第一章

有りすぎて 一

 義兄の恒男が危篤との電報を受け取った絹枝はとるものもとりあえず、娘の娃子あいことともに大阪行きの新幹線に乗った。

 娃子が買ってくれた車内販売のコーヒーを飲みながら、絹枝は人の命の儚さをかみしめていた。去年恒男に会った時は特に病気の話はなかったし、入院したことも知らなかった。絹枝の夫同様酒好きの恒男であったが、それにしても早い死を迎えようとしているのが気の毒でもあった。

 つらつら思いをめぐらしているうちに新大阪に着いた。この後、大阪駅から環状線、さにら各駅停車に乗り換える。

 姉の秀子は在宅していた。やはり体調がよくないらしい。

 絹枝と娃子はすぐに病院に駆けつけるが、恒男は荒い息をしているだけだった。

 側には矍鑠かくしゃくとして、今時珍しいあご髭を蓄えた老人が陣取っていた。その特徴ある髭ゆえにこの老人は「ヒゲさん」と呼ばれるようになる。このヒゲさんが恒男のすぐ上の兄であった。

 絹枝も詳しくは知らないが、恒男は十人兄弟であり、このヒゲさんに会ったのも今日が初めてだった。

 そして、恒男は亡くなった。後は葬儀屋のペースでことは運んでいく。

 そんな中で秀子は言った。


「知らせんとこ思もたんや、後で知らせよ思てたんやけど」


 だが、周囲から、そらあかんわと諭されて知らせたという次第であった。


-----なんと、バカなことを。


 どこの世界に夫の死を実の妹に知らせない姉がいるというのだ。

 この姉はいつもそうなのだ。いつも勝手な解釈で絹枝を蔑ろにしてきた。絹枝はむっとしたが、何といっても通夜の場、また、娃子の目が何も言うなと言っていた。だが、折角絹枝が黙っているのに、黙っていられないのは、ヒゲさんだった。


「秀子さん。あんたが恒男を愛しとったか、愛しとらなんだかしらんけど」

「待ってください、愛してもないもんが三十八年も一緒にいられますか」 


 やれやれ、また、何か始まった。

 体調不良を口実に、夫の最期を看取りもせず、死亡を知らされても平然としている秀子の態度にヒゲさんは怒りを発したようだ。


「あんたがそんなんなら、わしは葬式は出ささん!」


 絹枝はあきれた。ヒゲさんも大人気ない。

 いい年をした、明治生まれのジジィが愛すの、愛さんだのと、よくもまあ、恥ずかしげもなくそんなことが言えたものだ。それを、たくさんの人の前で、なんと恥さらしな……。

 だから、恒男の身内は嫌いなのだ。

 今までに秀子に散々世話になっておきながら、ろくでもない者ばかりではないか。

 現にいつの間に、帰ってきたのか呼んだのか知らないが、娘の茂子が奥の部屋で寝ていた。それも脳梅毒にかかっていると言う…。

 娘といっても、恒男の弟の子である。

 このバカ娘は放蕩三昧の挙句、すでに養子縁組は解消されているが、忘れられない程度には帰ってくるらしい。

 それだけでもうっとうしいのに、よりによって脳梅毒とは……。

 秀子と恒男が結婚した時は美男美女カップルとして騒がれたものだが、すぐに男の甲斐性とばかりに恒男の浮気は始まった。

 一度流産した後、子のできなかった秀子は、子沢山で生活の苦しい恒男の弟の子を貰うことにした。どうせ貰うなら男の子をと思ったが、ちょうどいたずら盛りで、到底秀子の手に負えそうもなく茂子になったという次第である。

 秀子にすれば、これで恒男の浮気が治まってくれたらとの思いもあってのことだが、秀子は茂子を大してかわいがりもせず、しつけと称して怒ってばかりいた。おねしょをした茂子を裸で寒い戸外に放り出したこともあった。

 絹枝は茂子がかわいそうでならなかった。

 当時の絹枝は前夫と三重県の田舎で暮らしていた。絹枝が訪れると、茂子はしがみついて離れず、自宅に連れ帰ることもしばしばあった。田舎での茂子はのびのびしていた。


「オカアチャンより、オバチャンの方がやさしい」


 と、よく言っていた。

 そんな絹枝も軍人だった夫を亡くし、叔父の勧めで再婚することになり、茂子とも離れてしまうが、女が一人で生きていくには難しい時代であった。

 その後、秀子は駅近くに美容院を開業した。恒男は反対したが、腕には自信があったし、せっかく茂子を引き取ったにもかかわらず、女遊びのおさまらない恒男に嫌気がさしていたことも原因のひとつだが、なにより社交的な秀子は、家事や子育てだけでは飽き足らなかった。

 無論将来は茂子に後を継がせるつもりでいた。ところが高校生になり、自分が養女であることを知った茂子は反抗的になった。

 それでも何とか美容師免許は取ったものの、遊び歩き、金がなくなれば家のものを持ち出して質屋へ持って行く。また、貞操観念などさらさらなく、中絶も売春も平気であった。

 見かねた恒男と秀子は、茂子がいつかやくざ者と関わりを持つ様なことにでもなれば、この家さえどうなるかわかったものではないとの考えから、養子縁組を解消することにした。

 しかし、今にして思えば、茂子もさみしかっのだろう。あのきつい性格の秀子と、いつもは落ち着いた雰囲気の恒男だが、突如として、大声で怒鳴り散らすのだ。これでは茂子もたまったものではない。

 しかし、再婚後の絹枝も苦労続きで、正直言って茂子どころではなかった。


----それにしても、梅毒とは。


 いくら、茂子に同情する点があるとはいえ。こんな恥知らずな病気は許せない絹枝であった。それに茂子だけではない。つい数年前まで、ここは居候の絶えない家だった。そのほとんどが恒男の身内で、それも単なる居候ならまだしも、金や物を持ち出したり、前科者までいるではないか。

 それも茂子の実兄の君男が、夫婦けんかの挙句、妻を殺し六年の刑を受けている。兄妹揃っての恥さらし者である。

 君男も出所後しばらくここで居候をしていたが、タクシー運転手の職を得て出て行った。絹枝は最近、その君男が再婚したと聞いて少なからず驚いた。世の中には、あんな人殺しと一緒になるような女がいるのだ…。

 当然夫婦で通夜に来ているが、今度小さな食堂を始めるらしく、その話ばかりしている。身元引受人になってもらった叔父が亡くなったというのに、秀子に気遣いすら見せない。

 そうなのだ。今、ここに集まっている恒男の身内はすべて、何らかの形で秀子の世話になったものばかりである。

 それなのに「葬式を出ささない」なんてよくも言えたものだ。みっともないったらありゃしない。

 最も一番がっかりしているは、ヒゲさんの息子の邦男だろう。この邦男も大阪で理容院を経営している。

 邦男にすれば、恒男より秀子が先に死んでくれた方がよかった。秀子が先に死ねば、ここは恒男のもの。また、恒男に取り入ることはたやすい。今度はどんな手を使って秀子に取り入ることやら。

 いや、邦男だけではない。みんな狙っている。

 六十坪ほどのこの土地を。

 駅に近い、大阪難波にも近い立地の良さである。

 だが、そうはさせない。

 この土地には、絹枝とて口を出す権利くらいはある。

 別に秀子の妹だからというのではない。それにはみんなが知っている深いいきさつがある。






 









 






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る