エピソード7 英雄なき時代の呪縛(#1~#11)

#1 「憲法」の意志と意図




 時計は午前十二時半を指していました。空が暗いのですが、ひんやりとした夜風は心地よいものでした。この時か来るのを知らせてくれたかのように、ぱちりと目覚めました。ニュース動画に興奮して、いつものようにうたた寝をしてしまい、起きる時間が狂ってしまったようです。昼過ぎに目覚めポテチで空腹を収めるとネットゲームをして、たぶん夕方四時ぐらいにまた寝たのは何となく覚えています。蛍光灯がちかちかと明滅していて、私は明かりを落として暗闇にし、いつものようにディスプレイテレビをつけました。いつもの青白い光線が目玉を刺します。目をこすりながら、仕事するという現実には、どうにも苛々が募ります。まだ五,六時間は寝られます。でもうんざりとする感情はいつしか書く意識を駆り立てていきます。なにかをどこへもぶつけられず、脳髄を流れる粘々とした血液が脳の中で詰まりそうです。何となく平和で、豊かで、そして不満と虚ろな一日を消耗していき、淀んだ空気の、やたらべとつく額の辺りを腕で拭ったりして。片手枕で横になっていた体を起こすと、やはり、苛々が募ります。不健全な何かが書けと命令している。

 生中継の動画サイトでは、いつもと違うニュースショウに高槻は出演していました。エイン・ソフ証券の何とかいう肩書きではなく「独立行政法人新環境社会経済研究所新環境経済担当主任研究員」という肩書きでした。相変わらずどういう仕事なのか分かりません。


「欧米中東亜大戦争」とテロップが入り、もう何度も聞かされてきた「問題がある」「あれも駄目、これも駄目」とよくもまあ飽きもせず言えるものだと、半ば呆れながらも感心してしまいます。脂ぎった連中は時たま笑いを誘う、迫力の無い下らないヤジ合戦をくり広げていました。人類が神と正義の戦いが炎となって燃えさかっているというのに。

世界中が楽園に暮らす日々を夢想しているようでしたが、この国にとっては違うのです。こういう時は悲観論を喧伝すれば、執筆した本を視聴者が買ってくれるからに違いない。


「アメリカの中東政策が変化を余儀なくされるでしょう」

「どう変わるというのかね?」

「その先は言わずもがなです」


 アメリカ第五艦隊だけでは戦いにならない、と高槻は続けて、


「別な海域から戦闘艦船を呼び寄せ、新たな大戦略の下での作戦を展開するつもりなのは明らかです。それは日本の海上自衛隊にほかなりません」

「『ブッシュの戦争』の忌まわしい結果を忘れたのか? 核戦争になれば、大艦隊も一瞬で消えてしまうんだ。日本も巻き添えになりますよ。ただ中東に依存しなければエネルギー問題がめちゃくちゃになる」その脂ぎった額を手で拭っては(そうだ、それを質すんだ)、と私は心の中でにんまりと笑いました。

「あんな国の核戦力などたかがしれている。もはやアメリカ一国で世界を操ることはできないという認識が、あなたにはない、と言っているんです。この地球上のすべての海域にアメリカ軍の艦船が展開されています。その上理不尽な軍事費を請求してくるのですよ、不死鳥のごとく世界の警察に蘇ろうとあがいています。もはや遺物となりつつある趨勢の自覚がなく、過去の栄光にしがみついて不都合な現実を直視できない。本音はびくびく怯えているのに」高槻はペンを指で転がしながら、

「日本がいつも踊らされてしまうのは、現実に目や耳をふさいで、とにかくアメリカにしがみつけば日本の平和が保たれる、という夢想しかできないからだ。アメリカは日本が今まで同様に債権国となっていて欲しいだけです。嫌なら切りますよ、アイツら」

 高槻は私の反論を軽く一蹴しました。そして待ってました、とばかりに世界地図のフリップを持って、マグネットになっている艦船動かしながら淀みなく回答しています。私は青ざめてしまい、平和なる「下卑た」価値に躍らされているのに気づいてしまいました。私は完全に論破され、戦争なんぞ愚の骨頂とばかりに次々と出てくる言葉の布石を打ちながら論じ立てていました。その他の評論家が次々に反論を繰り出しますが、地政学的に……云々、戦略拠点として……云々、テロリズムへの警戒として……云々と弁じたてています。


「日本も同盟国としての役割に節度を示すべきチャンスです」高槻は言います。

「日本がテロの標的になったとき、守るにはアメリカ軍が必要では?」私は無謀にも脅すように横やりを突くと、

「テロリストに『核』を渡っていることを理解していていない、まったく」

とやり返してきました。私はおもむろにツィートします。


「世界中の軍隊を武装解除する絶好の好機だ。核の保有を『国家』から取り上げ『国際的な組織』に管理させる」


 という「世界平和論」なる持論をもって反撃するチャンスを窺っていました。熱意を持っていれば分かってくれると。レスポンスが来ました。みな大笑いをしています。

夢みたいなこと言うな、朝だぞ、早く夢から覚めろ、それが出来ればとっくにやっているってwwwwww、善良的な者がいう善良な思想は時々その恐ろしさが分かっていない、オ前根本的ニ馬鹿ダナ一回死ンデヨwwwwwく考エロ、滅ビルベキダネこういうアホはwwwww

 酷評されてさらに笑いをとってしるツィートが続きます。


 私はいったい何をしているのでしょう。単なる一視聴者でしかない私は、無力で打ちひしがれている私は「平和」などを論じあっても、猫の前で逃げまわっているネズミでしかない。悔しさがこみ上げてきました。しかし私は徹底的にアイツを罵倒しなくてはならないのです。それは要するにこの持論をもって世界を動かしてやろうという、恣意的な欲望に満ち満ちています。しかしまったくそういうことでは無いのです! 

 ホモ・サピエンスというは新たなステージへ進化せねばならないと、荒唐無稽の論争を、私の脳はわめいていました。そんな観念に振り回されていく私は、自分自身に苛立つのです。それは全く個人的な問題からでした。そのために何度涙を零したことでしょう。それが彼を指弾せねばならぬ本当の理由なのです。




#2 意志なき国の意志




 二〇一五年に「安保法制」が成立施行されたにもかかわらず、似たような裁判が各県各都市で相次いで起こり、徐々に政府側の旗色が悪くなってきているところで、アメリカ政府から当然のごとく日本に協力要請が来ました。米軍の作戦に協力するよう迫ったのです。地方裁の憲法判断では「憲法違反」の判決が下り、政府側の敗訴が続きました。高等裁判決での判決は今のところ二つに割れていて、控訴して審理が続いている矢先での協力要請であり、日本政府はなす術がありません。

 ここまでに至る経緯は、集団的自衛権の解釈の変更に伴って自衛隊の任務は済し崩し的に増えていきます。今般の活動はペルシャ湾の警備に関するものでした。国連の決議を受け、さらに国会の多数派の議決を得たもので、未だ内戦状態のシリアやイラク、そのほかの中東諸国で暴徒と化したテロリストから民間船を守る、という「警備」と掃海艇による「機雷除去」、そして「邦人救出」が主たる任務でした。


「警備」と「機雷除去」はともかく、集団的自衛権の行使が可能になり、ここで宗教的文化に中立的立場を自認してきた「日本という価値」が問われた時に、戦闘に巻き込まれたらもはや事態収拾を図れなくなってしまいます。それはいわゆるガン細胞が東アジアにまで転移することになり、世界貢献と世界から賛意を受ける可能性すらあったのに、とあるリベラル系政治家は目を輝かせ、まるで救世主の言葉を説くような柔らかい物言いで議長の制止をまったく無視して説き続けています。

 クウェートでの休息で艦船の補修を受けていたときのことです(シリア、イラクはほぼ無政府状態でしたが、クウェートは治安が良かったのでここを前線基地として利用していた)。日本人宿舎に銃声が轟きました。この時の自衛隊の自衛措置の規約の下、反撃する権利を有していたにもかかわらず、現地司令官の冷静な判断で空砲のマシンガンと爆竹のような花火を使って敵を追い払うという作戦は見事に成功しました。その後、二度目の銃声が鳴り響く危険な状態が続きましたが、今度は地雷に見立てたかんしゃく玉と殺傷能力の無い弾を使った砲撃で、相手をパニック状態にして自称テロリスト全員を現地の治安当局に引き渡すという快挙を得ました。時の日本政府高官は鼻高々であり、野党は沈黙するしかありません。防衛措置であり、一人の犠牲者もなく収めたわけで何の咎もありません。

 しかし任務が交代して帰国してのち、派遣された自衛隊員が拳銃自殺をはかるという事件が頻発します。遺書はなくなにが自殺の原因は分かりません。しかしその後、安全なうちに帰国した自衛官にPTSD(心的外傷後ストレス障害)にかかっているという診断結果がでた、というニュースが流されると、にわかに政界は騒がしくなります。自衛隊員の健康管理はどうであったのか、野党は政府を問い質します。与党は海上自衛隊の活動日誌や記録、隊員のカルテなどを公開せざるをえず、公開に応じた結果は、白でした。特定機密保護法にあたる情報は文字通り修正液を施した「白紙」だったのです。


――今般、多くの自衛官が自殺に至ってしまった理由は、国家安全保障法が定める危機事態の判断の曖昧さにあり、自衛隊員の極度の緊張状態を強要した結果精神疾患に至った。武器使用を抑制的にさせる、という国権による「曖昧さ」が、自衛官の戦闘状態に陥った時の行動の判断を惑わしたがために自殺を促したのであって、明らかに現行法の法的安定性をつかれた結果と言わねばならない。

 国権が自衛官個人の任務と正当防衛の判断を縛ることは、また国家が個人の権利を曖昧にするのは明らかに、国権による個人の基本権への介入であり、さらに憲法九条の「戦争の放棄」の法的解釈を曖昧にさせて、憲法の目指すところの平和主義をゆるやかに放棄してゆく国家を企図しているやに見える。「国権の発動たる戦争」と「交戦権を認めない」という現憲法の精神を「自衛」「国際貢献」の美名の下に戦争に導こうとする態度は先の大戦の反省を無視していると言わざるを得ない。そもそも戦争は常に自衛の名の下に始めるは常識であり、論議を回避するがために、国会審議を悪戯に進めたこれら安全保障関連の諸法は、全て日本国憲法九条を著しく違反しており、このような暴挙を……


これが各々の訴状の主たる内容でした。訴状としては分かりやすく、類推とでっち上げをまとめて作り上げた現行の安保法制を厳しく批判しています。今般の訴訟は大法廷の憲法判断を仰ぐべき案件であるのは明らかです。しかし国家の意思はともかく戦争状態に巻きこまれた場合「誰」が「日本」を守るのでしょう。

 多くの問題を孕んでいながら対応ができずに踊っている国会を相手取り、遺族は政府を告発しました。


二〇一六年、集団的自衛権を保持するという自衛権の拡大解釈の閣議決定と時をほぼ時を同じくして成立した十数本の安全保障関連法の成立によって、危険を伴う任務を増やし精神状態を悪化させたという賠償責任と、自衛隊はあくまでも自衛権の範囲内での反撃などについては作戦行動を抑制する、つまり「たとえ自衛のためであっても、できるだけ発砲をしない」という抑制が精神の不安定にさせ、その緊張感のため自殺したのだ、という自衛隊員を守るべき権利があったとしてもためらいが生じさせてしまうことと、未だに議論のやまない自衛のための戦争は許されるのか否か、どうしてもという抽象的で曖昧になってしまう国会論議。そして国家の自衛権と交戦権の区別の是非をめぐる「違憲性」について。この三点について司法判断を求める、というのが、最初の遺族側の訴えたあらましです。

その後、堰を切ったように自衛隊員の常軌を逸した行動が頻発します。基地を抜けだし、クウェート市内で婦女と売春行為を行う者、掃海の失敗で多数の死者を出したこと、そしてイスラム教原理主義組織による本格的な基地の襲撃で、自衛権員の反撃は正当であるという政府の見解について、ついに自衛隊員が発砲し現地民に死傷者をだしたこと、などなどぽろぽろと明らかになってくるので国会は連日紛糾しました。いずれの事件事故も法の想定の範囲内である、と政府は国会でオウム返しのような答弁をし続けますが、世論が次第に動揺するに伴い、防衛省庁舎前の九段坂前で白昼、十数名の自衛官がこめかみに銃声をならして一斉集団自決するという事件は衝撃的で、一般国民は決定的に動揺し始めます。

 自殺した自衛隊員の遺族たちは市民活動団体と一緒になって、大挙してどのような状況だったのかという説明を求めるデモ行進する行動を通じて、徐々にこの法律の違憲性について問い質すという勉強会などが企画され、その勉強会には徐々に憲法学者や安全保障の専門家や弁護士、そしてジャーナリトにいたるまでが集まり始めました。そしてみなが一体となった弁護団が組織されるに至ります。散発的に起きた些細な事件が、市民運動という形になり、そして怪しい情報が流布されるにしたがって大規模な組織となり「一斉集団告訴」という形で提訴に踏み切りました。

 微妙ですが自衛隊と日米同盟、そしてアメリカの核の傘があって日本は防衛してきたのもまた事実でしょう。一度使った作戦は二度と通用しません。本格的なテロ集団が襲ってきた場合、自衛隊が海外で行う行為を国会や裁判所がいちいち違憲性を審議していては、敵に対して侮られるのは確実です。現行の「日本国憲法」と制定された「国家安全保障関連法」とは、両者を照らし合わせて違憲立法であるかどうかを、すなわち合憲か違憲かの司法判断を求めるのは意義深い、と言えるでしょう。しかし現実は待ってくれません。

 憲法九条と自衛隊の存立についての最高裁大法廷の憲法判断は「統治行為論」という根拠をもって憲法判断を回避してします。


「高度に政治性を帯びた統治の基本に関する条項については憲法判断が出来ない」


とする論理を最高裁は採っています。私もよく分からない判決で、色々と資料を検索して調べてみても、未だによく分かりません。ただ三権分立の構造からすると、その一角を占める司法権の人事について国民はノータッチです。別に選挙をして選ばれたわけでなく、司法試験という国内で一番難しい試験に合格するものが裁判官になるわけで――最高裁判所判事だけは国民審査がある、というだけをもって民意を反映しているとはいえません。だとすると「安全保障」という国家の大問題を、憲法違反という理由もって決めてしまうのがいいのかどうか、というと確かにそれはやり過ぎかも知れない、という感じはします。

 自殺した自衛官の一人に「侵略」を意図した命令を下されたと感じた、という文言のある遺書がありました。自衛権の行使以上の意図を含んだ命令を口答で指示されたと記した文言が記してありました。これは憲法尊重擁護義務違反ではないか。自衛隊の最高司令官である首相には裏の企図があるのではないか、と国会で連日総理大臣は追求されました。弁明に次ぐ弁明に追われ、ある国会議員がテレビのニュースショウで、


「無関心な国民に国家のなんたるかが分かるものか!」


与党の閣僚ががつい激昂してしまい、その議員を辞職に追い込まんだ経緯もありました。首相はもはや追求をかわしきれない事を悟り、総辞職してしまいます。

 本来後任の首相候補者である野党党首もこの世界情勢の中でどういう態度を示すべきか、という肝心な理念が欠いていて、あれだけぎゃあぎゃあ言いながら、あっさり諦めてしまいます。野党との、反論のための反論という馬鹿げた国会審議であったことで国民のひんしゅくを買い内閣は責任を取るなどといって「無責任」にも辞めてしまう。建設的で具体的なヴィジョンがない全く描けない状態にあって、そしてあれほど騒いだ野党にもこの事態に対する具体的な政策がないのです。国民の側も、この国の行く末が見えない現実に愕然とし、ニヒリズムと衆愚政治が蔓延していきます。


 ちょっと先走ってしまいましたが、各々の裁判の経過は、地方裁においては「違憲」の司法判断が頻発しています。地方裁での司法判断は判例にならないとはいえ、住民参加の裁判員裁判であり、国民の民意を反映しているわけで軽視できぬ判決でした。無責任な内閣は外交上の理由からという理由で一九六三年の「砂川裁判」の時と同じように最高裁判所に「特別抗告」しましたが、最高裁はあっさりこれを棄却。通常通り控訴させ、すなわち高等裁判所での審理を行うよう命じたのです。法的手続きは守らねばなりませんが、外交や国会対策などで手腕を発揮し、この膠着した状況を変える聡明な指導者はいません。憲法改正論議どころではなくなりました。そればかりか今度は人道的支援とか、給油などの後方支援すら違憲ではないかと、数十年まえの論点を蒸し返し、護憲派を自認する議員の憲法論議を、ここぞとばかりに展開する端緒ともなりました。護憲派の反撃に対し、内閣は再び総辞職。その後の政府首脳部はもはや物事をどう動かせばいいのか、方針も対策も示せなくなる事態に陥りました。そこに「国家の意志」など全くありません。

「もはや戦後ではない……戦前だ!」というキャッチコビーが流行語大賞に選ばれたりし、気づけばお互いがお互いを嘲笑するばかりのユーチューバー、猛り狂う議員の動画で囃子立て、笑いのネタにするジャーナリズムとなり果ててしまいました。

「お終しめえだぁ~あ、お終め~だ」とさらに煽って滑稽な論議を傍証する動画が相次いでツイートやら書き込みやら動画を編集したりして配信し、真っ赤な顔をして怒っている議員をフィーバー、フィーバー、とかツイートしてアナクロナイズされた言葉で揶揄して盛り上がっていました。




#3 一市民の自衛と国家による戦争と




「テロに屈するわけにはいかない」がテロの被害は治まる気配がなく、アメリカは陸海空の軍備を総動員してテロリストのグルをあぶり出し、イギリス、フランス、ドイツといった欧州諸国も同様に対処しましたが、ひとりを殺しても、新たな指導者が現れテロを続けます。そしてまた戒厳令がいっそう厳しく敷かれますが効果は無く、どこどこが危ない、などという噂ばかりで人々は翻弄されるばかりでした。アメリカの大統領をはじめとする欧米各国の首脳たちは、アメリカにある核シェルターに集合しました。外では一般市民がぎゃあぎゃあ声を上げている様子を世界に配信しています。ここで世界大戦の大戦略を練っていると言います。(日本の保守的な政治家たちはここに日本の首相がいないことに歯がゆい思いを持っていたようです)いつしかそれは「十字軍の最高司令部」と呼称されることになります。私はぎっと掌を握りしめ、口を真一文字にして眺めていました。各国首脳は世界中に展開する数百数十万の士官と兵卒に対して訓示をしました。水を打ったような静けさの中、その背筋をきりっと垂直に立たせ、精悍とした肉体を。鍛錬された屈強で引き締まった肉体を持つ男たちに「正義」を説きました。みな国家国民を守る、という厳つい面構えをしていました。その表情に死を恐れない矜恃を感じずにはいられません。


脂をそぎ落とした究極の肉体を。戦うための意志と鋭気の視線は戦うという目的をもった、合理的な肉体を、私は「美しい」と思いました。あの厚い胸板を、殺気立った鋭い瞳を、そして彼らの冷静さを。彼らには命を託せる、託すべきだ。この地球上で何が起きたのか。何が起きようとしているのか。本当のことなど誰も分からないのです、しかし最悪の事態を知っています。座して死を待つわけにはいかない、という覚悟のもと、彼らは我ら地球市民の尊厳のために戦い、自死をもってしてでも守り救ってくれるであろう。彼らは凜とした気高さと優しさ以上の何かを持っていました。

 皮肉にも私は世界平和を訴えながら、兵士に憧れていました。私はむしろ死んだほうがいいのではないか。私は恥を晒して生きていく自信があるのか。私は全く矛盾に満ちています。いつの間にかよだれを垂らしながらうたた寝をしていて、はっと目覚めたとき、いつものようにパンを焼き、インスタントコーヒーを飲みました。鏡には朝から疲れた顔をして太鼓のような腹を叩いている自分の体がいつになく醜く見え、あのあるべき姿と比べながら、自分もあんな熱意、弱者へのいたわり、そして誇りをもって死ねるとしたら、凜々しい人生だったと語り継がれるだろうに、と出来もしないことをさも出来るかのように悦に入っている自分。かたや未だに終わらない討論番組の生動画のパネラーたちは、てかてかと脂ぎった額にしわしわのハンカチで汗を拭い、斜に構えた安そうなジャケット、むさ苦しくさせるクセのある髪の毛。知ったかぶった解説をして泡銭をくすねるようなさもしさ。一般市民にパニックを煽らせるだけ煽って、知性とやらを披瀝しているつもりなのでしょうか。しかし私はこういったコイツらの存在が羨ましくてなりません。つまりはちっぽけに終わる人生が嫌なのでした。


「私というちっぽけな存在」


認めたくない私は、この鬱蒼とした狭くて汚い部屋から毎日一人、カタカタ、カタカタとキーを叩いている自身に対する……言い訳をしていました。どうせ安い賃金で働かされるだけのただの青年、ひ弱な若者。鬱屈した塊が全身に脈打っているのを感じている私は、なんとまあ華奢なことか。僻みに過ぎない小心者でしかありません。やがて頭の中が割れて葛藤が始まります。才能がないくせに、つまらない理屈をつけては中途半端。精神的にも物理的にも逃げ惑っているだけ。私はその事実を認めることができぬまま、狭くゴミだらけの部屋から――学歴が何だっつーんだ、所詮おまえは試験に合格しただけじゃねえか。成功者だと勘違いしてやがる――私は入魂してキーを叩きます。私を落伍者にしている不条理は、やがて本音をついに吐露してし始めました。全身が奮え、雄叫びをあげ、世界平和をもたらそうという、小指の関節が折れてしまいそうな虚脱した作品をもって、論陣を張ろうとでも思っていたのでしょうか。おそらく違います。何もしないに違いないでしょう。私はネット空間でさえ死にました。語るべき能のなさを、認めずに、私はあの兵士こそが同志であると賞賛しつつ、戦争反対を述べる――なんという矛盾! 

打ちこみを止めると立ち上がりました。姿見に映る自分をみて、今おかれた平和にありがたさを感じることもなく、しかし一発の弾丸で死んでしまうことを何よりも恐れていました。それはなんとしてでも避けたかったのです。なぜなら、


――英雄として死にたかったからです。


核兵器で何十万人もの人々を虐殺した悲劇に、巻き込まれる、なんてのはごめんです。空論をほざく自分を笑いつつ、彼らに中指を立てながらもその実は憧れだったのです。世界中の苦難の民が恨み、怒りをぶつけている行動に羨ましさを感じている、この使命感とやらをもってして孤独に戦う義賊を宣しているようでしたが、その実、明朗に笑いをとりつつ現実批判している評論家やタレントのような人種に憧れていたわけです。私は諸葛孔明のような知謀を持っているとでも言いたげした。本音はこの国の形、国家体制を明瞭に律したいと、真の改革論者を目指しているとも言いたげでした。ひ弱なくせに批判ばかり論じたて、いずれはこの国の頂に立とうという下卑た夢想。あの、腹を蹴飛ばされ反吐を吐いた夜に、あの憑依した覚醒を思い出しながら。

 罪のない慎ましい生活をも送れない、社会の底辺にいるこの被害者たちを代弁するするかのごとく立ち上がり、黒い野心を腹にしたためている、どうしようもない贅沢坊やの愚痴を述べている私は、所詮自己実現の領域を超えることができぬままの口うるさいオヤジ野郎そのものでしょう。成り上がるための手段として、あの兵士の鍛えられた肉体に感涙しているだけの、悦に入っているへたれ野郎。


ああ、何度でも言いましょう。


私はぱりっとした背広でも着て、小賢しい面で解説でもして、いつの日か、専門家気取りでタレントにでもなろうとかしてチャンスを窺って、あの、こいつらみたいに、この高槻のようないい身分になりたいものだと、いかにも理知的に成り上がろうとしていたのですよ! 私はこのくらいの事態の被害は我慢をしろ、とでもいう結論をもって少数者を見殺しにし、いずれは社会全体の利益になると主張するに違いない見栄を張り、自分への反論は忌むべき個人的な癇癪だとして一笑に付しながら。何という傲慢! まるで搾取の論理! 要するに私もその中の一人になりたいわけです。ええなりたいですとも。私は文句を言う材料を検索しているだけの存在。世界平和を訴えようとして、自己に凜とした面影を残したいのです。意地汚く、反吐が出るほど意気地なしのエセリベラリストですとも。

へっ、笑え、笑え……


 つい最近まで毎日モップ片手に「こんな経歴も語り草にはちょうどいい」と考えていたのではないでしょうか。右に自分の成功を天秤に載せ、左に核爆弾の被害に襲われた人々への哀れさを左に載せ、右が上がるようふるまう、所詮その程度の、計算高い卑しい人間です。どうしてそう汚く振る舞わねばならないのか。高槻の延長線上にあるもの、美怜を手に入れるため、私はあの女にこそ支配される資格があるのだ! 

 あのあくどい女にこの社会空間の中で踊らされていた操り人形にすぎないのでした。気づかずに、いや半ば恣意的に操られるのを望んでいたのです。私はあの女の所有物になりたかった。そして私はこの世界を、この実世界を操る力を持って真の支配者になろうとしていました。それすら彼女を喜ばせるための貢ぎ物にすぎません。右手や左手、足や腰を使いながら不埒な観念に踊らされている私を、ついに露呈させてしていました。

 ピュア? 純情? 誠意? とにかくこの純粋な「愛」を受け取ってくれ、と? 

事実を、そう、ただ踊らされているだったという事実を,どうにか覆そうと躍起になっていたのです、私はやがて熱病にうなされていくような運命を辿ることになります。




#4




 その男は幼いとき独りで遊ぶような少年だったらしい。成績は良かった。青少年福祉センターで見せた彼の行動をつぶさに見ていたスタッフの一人の記録は次の通り。


 公園で独り、遊んでいると地面ばかり見ていた。ある一匹のアリを見つけるとアイスクリームの棒で突いたりして遊んでいた。いつもアリは外で働いているから体が黒くなったのだ、と学校の先生が言っていたのを思い出しながら、そんなに一生懸命働いていったい何を楽しんでいるのだろうか、と思った。そこら辺にいるアリに向かってアイスの棒で攻撃した。すると自分の呼吸が早くなっていくのだった。お前の運命を握っているは、僕なんだ。力いっぱい棒を地面に向かって突く。へっ逃げても無駄だ、と言いながら一匹のアリに集中的に攻撃する。そのうちにだんだん頭にきて、立ち上がるや空のペットボトルを見つけて水道の蛇口に水を溜め、そしてアリの巣に向かって放水した。泳いでいるのか、溺れているのか、あっぷあっぷしているアリに男は笑った。これはただの放水だが、アリにとってみれば天変地異だろう、と思った。何の罪もないアリに向かって僕は制裁した。社会的昆虫と呼ばれる、アリに今少しの知能があれば、この空の向こうにいる神にむかって、救いを求めるだすう。何の罪もないアリにとって自弁は絶対的な力を行使できる。そう思うと気分が悪くなって、立ち上がなり逃げるように息を上げて、全速力で家に帰り自分の部屋入るやベッドに飛び乗り、布団を被り膝を額をくっつけて、体を震わせてずっとそののまま動かなかった。ごめんなさい。怖い、怖いよ、といいながら、喋り続けていた。


一九九九年 九月二十三日 午前九時二〇分記す。



 近所の開け不たちの話によれば、私立中学受験に失敗してから乱れ始めた、のだという。やむなく公立中学に進んだ彼は高校受験を放棄して、自分のやりたいことを見つけるのだと、一人上京した。彼の志望はミュージシャン。ありがちなパターンだが、その後彼は『在日』朝鮮人の連続殺人犯として検挙される。これを機に彼は(ごく一部のセクトにとって)一躍注目される存在となった。

 彼はたまたま(在日の)女を口説いただけだ、と主張した。町をぶらつき、アイスクリームを舐めあいながら道玄坂を登って将来の夢を語らい、極めて純真、誠実に、その女性を愛していた、と。それだけでなく彼女を襲おうとした暴漢からその女性を守ったと冷静に述べている。彼女の死はその男と関係はないとも主張した。それは取材した番組記者がある報道番組のスクープ取材として明らかにする。溶接工として懸命に働いていた様子もカメラに収められていた。それが潮目の変わるところだった。誰もが真面目な少年、という印象をもたれ。結局起訴猶予処分となって数か月の拘置所生活を終えると奇怪な道を歩むことになる。一二歳の九月十一日のことだった。

 この事件は、番組記者が突然辞表をだすという、妙な行動から始まる。

 身上の都合、という夢と現実のキャップに耐えきれなくなってレールに外れていくパターン。まあ、大卒で新聞記者となった彼は、はっきりしない理由で辞めてしまうが、まだ決行をしているわけでもなく、まだ可能性のある時間なのだから、ゆっくりと自分の力を発揮できる道を見つけるのも、悪くはないだろう、というのはその男の同僚の証言だ。しかしなぜか独りむせび泣いていた、と周囲の者たちもいた。叱責を受けたか、女に振られたか、というのが女性社員内輪の話にだった、との言葉もある。

 それから間もなく、彼と彼の情を通じた女が変死体で見つかることになる。

 スクープは偽装だった、と遺書に書き記してあった。ことの下りはすべて嘘で、要するに熱く口説き落としてはその娘にクスリ(揮発性が高く、化学的な反応が出ない新型の化学薬品)を注射し、中毒症状を起こさせて廃人同様にさせ、女の印を突き上げて殺したのだ、と警察の捜査で明らかになる。


 新聞記者は実はその事件に関与していてその少年と結託して、幼気ない処女をレイプし殺害していたこともあったことも明らかになった。

 被害者は在日朝鮮人女性に限られ、純真であると主張したのは、さる団体からの脅迫で言わざるをえなかったので口裏を合わせていた、とも具体的な名前を挙げて、いたのは被害者団体の調査報告にある。組織的な関与を臭わせる文面だった。


――という記事が女性週刊誌の穴を埋める程度の小さな記事として掲載してあったのです。私はこれを拘置所にいるときに目にしました。ある女を口説き、薬物中毒にさせたあげく輪姦して殺した、というひどい事件でしたが、こう言っては何ですが、今ならばごくありふれた事件ではないでしょうか。殺伐と世知辛い世の中にあって、私がそのページを読み終えた時、同じ部屋にいたある男がにやにやとした顔を向けているのに気づいた私は、それは俺さ、というのです(本当に誰も気づかない程度の声で、まるで私にだけ送った笑みでした)。それは地方裁判の憲法の司法判断が全て「違憲」の判断が出揃うのを嫌って政府は控訴した数年後のことで、高等裁判所の判決が割れた、というニュースが流布されて結構な盛り上がりを見せた時期でした。彼はどうやって持ち込んだのかしりませんが「血盟書」なる小さな紙切れを私に渡してくれました。どうやって持ち込んだのかと訝しんでいると、小さく丸めて肛門の穴に入れていた、と言いきりました。無理やり私のパンツの中にそれを押し込むと、間もなく刑務官が来て法廷に連れて行かれました。その後彼は無期懲役の判決を受けた後、所内で自殺したそうです。その「血盟書」なる小さな紙切れには、達筆の文字が躍るようにずらずらと書かれてありました。


 我らは穢れた神国を復興させる意志をここに確認する。邪な血を注入することをもって、彼奴らは文字通り血道を上げて、我が「大和大日本国」をじわじわと乗っ取り滅ぼさんとしている。奴らの思惑を挫くため、彼奴らを殲滅せねばならぬ。


悪逆非道な彼奴に、暴動をもって報うのは自明の理なり。


我らは同志、我らは狂気、我らは彼奴等に鉄槌を下さん。どんな手をも厭わず。あの憎き「血」を一掃し、たとえ罵られようと、叩かれようと、我らが意志に変節なし。我が命、君に忠を奉る。この書をもって確認する。我ら今ここに血盟する。




#5




 今日もまたモップ片手に床を拭いています。カファルが入った初日はみな笑顔を見せていましたが、今では今までにないくらいぎすぎすした雰囲気になってしまって、みな喋らず、ちょっとしたことでも癇癪を起こす始末でした。こうして拭きながら、既にもう半ば腐りながら、仕事にいそしんでいました。世界中大騒ぎだというのに、この国は驚異的に平和です。遠くから戦争反対のアジテーションが聞こえていますが、みなうるさいとばかりに耳を塞いで、鬱陶しそうになりそうでしたが、ドップラー効果で間延びした軍歌と拡声器の声のおかげで、その場を離れていくと、大きく溜息をつき、また日常の掃除に没頭しました。

 この国の一般市民は、世界が終わるかもしれないという可能性すら認識していないようです。私はこの状況に呆気にとられてしまいましたが、明日絶滅する運命でも、林檎の種をまきに行こう、などという詩人の諦念に至ったわけでもなく、心のどこかでこの世の動転を待ち望んでいました。

 モップの往復運動をしていて、ふと顔を持ち上げるとフロントに女がいました。真白なシャツにブルーデニムの組み合わせた、黒い細縁の丸いメガネをかけています。どこかで見たことがある、と思いました。モップを往復させていると、額のあたりで何かがよぎりました。そうです、地味な、あのみすぼらしい貧相な女です。美怜が、いや正確には高槻の妻に収まっている美怜、と決めつけてはいましたが、女はまた大きく溜息をつくと、にやりとしたなんというか、虎を自分の後ろを歩かせている狐のような賢い表情の笑みでした。

 受付のカウンターであの時とまた同じように肩をすぼめ、首をかしげながら軽く一礼してこちらに向きかわりました。またため息混じりに視線を落として、すたすたと逃げるように歩いていきました。その刹那、白石さん、と思わず私は声をかけてしまったのです。このまま素通りさせれば何事もなかったはずです。単に私の勘違いかもしれない、でも賭けてみる価値が十分にあります。彼女はピタと止まりました。私の予感は当たりでした。干からびた心に潤いを求めていた私はいっそう笑みました。今ある結果から逆算すれば浅はかだったでしょうが、この時口にしてしまったことを取消すことは出来ません。後悔する気はありませんが、しかしこうなる運命になるとは、こんな結果になろうとは、思いもしませんでした。

 女は振り返り、じっと私を見つめています。

「……それとも高槻さん、かな?」

 さらにもう一言呼びかけると美怜は振り返り、じっと見つめています。私は笑みながら見つめました。

「忘れちゃった?」美怜は口に掌をあてて、検索しているコンピューターのようにしばらく黙り込んでいました。

「白石美怜さんでしょ、それとも高槻美怜さんかな?」

「……松野君?」


 美怜は未だ半信半疑のようでしたが、

「久しぶり」私は帽子を脱いで軽く一礼しました。

みるみるうちに美怜の顔がほころんでいきました。美怜は大きく口を開け、慌てて口元を隠してまた大きな声を上げました。それは大地に満々とした水を満たしていくような、優しい表情を取り戻したかに思えました。美怜のその不格好な服装までもが、はずんだファッションのように見えます。元気そうだね、というと少し陰を見せながらも、ありがとう、と返してくれました。


「お仕事大変そうね」


 美怜は言いました。私は頷きながら、

「時間ないかな。久しぶりだし、向かいのカフェで、どう?」

 美怜は躊躇しているようでした。

「あと数十分で事は終わるんだけどな」

 美怜は腕時計を見ながら頷くと、

「いいわ、だけど夕食の時間までには帰らないと」

「分かった。じゃあここの向かいのカフェで、待ってて」

 美怜は掌を開いて、四、五本の指を小指から順に折り曲げながらエレベータに乗っていきました。私は何かを取り戻したような感慨に耽りました。偶然と勝手な憶測が現実となって美怜と結びつきました。舌打ちした作業員が二、三いましたが、仕事ははかどり鼻歌交じりに床を拭いているのを咎められましたが、全く気にしませんでした。

 仕事を終えると、作業着をさっさと脱いで急いで外に出て、交差点の信号をもどかしく感じながら渡りました。それは初デートでの緊張感と嬉しさに似ていました。まだ幼さが抜けていない自分をまた笑い、軽やかなステップで横断歩道を走りました。

 カフェに飛び込むと美怜は手を振っていました。ゆっくりと弾む足取りで近づくと、

「元気そうだね」

 と声をかけると、彼女は目を伏せがちにカップを降ろして頷きました。

「松野君もね」

 とまたカップを持らながら「何年ぶりかしら」と言ってカップに口をつけました。

「五年ぶりだよ」と即答すると、美怜は、ふふっと吹きだして、

「ずいぶん計算早いのね」

 と正面から覗き込む仕草をして、私は恥ずかしさに負けて視線をそらしました。

「この間会ったユウジに三年ぶりって言われたから。それから二年足しただけさ」


 このユウジという名を口にしたとき、女はほんの一瞬口元がぴくっと振れました。

 美怜にはユウジと高槻との三角関係が取りざたされていて、四、五人の男で溜まると、これからの展開をからかい混じりに噂しあっていました。だから一目置かれるほどの美形の女にも関わらず、いえ、だからこそ、というべきでしょうか、ユウジを捨てて高槻にくっついた時に、いい噂がなかったのです。しかしユウジもいい気味だ、くらいのやっかみはありました。お気の毒と同情する友人も笑っていました。私もその溜まりのひとりでしたが、黙って見守っていました。なぜなら私には勝てる要素がない恋敵だったからです。




#6




 美怜は笑みながらまたカフェラテに口をつけました。頼んでおいたブレンドコーヒーが運ばれてきて、一口飲むと、


「ユウジ君に会ったの?」


 お互いカップを持っている手がぴたりと止まりました。私はまずい人物を割り込ませたと思いました。しかし美怜は何を感じとったのでしょう。この一瞬の間に彼女の頭の中には一本のシナリオを書き上げていたのかも知れません。

「あぁ、コミックマーケットとかワンダーフェスディバルとか、そういうのにはまっているんだ。この間呼ばれて行ったんだよ」

 美怜はゆっくりとカフェラテに口をつけながら頷いていました。

美怜は過剰ともいえるほどはしゃいでいました。本当の高校生に戻ったような気がしました。美怜とはクラスメートでしたが、ほとんど会話らしい会話をしていなかったのに、本当に会話が弾みました。

「高槻に会いに来たんだろ?」

 私は探りを入れました。今度は美怜が分の悪い表情になりました。しばらく黙り込んで、

「……私たち別れることになると思う」

 美怜はきっぱり言い切りました。二人が結婚していたのは実証されました。私は歓喜で体が飛び上がるほど軽くなりました。あの日、一緒にいたあのキンキンと鼓膜を針でつつくような声で癇癪を起こしていた女、あの女が愛人か、悪趣味だな……などと私も頭の中を巡らせていると、

「翔さんね、不倫しているみたいで」

 美怜はカップをソーサーに載せ続けました。


「ある日突然、横山絵里とかいう女がうちに乗り込んできたの。インターフォンから怒鳴りつけてね。やっぱり私の直感は当たったわ……で、とにかく怖くて、本当に翔さんはいなかったのに、その女は嘘つくな、なんていうのよ。ひどいと思わない? だから、もう……」

 私はこの間の剣幕を思い浮かべながら聞いていました。

「子供はいないの?」

 この時すでに、私は邪まなことを考えていました。

 美怜は軽く横に振り、

「子供なんて邪魔なだけだ、なんて言う人だから。育児費や教育費とかそういう計算は速いのよね。私を家に閉じこめておいて、自分は子持ちの女と不倫していたのよ。もう限界」

 私は話の間しばらく黙りました。私は美怜を奪えないか、そのことばかり考えていました。しかしふと現実に戻され、美怜との生活を想像し始めました。育児費に教育費、証券会社に勤めている高給取りが、そんなところでけちっていることが不格好に思いましたが、翻って自分のことを考えると私自身を養うこともままならない、ただの清掃作業員です。その瞬間昂ぶっていた発熱は冷や水をぶっかけられたように冷めてしまいました。私はこの雰囲気に耐えかね、トイレに立ちました。(私の直感が正しければ、この時彼女は私の電話をいじっていたに違いません)。

トイレで用を足しながら、嫌気がさしてため息をつくと、このまま別れようと思いました。しかし美怜のあの沈痛な表情は家庭に戻りたそうには見えなかったのです。それはよく分かります。籠の中の鳥、退屈しのぎというのは言い過ぎでしょうが、鬱屈した想いを晴らしたい気持ちもあるに違いありません。この時は本当にそう信じていました。


「ユウジ君、元気?」


 戻ってくると二の次を言わせず、そう聞きました。私はどう答えればいいか迷いました。ユウジも傷つけず、美怜の退屈しのぎにもなるような話が浮かばなかったのです。

「マンガの原稿描いて、漫画家になるのを夢見ているよ」

 とりあえずそう返すと、美怜が艶やか色めきたったように見えたのは、下衆の勘繰りでしょうか。

「へえ、今時夢追っているなんてすごいわね。あの人結構のめり込むタイプだったから」

 顔を見上げて夢見心地にそう言う美怜を、さすがに両天秤に載せただけある、と私は萎えた心がさらに進んで、女のしたたかさに興ざめしました。だったらなぜユウジを選ばなかったんだ、と少し怒りの感情も交じり、


「君は一途な女だと思われていたんだよ」

 と冷静に突き放つように言いました。


「え、私……?」

 と美怜は驚いた声をあげると、目が泳いでいました。


「あ、ああ、翔さんとのことね。あ、あれは仕方なかったのよ。ユ、ユウジ君、結核にかかって退部したじゃない。し、心配だったけど、し、翔さんが私を引き止めてね。あの、『俺が幸せにしちゃるって』いうんだもん……」

 急におどおどし始めたのは、昔話の照れ隠しでしょうか。右手で口を押さえながら話す仕草の美怜が、急に貧しい主婦の格好に見ました。高槻はこんな可憐な表情を魅せる女を、なぜ疎ましくなったのでしょう。

「やっぱり子供が欲しい。お金で幸せは買えないわ。家に一日中閉じこめられて、ちょっとスーパーで買い物して、洗濯して、お料理して、後はぼーっとしているだけの生活って分かってくれないでしょうね。周りじゃ高給取りの奥様みたいに通っているけど……」

 彼女は最後の一口を飲み干して、

「愛も枯れるわ」


 これで二人の関係は終わりました、すると私は自由の身となった彼女をどうしようかと、また自分の裏の顔が頭をもたげ始めます。奪うことはたやすい。その気持ちはこのほんの数分ですっかり変わりました。ユウジには今のうちに注意を促しておいて、高槻には、もう少し確認しようと粛々と策を練り始めました。この時をもって私の運命は決まってしまいました。彼女と電話とメールアドレスを交換した私は、枯れていたダムになみなみと水を満たそうとはくれたものの、彼女に近づくのはやめておこうと、規制線を張っているつもりでした。それが思いもよらぬ沼に足をとられるなろうとは、一ミリグラムも思いなかったのに。


「つきあってくれてありがと、電話するわ。これからもよろしくね」


 これからもよろしくね、と私は心の内で復唱しました。すっと美怜は席を立ちました。その仕草から私に興味を示したのは間違いありません。しかしその悪戯な面に、既にほかに見繕っている男がいるのではないかという不安を覚えました。それもまたこの些末な事件の引き金のひとつとなるのです。




#7 




 新垣は七階の掃除をしないカファルに腹を立てていました。仕事の途中で礼拝を始めたりすることでさえ癪に障るらしく、声を荒げていました。私はカファルに咎はないと思っています。新垣は「郷に入れば郷に従え」といったことわざが全世界の常識とでも思っていたのでしょう。しかしその実は、責任をかぶりたくないくせにとにかく仕事を早く終わらせたい、あるいは楽をしたいというだけなのですから酷い男です。海外事情も知らないくせに得意満面に酔っているのに気づかず、日本を辱めているこの男は大学出の私に向かっていた僻みを、今度はあれだけ期待をかけていたカファルにも向けるようになったわけです。相対的に私の株が上がったわけですが、こんなバカに評価されてもうれしくなんぞありません。日常会話しかできないカファルには細かい命令が通じないこともあって、それもまた火に油を注ぐ結果になるのです。しかしやはりカファルに咎はありません。ただ黙々と懸命に働いています。いつも、その大きな体をいかしてモップを往復させ拭いた床はぴかぴかに輝いています。にもかかわらずカファルを偏屈な野郎としか見ず、日に日に眼光鋭く恨むようなっていきました。異民族との関わりとは面倒なことです。それを分からぬなら最初から雇うべきではないのです。


新垣は六階の掃除が終わる頃、カファルにやけにドスのきいた声で呼びつけました。

「ハイ」

 カファルは何の表情を変えることなく振り向きました。

「今日は七階の掃除もしてもらうからな。あのへんてこなお祈りもやめろ、嫌だと言ってもだめだ。もう社長と談判して決めたことだ。もし嫌ならクビだ。社長と話はついている」

 にわかにカファルの目つきが鋭くなりました。しばらく俯いていると、

「ドウシテモ、デスか」

「どうしても、だ」

 どちらも後には引きません。新垣は社長の飲み仲間で、新垣の意見は大体通ることになっているのです。

「嫌ならやめてもらう。働きたいって奴はいくらでもいるんだ」

 新垣のそのだめ押しにまたカファルは俯きました。そして、

「ワカリマシタ」カファルは続けて、

「今日、一分だけでいいデスカラ七階の踊り場で祈らせてクダサイ、本当に今日一分ダケ」

(イスラム教徒が礼拝をやめる!)私は驚愕しました。新垣は黙ってニンマリと笑みを浮かべています。冗談ではなりません、なんて馬鹿なことをさせるのだ、と私はこんな酷いことをさせることに声を上げようかも思いましたが、その刹那、


「先に祈りを捧げて、仕事終わったら残りをお祈りシマス。仕事の邪魔はシマセンカラ」

 新垣は眼光鋭く頷いて、

「いいだろ、もうやめるなら一分だけおまえにくれてやる」

 私は思わずつぐんでしまいました。やはり私も人のことをどうこう言える勇気など持ち合わせていない臆病者です。ただ何かまずいことが起きねばいいが、と思っただけでした。ムスリムにとって大変重要な礼拝を奪う事が許されるのでしょうか? もの静かな会話でしたが、鬼気迫るものを感じたのを覚えています。六階の踊り場でカファルは祈りを始めました。方位磁石で方向を確認して、膝をつき体を向け、立ち上がると両手を合わせました。何か唱えると、俯きがちに両膝をつき体をそのまま滑らせ背を伸ばしています。みなでその祈りを見ていました。ここにいるほとんどの者がクエスチョンマークをつけたような、そんな面をしていましたが、私は黙って見守っていました。

「イスラム」とは「平和」という意味なのだそうです。そしてユダヤ教のモーセの預言書「旧約聖書」とイエスの預言書「新約聖書」も、そして全イスラム教徒の聖典であるムハンマドの預言書「コーラン」と同様に大切な書物として扱っているのだそうです。また「アッラーの神」とよく聞かされてきましたが,「アッラー」とは「神」という意味で、前書二つの経典のいう「神」と同一なのだというのを知らずにいたのは、恥ずべき驚きでした。同じ「神」を頂いていながら、その「神」の正当性を巡って争っている、そういうことのようなのです。

 ムスリムにとって祈りは神への服従を示す行為であって、アッラーへの信仰はその肉体を、骨格を、そして精神の髄に至るまで統括しているのです。祈りをやめるとは信仰を捨てるということであって、信仰を捨てるということは、鬼畜になるも同然の行為なのです。このやけに静かな空間で、無茶な屈辱を浴びせながらも、彼は信仰を保ち続けていたと今でも思っています。

 立ち上がり最後にまた何か唱えていました。終わったようです。長い一分間でした。彼にとってのこの一分間は、ありうるはずのない、背信行為といっていい最大限の妥協だったのです。妥協とは何を意味するのか。いえ、ムスリムにとって妥協はありえません。日本とトルコは友好国です。しかしカファルにとっての日本は、修羅のような酷い国になっていたに違いないのです。全く馬鹿なことさせてしまいました。私は申し訳なく、こんな不幸なことをさせたことを未だに悔いています。

 七階への階段は鉄アレイを持っているが如く重いものがのしかかっていました。その重圧に耐え、七階の鉄の扉は開かれ、眩しい光が飛び込んできました。カファルはゆっくりと足を踏み入れました。それはそうっと静かに、隣の家を伺うような仕草でした。みなは何も関係なくざわざわと急いで作業に入ります。

 失礼します、と新垣は神妙にその目の前にいる受付嬢に帽子を取って挨拶していました。私も他の連中も同じようにしました。しかしカファルは少し俯きがちに頭を垂れるだけでした。


「ほら、もっと深くお辞儀しろ」


 と新垣は肘で突いて言いました。一瞬でカファルの面に血管が浮き出てきました。しかし臍を固めぐっと頭を下げました。

 作業に入りました。カファルは噛みしめるようにモップで拭いていました。それは鬼気迫るものでした。話しかけたら体を引き千切るのではないかと思ったほどです。下の階からポリッシャーが入って来ました。ほぼ同時にチャイムが鳴ってエレベータの扉が開いたその時のことです。四、五人の男女が出てきました。高槻もいました。私に気づいたらしく目配せをして、私は軽く頷きました。すぐ前に全身黒のパンツスーツ姿の日本人女性がいました。日本語とよく分からない言葉を交互に話していたので通訳していたようです。聞いている限りではちょっとなにか違っていて、英語ではないようでした。そのかたまりの中に白髪で鼻の高い、眼鏡をかけた白人がいました。それを見るなりカファルは大声を張り上げ飛びかかりました。今まで聞いたことのない絶叫で、ほんの一瞬の出来事でした。

 何が起きたのか分からず、異変に気づいたときにはカファルはそのスーツの男を何発も殴っていました。みなが一斉にカファルを止めます。しかしカファルは全身を振り乱して、そこから離れようとしません。カファルはまだ何度も殴っています。眼鏡を飛ばし、毛髪をつかみ鼻の頭に拳をかましています。到底通じることのない、数カ国の言葉が乱れ飛んでいました。訳の分からない言葉が、猛り狂う怒りが、世界を滅ぼそうとしていました。なんとか羽交い締めにしますが、止まりません。引き離そうとしても彼の巨体でみなを突きとばします。

「警察だ、警察を呼べ」

 高槻は言います。受付嬢は唖然としていましたが、すぐ正気を取り戻して電話をかけています。私はカファルの背中に回り、両腕を取り後ろに倒れるようにして引き離し、二人が両足をつかみました。それでもカファルは大声を上げて首を振っています。それはすでに涙声でした。私はふと目をあげると会社のマークのようなものが見えました。正三角形が二つ、上下逆さまに重なった星のマークで、どこかで見た記憶のあるマークでした。新垣はその白人を抱きかかえ、何度もお詫びの言葉を発し頭を下げていました。髪や服が乱れ、鼻から血が出ていました。新垣はすぐにハンカチを取り出しましたが、憮然としてそれを払い、自分のジャケットのポケットから純白のハンカチを取り出すと鼻を押さえました。

 しばらくすると警察が三人ほどやってきました。念のため救急車を手配し、そのまま大事をとって病院に運ばれていきました。


     *


 カファルは正常を取り戻し、うなだれて尋問に応じていましたが、一切答えていないようです。

新垣は怒り心頭に発し、さっさと喋れよこの野郎、とカファルを怒鳴りました。警察官は、まあまあ、と肩を叩きながらなだめています。すると今度はその警察官は新垣に問い質していました。

「国籍はトルコね、就労ビザはあるのね」

「会社に行けば……あると……思います」新垣はむせるような枯れた声で答えています。

 私は高槻と並んで立って聞いていました。ふと高槻の顔を伺うと妙に微笑んでいて、それはまるで何もかも悟ったかのような確信的な笑みでした。


 検証と簡単な取り調べが終わったのは作業時間を大幅に超えていました。この日の作業は中止となり、現場に駆けつけた社長はビルの管理会社とテナントに謝罪をして、カファルとともに警察に同行しました。その時高槻が、ちょっとつきあわないか、と誘ってきたので私は応じました。

 ビルを出ると外はもう真っ暗でタクシーに乗りこむと、六本木の外れまで車を走らせました。車中で高槻は意味もなく微笑し続けていました。少し不気味にも思いましたがまともな顔だったので、何かおもしろいことでも頭をよぎったのでしょうか。

「あれトルコ人だろ」

 ああ、と私は返しました。そしてまた笑い出すのです。狭い路地を抜けて、裏通りに出たところで車を止め高槻がさっと金を払いました。いいのか、と尋ねると、俺が誘ったんだから俺のおごりだ、と言いました。言ってみれば私の会社の仲間が起こした事件の後に、その被害者におごってもらうというのはいささか気が引けましたが、あんなおもしろいもの見せてくれたんだから鑑賞料だ、と高槻は言います。そしてすぐ車を降りました。高槻は大股でカツカツカツという硬い靴底の音を立てながら、まるで定規で引いた線のようにまっすぐに歩いていました。さらに細い道に入ります。すると間接照明のネオンが青く光っているこぢんまりとした洒落た店が並ぶ狭い通りも抜けていき、今度は何の看板もなく真っ暗な道を彼はずんずん進んでいきました。まさか逆恨みして私を殴る気ではないか、と思ったくらいです。高槻はビルの表の階段を下り地下に行くと、色の風合いのよい木のドアを開けて入っていきました。


 店は手狭でしたが、人はあまりなく静かなジャズが流れていました。カウンターには様々なグラスが並べてあり、スポットライトがそのグラスの口の部分で反射していました。奥の壁際には間接照明で浮き上がっておりウィスキーのボトルが飾り物のように並べてあります。

 店のマスターは寡黙に、いらっしゃいませ、といいながらグラスを包むようにして磨いていましたが、マスターがそのグラスを手前のカウンターにゆっくりとした動作で置き、カウンターから表に出てくると高槻の目の前に現われました。

「いらっしゃいませ、高槻様」

 マスターは高槻の鞄を受けとると、高槻は

「バランタインのダブル、ロックで」

 とただ平然と注文すると、マスターは私の顔を窺いました。メニューも何もなく戸惑いました。私は居酒屋でビールを飲むくらいなもので、酒の知識はほとんどないのです。しばらく黙ってしまいました。ジャズの曲が途切れると、どうした、と高槻は言いました。

「……じゃあ、同じものを」

 そう言うのが精一杯で、何とも堅苦しい気分です。マスターは深々と頭を下げると、ゆっくりとした動作でカウンターに促し、高槻がその辺に腰を下ろすと、私もその右隣に座りました。グラスを目の前に用意しました。そして後ろの棚にある「Sho・Takatsuki」と木の札のつきたボトルを手に取り、目の前に持ってくると、グラスのわきに置きました。

 氷を数個入れると、目の前のグラスに琥珀色のウィスキーがゆっくりと注がれていきます。からっと溶けた氷がの音がしました。そして目の前にゆっくりと差し出されました。手を伸ばしグラスを手に取り、乾杯、とグラスを合わせました。かちっとしたガラスが触れる音が響きました。

「……迷惑をかけて済まなかったな」

 私は言いました。しかし高槻はウィスキーを一口含んでゆっくりと喉仏が動いてから言いました。

「なんてことないさ」

 というと、ゆっくりとグラスを置きしばらく言葉が途切れました。別の曲が流れてきました。


「『エイン・ソフ』って知ってるか?」

 高槻は正面を向いてそう言いました。

「知らない」

 と私は高槻の横顔を見ながら返しました。

「おまえに知らされていないなら……」

 高槻はこちらを向き、垂れ下がる前髪をかきあげ、

「あのジジイも知るはずがないな」

 そしてまたあの笑顔を見せるのです。いちいちもったいぶるその仕草に苛つきましたが、その瞬間、瞬間には無駄な動作がなく、頭の中でどこから話すべきか、チェスのピースを読むように沈思黙考していたのかもしれません。


「……古代の神秘思想に『カバラ』ってのがあんだけど」

私はグラスに口をつけ、やたら辛い酒に咳き込みそうになりながら聞き耳を立てました。

「その思想の至高なる神を『エイン・ソフ』っていうんだ」

 私は頷きました。

「それはユダヤ人の思想なわけさ」

なるほどとその時疑問が全て氷解しました。あの三角形を重ねた星のマークはイスラエルの国旗の象徴的な星である「ダビデの星」だと思い出したのです。

 あれだけカファルが騒ぎ出した理由が知れました。中東イスラム諸国の敵であるユダヤ人の会社に労役をするのが屈辱だったわけです。

「よくトルコ人と分かったな」

 私は尋ねると、たぶんイラク系だな、と高槻はグラスを傾かせ氷に当たる光が乱反射するのを眺めがながら付け加えました。

「うちの顧客はユダヤ系アメリカ人が多いからな。いろいろとイスラム系の事業者から苦情や脅迫もあるし、何度も中東へ出張に行ったこともある」

 高槻はそう言っているうちに私が一口ウィスキーを口に含むと、仕方なく私もその、かっとした熱いアルコールに悲鳴を上げそうでしたが、ぐっと口をへの字にして我慢しました。

「あいつの就労ビザがあるって、嘘だろ」

「いやそれは分からない」

「絶対ないさ、日本政府は移民や難民を受けいれるとかいいながら、ビザの発行にはやたらうるさいからな。もっとも……」 高槻は平然とグラスのウィスキーを一口呑みこみ、

「その純血主義のせいで、われら大和民族が滅ぶかもしらねーってのに、のんきな話だな――それはそうと」

 と、高槻はちょっと口からグラスを外して、

「もし不法就労だったら、おまえの会社も危ねえぞ」

 えっと一瞬ぎくりとしました。しかし確かにあり得ることだとも思いました。人手が足りないが人件費は抑えなきゃならない、人件費を抑えるために不法就労として雇った、とするなら合点がいきます。嘘がばれれば、親会社から手を引かれて潰される可能性は大いにありえます。あぁと疲れ果てた声でうなだれると、


「まあ、俺も似たようなもんだけど」高槻は何の屈託もなくそう言うのです。


私は不埒な物言いのわけを質しました。高槻は胸ポケットからタバコを取り出して火をつけました。そして煙を吐きながら、

「今日もまた誘われて来たんだけどさ、断るのも色々と面倒くせーんだよな。でもようやく決まった。辞めたんだ、全部。今の研究員の職も」

これには少々驚きました。まるであっけらかんとしているのです。それでいつぞやの高槻の名前が載っていた書類を廃棄した理由や、この間の分けのわからぬ肩書きで大いに討論していた理由が解けました。不安はないのでしょうか。

「大丈夫なのか」

「何が?」

高槻はまるで意味の方がわからない、といった普通の口ぶりで言うと続けで、

「今、世界中が大騒ぎしているだろ、こんな時に首をつっこむのは賢くないのさ。乱高下する数字を裁いて、顧客に満足させるなんてできやしない。今は落ち着くまでじっと息を潜めていた方が利口なわけ。それに耐えられるくらいの蓄えはあるから今の生活レベルを下げることにはならない。まあ、ぷーたろー生活もいいだろ。大丈夫さ。全く問題ない」

 高槻は一気に飲み干し、グラスをゆすり、氷を転がしていました。マスターはそのグラスを受けとると,高槻は指を鳴らし、

「はい、少々お待ちを」

 と下がって同じボトルからウィスキーを注いでいます。


「いまや兵士の肉体の数とか武器の強弱とかで戦争する時代じゃねえのさ、自爆テロなんて狂人じみた抵抗運動はそのうち収まる。人権保護団体とか出しゃばるから、余計こじれるのに。もっとも――でもまあそういう理想主義者奴がいてくれないと、こっちも巻き込まれるがね。まあ何とか話をまとめてくれるのを待つ。しばらく待つのさ。その時世界の構図は大きく変わっている、確実にな。その時ものすごいビッグチャンスが転がり込むんだ。すごいぞ、まともに働いているのが馬鹿みたいなくらいのビジネスをするんだ、それが俺の夢なんだ。あの顛末を見て思ったのさ。やっぱり俺の睨んだとおり、世界は本当に狂ってるってな」

 高槻は堪えきれなかったようで、ようやくまた声をあげて笑いました。すでに勝った気でいるつもりでいるようでした。しかし私は何の反論もできません。ただ、そういう問題じゃないだろ、と私は思っていたのです。だったら何が罪なのか。辞めるのは自由で問題ありません。そうです、美怜のことが頭をよぎったのです。離婚すると美玲は言い切っていたのですから。

「結婚してんだろ」と言うと、にわかに眉間のしわが寄りました。

「関係ない。これは俺の問題だ」

「美怜の生活はどうなるのさ」

 無意識に美怜の名を告げてしまい、私は口を押さえましたが手遅れです。高槻は笑っていました。

「何だ、知ってたのか」

 私は声をすぼめて言いました。

「長いつきあいだったんじゃないか。それをご破算にしていいのか?」

「長いつきあいだから、ぶつかるんだよ。アイツはいつでもどこでも子供が欲しい、子供が欲しいってうるさいんだ」

「子供が嫌いなのか」

「嫌いじゃないさ。ただ、産んで育てて何が残る。金食い虫みたいなもんだ。寂しいならトイプードルでいいのに。よっぽどかわいくて手間がかからないのに」続けて、

「自分で稼いで、自分で生活する。老後はフロリダあたりの老人施設にでも行けばいい。人生設計もなんでも自分で決めるさ。自分の金を自分のために使う方がよっぽど理にかなっているとは思わないか」

「女も子供も金で買えるとでも言うのか」

 一瞬の、あまりにも長い時間が流れました。


「……ずいぶん酷いこと言うね、おまえ」


「美怜から聞いたのさ。不倫をしてるってな。この件もすっぱり金で解決するわけだろ」

 高槻は私を睨みました。その時もうこいつに何を言っても無駄だと悟りました。

「慰謝料ならいくらでも払ってやる。文句のでないような額でな。それから先はアイツの問題だ。そんなにアイツの肩を持つならおまえが引き取るか? 俺は何とも思わないぜ」


高槻がタバコを灰皿につぶすのを見ていると、なぜかユウジの顔が浮かびました。自分よりも生活力のないユウジですが、私はなぜか黙ってしまいました。いや今は黙ったほうがいいと判断した、というべきでしょうか。高槻はまたタバコに火をつけました。そして煙を吐くと笑みを浮かべました。また、あの、全てを悟ったような笑みです。人差し指でカウンターを突きながら冷徹な計算をしている。高槻には考えに考え抜いた理論が構築されており、Aという結果を得る時にBと反論するとその結果はC、となって不可となる。結局Bという選択は論破される、と言いくるめられてしまうのです。あらゆる反論をシミュレーションして、緻密に逆算して最良の言葉を選択しているのです。彼は明晰な頭脳とスイッチを入れる人差し指しかない憐れな男です。

「何だ、まるで清掃員の給料じゃ養うことが出来ない、みたいな顔じゃないか」

カウンターを、だん、と右手で叩きました。

「図星か」

とどめを刺すような言葉を使うと、目を外して笑んでいました。私はむしゃくしゃして走って店を出ました。走って、走って、気づくとネオン街にいました。お水系の若くて派手な格好の女が、腹の出たオヤジたちにこびを売って抱きついています。私は走るのをやめその場に座り込みました。


(愛も枯れるわ)


 と言っていた美怜の顔が浮かびます。高槻は愛情も金で買えるとでも思っているのでしょうか。しかしここにある情景はまさにそれを言い表しています。しがない創作活動をしている私やユウジは、結局巨大な圧迫から逃れられないのです。カネと権力のパワーの源泉を見た思いがしました。この時間だけでどれだけの金が動いているのでしょう。

 老後のため、子孫のため、つまり世のため人のため、よりよくするため金の運用するのはいいことかもしれません。ですが高槻のやっていることはそれとは真逆です。自分にとって都合のいい正論、勝手な綺麗事に過ぎません。なぜならそれは他人の金を踏みつけてむしり取っで、運用と称して賭博しているだけだからです。口元からその言葉を吐き出そうとしましたが、無謀な行為だと悟り黙ってしまいました。新垣とカファルの関係やムスリムが路頭に迷う生活の水準からでさえ、頭を使って金をさらっていく。その挙句自分は安住に暮らす権利すらなくなってしまうのですから。ため息をついてユウジを思いました。すると初めて高槻に、親友であった高槻に、殺意を覚えました。それはなにかとなにかが通底していました。なぜか私の頭脳もすっきりと冴えてきました。自分にも愛する権利はあるはずだ、そういう錯覚に陥っていきました。




#8 




 それから数日後の日曜日、私はユウジに会いました。出来上がった原稿を読んで欲しい、ということで、また秋葉原で待ち合わせることになってしまいしました。違う場所にしたかったのですが、

「ゴメン、他の街ってよく分からないんだ」

 と言うのでやむなくそうしたのです。高槻や美怜のことをユウジに話すか悩みどころでしたが、美怜とのことは今後を考えてやめておきました。


 街の喫茶店と言えばメイドの店しかないと思っていたのですが、駅前のビルにフランチャイズのコーヒーショップがありました。ここなら落ち着いて読めるでしょう、とユウジは言いました。最初からここにして欲しかったのに、と声を出さずに言いました。

 原稿のあらましは、宇宙に乗り出した人類が火星を開拓する話で、男四人と女一人が土木機械で基地を建設している途中、女がある一人の男Aをたぶらかし、男Bを殺させようと持ちかけます。男Aは男Bを追いかけて銃殺する。そこへ整備が終えて女と恋仲にあった男Cは、密かに和気藹々としている女と男Aを目撃します。元々女と恋仲であった男Cは逆上して男Aを追いかけ銃を放った時、うかつにも流れ弾で宇宙船を破壊してしまい爆発したその爆風で男Aと女も死んでしまい、男Cは愕然としてしまう。そこへ天体観測をしていた男Dが帰ってくる。途方に暮れる男C。男Cと男Dの二人だけが生き残るが、地球に帰ろうにも宇宙船もなく、遠くの惑星にただの男二人だけが取り残されてしまう……

 ちらりとユウジを見ると外を眺めていて、数人のアイドルグループの女の歌声にあわせて首や指でリズムを取っています。やはりここがユウジの居場所なのでした。私はこの歌と昨日のシックなジャズとを両天秤に載せていました。幸喜の瞳で眺めていると、私にはどちらも縁がないなと吐息をつきました。ふとユウジがトイレに立った時、ようやく肩の荷が下りました。


 外は炎天下で、たぷたぷに太った男とか、黒縁の眼鏡をかけたガリガリの痩せ男の塊とか、ライトノベルの表紙を踊る女の子がプリントされたTシャツを着て、みな同じようなシャツを着て声援を送っていました。狭い要素を大勢で共有しています。特殊なマニアが密集している――私にはあまり関わりたくない街なのですが、渋谷や原宿の男女が似て非なる要素を持っているのと同じく、この街もほかとは違うなにか似たようなものが集まっているのです。興味深いのは何でもかんでも盛り上がる人がばかりということでしょうか。スマホ、パソコン、ゲーム、ラジコン、プラモデル、ミリタリーグッズ、エロビデオ、メイドカフェからアイドル劇場に至るまで笑いをとりたかったら、大声で笑い、辛そうだったら、ガンバレ! と励ます。渋谷の連中はこれほど自分と赤の他人とを交わったりするでしょうか。地面にべったり座り込んで、女や男を見繕い、道玄坂付近を散策してけらけらと笑えるグッズをいじったり、古着屋を一、二軒歩いたりして、ファストフードで腹を満たして、カラオケで歌って、薄暗くなったらなんとなく道玄坂のてっぺんのホテル街。渋谷ならそんな感じではないでしょうか。街にあふれる「くぁわいい」流行を買い、見せびらかすことで成立している街とは全く違っていて、男と女が何となくつながっているような、いないような、微妙な境界線で付合っている連中はここにはいません。百点満点か0点か。応援するときはまるで命がけで盛り上げますが、裏切った時の攻撃の凄まじさと言ったら、殺してでも許さないとばかりの攻撃力で徹底的に批判する。同じようなデザインの格好でも恥じらわず、自己犠牲を厭わぬぐらい積極的で活動的です。私は恐々として、敵を作らない程度にとどめておくのが、処世術として有効ではないか、思います。この原稿も有無を言わさず、つまらね~よ、なんて言ったらどうなるでしょうか。私はため息をつきました。この残った二人がどうなるのかが、悩みどころです。この二人の男にやがて愛が芽生えて……


ああいった肉体関係が描かれているじゃないか、と勘ぐったのです。適当にあしらえばいいのに、その視線の先に見える愛くるしさがぎりぎりに触れあうこの関係は、実に微妙に複雑に展開されています。なかなかな出来だとは思うのですが。

「どうだった?」戻ってきたユウジは言いました。

「結構読めると思うよ。ただここから読み進めるのが怖くて」

 私はできるだけ傷つけないような言葉を選びましたが、ユウジはそのページを見て言いました。「ああ、ここか」と意外に軽く返してきました。続けて、

「その先は僕も迷ったんだよね、ほらボーイズラブの風味に仕上げれば、一番ウケがいいと思ったんだけど」

 ユウジはオレンジジュースのストローに口をつけながら、

「でもなんか許せない自分がいてさ。そういうラストにはしなかったんだ」


 ユウジは目線を沈めながらストローを吸っていました。私はてっきりその手の展開を予想していましたが、違うというのは意外でした。相変わらず外を見ているユウジは外の気配にのりのりでした。私は大きく一息つくと続き読むことにしました。




#9




 すべて聞いていた残りの男Dは言います。

「それは愛だよ。君は彼女を愛していた、だから許せなかったんだろ?」俯きながらも声をかけます。

「どうやら男をみんなたぶらかしていたみたいだね。嫉妬を覚えるように故意に憑いて導いた結果さ」「さすがの総本部もこの有様まで予想できなかったようだね。なぜ女が一人だけしか選ばれなかったのか、よくよく考えたてみれば可笑しなことさ」「男は彼女以外、みな見えなくなる。それほど美形でもないのにな。だけど人は感情を満たしたいわけだ」「でも女が二人なら張り合って危険事態になるって予想したのかもしれないなあ」「ずいぶん批判があったけど総本部の強制的な決定は賢明だね。女二人だとしたら、もっと複雑な成り行きになっていたかも知れない」「欲望に憑かれた女の悲しい性か……こんなこと言ったら俺はここにはいなかった、でも俺はどうしても行きたかったんだ、ここへ。できれば二人きりでね……」

 長いセリフのコマがいくつも長いページにわたって描かれています。

そして嘆息すると「一人の彼女がいるかぎり、男はみんな取りあうのが分からなかったのかなぁ、君も僕も殺さないという、人選の根拠がわからんなぁ」やけに冷静に言葉をつなぎます。男Cは言います。


「でももう地球には帰れない。こんな所に二人取り残されちまった。俺のせいでおまえの運命まで奪った。君は俺を許さないだろ?」

「別にいいさ……」

 涙ながらに語り合うシーンが様々なアングルで十数ページも続きます。

「……なぜ許すのさ?」

「地球に帰ったところで僕は満たされない毎日を送るだけだから。はっきり言うと――」


 光り輝く楽園が描かれていました。その中を男と女が二人して歩いています。

「僕も彼女を愛していたから」「君は僕の恋敵さ。君と同じ、あの卑しい女を僕はやっぱり愛していたんだ」

「それは錯覚じゃないか。ここに派遣された女は彼女一人だから……」

「いいや、僕は地球で訓練を受けていた時からずっと想っていた。届きやしない想いをね。君やあの男と楽しそうに話していたのを、遠くから眺めるしかなかった。だからどうしてもここに来たかったんだ。二人だけの楽園しようとしてね」

「何で言ってくれなかったんだ。俺だって君との間を……」

「取り持つとでもいうのかい。馬鹿な、そんなことしたら君が辛いだけじゃないか」


 二人は沈黙し、あたりは明るくなってきます。日の出が近くなって言います。

「地球から四年かかるこんな星に来ても、やっぱり夜明けは綺麗なものだね」

 二人は静かに銃を取り、こめかみに銃口を向けます。そしてラスト一ページ全体に赤く燃えるような火星が描かれ、物語は終わります。




#10




 ユウジは私が美怜を愛していたことを知っていたのでしょうか? ユウジは相変わらず外を見て、首でリズムをとっています。まるで私の郷愁を誘うその物語の運び方に、偶然ではない何かを感じました。本当にユウジは美怜を諦めたのでしょうか。そうとは思えなくなりました。何か心に欠けた部分があって、その部分を創作によって霧消させようとしているのではないか……私は勇気をもって問いただしました。


「――美怜のことどう思っている?」


私はその原稿を静かに置き、ゆっくりと真剣に言葉を求めました。

「え……どうって、別に、そんな……」にわかにユウジは動揺し始めました。

「高槻翔と美怜は離婚するそうだよ」

ユウジは腰を少し浮かしながら顔をこちらに向けると、鋭い眼光で私を直視しています。

「高槻は不倫しているらしい。見たわけじゃないけど」私は続けました。

「実は美怜に偶然会う機会があってね、そう言っていたんだ」

ユウジは平衡を失い、そわそわと目をあたりに巡らせていました。動揺でしょうか、それとも怒りでしょうか。――焦り? 直に判然としませんでしたが、美怜への想いが惹起しているのを感じました。美怜に捨てられたユウジと、どんな愛の表現も感じてはくれなかった私と、その感情のメカニズムは同様に動作していました。私は直接高槻の非情さを訴えるかどうか迷いましたが、ユウジは慌ただしく立ち上がって原稿を急いでしまっています。その面は初めて見る表情です。

「ごめん、ちょっと用を思い出しちゃって、行くから。感想は後で聞かせてよ」

逃げるのか、と私は言いました。一瞬ユウジの体は固まりましたが、すぐに荷物をまとめると足早に店を出て行きました。

 それからすぐに電話があり、翌日の仕事は先方からキャンセルが入った、ということで休みとなりました。

(もし不法就労だったら、おまえの会社も危ねえぞ)

(今は落ち着くまでじっと息を潜めていた方が利口なわけ。それに耐えられるくらいの蓄えはあるから今の生活レベルを下げることにはならない)

(慰謝料ならいくらでも払ってやる。文句のでないような額でな)


 言葉が次々と浮かんできます。腕に力が入ります。目を閉じ、拳を自分のこめかみに向けて叩きます。それでも落ち着かず、壁を強く叩くと、客が皆こちらを向けました。私ははっとしましたが、如何とすることも出来ず床を足でとんとんとんとん、と貧乏揺すりを始めました。やたらうるさかったようで、店員が注意を促す言葉がかかりしばし心を落ち着かせました。しかしもやもやとした情動が一定間隔で湧いてきて、それを何とか抑えようと、頭を抱え、体を丸めうずくまりました。自分は感情を抑え何とか逃げようとしましたが、ユウジはどうするでしょう。殺意をもっているのかもしれません。あまりに短絡に話してしまったと反省しましたが、言ってしまったことを取り消すわけにもいきません。覚悟はしていました。ユウジもまた押し隠していた感情が溢れていたことは間違いありません。ユウジは逃げていませんでした。私は覚悟だけはずっと持ち続けなければならない、と肝に銘じています。命の償いは命をもってしかあがなえない、いやあがないきれないのです。




#11




 カファルは不起訴で放免された、と聞いたのはそれからすぐのことです。同時に会社から通知が届きました。「セイワ清掃株式会社」は倒産しました。高槻の予想は当たりました。カファルの不法就労の件で、行政措置が発せられ、親会社からの出資が止められたのです。それからカファルは強制送還されることも決まりました。カファルはその熱い信仰が仇となって、家族を呼び寄せたいという夢も破れることになってしまいました。しかしカファルは放免直後に行方不明になります。警察がうちにやってきてその辺の話を聞きに来ましたが、知りません、と答えておくべきだと思いました。もっともどこへ逃げたかなんて知りようがありませんが。何か隠してないだろうな、と威圧し問質す警察官が癪に障りましたが、冷静に分かりません、と言いました。ただカファルが何か企んでいるのではないか、という予感があって心配はしていました。カファルのわだかまりはどこに向けられるのでしょう? 新垣でしょうか? それとも夢が破れて自殺でしょうか? それとも信仰に対するお詫びのようなことをしたかったのでしょうか? イスラム教においては自殺を決して侵してはならぬ行為、としているそうですが彼はすでに破戒しています。私は頭を巡らせました。なにもこのくらいで……と考えてしまうのは日本人の感覚だからでしょう。彼は自身を逃れられぬところまで追い詰めていくような気がしてならぬのです。そんな甘っちょろい個人的な心配は吹き飛びました。あまりにも唐突に。

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