンクラーから浴びたシャワーは生乾きだ。風雪に晒されるだけで寒さが刺さる。


「……早めに済ましちゃもらえませんかね、大尉殿」

 おれは憎まれ口を叩いたが、大尉は無視を決め込むようだった。

「逃げもしませんよ。……血が少ないんです。ああ、意識が飛びそうだ。……聞きたいことがあるなら、先に然るべき治療を受けさせてもらっても?」


 賭けだった。情報の行き違いであれば、まだおれは何とかなるのかもしれない、と。

 大尉が顔を上げた。極めて、感情の少なそうな顔つきをしている。


「治療の必要はない。唐科技官。察しがついているだろう。これから君が、どうなるかぐらい」

「……さあ。生憎と勘のいい方ではございませんので。陸軍病院か警察病院にでも運び込まれるものかと、思ってましたよ。避難者と、一緒にね」

「『寝袋』に入る準備なら整っているんだがね、ギリコ・E・唐科」

「その寝袋はよしてもらえませんか。……いい夢は見られそうにない」

 やはり、死ぬことが前提か。

「……ならばせめて、外の情報を、教えてください。私が、何をしたことになったのかも併せて」

 回答は期待していなかったが、大尉はすんなりと口を開いた。

 しかしそれは、おれの思っていたものとは、異なっていたが。


「災禍は起こったよ、君と、君のご友人の願った通り」

「災禍が……」

「わざとらしく驚いた様子をしなくてもいい」


 大尉は鼻を鳴らした。おれが首謀者というスタンスを崩すつもりはないらしい。


「具体的な話をお聞かせいただきたい」

「知ってどうする? 自らの打ち立てた成果の確認か」

「被害状況を知らなければ、立て直しも図れませんのでね」

「……自らが生き残るメリットを提示したところで、見え透いたマッチポンプは通用しない」

「私は。……私と、スミス技官は、本件の首謀者ではありません。災禍を、止めなければ。膨大な死人が出る。……あなたもご覧になったでしょう。この機関の様相を。世界中のレシピエントを起点に、この足元と同じことが起こる」


 おれは真剣そのものに訴えかけた。しかし、大尉は平静そのものの態度で返答した。


「世界中で、同じことはすでに起こっている。億単位の死者が出た。ここに情報が入らなくなり、5日だろうか? 箱庭試験場のデータ、逸失した基底意識は、情動を発火させた。世界中のレシピエントと、棄民と、それ以外の一般人で、殺戮が始まった。レシピエントの大統領が会談中に某国の首相の首を絞めた。富豪のレシピエントが飢えた棄民を足蹴にした。何の罪もない地域に向かって空爆が始まった。ありえないような暴力が、顕在化した。安定や生存を、放棄するように」


「……事態が、大きすぎる。いや。拡大し過ぎている。……外の状況ならばもっと早い段階で、止める手段があったはずです。それを、」


 いや?

 おれは途中で口を噤んだ。


 そこではない。止める手立てはあったには、あったはずだ。そうならなかったのは、なぜだ?

 それに、外の情報が入ってこなくなった時期を考えれば5日と言えるが、救難信号が出せたのは3日前。現に、おれは先ほど個人回線を使ってデータを送信している。通信が完全に取れなくなった、とは言い切れないものの、情報入手が途切れた時期をなぜ大尉が把握している。延髄サーバが落ちてから救難信号までの猶予が長すぎたのはなぜだ。

 おれだけなぜ、ここへ連れてこられた。これから死ぬにせよ、施設内で処分したあとで運んできても、何も変わらないだろうに。


 てっきりおれは、機関内部の何物かによってこの状況があるものだと思い込んでいた。その何者かの目論みにより、上層部が『おれとヨハンが主犯である』という誤認をしているものだと。

 だがそれは、あまりに甘すぎる期待だった。


「まさか、最初から上層部が」


 頭を掴まれ、ぐいと、引き寄せられる。

 部下にも聞こえないように、小声で、大尉は言った。

「私たちの『庭』は、上手く、毒麦を育ててくれたから」

 はっきりと、そう口にした。


 問い質すより先に、横面を殴られ、おれは地に伏した。雪に、血が滴った。冷えと鈍い痛みが、自由の利かない身体に浸透する。

 そこに、大尉の声が降って来る。


「『ヨハン・スミスは毒麦だった』。彼が火種となり、災禍は起こった。『ヨハン・ピエール・スミスと、ギリコ・エスペラス・唐科の、筋書き通りに』」



「そうだろう、唐科技官? 次の時代に向けて、人類は滅ぶんだ」


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