第32話 空気がピンクい

 言葉が喉に引っかかってうまく出てこない。


 それでも一生懸命絞り出す。脳髄から肺から横隔膜から声帯から舌根から、あらゆるものを総動員して、言葉を紡ぐ。


「……お、おぅ、百田……さん」


「んん!? なんだ、あんたも学園の生徒なのか? 奇遇だな!」


 僕は咄嗟にレツさんの腕をひっぱていた。その行為に自分でも驚いている。


「どうした、牛乳?」


 別に百田を守ろうとしたんじゃない。レツさんが、悪級劣ワルキューレと違って、無闇矢鱈に噛みつくような人じゃないことはわかっている。


 でも、僕の手が勝手に動いた。


 そして、心の中で思っていた。百田、さっさと行ってくれと。その身勝手さはわかっているが、その理由がわからない。


 でも、百田がそこにいた。むしろ近づいていた。


「なぁに、カル君の彼女? すごいじゃなぁい」


 こんな甘ったるくて、ねっとりとした口調だったか。僕のお味噌はフル回転したが、思い出が一つもかすらない。こんな目の前に住んでいて、あんなに長く一緒の時間を過ごしたはずなのに。百田の記憶がうすらぼけている。


「んな!? あ、あたしが牛乳の彼女!?」


「あら、違うんですか?」


「んな訳ねえよ!! あ、朝から何言ってんだ!? お、お祭りじゃねえんだし!! な、牛乳、お前からも言ってやれ!!」


 僕はぎこちなく、小刻みにがくがくと顎を揺らす。頷くことすらままならない。


「すすすすす、すねねね」


 呆れたのか、たぁーとレツさんは自分の額に手を当てる。


「いいか、牛乳はな!! あたしの!! あたしの自慢の!! えーと、その、なんだ。うん!! そうだ!! 牛乳はあたしのサンドバッグなんだ!! 絶対壊れない、最高の殴り心地なんだぜ!!」


 レツさんは、その弾けるほど豊満は胸を反らして言い放った。


「え、僕、サンドバッグすか? 殴られるんすか?」


「うん?」


 自信満々の表情で振り返られても……。そこで僕を見て首をかしげないでください。


 いや、ありがとうございます。


 おかげで、全身にみなぎっていた変な力が抜けたようだ。


 僕は、改めて、百田を真正面に見据える。なるほど。学園一の裏アイドルと言われているだけある。物憂い眼差しと艶のある唇、どこかしら影のあるたたずまい、なんというか洗練された華だ。レツさんが野趣溢れる美だとすると、その対角線にある存在なのかもしれない。


 胸はほとんどないけどね。


 ……ははん! そういうことか! 油断したな、百田め! そうだ! なぜ、僕が百田に引け目を感じなきゃならない! どうして卑屈にならなきゃならない! 学園の裏アイドル? 知るか! 百田には胸がない! ソクラテスも言った。「無乳無知の知」だ! 厚顔無乳だ!


 ……おや? なんか、僕、このことで重要なことがあった気がするんだが……。


「えぇとぉ、私は一年三組、百田ローザです。カル君は見ての通り、生まれた頃からのご近所付き合いでしてぇ」


「ああ、うん、いろいろ動揺してて、すまん、百田……さん。この人は……」


「んふぅ?」


「な、何、百田? 何かした? 何かやらかした? まだ始まってもないぞ?」


「カル君、私のこと、ローちゃんって呼んでたよねえ。……ローちゃんは、もぉ卒業?」


 上目遣いで僕を見るんじゃない。無意味に心臓がバクバクするじゃないか。


「ああ、ええ、ろ、ろ、ローちゃん、この人は昨日転校してきたばかりで、二年一組のレツさんて……」


暮内くれうちだよ。こいつが世話になってるな」


「?」


「あ、あの、レツさんて呼ばなきゃ」


暮内くれうちだ」


 レツさんは、ギンッって効果音が似あいそうな一瞥をくれると、僕の尾てい骨を蹴り上げた。クソいってぇええ!!


「んふ、暮内くれうち先輩ですねぇ。よろしくお願いしますぅ」


「あいよ。適当にな」


「そ、それじゃ、百た……ローちゃん、僕らはこの辺で」


 僕は尻の悶絶と拮抗して、できるだけ自然に手を上げてみせる。そして彼女とは逆方向に身体を向ける。


「ぁら? 一緒に行こうよぉ、カル君。それとも、あえて裏道とかぁ?」


「んん、そこには複雑な理由があってですね」


「なはぁ(笑) 暮内くれうち先輩と手を繋ぎたいんだ? いやだぁ、それともキスなの、牛乳君(笑) あっちぃーい♪」


「にゃは、にゃははは、にゃはははははは」


 笑うしかないだろう、もう。


 レツさんはギンッ、ギンッって目から凄い圧をかけてくるし。


「じゃ、じゃ、百、ローちゃんも一緒に行こうか、ね、いいでしょ、レツさん?」


 やめて、変な角度から尾てい骨を狙うのはやめて。お願い、レツさん。諸悪の根源は僕のでいいから、やめてください。

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