第37話 Witch's tears

 低軌道ステーションで発生した事件から、半月ほど経ったある日。

 揃いのアロハシャツを着た親娘――トッドとステフはセカンドバベル周辺区画外縁の堤防で、柔らかい海風に吹かれながら釣り糸を垂らしていた。

 平日の午前と言うこともあり、周囲に人影は見えない。遠く水平線では警備軍の哨戒艦が、いつもと変わらぬ警備についているのがかすかに見える。


 二人が釣りを初めてから二時間半。

 それなりの釣果はあるが、平時でも大量のカロリーを必要とする二人にとっては、やっと一日分の食料になるかどうかと言う数だ。

 特にトッドは先日やっと退院したばかりで、全身の耐衝撃性脂肪層はまだその厚みが戻りきっていない。重サイボーグと言えども、肉体組織の維持や回復には豊富な栄養が必須であった。

 高カロリー流動食ばかりでは気が滅入ってしまう。


 寧から振り込まれた報酬は、一連の事件で失ったものを補充して余りある額だった。

 だが入院ついでにアップグレードされたトッドの臓器や新調した装備、そして“眼鏡屋オプティシャン”に支払った情報料で大半が消えた。

 まだ余裕はあるが、安定しているとは言いがたいのがトラブルシューターと言う仕事だ。

 本格的な荒事を含んだ業務の再開まで、日々の支出はなんとか抑えておきたい。

 かくしてT&Sトラブルシューティングは、本日の業務として食料の確保を行う事となったのだ。


 だが機械化した目を凝らして海を見つめるトッドと対照的に、ステフはしばらく前から竿を放り出して端末の投影式モニタを見つめている。

 そこに映るのは兵器ブローカーの広告ばかりで、年頃の少女らしさは欠片も無い。


「ダディ、かかるよ」


 モニタから目を離すことなくステフが告げた。人造人間の知覚力は、目を離していても常人を大きく上回る。

 言葉通りに、トッドが持った竿の先が大きく曲がった。

 トッドは手にした釣り竿を立て、古めかしいリールを巻き取る。竿は大きくしなり、ぴんと張った糸は右へ左へと海面を駆ける。


「っと、こりゃ良いのが掛かったぞ。ステフっ、網持ってこ……あ」


 横にいるステフに目をやった瞬間に糸は切れ、しなっていた釣り竿は上下に揺れながら元に戻っていく。

 ため息と同時に大きく肩を落としたトッドは、傍らに置いてあったボトルをあおった。


「くっそー……糸が痛んでたかな」


 手首を返して竿を上げ、切れた糸を見つめながらぼやいた。

 単結晶繊維を使った釣り糸と言えども劣化はする。思い返してみればステフが娘になった後、食費の足しにと釣り道具を揃えてから糸を変えた記憶がなかった。


「あっ、“眼鏡屋オプティシャン”からまた情報来たよ。そっちに転送するね」

「何で俺へ直に送らねぇんだ……俺が捕まってる時に何かあったのか?」

「あるわけないじゃん。ダディが今回の事件を気にしてたから、サービスしてくれてるんでしょ」


 トッドは釣りの仕掛けを結びなおしながら、端末のモニタを投影して送られてきたばかりの情報に目を通した。

 事件後、“眼鏡屋オプティシャン”からは一日に一度のペースで今回の顛末に関する追加情報が送られてきている。情報料には厳格な“眼鏡屋オプティシャン”にしては極めて珍しい事に、アフターサービスのつもりらしい。




 セカンドバベル完成後初めての、宇宙空間におけるテロは今も連日続報が出ているが、その詳細はぼやけたままだ。

 表向きの発表ではリフトに仕込まれた神経ガスによるテロとされているが、まさか七大超巨大企業セブンヘッズの工作員が独断で引き起こした事とは、到底世間に知らせられるものではなかった。

 そもそも、終端装置T・デバイスに限らず、非合法工作員はこのように表沙汰になった時は切り捨てられる立場にある。

 唯一の死亡者である善市郎の名前は出ているものの、中小企業――実体の無いペーパーカンパニーだ――の社員としか情報は出ていない。


 巻き込まれた一般市民の被害者は百名を超えるが、全員低軌道ステーションの病院や、リフトで下ろされセカンドバベル周辺区画の病院へと搬送された。

 彼等は今も治療中ではあるが、今も大半が昏睡状態のままだと聞く。

 “眼鏡屋オプティシャン”の情報によれば、マクファーソンカンパニーがVKK財団等、他の七大超巨大企業セブンヘッズにも呼びかけて、希少な精神感応能力者を呼び寄せての治療を開始したらしい。

 七大超巨大企業セブンヘッズと言えども、表面上は無関係を装ってはいるが何らかの圧力――恐らく国連からの――は受けているようだった。




 トッドやステフが無事だったのは、意志の強さもあるが運によるところが大きい。

 致命的なレベルで自我を食われる前に、お互いのサポートが間に合っただけだ。一歩間違えれば二人とも意識が戻っていなかっただろう。

 とは言え、しばらくは悪夢やフラッシュバックに親娘揃って悩まされた。

 トッドはまだ軽い方であったが、ステフは以前よりもトッドの近くで寝たがるようになった。

 そうした症状が落ち着いてきた頃合いを見計らって、気晴らしも兼ねて親娘の時間を取ろうと思ったのも、釣りに出かけた理由の一つだ。




 そこへ海風にスカートをなびかせながら、一人の少女が近づいてくる。

 足音も気配も消さずに現れたのは寧であった。


「ごきげんよう。こんな所にいらっしゃるとは」


 つば広の帽子を被り、ふわりとスカートの広がったワンピースに身を包んだ寧は、小さく笑顔を浮かべながら首を傾げた。二人が釣りに興じているとは思ってなかったのだろう。


「偶には自然と触れあう事も必要さ――通話じゃなくてこんな所まで足を運んだって事は、何か重要な用事かい?」

「一度、セカンドバベルを離れて本社に戻る事となりまして。その前にお二人にお会いしようと思ってたのですわ」


 ほんの少し憂いを混ぜながら、寧は片側だけ口角を上げた。

 善市郎を追う際に使用した、トミツ技研の所有する警備軍への命令コード。この使用に関しての査問委員会が、日本本社で開かれる事になっている。

 寧に拒否権はなく、セカンドバベルとサードバベルに関する重要な情報を手に入れていても、どんなペナルティが待っているかは分からない。

 それは二人には知らせていないが、表情から何かを察したトッドは、寂しげに目を伏せる。


「そうか……また戻ってくるんだろう?」

「勿論、そのつもりですわ。トミツ技研の魔女はこの地で、我が社のために動くのが最善であると思われますし」

「変わんないわね、そゆとこ」


 からかうようにステフが笑うと、寧もそれに応えて憂いを見せずに小さく笑う。

 その笑みを大きなつばで隠すように、少しだけ俯いて続ける。


「そして今日は我が社の為に……お二人を迎えに参りました。私に同行し、一度本社へといらっしゃってください。再びここへ戻ってこられる事は、トミツ技研の魔女の名において保証致します。拒否はお奨め致しかねますわ」


 寧の顔はつば広の帽子に隠れて見えない。

 しかしその気配は、初めて会った時と同じく剣呑なものに変わっている。

 

「あんたまだそんな事――」


 気色ばみ、寧を睨み付けるステフをトッドは手で制した。

 眉間に少し皺を寄せ、困ったように、謝るようにトッドはゆっくりと口を開いた。


「寧。お前さんはさ、俺達を守ろうとしてくれてるんだな。済まんね、立場ってものがあるだろうに、気を遣わせちまって」


 穏やかな言葉には、自分達を引き込もうとする寧への気遣いすらあった。

 無言でそれを受け止めた寧に、トッドは更に続ける。


七大超巨大企業セブンヘッズの手は長い・・。トミツもその例に漏れる事はない。本社に行けば、俺達の事を隠せるか自信が無い。だから、隠さないで連れて行く。こうすれば俺達をトミツ技研の手から、ひいては他の七大超巨大企業セブンヘッズの手から守れる……そう考えたんじゃないか?」


 事実、マクファーソンカンパニーだけでなく、オメガインテンションの手の者と思われる非合法工作員の活動は、僅かにではあるが二人の周囲で活発になっていた。

 直接手を出してくれば迎え撃つが、そこまでではないのでトッドもステフも今のところは警戒するにとどめている。

 それにトミツ技研まで加わるとなれば、他の七大超巨大企業セブンヘッズの目も遠からず向いてしまうだろう。


「一緒に戦ったあなた達に安全な場所を提供し、そこで一緒に過ごしたいと思うのは……いけないことですか? 私に出来る、あなた達を守る術は、これくらいしかないのです」

「いけなかないさ。嬉しく思うよ。だが、な。それを受け入れるのは……悪いが、無理だ」


 やんわりと、ただしきっぱりと寧の提案を拒否したトッドは、横にいるステフを見やった。

 寧の抱えている気持ちを知って少しは落ち着いたものの、まだ警戒を解いてはいない。


 ステフは、蛍門工業公司インメェンゴンイェコンスだけでなく、七大超巨大企業セブンヘッズの全てを信じていない。

 例え寧が手を尽くしたところで、トミツ技研がステフを実験材料として扱わない保証はないと思っている。

 そしてトッドも、七大超巨大企業セブンヘッズを信じ切れるほど世間知らずでは無かった。自分だけなら身の振り方としては悪く無い選択肢に入るが、ステフの幸せを考えると受け入れられるものではない。


「トミツ技研の意向ではなく……私は、私の意志で、あなた達が欲しいのです。近くにいたいのです……それは、いけないことなのですか?」

「いけなかないよ」


 俯いたまま肩をふるわせて搾り出した声に、小さく、はっきりとステフは応える。

 まだ警戒こそしているが、寧を見つめる表情は穏やかだった。


「いけなかないけど――ごめんね。寧の、友達の頼みでも、これだけは聞けないよ」

「友達……私を、そう呼んでくれるのですか」

「うん、あたしはそう思ってるから」


 寧は俯いたまま目を擦り、鼻をすする。

 いつの間にか、自分が泣いていた事に気がついた。

 悲しい事と嬉しい事。

 二つ同時に来て、感情の処理が出来なくなっているのは分かる。

 分かっていても涙は止められなかった。

 そして、自分の気持ちに決着をつける為に、顔を伏せたまま一つの提案を口にする。


「ステファニー。一つ、賭けをしましょう。シンプルに、私があなたに勝てば私の願いを聞いてください。私が負ければ……諦めます」


 ステフは隣にいるトッドを仰ぎ見て、無言で是非を問うた。自分だけでなく、父の今後も左右する話を、自分の気持ちだけで受ける訳にはいかない。

 肩を震わせている寧を見て、それからステフを見やり、少し考えてからトッドは口を開いた。


「お前が良ければ、やれ」


 娘が、初めて友達と呼んだ相手と戦う。

 向こうもこちらも、そうでもしなければ収まりが付かないとは言え、父としては苦い思いがある。

 と言っても寧を説得出来る手がある訳でもない。

 やりたいようにやらせて、どうしようもない時は父親として自分が責任を負う・・・・・つもりだ。


「ダディも許してくれたから、その賭け乗ったっ」


 音も無く立ち上がったステフは、両手をだらりと垂らしたままトッドから離れる。

 そのままステフは何もせずに寧の横を通り過ぎた。ここで仕掛けてはトッドを巻き込んでしまう。その思いは寧も同じだった。

 寧は顔を伏せたまま小さくトッドに頭を下げ、先を行くステフの背を追いかけた。




 トッドから二百メートル近く離れたところで、ステフは足を止めて振りかえる。

 幸運にも――トミツ技研が人払いをしているのか――周囲に人目は無い。

 寧は顔を上げると、まだ少し潤んだ瞳でステフを見つめる。しかし潤んではいても、視線に込められた決意に揺らぎはない。


「あなたを、倒します」

「出来るもんなら、やってみなよ」


 先手を取ったのはステフだ。

 言うが早いか、腰の後ろに隠したホルスターからガウスガンを抜き撃つ。

 しかし3.3mm弾の弾幕は、寧が展開した念動の盾に全て弾かれ激しい火花を散らした。


 初めてやりあった時と、反応も盾の展開速度も変わらない。超能力が回復しきっていないのではと期待したが、寧もそこまで無謀ではないようだ。

 対する寧はスカートの中から、先端が広がった細い円錐形の金属筒を抜き放つ。


「珍しいもの用意したのね」


 指向性殺傷用音響兵器スクリーマーの亜種、ノイジー・バトンとも言われる近接用武器だ。

 音の刃で対象を破壊するのは指向性殺傷用音響兵器スクリーマーと同様だが、効果を至近距離に絞ることで剣のように扱える。

 刃が見えず間合いが計りにくい利点はあるが、バッテリーの消耗も激しい等の欠点も多く使いづらい武器だ。

 ステフも話としては知っているが、実物を目にしたのは初めてだった。


「使わずに済めば良かったのですが、そうもいかなくなりました。私達人造人間であっても、これで切られればただでは済みませんわ」


 寧の近接戦闘における技量はステフより下だ。だからこそ、足指で単分子ナイフを白刃取りするような芸当も出来た。しかし実体の無い刃では、単純に避ける以外の対処が出来ない。

 単分子ナイフで受け止めようものなら、一方的に壊されてしまうだろう。

 武器の利点を生かし、長さを悟られぬように寧はステフに肉薄し、ノイジー・バトンを素早く振るった。


 カタログスペックでは最大二メートル、最小で五センチの音の刃を発生出来るが、トミツ技研による改造がされていないとも限らない。

 それに単分子ワイヤーの脅威も未だ捨てきれない。雨さえ降れば単分子ワイヤーの嵐は無力になるが、予報は一日を通して快晴だ。

 自然と回避動作は大きくなり、ステフの攻める手は数を減らす。左手で単分子ナイフを抜いて、あからさまな隙を突いてみるものの、やはり的確な防御と反撃が返ってくる。

 体の動かし方はステフから比べれば雑だが、超能力と武器の差がそれを埋めている。


「降参はいつでも受け付けますわよ」

ふざけんなっ!damn'it


 口汚く答えながらも、内心では少なからず焦っていた。

 寧の超能力はかなり回復している。目線の動きからすると、知覚拡大の回復は遅れているようだが、直接的に危険な念動は以前と変わらないレベルだ。

 それに反応の早さや身のこなしから、おそらくは予知も戦闘の補助を担えるレベルだろう。

 その証拠とばかりに二段構えのフェイントを容易にしのぎ、本命の一撃を見舞おうとしたナイフを予め構えた音の刃で両断する。


 舌打ちしながらナイフを捨て、達人の記憶マスターズ・メモリーのために体の力を抜こうとした時、その一瞬の脱力をも読んでいたのか寧が動いた。

 ふわりと広がったスカートから、転がり出てきた拳大の塊――手榴弾だ。それを足首の返しだけでステフの正面へと蹴り飛ばす。

 舌打ちしながら両腕で顔を庇い、ステフは念動の盾を蹴って距離を取ろうとする。

 だが起爆延期時間を短縮された衝撃手榴弾は、ステフの足が盾に触れる前に爆発した。

 寧は念動の盾で衝撃を防いだが、至近距離で爆風を受けたステフはその体を宙へと舞わせた。


 あたしが使った手をっ――特製の手榴弾で距離を取る手段は、初めてやりあった時にステフが使った手だ。技量差を埋める武器はまだしも、自分がやられた手をそのまま返してくるとは思っていなかった。

 それも今回は手榴弾の爆薬は減らされていない。

 常人なら即死だろうが、特殊な合金と一体化したステフの細胞は、眼球や臓器の全てにサイボーグ以上の耐久性を持たせる。それは寧も分かっているはずだ。

 牽制・・の爆風に煽られたステフの体は、消波ブロックを飛び越えて海面へと落下していき、寧は念動で宙を駆け追いかける。


 ノイジー・バトンを構えた寧が追いつくより僅かに早く、ステフの足が海面へと触れた。

 そのつま先が沈み込むより早く、ステフはもう片方の足で海面を強く蹴る。そのまま水柱を立てながら、堤防に沿って海面を疾走した。

 ステフの身体能力は重量物を持っていなければ、水上の歩行すら可能にする。滅多にやらない行動だが、それすら読んでいたのか盾を前面に押し出した寧は、迷い無く水柱を突っ切って追いすがる。


 堤防に沿って組まれた消波ブロックを跳び越えるのは、寧が相手では危険が大きい。しかし立ち止まれず足場も不安定な海面を、いつまでも走ってはいられない。

 時速百キロを大きく超えて海面を疾走するステフは、僅かでも隙をつくるべく、迫り来る寧にガウスガンを乱射した。

 APDS装弾筒付徹甲弾は火花を散らして念動の盾に弾かれ、残弾を撃ちきったステフは手首を返して弾倉を捨てる。

 予備弾倉を装填しようと左手を腰へ回した瞬間、寧の携えたノイジー・バトンがその特徴的な音を大きくした。


 振動子に過負荷をかけて発生した音の刃は、半秒の間だけ二十メートル近い長さとなった。

 寧はその一瞬を逃さず、ノイジー・バトンで海面を薙ぎ払う。

 悪寒じみた危険を感じたステフは、海面を強く蹴って見えない刃から身をかわそうとするが、僅かに遅く水柱と共にステフの両足が切り裂かれた。


 アキレス腱はやられてない、けど走り続けるのはきつい――瞬時に自分のダメージを把握する。

 しかしほんの少しであっても、速度の落ちたステフを見逃す寧ではない。

 念動の盾に体を隠しての突進。

 ステフの武器では念動の盾を破れない以上、これを止める術は無い。

 もし海面でバランスが崩れれば、空を飛べる寧に致命的な隙を見せてしまう。身をかわしても、足が傷ついた今は続けての追撃を避けられるか怪しい。


 ステフは意を決すると、身を引くでも避けるでもなく、盾を構えた寧へと突っ込んだ。

 衝突の寸前に海面を蹴って両足を上げると、念動の盾に着地・・する。

 予知もなかった事なのか、盾の向こう側で寧が目を見開き、ノイジー・バトンを持つ手が一瞬止まる。


 ステフは足の裏に伝わる感触と、これまで見てきた光景をつなぎ合わせ、盾の形状や大きさを推測する。

 直径はおよそ二メートル弱、球形の表面を持つ念動の盾は、その形状と硬度でガウスカノンすら弾き返す。

 戦車並みの防御力を持ちながら、その内側からの攻撃を遮る事はない。


 だがやはり寧は戦闘において、ステフほど技術そのものは高くない。それを補って余りある超能力と、人造人間の性能に頼り切っている。

 ステフに近しい性能だけでも脅威ではあるが、そこがつけいる隙になる。


 鋭く息を吸い込み、達人の記憶マスターズ・メモリーを起動したステフは、意識が体から抜け落ちていくような感覚を味わいながら、それを無理矢理に引き留めた。

 体の制御が一瞬でも鈍れば、逆にそこを突かれてしまう。

 僅かの隙も見せず、ステフは体に刻み込まれた達人の記憶マスターズ・メモリーを、意識の手綱で制御する。


 達人の記憶マスターズ・メモリーを起動したのは、牽制でも撹乱でもない。

 蛍門工業公司インメェンゴンイェコンスが蓄えた、人が研鑽し続けた体術を持ってして寧を打ち倒すためだ。


 ステフは足裏を念動の盾に触れさせたまま、右足をずらしながらほんの少し足を伸ばす。

 それだけで準備は出来た。

 全力を出せば足がどうなるか分からないが、やらねばステフの敗北が決定する。躊躇している間はなかった。


 伸ばした分だけ足を曲げつつ、念動の盾をまるで地面のように踏みしめる。左足で発生した力が、腰から体を通って右足へとよどみなく伝わるのが分かる。

 盾の中心へと置いた右足に伝わった力は、ガウスカノンで撃った時のように――あるいはそれ以上の威力をもって――念動の盾ごと寧の体を跳ね飛ばした。


 予知や経験による対応を超えた一撃に、寧の体がほんの僅かにこわばる。

 発勁と呼ばれる技術は、知らない者にはそれこそ魔法のように映るだろう。

 人造人間の身体能力で行われたそれ・・は、人間によるものとは比較にならない威力で、寧の体を海面へと叩き付けた。


 ステフはくるりと空中で身を翻して着水。海面を蹴って大きな水柱を立てながら寧へと迫る。

 腱はやられていなくとも、無茶な動きをした足は一歩踏み出す度に傷口から血がしぶく。

 海面へ叩き付けられた衝撃で、ノイジー・バトンは手放している。そしてその衝撃が生んだ水柱は、例え単分子ワイヤーの嵐を繰り出せても障壁となってしまう。


 だが、まだ――寧は全力で脳を働かせて念動と予知を振り絞る。

 ステフの近づく速度、角度、そこから繰り出される攻撃や牽制。瞬時に何十何百ものパターンが脳裏に浮かび、頭の中が煮えるような痛みの中で、たった一つの予知が組み上がった。


 寧は念動で自らの姿勢を強引に整えながら、両手を大きく振るって半球状の盾を構築する。

 念動は方向を定めるのに手の動きこそ必要だが、その手は左右を問わない。やろうと思えば両手で盾を作ることも、両手で単分子ワイヤーを操る事も出来る。

 それをしなかったのは、右手が攻撃、左手が防御と相手や周囲に思い込ませるためだ。


 しかしステフは覚えていた。

 寧が娼館での爆発から二人を守った時に、単分子ワイヤーの嵐で床を粉砕しながら、両手を広げて念動の盾を作っていた事を。

 達人の記憶マスターズ・メモリーの歩法と、人造人間の速度を合わせて寧に接近したステフは、水しぶきによっておぼろげな形を現した念動の盾に右の手首を添えた。

 そして右手を捻りながら引き、更に一歩水面を踏み込む。

 肌に伝わる固さや形を捉え、ステフは寧との間にあるをするりとさばいた。

 そのまま盾の内側へと入り込んだステフは、盾の起点となっている右腕を左手で跳ね上げる。

 狙いはがら空きになった腹――拳を軽く握ったステフの脳裏に、刻み込まれた命令オーダーが、いつものように顔を出す。


 障害は力で排除しろ。

 蛍門工業公司インメェンゴンイェコンスの刻み込んだ命令オーダーは、寧の確実な排除を望んでいる。

 単分子ナイフを引き抜けば、容易く命令オーダーに従う事は出来る。


 うるさい、静かにしろ――ステフは、蛍門工業公司インメェンゴンイェコンスの刻んだ命令オーダーを、それすらも障害として意志の力でねじ伏せる。

 寧の気持ちは分かっているつもりだ。

 自分の思いを、自分に出来ることで伝えようとしているだけだ。

 ただし、それを受け入れられるかどうかは別の話。

 言葉でどうしようもないのなら、自分に出来ることで寧に自分の思いを伝えるだけだ。

 蛍門工業公司インメェンゴンイェコンスの刻み込んだ、命令オーダーなぞの出番はないのだ。


 がら空きになった体を寧の左腕が庇おうとする。

 しかしそれより早く、ステフは腰だめに構えた右腕を繰り出した。

 水上歩行を可能にする速度に、重サイボーグに匹敵する体重を乗せた拳を、達人の拳速と技術で寧の腹へと叩き込む。

 動力装甲服パワードスーツすら粉砕する拳は、寧の体へ深くめり込み、ただの一撃で寧の意識を刈り取った。





「あ、起きた?」


 意識を取り戻した寧は、間近にあったステフの顔に驚いて目を見開いた。中天にかかる日差しに目を細めながら、打たれた腹や海面に叩き付けられた背中の痛みに顔をしかめる。

 人間なら粉々になっていただろうが、人造人間である寧は痛みこそあるが原型をとどめている。

 内臓に損傷があったとしても、痛みの具合からして栄養と休息さえあれば一日二日で治る程度だろう。


「気絶してたおかげで、水を飲んでなくて良かったぜ。ま、引っ張り上げられて何よりだ」


 降ってきた声の方に目をやると、釣り竿を抱えるように座ったトッドが、二人の少女を見下ろしていた。

 気絶してしまえば、寧の超能力は予知を含めて全て停止する。

 念動が止まった寧はそのままなら海中に没していただろう。いくらトミツ技研の魔女でも水中で呼吸は出来ない。

 二人に助けられなかったら、人造人間と言えども溺死していただろう。


「殺されるかと思いましたわ」


 身を起こすより先に、言葉が口を突いて出た。

 ステフの一撃に手加減は無かった。耐えられたのは、単に人造人間の耐久力が高かったというだけだ。

 ガウスガンなり単分子ナイフで追撃されていれば、こうして目を覚ます事もなかっただろう。

 しかしステフはそうしなかった。

 あれほどまでに、寧をうとんでいたのにだ。


「寧がこっちを殺す気だったらそうしてたよ。でも、その気なかったでしょ?」


 寧の傍らにぺたりと腰を下ろしたまま、ステフは何でもないように言う。

 弱々しく体を起こした寧は、自分を下した相手をじっと見つめる。両足の傷は、止血テープで簡単にではあるが手当てされていた。人造人間の回復力なら全治半日もかからないだろう。


 ここへ来た時は手足を折ってでも連れ帰ると思っていたが、友達と言ってくれた相手を傷つけた事を今更ながら恥ずかしく思う。

 とても顔を見る事など出来なかったが、ステフは視線の先に割り込むように身を屈めると、寧の顔を覗き込みながら微笑んだ。


「寧が戻ってくるの、セカンドバベルの下で待ってるからさ。だから、必ず戻ってきてね。二人でどっか遊び行ったりとかしたいしさ……約束、しよ。」


 それを聞いた途端、寧の瞳が潤む。

 人前で臆面も無く涙を流すなど初めてだ。

 寧はこぼれる涙を拭うことなく、ステフの体を抱きしめた。それくらいしか、今の思いを伝える方法が思いつかなかった。


 いきなり抱きつかれたステフは驚きこそしたものの、友達の体をそっと抱きしめ返して背中を優しく撫でた。

 自分が泣いた時に父がしてくれた事を、自分が誰かにやるとは思ってもみなかった。


「待ってるからさ。帰ってきてね」

「うん、うんっ……戻ってきたら、一緒に……」


 トッドは抱き合う二人の少女を見て顔をほころばせる。

 そして自分のステフが真っ当に育っているのと、その娘を大事に思ってくれる友達が出来た事を心の中で祝福した。




 二人の人造人間が戦った次の日、トッドとステフは港から出て行こうとする大型の地面効果翼機エクラノプランを見送っていた。

 ハワイ航路の地面効果翼機エクラノプランは、数時間もあれば現地の国際空港にアクセス出来る。軌道塔の保安の為に付近での飛行が制限されているセカンドバベルでは、地面効果翼機エクラノプランが航空機の代替物となっている。


 賭に負けた寧は潔く身を引き、今離水体勢に入った地面効果翼機エクラノプランでトミツ技研本社への帰路へついた。

 最初は見送りを固辞していた寧だったが、ステフの熱心な説得に根負けし、改めて二人との再会を誓って――誓わされて――去って行った。

 別れ際に感極まった寧は、ステフだけでなくトッドにもハグをしたが、今回ばかりはステフも嫉妬する事はなかった。


「寧、行っちゃったね」


 地面効果翼機エクラノプランが水平線の向こうに消えるまで、その姿を見つめていたステフは寂しそうにぽつりと漏らした。

 初めて出会った、ある意味では同族の人造人間。

 たった数日の付き合いではあったが、友達と呼んでも良い間柄になっていた。そんな相手と別れる事は、ステフにとっては初めての経験だった。

 トッドはそっとステフの頭を撫でる。


「また戻ってくるさ。約束しただろう?」


 ステフ七大超巨大企業セブンヘッズがどんなものか、よく知っている。その知識と経験があるからこそ、寧がトミツ技研本社に戻る事に反対すらした。

 しかし寧の意志も強かった。

 トミツ技研本社に赴き、二人を守るために手を尽くす。

 それが賭に負けた寧の選んだ方法だった。


「そうだね。約束したもんね」


 暗い考えを振り払うように、何気なくステフはそびえ立つ軌道塔を見上げた。

 少女が見つめる先には、静止軌道ステーションの周囲に作られた、大輪の花を思わせる太陽光発電システムが広がっている。


「どうした?」

「ううん……いつか、あの花のところまで行くことあるのかなーって思っただけ」

「今すぐは無理だが、いつか行ってみるか。金貯めてからだけどな」


 静止軌道ステーションへの観光は、時間や費用もかかる上に抽選で選ばれなければならない。

 完成後十年を超えていても、セカンドバベルは世界でも指折りの人気を誇る観光地なのだ。

 だがそれを聞いたステフは、喜ぶよりも口を尖らせ、疑いのまなざしをトッドへと向ける。


「……もしかして、それって遠回しにご飯減らそうとしてる? あたし、成長期だよ?」

「予算を考えてくれりゃそれでいい」


 二人の後ろでは、入港しようとする地面効果翼機エクラノプランが水しぶきを上げながら着水する。

 ジェットエンジンの騒音から離れるように、親娘はどちらともなく歩き出した。


 半月近い休暇もそろそろ終わりだ。

 ステフの傷は完治しているし、トッドもリハビリがてらに仕事を再開しても良い頃合いだ。

 寧が戻ってきた時には倒産していたなど、笑い話にもならない。


 ステフはもう一度軌道塔を見上げると、すぅ、と空へと手を伸ばした。そして立てた人差し指を銃身と見なして、心の中だけで銃爪を引く。


「覗き見すんなっ」


 口の中でだけの呟きは地面効果翼機エクラノプランの騒音にかき消される。

 指差す先、遠く五百四十キロの彼方では、オメガインテンションの監視カメラが二人の姿を捉えていた。

 ステフは空から二人を見つめる監視カメラに見せつけるように、先を行くトッドの太い腕に飛びつく。


「おいおい、いきなりどうした?」

「なーんでもなーい。こうしたかっただけっ」


 ため息交じりのトッドに、ステフは満面の笑みを向けた。娘の笑顔に釣られるように父も笑顔を返す。

 サイボーグの父と人造人間の娘。

 様々な人種や勢力の集うセカンドバベルでも、指折りに奇妙な親娘の姿を、軌道上のカメラは音も無く見つめ続けていた。

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