変事

 毎晩、彼は私のところへやってきて共に過ごした。陽が暮れるのが待ち遠しく、私は愛おしい人の訪れを待つようになった。

 簾の外から暖かな風が流れ、仄かに梅の香りがすると彼がやってきたのだ気づく。足音も立てずに彼は屋敷の縁に降り立ち、その気配を感じ取った私は彼を迎え入れた。彼が来る際に必ず人は眠りにつき、自然そのものであるような彼の気配に気づく者は誰もいない。

 時には二人で外へ出て空を歩き、時には美しい獣になった彼の背に乗って雲の間を駆け、命が漲る森に降り立ち、時には深く愛し合った。

 その人が私に触れる手が好きだった。その人の肌のぬくもりが好きだった。その人に触れていると幸せで心が満ち足りた。時間が過ぎてほしくないと強く願うほどに。


「……ひとつ、お聞きしてもよろしいですか」


 隣にいるその人に声を掛けた。


「何故、私が森にいるときに会いに来てくださらなかったのです」


 傍の彼は緩やかに微笑を浮かべる。


「いつも傍にいた。私は風にも木にも何にでもなれる。沙耶も感じていたはずだ」


 確かに、祈りを捧げている時に足音のような気配を感じた時があった。


「本来であれば人前に姿を現すことはない」


「でもそれでは分かりません。人の姿ではなければ……私は人なのですから」


 緩やかな気配を感じるだけでは分からない。森にいる時にこの人と出会い、妻になれていたならば。


「でも何故、私の人の姿で前に現れてくださったのですか。……ほら、前にも」


 遠い昔。あの森に兄と迷い込んだ時もあなたは私にこの白い手を差し出した。

 だからこそ、私はこの人の存在を知ることが出来たのだ。


「沙耶に会うため」


 一言一言に愛おしさが募った。何もかもが愛しい。仕草も香りも、声も吐息も、全てが。


 相手の頬に手を伸ばすと、相手は顔を近づけ、私の頬に口付ける。それがまるで動物のようで擽ったく、私は身を捩りながら相手に身を預けた。


「もっと早く、あなたにお会いしたかった」


 そうであれば、私がここであの夫の妻になることなどなかったかもしれない。私はこの人のものだけでいられたかもしれない。


「沙耶が森を離れて行き、その方が幸せだと願うものも多い。そういうものかと思っていた。巫女がいなくとも、カミは私の父だ。子である私が仲介になれば良い。……何より沙耶は嫌だと言わなかった」

「言えなかったのです。嫌だと言えたなら、私はあの森にずっと身をおいていました。私の居場所はあの森です」


 そう言うと、彼は少し悲しそうな顔をする。彼も私と同じようなことを感じていたのだろうか。あの森を出ることがなければと。


「だが、ここで過ごしていたお前は森に帰りたいと強く願った」


 彼はそっと私を抱き寄せる。


「だから迎えに来たのだ」


 その事実が涙が出るほど嬉しかった。瞼を閉じると、静かに唇が重ねられる。


「そして私を受け入れた」


 彼は私を大切に扱い、私を強く愛した。これほどの幸せを感じたことがなかった。愛される喜びを私は初めて知った。




 ある昼間に、カヤがじっとこちらを見つめているのに気づき、どうしたのかと尋ねると彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「沙耶様が近頃幸せそうなのですもの」


 言われて、思わず自分の頬に手をやった。


「社にいる時のようにお元気になられて、カヤは安心いたしました。沙耶さまが幸せであることがカヤは何よりも嬉しいのです」


 そう言って喜んでくれるカヤに、私は理由を言うことは出来なかった。理由を言わない私を、カヤはただただ見守ってくれることだけをした。




 その日もしとみを開けて、夕暮れを眺めていた。

 きっと今夜も来てくれる。その瞬間が待ち遠しくてならない。早く陽が暮れないかと橙の空を仰いでいた。


「私を待っていたのか?」


 不意に背後から声が掛かった。明らかに待ち望んでいた声ではないことに戸惑った。


「沙耶」


 私の名を呼ぶ声に背筋に悪寒が走った。はっと振り返って、自分の奥の何かが震えあがるのを感じた。


「な、何故……」


 夫だった。

 相手の訪問はあまりに唐突だった。陽も沈まぬ内に、私のもとへ来ることなど今まで一度たりともなかった。


「何故?そなたの肌が恋しくなったに決まっていよう」


 冷たい表情に優しい笑みを張り付けたような、端正な顔が私を見ている。


「何をそのように驚いている。夫が妻の寝所を訪れておかしいか?」


 動けないでいる私の頬を冷たい指が掠め、顎へと伝っていく。


「先日、そなたは私が呼んだにも関わらず来なかったな。あれからずっと夜に訪れようと思っていたのだが、行こうと思う日に限って得体のしれぬ眠気に襲われた」


 だから陽が沈み切らない今、私のもとへ訪れたのか。


「美しい沙耶」

「いや……!!」


 触れようとしてきた手から咄嗟に逃げた。こんなにもはっきりと拒絶をしたのは初めてだった。


「いや……嫌です」


 それでも夫は私を壁際に追い詰める。


「お願いです……お引き取りください」


 この夫にまた抱かれるのだと思うと恐ろしかった。

 追い詰められてはいけないと相手の傍を抜けようとしたが、腕を背後から掴まれ強引に引かれた。手首に走った痛みに足が竦む。


「夫から逃げることもなかろう。私がこんなにも求めているというのに」


 夫はそのまま私を背後から抱き締めるようにして腕の中に治めた。

 抱えられて引かれ、蔀から離され部屋の奥に連れ込まれる。首筋にかかる吐息に身が震えた。


「侍女、下がれ。私と沙耶は今よりここで休む」


 奥で寝具の準備をしていたカヤと老婆がこちらを見て驚き、命ぜられるまま下がる他なかった。


「お願いです、やめて下さい」


 カヤの心配で堪らないといった表情が視界を過ったのも一瞬、後ろから身体に回る腕の荒々しさに呻いた。


「何を嫌がる。沙耶も私が恋しかったはずだ、随分と久々だろう。飢えていたのでは無いか?」


 私の手首を掴み、手の甲を舐めるように口付けた。顔を背けずに入られないほど激しい嫌悪が湧き上がり、全身が震え上がった。


「……気分が優れないのです、どうか」


 声が震えた。言葉が相手に伝わったかどうかさえ定かではないような頼りない声しか出ない。

 寝具の上に乱暴に投げ出され、即座に起こそうとした私の身体は、忽ち上から夫に組み敷かれた。仰向けに抑えられ、目の前で私を値踏みするような夫の冷笑が恐ろしくて堪らない。

 ここに、愛情はない。私はこの人の前ではただの慰み者でしかない。


「嫌です、お願いです……!」


 こちらの懇願など聞き入れず、夫は私の衣の合わせに手を掛け、そのまま荒々しく開き暴いた。骨ばった手がすかさず伸びて露になった乳房を五指が食い込むほど強く掴み、否応なく晒された首筋に相手の唇が押し付けられる。


「や、いや」


 あの人以外に触れられたくはない。思うままにされたくなどない。この身はもうあの人だけのものだ。

 抗おうと動いても身体を掴まれる痛みに逆らえず、まるで相手の腕の中に封じ込まれるように寝具に押さえつけられる。身体をなぶられ、その冷たい笑みを胸元に埋められ口付けられ、空いた片手で下紐を解いて内腿に触れられる──辿り着くこれからの行為に絶望しかなかった。


 ああ。もう、逃げ場がない。


「いや、やめて……!お願、いや」


 唇に押しつけらた相手の濡れた唇は頬へ、頬から顎先へ移っていく。そのまま首筋から鎖骨を辿り胸元へ。手は乳房を弄び、内腿に触れていたもう片方は更に脚の付け根へと忍び込む。

 羞恥と恐怖に目尻に涙が滲んだ。


「沙耶」

「いやあっ……!!!」


 その時、地響きのような大きな音と共に、屋敷全体が揺れ出した。

 鼓膜を揺るがし、全てを覆いつくす異様な何かに飲み込まれる感覚に、夫は弾かれるように、私の胸元に埋めていた顔を上げた。震える私を抱えて立ち上がり、周囲を見渡す。


「何事だ」


 異様な空気に相手が怯むのを感じた。


「侍女、これは何事だ」


 青ざめたカヤが駆け込んできて慌てて頭を下げる。


「分かりません……分かりません!」


 更に大きな揺れにカヤが悲鳴を上げ、床に蹲った。

 あちらこちらから悲鳴が聞こえる。駆ける足音が響く。地鳴りは人の低い唸り声のような音を為した。

 夫は着崩れたままの私を抱えて簾を越え、屋敷の縁へ出た。先程まで見えていた夕暮れは光を失い、外は月明かりなど一切ない闇に包まれている。夜になったのだと知った。

 もしや、と不安が過る。

 夕暮れの空はあれほど晴れ晴れとしていたのに、今仰ぐ頭上の空は怪しげなどす黒い雲が蠢いていた。付近にいる動物たちが逃げるように離れて行く気配がする。風に揺らされる草木の警戒の音を聞いた。

 幾ばくもなく空が荒れる。雨が降り、風が吹き乱れるだろう。今までにないくらいに激しく。


「蔀を降ろせ!慌てるな、たかが地鳴りだ!」


 夫が騒ぐ周囲に命じた。

 突然強い風が入り込む。夫は一歩後ずさり、風を防ぐために部屋の奥に下がって私を放した。相手から逃れるように壁際に寄り、乱された衣の合わせを押さえる私を夫が食い入るように見つめているのに気づいた。


「沙耶、これはもしやそなたが……」


 また、近づいてくる。

 いやいやと子供のように私は首を横に振った。相手の浮かべた笑みが恐ろしかった。何を考えているのか分からなかった。


「そなたは、自然を操ることができるのか」


 違う、私の為せるものではない。こんなことを出来るのはおそらく──。


「なんと尊い存在か」

「寄らないで……!!!」


 雷が遠くで鳴り響き、降り始めた激しい雨音が蔀を叩く音がした。風に攻められるかのように蔀が外れる音が続き、御簾が大きく揺れ動くとついには外れて落ちる。外を隔てるものを失った部屋を、風が狙ったかのように雨を含んで吹き込んだ。

 衣が雨に濡れる。風が吹き荒れ、部屋を大きく乱していく。侍女たちの恐怖に慄く声が遠くに絡むようにして聞こえていた。


「沙耶、実に珍しい娘だ……得難い私の妻」


 相手は怯まない。手は伸びてくる。己を守る様に身を小さくしてぐっと目を閉じた瞬間、一層強い風が自分の髪を揺らしたのと同時に、夫の悲鳴が鼓膜を貫いた。

 断末魔とも思える声に顔を上げると、最初に見えたのは血まみれの右腕を抑える夫の姿だった。抑えている腕からは血が溢れ、肘からその先がなかった。

 私は恐ろしさに悲鳴を上げることもままならず、身を縮める。


「なんだ、あれは!」


 騒ぎを聞きつけてやってきた夫の近侍が、夫の背後にいる存在に顔色を変えた。

 巨大な白い毛並みの犬がいた。神々しい長い毛並みを靡かせ、目を青く光らせながら夫の右腕を口に咥えている。嵐のように荒れ狂う外の光景を従え、犬は夫に向かって今にも飛びかからんと猛り立っていた。

 彼だと知った。犬の姿の、あの人だと。


「おのれ、化け物め!!!あの森の主か!!」


 腕を奪われた夫が青ざめたままの怒りの形相で立ち上がった。


「殺せ!!!首を叩き落し、殺すのだ!!」


 夫の命令に、近侍を筆頭に多くの者が犬にやじりを向ける。あの鏃は鉄ではないのか。そんなものを彼が浴びたら。


「駄目!!!」


 私が叫ぶのと矢が一斉に放たれたのはほぼ同時だった。放たれた多くの矢のうちの一本が犬の首元に刺さったのを見た。

 痛みに咆哮する犬は飛び上がり、柱に当たりながらも屋敷の外へ飛んだ。近侍に支えられた夫が犬を追いかけ、他の者たちもそれに続いた。

 力が全身から抜け、私は床に蹲る。足が震えて言うことを聞かない。


「沙耶様……!」


 カヤが私に走り寄り、私を抱き締めた。


「カヤ、あの人よ、あの人だわ」

「あの人?」

「カヤ、私を連れて行って。あの人のところへ」


 鉄の鏃を受ければ、カミと同等の存在であるあの人は力を失う。カミは人の為した鉄が唯一の弱点だ。夫はそれを知っている。


「駄目です、沙耶様、駄目です」


 カヤは泣き出しそうな顔でかぶりを振り、私を抱き締め直す。あたりは血や雨に濡れていた。怯えるカヤを連れながら血が流れる床を這うようにして進み、回廊を見やる。夫や彼の姿は、もう見えなかった。


「祟りだ……!!!」


 そう叫ぶ、遠くからの声を聞いた。


「大いなる森のカミから巫女を奪った祟りだ!!」





 化け物と呼ばれた犬は、あの後追い詰められ、鉄の鏃を浴びた後すぐに消えたのだと話に聞いた。

 屋敷は酷く壊れ、傾き、夫は重傷を負ったものの命は取り止めた。しばらくは安静にしていなければならないと言う。

 だがこの前の一件で何かを察したのか、私を屋敷の奥まった部屋に閉じ込め、その部屋を封じるように鉄で囲んだ。誰も寄り付こうとせず、私のもとへやってくることはないが、食事だけは三人分運ばれてきていた。

 閉じ込められているせいで外で何が起きているのか私が把握することは叶わなかった。

 夫は私をどうしようとしているのか。彼はどの程度鉄の鏃を受けたのか。彼の身が心配でならなかった。鉄に囲まれているここへ彼は寄りつけない。私がここを出られない限り、彼に会い、安否を知ることは叶わない。

 私が夫に恐怖して怯えたから、彼は私を守るために人前に姿を現したに違いなかった。万が一彼の身に何かあったらと思うといても立ってもいられず、夜も眠ることができなかった。


 囲われるように過ごしていく中で、自分の身体がおかしいことに気付いたのはそれから間もなくのことだった。怠さと吐き気が続き、物があまり食べられなくなったのだ。

 カヤと老婆も数日の内にその変化に気づき、カヤは私の身を案じて上に取り次ごうとしたが、それを老婆が止めた。


「もしや……ご懐妊では」


 老婆の一言に私もカヤも雷に打たれたように動きを止め、呆然とした。


「懐妊……?」


 懐妊。私が。

 咄嗟に自分の腹部に目をやった。


「いえ、でもそのような、まさか」


 カヤは戸惑いつつも首を振った。

 彼女に心当たりなどない。最後に夫が来たのはあの一件の時で、あの時は騒動でそういうところにまで至っていないのを、カヤは知っていたからだ。


「しかし……ご様子を見るに、ご懐妊の兆しとしか」

「ならば、お相手は一体どこぞの……」


 夫が私のもとを最後に訪れ、褥を共にした夜から数えると、私が今身籠ったのは明らかにおかしい。辻褄が合わない。私は閉じ込められている身であり、他の男性と会うことが皆無である以上、二人は相手が誰であるかを分かっていなかった。

 ただし、私自身を除いては。

 子が出来たと言うのならば、相手は一人しか思い浮かばなかった。──彼だ。


 自分の身を自分の腕で抱き締めた。どうにかなってしまいそうだった。この身に宿っているのだ、あの人の子が。打ち震えるような喜びが全身を駆け巡る。


「沙耶様……」


 カヤの心配そうな表情に、私は現実に引き戻された。

 もしここの人々に私の懐妊を気づかれたなら。夫の子ではないと知れたら。私のムラは――。


「沙耶様、カヤには本当のことを仰せになられませ」


 カヤは私の様子から何かを察したらしく、掠れた声で私に尋ねた。

 息を呑む。身体が震えた。子を授かることを考えていなかったわけではない。それどころか子を産みたかったのだ。あの人の子を。

 でも私の役目は。ムラを出された理由は。


「そのややこは、旦那様のややこではないのですね」


 震える息を吐きながら、私は瞼を伏せて頷いた。カヤは唇をぎゅっと引き結んだ。私を守るように抱き締め、背を撫で、それからこちらを覗き込んだ。


「以前、あの不思議な犬が現れた時仰っていた……が沙耶様の……」


 そうだ。間違いない。この子の父親はあの人だ。

 私の目を伏せた様子に、カヤは睫毛を震わせ、自らを落ち着けるように大きく息をした。


「ここの御方に知られてはなりません……ここを出ましょう。ムラへ帰りましょう、沙耶様」


 カヤは私の膝の上に置いた手を両手で掴み、諭すようにゆっくりと告げた。


「……ムラへ?」


 漠然と、自分の生まれ育ったムラが思い浮かんだ。

 あの故郷に、あのムラに帰って、どうしようと言うのだろう。母や兄に言えるはずがない。カミの子である彼と契り、身籠ったなど誰が受け入れてくれるだろう。私があのムラに戻ることを誰も望んでいないというのに。


「与一様に文を書くのです。まず、気分が優れないと。旦那様にうつしてはならないからと理由をつけて帰郷を申し出ましょう」

「でもそれではムラが」

「無理です。無茶です」


 カヤは強く頭を左右に振った。


「これから体調も優れぬ時がやってきましょう。お腹も大きくなりましょう。このまま隠し切れるはずが御座いません」


 彼女の言う通り、子を宿したこの身はこれから大きな変化を遂げていく。今はなくとも、夫が回復すればまた私のもとへやってくるかもしれない。それでもし身籠っていることを知られれば、この子はどうなる。

 血の気が引いた。


「今、沙耶様をこのようなところに閉じ込めて寄り付こうともしないのです。今が好機です」


 胸に手を当てる。動悸が苦しかった。


「しっかりなさいませ。そのややこをお産みになるのでしょう?」


 その言葉に、私の迷いは一掃される。

 そうだ。私は産みたいのだ。この存在を守らなければという、強い決意だけが私の胸に灯っている。

 一度だけはっきりと頷いた私に、カヤは朗らかに笑んだ。


「私から上に取り次ぎます」


 放たれた声はとても力強い。


「カヤ……ごめんなさい、ごめんなさい」


 いつも味方となり、付き添ってくれている彼女に、なんて謝り、感謝していたらいいか分からなかった。


「良いのです。私は沙耶様の幸せのためにいるのですから」


 カヤの目にも涙が浮かんでいるのを見たら、目頭が熱くなった。


「……ありがとう」


 そうして彼女はすっくと立ち上がる。


「さあ、こんなところちゃっちゃと出てってやりましょう」






 十日ほど過ぎた頃、吐き気に寝込んでいた私のもとへカヤは夫から帰郷の許可が下りた由を知らせてくれた。日程も近いうちに組むこととなり、兄に文をしたためて使者に渡すことにした。


「沙耶様、ムラへお帰りになれます。やっと、ここを出られます。やっとです」


 カヤは泣きそうになりながら寝具にいる私の手を握った。そんな彼女に私は繰り返し頷き返す。

 あれだけ私を閉じ込め、私を権威の道具として利用していた夫がこんなにも早く許可を出すのは意外に思えたが、この前の一件で私を非難し恐れる声は強まり、今となっては私のいるここへは誰も寄り付かない状態だった。私が厄介な存在になり、手放そうと思ったのかもしれない。


「病が完治するまでと許可を頂きました。これからのことはムラで与一さまにご相談いたしましょう。今までのことのすべてを話して分かって頂くのです。これ以上このような場所にいたら、沙耶様は壊れてしまう」


 この屋敷を出られることの安堵と同時に、ムラに戻ることによる不安があった。自分の身に起きていることや、この身に宿った子の父親のこと。正直に話して、すんなり受け入れてもらえる事実では決してない。

 自分が身籠っていることを考えれば不安はどうしてもぬぐい切れないが、母の傍にいられると思うとそれだけで心が凪いだ。


「ただ、私は沙耶様のお身体が心配です。道中、耐えられるかどうか」


 吐き気と怠さが一日中続き、身体を起こしていることの方が少ない状態だった。ムラへは早くとも一日半はかかる。


「私なら心配しないで。大丈夫……それよりも早く、ここを出てしまいたい」


 この子を守らなければならない。守ることができる、安全な場所へ行かなければならない。そして、あの人がいる森へ。

 私を助けようとして傷を負い、あの森で身を休めているに違いない。一刻も早く、あの人の近くに行きたかった。


「このカヤが必ずムラへ沙耶様を送り届けます」


 カヤは私の手を握り、私に休むよう促した。

 身を横たえて目を閉じると、三年前に別れた母の顔が思い浮かんだ。

 私があの人の子を宿したこと、母ならば分かってくれるかもしれない。私を匿い、助言をしてくれるかもしれない。そんな根拠のない一縷の希望を持たずはいられなかった。


 そうして兄から帰郷の件を了承とする返事がきた三日後に、数人の使者が担ぐ輿に乗り、私とカヤはまるで追い出されるように、老婆の侍女一人に見送られて屋敷を後にした。

 三年ぶりに屋敷の敷地を出て目にした、空の青さが美しかった。

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