1章 楽園

楽園(1)

 雨音が聞こえる。ざあざあと強いやつ。閉じられた瞳から絶えず聞こえるそれは、俺にとってはもう馴染み深いものだった。

 毎日毎日間断なく降り続ける雨。それは涙のようにもの悲しくて、悲鳴のようにうるさい。けれど休み無く聞き続けると次第に気にならなくなり、当然のこととして受け入れていく。

「……て」

 雨に声が混ざる。女の子の声だ。透き通るような高い声。耳に心地よく響く、優しい音色。

「……きてー」

 声が次第にはっきりしてくる。俺はゆっくりと瞼を開き、上半身を起こす。寝起きで若干頭がふらふらするが、ぴしゃっと自分の両頬を叩き、意識を集中させた。

「ん……あ……」

「起きてー」

「え? あ……」

 眼前には濃紺のブレザーを身にまとう、高校生くらいの女の子。

 鳥川有樹(とりかわゆき)――俺の幼なじみだ。

「おはよう、日向(ひなた)」

 有樹はりりしさを感じさせる少しだけ釣った瞳をにこりを細め、丸みのある頬を緩めてにたまらない笑みを作ってくれた。

 背丈は百六十強といったところだろうが、まあ平均的身長。全体的にほっそりとしていて、栄養が足りているのか少し心配になるやせ形。まあ、着やせしているだけかもしれないので、そのことについては特に言及しない。

「あ、えと……あ、おはよう。有樹」

 俺はそう返事をすると、よいしょとベッドから出る。まるで病院に置かれているような無骨な白いベッド。アルミのパイプで構築され、その上にマットレスと白い敷布、白い毛布、そして白い枕が置かれただけの簡易な代物だ。

 有樹が腰に手を当て、呆れるようにため息をつく。

「また制服で寝ちゃって」

 言われて自分の服を見る。有樹と同じ色の濃紺のブレザー。違いは有樹はリボンだが俺はネクタイで、そしてスカートではなくズボンであるということくらいだろう。ああ、強いて言うならボタンが逆だったか。男女の違いだ。

「ああ、これか。でもこれ以外服なんてないし」

 俺は苦笑し、やれやれと肩をすくめる。

 ちなみに俺も有樹も制服を着ているが、学生ではない。というより学校がないのだ。高校生『くらい』と言ったのはそのためだ。

 俺も多分高校一年か二年くらいの年齢だと思うのだが、いかんせん記憶がないのでどうにも判別がつかないし、はっきり言うならどうでもいいことだ。学校なんてないのだから。

 家族もいない。ずっと一人。有樹もそうだ。俺たちは互いに孤独で、それを打ち消すかのように寄り添って生きている。

 周囲を見回すと、そこはコンクリートの荒野だった。

 むき出しのコンクリートには一面白いペンキが塗られ、それは床も壁も天井も柱も変わらない。病的に白い部屋。広さは四十五帖ほどで、かなり広々としているが家具らしきものは白いベッド以外には何もなかった。

 棚もない、机もない、テーブルも、椅子も、座布団の一つすらありはしない。

 窓はあり、壁一面に張り巡らされている。そこには灰色の空と向かいのビルだけが映し出され、絶えず降り注ぐ雨のいくつかが張り付き、なめくじのような水滴をこびりつかせていた。

 そう、ここは普通の家ではないし、部屋でもない。ビルの三階。空きテナントそのままだ。違いは白いペンキで塗られていることだけで、それ以外は本当に何もない、まさにコンクリートの荒野。

 そんな中唯一異様とも言えるのが部屋の中央にある巨大な黒い箱。電子レンジだ。その高さは二メートルにも達し、言われなければ誰も電子レンジだとは認識しないだろう。

 電子レンジの周りには工具箱や電子レンジのパーツが無造作に転がっていて、俺のだらしなさを如実に表している。まあ、強いて言うならパーツは白い透明なビニール袋の中に入れてはあるが、結局は床に直置きなので汚らしいことこの上ない。

 俺はずっとここで暮らしている。理由はない。目的もない。ただ気づいた時からずっとここに一人で生活していて、定期的に有樹がやってきて一緒に食事をしたり、作業をしたりする。

「はい、朝ご飯」

 ゆきがそう言っておにぎりを差し出してくる。綺麗に三角形を象り、海苔のまかれた美味しそうなおにぎり。

「ありがとう」

 俺は礼を言ってうけとり、あんむと口に運ぶ。柔らかくてもちもちした米の質感や梅干しの酸味が全身に幸せとなって溶け込んでいく。

 有樹も自分の分のおにぎりをぱくっとつまみ、俺の横に立ってじっと窓の外を眺める。

「今日も雨だね」

「いつも雨さ。そう、いつも……な」

 俺の記憶がある限り、一度だって雨が止んだことはない。

 それどころか空の色が変わったことすらない。朝もなく、夜もなく、ずっと昼間だ。だから寝るときは夜の静寂というものを味わったことがない。知識として夜があることは知っているが、見たことがない。少なくとも、俺がこの街で暮らすようになってからは。

 それ以前? 全く記憶にない。

 俺はある日突然この街で暮らし、その理由も目的も経緯もわからず、牢獄のように暮らしている。正直、有樹がいなかったら気が触れていただろう。

 そんな有樹が俺から離れ、窓のそばまで立ってじっと下を眺める。

「桜が綺麗だね。今日も」

「ああ、今日も桜が満開だろうな」

 なんせ雨と同じように桜もまたずっと咲き続けているから。

 路上の街路樹として植えられたソメイヨシノ。桜の街路樹なんか聞いたこともないが、ここでは当然のものとして認識されている。勿論一本ではない。路上に等間隔でソメイヨシノは植えられ、その全てが満開なのだ。

 俺の記憶がある限り、ずっと。花びら一つ散りはしない。

 この街に来てどれだけ経つかはわからない。時計がないからだ。持っていないのではない。存在しないのだ。時計というものは知識としてあるにすぎない。

 不思議な、そして得体の知れない世界。俺はおにぎりを食べ終えると有樹の脇に立ち、窓の外を眺める。

「そしてビルが森のように建ち並んでいる」

 視界いっぱいに広がるのは都会。

 どれも十五~二十階建てくらいの灰色のビルが隙間無くぴっしりと壁のように立ちふさがっていて、その形状はどれもまったく同じ。

 個性もなく、活気もない。本当に壁という形容でしか表せないビルだ。

 大通りには時たま車が通るが往来は少なく、通行人もぽつぽつとしか見えない。

 これが――俺が暮らしている世界の概要だ。


「さて、そろそろ電子レンジを作るか」

 ひとしきり景色を眺めた後、俺たちは電子レンジの前に移動し、どっかと座り込んで工具箱を開く。

 工具箱から必要な道具を取り出し、じゃらじゃらとコンクリートの床に並べる。それはドライバーだったり、レンチだったり、あるいはねじだったりと様々だが、金属で構成されたそれらの道具が砂のように飛び散り、鈍色の輝きを放つ様は、ただ乱雑なだけでなく、不思議なきらめきのようなものが感じられた。

 俺はレンチを手に取る。ずしっとした重さ。慣れたもので、まるで吸い付くような感覚。

 聞こえるのは雨音だけ。ひんやりとした室内。暖かみのない、どこか氷を思わせる空間。

 理由はわからないが、俺は電子レンジを作っている。いつもいつも有樹と二人で組み立てている。自作の電子レンジ。

 いつから作っているか。何のために作っているか。それはわからない。意識ある時から、記憶の最果てから、俺が生きているという証を残すが如く、ずっとずっと電子レンジを組み立てている。勿論電子レンジが仮に完成したとしても、その用途は不明のままだ。

 そしてそれが、日常を彩る全てであり、俺はいつものように何も考えず、何も思わず、たえだ黙々と入力された機械のように作業を開始した。

 そんな時、有樹がドライバーを手にしながら、

「電子レンジって、人生だよね」

 そんな頓珍漢じみたことを言ってきた。

 俺は素直に首を傾げる。

「……そうか?」

「そうだよ。電子レンジは人生だよ。いや、正確にはさ、こういう作業が人生なんだよ。電子レンジそのものが人生なんじゃないから。勘違いしないで」

「あ、そうか。でもこの作業も人生かと言われるとかなり疑問なんだが……」

「この作業ってさ、意味ないじゃん。電子レンジなんて作っても何かするわけでもないし、この電子レンジ自体無題に大きいし」

 有樹がそう言って電子レンジを見上げる。確かに大きい。真っ黒に染められたそれは高さ二メートルを超え、幅は三メートル、奥行に至っては四メートルにも達する巨大な箱だ。とても電子レンジのサイズじゃない。

 けれど、これを俺はずっと作っている。いつから作っているかは覚えていないし、初めて作業した時の記憶もない。ただ、気がつけばこの未完成の黒い箱をずっと組み立てていた。

 でも、それが人生? 俺は首を傾げる。

「そうだな、何の意味もないし価値もない。ただデカイ箱だよ。それで?」

「人生も同じってこと。人生を送るという本質にはさ、何の意味も価値もないんだけど、一生懸命大きなものを作ろうとする。失敗することもあるし、途中で挫折することもある。その行為それ自体や、行為の結果何か意味があるかというと、何もないのに」

「何らかの偉業を残せば意味や価値は生まれるぞ」

 俺の反論に、有樹は作業の手を止め、首を横に振った。

「生まれないよ。それは人類という種の人生において何らかの役に立つってだけで、人類それ自体には不要なものだよ。高層ビルも、民主主義も、お金も、家も、服も、戦争も、宗教も、科学も、人類という種において、経過ではそれなりに役に立っているけれど、人類の結果としては何の必要性もなければ意味もないよ」

 俺も作業の手を止め、有樹の方に身体を向ける。

「人類の結果、か。つまり地球上において人類が存続していることそれ自体に意味がないって言いたいんだな」

「まあ、そういうこと。物事はね、俯瞰すればするほど意味をなくしていく。人類にとって私たち個人は必要性を持たない。いなくても代わりはきく。地球にとって人類は必要性を持たない。いなくても他に生物はいる。太陽系にとって地球は必要性を持たないし、銀河系にとって太陽系は必要性をもたない。そしてこの世は最終的に何の意味もないということになる」

「つまり、意味とか価値とかってのは」

「うん、その構成する個が勝手に価値と呼んでいるものを創造して楽しんでいるだけ。遊んでいるだけなんだよ。必要のないものだから価値を作って、それを楽しみ、その空虚の中に人は幸福を見いだす。ね? そう考えるとこの電子レンジが人生だってわかるでしょ?」

 難しい話ではある。けれど有樹の言うことが正しいのならば、電子レンジは確かに人生なのかもしれない。

 そして俺は、有樹の言い分に対して反論する言葉を持たない。故にこくりと頷いた。

「なるほど、電子レンジを作るという全く無意味な行為でも、その作業自体に俺たちは価値を見いだしている。そしてその価値を楽しんでいる。はは、確かに人生だ」

「ね?」

 有樹が嬉しそうに頬を緩め、俺の肩をぽん、と叩いた。

 ほのかな幸せが胸にじわっと染みこんでゆく。意味もなく、わけもわからず、得体の知れない生活ではあるけれど、願わくば、こんな日々がずっと続きますように。

 はは、とガラにもないことを考えた自分を嘲弄するように頬をつり上げ、俺は作業に戻る。

 ふと、道具をまとめておいた九十リットルの透明なビニール袋の中に必要なものが入っていないことに気づいた。

「あれ? パーツがない……」

「買いに行く? 外は雨だけど」

 すっと人差し指を窓の方へ向ける有樹。俺は立ち上がり、ふぅ、と息をついた。

「いつも雨じゃないか。行こう。俺は電子レンジを作らなければならないんだから」

 理由は、わからないけれど。


 俺たちは無骨なビニール傘を差して雨と桜と絶望の街を練り歩く。

 この世界はなんというか墓地のようだった。

 街自体は無数のビルが大通りの両脇に壁のようにそびえ立っていて、いかにもな大都会。だけどそのビルには人の気配や息吹が感じられない。

 悲しい気持ちになる。

 道路は大通りが一つあるだけでカーブもなければ交差点もない。果ても見えないしバス停もタクシー乗り場もない。永遠に、無限に、恒久に続く一本道で、果てというものがあるのかないのか、おそらく無いのではないかと思える不思議な片道二車線の大通り。

 地平線の彼方からすぐ目の前、そして背中から無限の後ろまで歩道に等間隔で植えられた街路樹は満開の桜であり、決して散ることがなかった。地面を見ても花びら一つ落ちていない。

 桜が咲き乱れ、狂ったようなピンクを世界全体にまき散らす。

 優しさはなく、冷たい街。雨はざあざあとそれなりに強く降りしきり、ビニール傘にぼたぼたとぶつかり合う音が、皮肉なことに心地よかった。

「雨がやまない」

 俺は何気なく空を見上げ、ぽつりとこぼした。

 すると有樹が俺の脇に寄り、同じように空を見上げ、続く。

「人々も生きている。動いている」

 ああ、確かにそうだ。この街には通行人がいる。学生だったりスーツ姿のサラリーマンだったり、あるいは老人だったりと一応多種多様ではあるが、彼らは顔を見せない。いつも傘で隠していて、俺たちをまるで空気のようにすりぬけ、どこかへと消えていく。

 この街のどこに住んでいるかもわからないし、どこに向かっているかもわからない。何のために彼らは歩いているかとんと見当がつかない。

「そこに幸せはない」

 俺は言った。

 まるで木偶のような通行人が、この街を彩る生気を感じさせる唯一の光源。

 街灯的でありながら、ひどくのっぺらぼう。

 最後に俺たちはお互いの顔を見合わせ、こくりと頷く。同時に言おうということだ。この街の名前を。

「「そう、ここは」」

 ――雨と桜と絶望の街。

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