火曜日のメンデルスゾーン:あの頃の友だちを思い出すだけの話

 僕は人付き合いが苦手な子供だった。中学校に入学すると、その傾向は深刻な問題を起こした。友だちができなかったのだ。

 クラスでは同じ小学校の出身同士とか、席が近いもの同士で即席のグループが生まれていた。僕はどこにも所属できなかった。それでもちっとも気にしていないと思われたくて、休憩時間には窓の外を眺めたり、必死に本を読むことに集中した。

 そうして自分の世界に閉じこもっている間に、僕は誰とも話さずに過ごす学校生活の日々を迎えた。

 一番、気まずい思いをするのは昼食の時間だった。誰もが仲の良いグループで机を合わせて、お弁当を食べる。教室の中にはいくつもの縄張りが生まれる。その空間に僕の居場所はない。お弁当を持って逃げるように教室を出れば、僕の机だけがどこかのグループの島に吸い寄せられ、笑顔のクラスメイトが平然と座っている。

 昼食の時間は学校全体が浮足立っていた。どの教室からも笑い声が響き、廊下を歩いているだけで疎外感を覚えた。僕は毎日、安住の地を求めて歩き回っていた。

 そんなある日、校舎の外れにある音楽室に滑り込んだ。通常、音楽室や理科室といった特別講義用の教室は、授業後に施錠されてしまう。けれど、火曜日と木曜日だけ、この音楽室の鍵が開いていた。その日は、昼食後のすぐに音楽の授業が行われるから、鍵を開けているのだと推理した。

 その日から、僕は音楽室でお弁当を食べることにした。火曜日と、木曜日だけは、ひとりで落ち着いて食事ができる。

 音楽室には古びたグランドピアノが置かれている。壁にはバッハだのメンデルスゾーンだのという人たちの肖像画がかけられている。しんとした部屋はどこか他人行儀で、その素っ気なさがむしろ落ち着いた。昼の音楽室は、学校という生き苦しい世界で見つけた、僕にとっての秘密基地だった。

 そんな秘密基地に侵入者があったのは、五月も半ばを過ぎた頃だった。

 いつものように火曜日の昼に音楽室へ行くと、窓際の一番奥の席に、女生徒がひとり座っていた。肩までまっすぐと伸びた髪が、窓から降りこむ日差しを受けて輝いて見えた。女生徒は入ってきた僕を見て、目を丸くしていた。それからすっと視線を落とした。机の上には、小さな弁当箱が広げられていた。

 自分だけの居心地の良い場所を、邪魔されたように思った。けれど、僕はもちろん何も言わなかった。引き返すことも考えた。けれど、ここは僕が先に見つけた場所なのだ。僕が遠慮するのはおかしい。そんな思いもあって、僕は壁際の一番前、女生徒から対角線上の最も遠い席に座った。

 それからも、彼女は音楽室にやってきた。そうして二人で食事をする日が続いていくうちに、僕は彼女に親近感を抱くようになった。彼女もきっと、クラスに居場所がないのだろう。

 火曜日と木曜日だけ、僕らは音楽室にやってきて、お弁当を食べる。そして昼休憩が終わるまで、本を読んだり、課題をしたりする。その間、話すことはない。

 同じ場所にいて、同じ時間を共有して、それだけの関係だった。時々、移動教室の途中に、彼女を見かけることがあった。彼女はいつもひとりで、教科書を胸に抱きしめるようにして俯いていた。周りの誰もが、彼女のことを気にかけていなかった。それはまるで僕を見ているようだった。

 音楽室での食事中に彼女に声をかけたのは、やむにやまれぬ事情からだった。英語の教科書を忘れたのだ。僕は教科書を忘れて平然と授業を受けられる度胸はなかったし、もちろん借りられる友人もいなかった。悩みに悩んで、彼女に頼んでみたのだった。

 彼女は飛び上がるように驚いて、しどろもどろに返事をして、それから慌てて音楽室を出て行った。机の上には、食べかけのお弁当が残された。

 戻ってきたとき、彼女は英語の教科書を胸に抱きしめていた。俯いたまま、それを僕に差し出した。僕が彼女について初めて知った情報は、教科書の裏に、丁寧な字で書かれていたクラスと名前だった。

 それから、僕と彼女は話すようになった。投げる方も、受ける方も、驚くほど不器用な、へたっぴなキャッチボールだった。

 音楽室の端と端だった僕らの席は、そのうちに近くなって、やがて向かい合わせになった。

 彼女はいつも囁くような声で話したし、笑い方も控えめだった。彼女と向き合ってお弁当を食べる時間は、不思議と居心地の良いものだった。

 思ってもみなかった相手に、突然話しかけられるという経験を僕がしたのは、梅雨明けの火曜日の午前中だった。

 隣の席の高柳という男子が、僕に課題を見せてほしいと頼んできたのだ。僕がいつも課題や予習復習をやっているのを、よく見ていたからだろう。僕は断るという度胸もなく、ノートを見せた。

 そんなきっかけで、高柳と僕は話をするようになった。高柳は交友関係が広くて、彼に引っ張られるようにして、僕にも友達と呼べるような存在が増えていった。

 昼食の時間には、僕は自分の机を持って行って他の机と合わせ、クラスの中のグループの一員となった。

 彼らとのくだらない話に、僕は過剰に笑ってみせた。放課後に彼らが連れ立って遊びに行く時にはいつも参加したし、皆の間で流行った漫画は、僕も買った。そうすることが正しく思えたし、それがグループに所属することだと思っていた。

 いつしか、僕は音楽室に通うことはなくなっていた。火曜日も、木曜日も、僕は教室で自分の机に座っていた。

 それから中学を卒業し、高柳と同じ高校に進んだ。高校ではまた別の友人ができて、高柳とは連絡を取ることもなくなった。

 今になって、あの音楽室を思い出すことがある。

 教室はいつも薄暗くて、窓際の机だけが光り輝くように見えていた。そこには女の子が座っていて、小さなお弁当を広げている。目を細めるようにして控えめに笑いながら、昨日読んだ小説について、ぽつぽつと話してくれる。

 あの頃、驚くほど不器用で、周りとうまく溶け込むことができなかった僕たちは、精一杯に時間を共有していた。

 僕が感じた赦しにも似た居心地の良さを、彼女も感じてくれていたのだろうか。

 確かに教科書の裏で見たあの子の名前を、僕はもう覚えていない。


 了

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