戻れない

 ムラを離れる当日の早朝、社を出た私は兄に連れられ、十数年ぶりに生まれた家の敷居を跨いだ。途中、ムラの人々で目を合わせてくれる人はいなかった。皆申し訳なさそうに俯いているだけだった。私を迎えた兄の妻だけは小さな赤ん坊を抱きながら、「申し訳ありません」とひたすらに泣き続けていた。

 母に手伝ってもらいながら、巫女の衣を脱いで、先方が用意したというまほろばの衣を身に纏った。まほろばでは主流という衣は多くの色があしらわれ、華やかではあるものの重かった。これでは駆けることも出来ないではないかと考えても、駆けることなどもうないのだと知った。

 母は私の嫁入りを出来るだけ良いものにしようと衣を揃え、髪飾などの道具一式を揃えていた。今の状況でこれだけ揃えるのは大変だったはずだ。母はひたすらに私の幸せを願ってくれているのだと目頭が熱くなった。

 青白い顔で懸命に笑って見せてくれる母と限られた時間を過ごした。このムラを出たら、こうして母と会うこともなくなるのだと思うと漠然とした悲しさがあった。母に泣きついてしまいたい気持ちを抑え込み、兄とこれからのことを話し合うことをした。一人、こちらの侍女を連れて来ても良いとのことで、自ら進んで名乗りをあげてくれたカヤが私についてきてくれることになった。

 そうして昼頃に迎えはやってきた。牛に引かせる立派な輿だった。話に聞いたことしかない乗り物に、促されるまま私は乗り込んだ。迎えの人々は無愛想な、表情を持たない人たちのように感じられた。

 実感が湧かないまま、輿はゆっくり動き出す。


「沙耶、沙耶」


 出発間際、兄の隣で私を送り出そうとしていた母が泣きそうな声で私を呼んだ。今まで懸命に保っていた笑みが消えた母は目を赤くして私を呼んでいた。母の涙を見たら、視界が見る見るうちに涙で霞んだ。


「母様!」


 思わず身を乗り出すと、カヤが危ないと私を止めた。


「沙耶、どうか、幸せに……!」


 母はそれだけを言うと崩れるようにして泣き出して、兄に支えられた。兄は私が見えなくなるまで、固く口を結んだままずっと私を見送っていた。

 森が大きく鳴く。風の香りが薄らいでいく。そうして私は、生まれて初めてムラと森から離れた。



 輿に揺られながら一日と半日かけて辿り着いたのは、驚くほど大きな屋敷だった。

 見たことも無い優雅な建物、豪華な装飾。屋敷の中には大きな庭があり、そこに広がる人工的な泉には、山や岩場を彷彿させる大きな石が所々に置かれ、その端には小さな滝があった。舟遊びでもするのだろうか。舟が屋敷側に用意されていた。

 何もかもがムラとは掛け離れ、どこか遠いところへ来たのではないかと目を疑った。

 長い回廊を渡り、自分の部屋に連れられて行くと、知らない道具で溢れ、社での部屋とは比べ物にならない広さに驚きを隠せなかった。

 最初は怯えるようにしていたカヤはやがて警戒するようにひとつひとつを入念に見て回ることをしていた。私の身の回りの世話をする名目でやってきた侍女たちはつんとした無愛想な女性が二人と、老婆が一人だった。最初は彼女たちからこの宛がわれた屋敷の説明を聞いた。

 どうやらここは私が夫とする人の屋敷の離れで、その人の正妻や私のような妾の身の女性が暮らしているようだ。妻という人々は私の他に十人ほどいて、主人の意向で昼間に一度同じ部屋に集まり、夫を囲む時間が設けられていると言う。そんなに妻がいる人なのかと驚いたが、これがまほろばの夫婦のあり方なのかもしれない。聞く話によれば、すでに数人子供もいるようだ。

 ここでやっていけるだろうかと早くも不安になっても、もう戻ることはできないのだと背筋を伸ばし、不安を打ち消すように母から持たされた自分の荷物を開けて、カヤと一緒に整理をしていった。


 まだまだ時間はあると思っていたのに、昼間はあっという間に過ぎ、ここへ来て初めての夜は否応なくやってきた。

 妾としてここへ入った私に、祝言というものなどは行われない。強いて祝言があるというのなら、今夜為されることがそれに当たるのだろう。何が為されるのかはよく分かっていなかった。ただ、私はこれからやってくる人のものになるということ、そして巫女という身分には戻れなくなることだけは鮮明に理解していた。

 他の侍女たちは顔色一つ変えずに寝具を二人分用意して、私に白い寝間着を着せるとそそくさと下がっていった。カヤだけが顔を青くして、さめざめと泣き、なかなか離れようとしなかった。


「お美しゅうございます……沙耶さま」


 震える声でカヤは言った。私は少しだけ微笑むことだけをした。それ以上は出来なかった。

 目を閉じて深く息を吸う。

 静かな夜だ。虫の鳴き声も、風の音もしない。森の香りも、水の音も。何も。

 あれほど彩られていた世界が、ここでは色を失ってしまったように見える。


「……では、私も下がります。どうか、どうかお幸せになれますよう」


 止めたくなる彼女の姿を見送り、私は一人、寝具の傍で待った。小さな灯りだけが傍で揺れ、私の影を揺らしている。

 沈黙は森で巫女としていた時はとても心地よいものだったのに、相手を待つ間のこの沈黙はとても居た堪れないものだった。もうこのまま夜が明けてしまえば良いと次第に思い始めた。


 やがて、足音がした。御簾を開ける音と共に、誰かが入ってくる。私は自然と顔をあげて入ってきた人物を目にした。


「そなたが沙耶か」


 優しげな顔をした人だった。父と兄以外の男とこうして面と向かって会うのは、何年ぶりだろうとぼんやりと考える。


「やはり美しい人だ」


 相手から放たれた言葉が耳にあまり入って来なかった。

 巫女の身分から解き放たれ、私は普通の娘に戻る──何度か思い描いたことは確かにあった。祝言はあげなくとも、私はこの人の囲い者になり、子を産むこともあるかもしれない。

 それは、幸せなものなのだろうか。母が願ってくれたように、幸せになれるだろうか。


「沙耶」


 黙ったままである私に近づき、私を腕の中に閉じ込める。あっと思った時には相手の白い寝間着からは香の匂いがした。身体が驚いて小さく跳ねたがそのまま抑え込まれて背を撫でられる。

 身体を固めた。こんな風に誰かに触られたことがなかった。

 私の名を呼びながら私の髪を撫で、結われていた髪を解いた。自分の長い髪が周りに広がり落ちたのを感じた。


「身を固めることはない。案ずるな。すべてを任せてくれれば良いのだ」


 私の首筋に静かに口付けながら、相手は囁く。

 遠慮無く襲ってくる初めての感覚に恐怖を覚えた。


「……いや」


 逃げようとしても逃げ場がなかった。広い腕に私の身体は包まれ、一枚の衣だけを隔てて相手の肌のぬくもりがこれでもかと強く押し付けられている。


「沙耶、ようやく手に入れた私の美しい妻よ」


 自分の肌を伝っていく濡れた感覚にどうしたらいいか分からなくなる。

 このまま腕で相手を押しやってしまいたい。でも、身体の思うまま抗ったらどうなるか。私は何のために意を決してここへ来たのか。


「……ま、……待って」


 やっとのことで発した声に、彼は唇を離して私の顔を覗き込む。

 初めて間近で見る、私の夫となる人は優しい眼差しでありながら、冷たさがあると思った。


「どうした、美しい人よ」

「……約、束を」


 自分の発したものは驚くほど小さな声だった。声が、身体が震えてしまっている。でもここで、確かめなければ。


「……お願いです。私と、契を結ぶ前に、約束していただきたいことが、御座います」


 あがった息では途切れ途切れになってしまう。


「何だ、何でも申してみよ」


 赤ん坊でもあやすような声だ。


「どうか私のムラを守ると。森を守ってくださると……お約束ください」


 私の必死な懇願を聞いて、相手は軽く笑う。


「カミを蔑ろにするものか」


 私の頬に唇を落とす。


「カミから貰い受けたそなたを生涯、大事にしよう」


 その言葉に真実があるかは分からない。私には、何かを決める自由がない。

 母や兄が言っていた幸せは、この人のところにあるのだろうか。この人を愛して、愛されることが出来るだろうか。


「沙耶」


 名と共に、唇を奪われる。寝具に倒れ込んで相手の手が優しく静かに私の衣の中に入っていくのを感じた。何も知らない私の肌をやわやわと固い手が弄っていく。

 瞼を固く閉じ、これで良いのだと自分に言い聞かせ、強張った身体の力を抜くように大きく息をした。


 これでもう私は。

 巫女には、戻れない。


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