第43話 赤、その老後について

 カーテンの向こう、保健のお姉さんの影がひっきりなしに動いていた。時折、ずごごと大きな医療器具らしきが床や天井から下りてきていた。ぴっぴっぴっと機械音がこだましていた。お姉さんが校長らしき人物に状況を伝えていた。


 僕はただ待つだけだった。


 保健のお姉さんに一任するしかないのはわかっている。


 けれでも、無力だった。お姉さんの一助にもなれない。


 落ち着かない。椅子に座っていられない。とにもかくにもソワソワする。


 初めて体験する、とっても不快な気持ち。


 もし、少しでも僕がお姉さんの役に立てたなら、この心はちょっぴりは晴れていたかもしれない。


 そうか。僕はお医者さんになろう。お医者さんになって、人の命を助けるんだ。


 数学も化学もできないけど、まあ、なれるだろう。


 だって、あんなダメ大人な保健のお姉さんだってなれたんだ。無免許だし。


 レツさんの命を握っている人を小馬鹿にし始めたところで、僕のジャケットの胸ポケットがブブブと振動した。


 僕のスマホは後ろポケットに入れている。


 ああ、そうか。レツさんの携帯を預かっていたんだ。


 金色で、お守りストラップでごちゃごちゃしたご年配用の携帯。マナーモードになっていた。


 昨日、レツさんに教えたんだっけな。早速使ってくれたのか。


 折り畳み式の携帯を僕は開く。


 知ってるよ。彼女の携帯を勝手にチェックすることが、恋人同士の別れる理由の一つだってことは。


 でも、俺、レツさんの彼氏じゃねえし。


 だから別れることもねえし。


 つうか、レツさんならバレてもいいし。


 謝るから。それで許してくれるから。


 容赦なく受信ボックスを開けると、番号のみで表された差出人不明のSMSの山。


 これは、仕方ないよね。レツさんにアドレス帳のつくり方を教えてないし、今度、明日、できるなら今日教えてあげるから。


 僕は無数のSMSを開けていく。


『俺ら自由科でも百田は人気ですから、ストーカーがいても不思議じゃないですね。了解です。怒隷狗全員の初仕事です。すぐに見つけますよ』


『ストーカーの件です まず彼女の男関係から探ってみます』


『結構な数の男と付き合ってて有名です。その辺ですね』


『昔の男を見つけました よく覚えてないっつてます 可愛いのは確かとかすんません よくわかんなくて』


『前の彼氏ですが、今日は休みみたいです。噂じゃ三日前に別れたみたいです。外れっぽいです』


『百田の男 昨日から学園に来てません』


『付き合った男三人が過去三日ほど倒れていたみたいです』


『三人ではおさまらないです。軽く十五人を越えています』


『百田と接点のあった男のほとんどが何日か倒れています 何人か接触しましたが みんな詳しくは思い出せないって』


『百田の交友関係を洗いました。特別進学科、スポーツ専攻科、普通科、学年問わず、被害者は多岐にわたります。全員とも倒れた前後の記憶は抜けてます』


『何かがおかしいです』


『姐さん、百田はヤバいす! 手を出しちゃ危ないです!』


『昼休み 体育館倉庫裏 姐さんの名前で百田を呼び出しました 詳しくは休み時間に』


『姐さん、今から迎えに行きますね。教室でお待ちください』


 ……なんてこった。


 どうしてこの情報を僕に教えてくれなかったのか。


 彼女に責はない。


 怒隷狗が百田の異常性を察したのが三時間目、その休み時間にレツさんは百田との対決に踏み切ったのだ。彼女には、僕に説明する時間がなかった。だから懸命に初めてのSMSを僕に送ったのだ。ローテクなくせに必死になって。現場まで僕と向かいがてら、全部を話すつもりだったんだろう。


 そんなときにかぎって携帯を二階から落とすとは……。


 ああ、クソ!!


 物事が裏目に出過ぎている。わかっているさ。運に見放されているのだ。今なら二択問題二十問を全部外すことができそうだ。百人同時にじゃんけんして、それでも僕一人だけ一発で負ける自信がある。間違いなく不運の女神が僕らに舞い降りている。


 保健のお姉さんだ。彼女に、レツさんが、そして怒隷狗が手に入れた貴重な情報を渡さなければ。


 彼女なら助けてくれる。……金はかかっても、それは校長が払うし。


 きっと、この情報がレツさんを救う手だてとなるに違いない。


 そのとき、カーテンが開いた。


 僕は即座に立ち上がる。


 終わったのか? 治ったのか? もう大丈夫なのか?


 いもし、そうじゃないなら……ならば、今こそレツさんの情報を。お姉さんなら、お姉さんの腕なら絶対何とかしてくれる。この俺の身体を治してくれたときみたいに。黄色になったとは言え、命だけなら取り留めてくれる。いいさ、レツさんの面倒は僕がみる。レツさんがクソババアに老いたって最期まで一緒にいます。だから、先生、頼むから。


 お姉さんは溜め息をついた。そして伏し目がちにして口を開く。


 僕は、その白い歯とともに発せられる声を待つ。途轍もなく重く、長く感じられた。


 お姉さんは告げる。


「……ヤッた?」


「……え?」


「だから家路いえじくん、ヤッたの?」


 おや、これは頗る悪い予感がする。身の危険とは言わないが、斜め上のとっても不吉な匂いがする。してたまらない。

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