第10話 差異

 初回受診時に処方された薬は、基本的に朝食後に飲むことになっていた。おれは毎朝「ちゃんと薬を飲めよ」と声を掛けてテーブルに薬を置いてから仕事へ出て、帰って来てからも「ちゃんと薬は飲んだか」と確認するよう、それなりに注意して生活してきたつもりだ。ここで母が良い返事をすることはわかっていたが、テーブルに置いてあった薬は確かになくなっていたし、処方された分は計画通りの消費をみせていた。


 薬に関してはこのやり方で大丈夫だろうと思っていた所だった。 

 ところが二回目の受診時、オウウィルスの再検査でなぜか母はまた陽性だった。


「ちゃんと薬飲んでましたかー?」と言う医師の棒読みのセリフにゾッとして、帰ってきてから家の中を探してみると、母の部屋の引き出しの中から二週間分の薬がごっそりと出てきた。


「飲んでなかったのかよ!」


「そんなわけないでしょ! 私を馬鹿にするのもいい加減にしなさい!」


「じゃあこれはなんなんだよ!」


「先生が多めに出してて余ったのよ!」


 それこそ“そんなわけはない”だが、母は自分が口にしていることがどれほど理にかなっていないかわかっていない様子で――それを丁寧に指摘してやってもいいのだが、そうすると母は母でまた斜め上な理論でおれを言い負かそうとしてくるだろう。それではいずれにせよおれの心の健康にとって悪影響でしかないので、おれはこれ以上の口論はしないことにした。または、母の心をポッキリ折ってこちらが満足したところで母の物忘れが奇跡的な回復をみせるわけでもないのだ。


 おれは諦めにも似たため息を吐くに留めた。



 この状況を、おれは電話で医師に相談してみた。

 すると服用の時間を夕食後に変更しても問題ない事を教えてくれたので、早速今日からそうすることに決めた。薬はおれがすべて預かり、仕事後に帰ってきてから確実に飲ませることでこの問題はおおよそ落ち着きをみせた。


 そして母のウィルス検査でようやく陰性が出た頃には、季節は雪が積もる冬になっていた。



「ただいま」


 陽が短い冬にもなると、いよいよおれが帰ると室内は真っ暗な状態だった。無人なのではないかとさえ思える空間の電気をつけてリビングに進むと、エアコンの稼働音と温かさ、また、ほんのりとしたテレビが光を瞬かせていることに気付く。


「母さん。ただいま」


 リビングの扉を開ける。

 汗が酸化した渋い刺激臭が鼻をつく。


「あ、おはよう。今日は早起きね」と母は暗闇の中で光る眼をおれに向ける。


「なに言ってんだよ。……夜だろ。今」


 母の症状は、薬でごたごたしている間に明らかに進行してしまっていた。この状態で昼間はどうやって過ごしているのだろうと心配になる。母の料理はもう味が絶望的なので、おれは毎日スーパーで惣菜を買って帰るようになった。部屋の臭いはしばらく風呂に入っていない母のものだ。


「夕食の支度しとくから、風呂入れよ」


「えー? いいわよ。私が準備しておくからゆうちゃんお先にどうぞ」


「そう言って昨日も入ってないだろ」


 ましてや夕食の支度などできるはずもない。


「今日はいいわよ」と繰り返す母。


 母は、風呂に入らなくなっていた。それがどうしてかはわからない。嫌いという風でもなく、しかし入浴という工程をこのようにさらりとさりげなく流そうとしてくるのだ。まぁ変な話、風呂に入らなくても死ぬことはない。病気の進行に直結することも考えにくい。


 こうして毎晩、おれは母の頑固さに負けるのだった。



 買ってきた惣菜をテーブルに広げ、テレビを見ながらテレビは今日もゾンビを特集していた。

 都会で暮らす家族の母親がオウウィルスに感染し、そのまま受診もできずたった一ヶ月でゾンビと化し、家族が噛みつかれたのだという。


 ニュースを報じていたアナウンサーは深刻な口調で「少しでも症状を自覚したらすぐに病院に行ってください。ご家族の方は早めに病院へ連れて行ってください」と伝える。


それにコメンテーターも同調し、カメラのこちら側へ疑問と不満を投げかけるようにしていった。


「いや、ほんとその通りですね。ゾンビは噛みついて増える。臭いも酷いものです。でもですよ。なんなんでしょうかね。誰もがゾンビになりたくないのなら、早く病院に行けばいいんですよ。それなのにです。どうしてこんなに受診が遅れるのでしょうか? これだけ早期受診が必要と言われている中で、どうして人々は病院に行かないんでしょうか。いやぁね。僕からするとホント、全くもって意味がわかりません」


 意味がわからないだと?

 コメンテーターの言葉を聞いて、おれは無性に腹が立った。テレビに映っている偉そうな肩書テロップが表示されたスーツ姿の初老の男性を睨みつける。


 そもそも、慢性ゾンビ症の進行は人それぞれだ。テレビでは一ヶ月でゾンビになったと報じているが、母はおれがおかしいと感じてから半年近くも病院に行けずにいたが、まだおれを噛もうとなどしていない。


 それに、ゾンビかもしれない、ゾンビだったらどうしようという心の葛藤は彼らが考えるほど単純なものでは決してないのだ。おれたちが持っているのは人の心だ。


 意味がわからないのなら、その無知を誇るよりもしっかり勉強をして出直してきた方がその威厳は保たれるというのに。


「ピンポーン」


 不意にチャイムが鳴る。こんな夜遅くに誰だろうか。

 母は全く気付かずテレビを見ている。チャイムが聞こえていないのだ。


「ピンポーン」と、もたもたしていると二回目のチャイムが鳴った。はいはいと思いつつ玄関に向かい、扉を開ける。


 見た事のないおばさんが、そこに立っていた。

 髪の毛は黒く、歳の割にはしなやかなのだろう。五十代……いや、若すぎる六十代後半といった風だ。化粧は薄く、笑みが優しそうだ。


「こんばんわ。民生委員の鈴城すずしろです」


「民生委員……?」


 はじめて聞く言葉を、おれは聞き返した。

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