ケース6: ルーカス・ガーランドの症例
「…ここだよ、私の息子の部屋は。」
そう言って、俺を家の中へと招き入れたロベルトさんは、すぐに俺を2階にある奥の部屋へと案内した。
ロベルトさんがその一室のドアを開いて、灯りをともした瞬間、俺は思わず息を呑むほどに驚いてしまった。
油絵だろうか。
そこには壁一面に、様々な色彩の絵の具を使って描かれた、鮮やかで抽象的な絵画の作品が所狭しと並べられていた。
それを目にした瞬間、俺はまるで自分の目の前にまで一気に押し寄せてくるかのような、その色鮮やかな作品達の放つ凄まじい圧迫感に、いつの間にか感嘆のため息までもを密かに漏らしてしまっていた程だった。
机の上には、いまだ制作途中だと思われる作品と使いかけの筆や絵の具などが置かれたままとなっている。
…この部屋に入った瞬間に感じた油臭い香りは、きっとこれのせいだったのだろう。
「…驚いたろう?この部屋はまだ当時のままにしてあるんだ。」
そう言って、すっかり言葉を失ってしまった俺の事を察してか、ロベルトさんがそう呟いた。
「グレッグは絵の勉強をするために美大に入りたくて、俺と同じ作業場で日雇いの仕事を始めたんだ。まだグレッグには簡単な仕事くらいしか任せてはなかったがな。それでも毎日二人で一緒の仕事場に通うっていうのは、本当に楽しかったよ。その頃の毎日はとても充実していたな。」
そう言って、俺の後ろにある本棚の中から手頃な本を一冊、適当にその手へと取ったロベルトさんは、ペラペラとページをめくりながら言葉を続けた。
「ある時、グレッグは道端で子猫を拾ったらしくてな。当時の私は猫が大嫌いだったもんだから、グレッグは家の近くの路地裏で内緒でその猫を飼っていたらしいんだ。仕事が終わったら、いつもはすぐに自分の部屋にこもって絵の制作に励んでいたはずのグレッグが、 何故だか毎晩一目散に外へと出掛けていたもんだからずっとおかしいとは思っていたんだけどな。」
そう言って眺めていたはずの本を元あった場所の本棚へと戻すと、ロベルトさんはまた別の本を手に取ってペラペラとめくり始めた。その様子はまるで何かを探しているかのようにも見える。
「で、グレッグは毎日仕事終わりに餌を準備しては、その子猫の元へと向かっていたんだが、ある日一人のホームレスがその子猫に餌をやっている場面に遭遇してな。それからというもの、その猫を通じてそのホームレスと仲良くなっていったらしいんだ。そのホームレスの名前はルーカスと言ってな。以前は絵画の売買やなんかを行っていたらしいんだが、数年前に事業に失敗したらしく、いくつもの街を転々とした後にこの街に流れ着いたそうだ。ちょうどグレッグも絵画を学んでいたし、猫の事や、同じ趣味の話をすることで二人の距離は自然に縮まっていったそうだよ。」
そう言ってロベルトさんは、二冊目に手にした本までもを元の本棚に戻すと、今度は壁にかけてある大きな油絵を眺めながら話を続けた。
「グレッグはいつも猫の餌とそのホームレスと一緒に食べる酒のつまみを準備しては、夜な夜な出掛けていってたよ。猫を目の前で遊ばせながら、グレッグが持って来た絵画の本を二人で眺めて熱く語り合ったりもしたそうだ。ある日グレッグがそのホームレスに『僕が来ない日の食事はどうしてるの?』と聞いてみたら、『ここはタダで飴がもらえる幸せの街だから、それで飢えを凌いでいる』と笑って答えていたそうだ。実際ルーカスは、劇場の前さえ通れば何度でももらえるあの飴で飢えを凌ぎながら、あとは時々もらえる期限切れのパンや食べ物などで暮らしをしていたらしいがな。」
…マルッセル劇場の飴か…
確かにホームレス達にとっては日々あんなに配られ続けているあの飴の存在というのは、とてもありがたい物であるに違いない。
「ある日、グレッグがいつものようにルーカスと子猫に会いにいった時に、ふとある異変に気がついたらしい。」
「…異変…?」
「そう。その日は私とグレッグで、他の職員が起こしてしまったミスを埋める作業の手伝いをしていてな。グレッグが男と子猫の元へと向かった頃には、すでに夜が更けていたんだ。そしてグレッグが到着した時…ちょうどルーカスが、子猫に向かって長い棒を振り下ろそうとしている場面だったんだ。」
…あの時のアレックスと同じ…
思わず俺の表情が曇る。
「その事に気がついたグレッグが、機転をきかせてすぐに男にタックルをきめ、幸い男は倒れた瞬間に棒を手放したらしいんだが、その後グレッグの方に振り向いたその男の表情は…」
「…狂気に満ちていた…」
俺の言葉に、ロベルトさんは静かに頷いた。
「…とても普段の穏やかなルーカスとは同じ人物だとは思えなかったとグレッグは言っていたよ。発症者というのはいつも、何か一つの事柄に目標を定めて、それに向かってただひたすらに破壊行動を行ってしまうクセに、その瞳は焦点すら合ってないし、むしろまるで何も入ってはいないかのように虚無で空っぽで暗黒だ。かといって操られているという訳でもなくて、あくまで自分が普段から抑えていたはずの大切な鎖を、自分で引きちぎりながら何かを溢れさせている。その見た目と行動の温度差に、いつも驚かされるよ。何度みても慣れないよな、あの発症者というものは…」
そう言って、宙を仰ぐロベルトさんの言葉に、俺はすっかり俯いてしまっていた。
「…いや、別に君に対して言った言葉ではないよ。この街にいる限り、私だっていつ症状を発症するかは分からない。こればっかりは誰が悪いとか、ただ運が悪いだけとか、そういったものではないんだから。…すまん、話が逸れたな。続けよう。」
俺の様子に気がついたロベルトさんは優しい笑みを浮かべると、さらに言葉を続けていった。
「それで、グレッグはその男に馬乗りになりながら押さえつけて俺の元へと携帯で電話をかけて来たんだ。この時ばかりは力仕事をさせておいて本当に良かったと思ったよ。それですぐに駆けつけた俺とグレッグでルーカスの事を車に乗せて、そしてそのままマルッセル劇場まで連れて行ったんだよ。」
…だからロベルトさんはアレックスを運ぶ時にあんなに手際良くできていたのか。道理で慣れた手つきだと思った。
「…それで、その子猫はどうなったんだ?」
「その子猫は…」
ロベルトさんがそう言いかけた瞬間、本棚の上からするりと巨大なネコが降りたった。どうやらいつの間にかこの部屋へと入ってきていたらしい。悠々自適に床の上を歩くその様は、過去に子猫だった時の面影すらもすでになくしてしまっていた。
「彼女の名前はイライザ。…飼ってみたら意外と可愛くてね。しかも息子が遺していった大切な猫だからね。その可愛さはひとしおさ。ほら、これが息子のアルバムだ。」
そう言ってロベルトさんは本棚の中から取り出した分厚いアルバムを数冊、次々と俺の元へと手渡してきた。
俺はロベルトさんからそれらを受けとると、次々に重ねられたそのアルバム重さによって少しばかりよろめいてみたりはしたが、なんとか近く台へと移動して、その上にアルバムを広げはじめた。
「これがグレッグだよ。」
そう言ってロベルトさんが指を差した写真の中央には、作業服を着て、ロベルトさんやアレックスと共に写っているグレッグの姿があった。
ロベルトさんが指差したその男性の笑顔や雰囲気は、確かによく見れば少し俺に似ているかもしれない。
俺がさらにアルバムのページをめくっていくと、アルバムの中の青年は次第に少年へと変わっていき、それと同時にその笑顔もあどけないものへと変わっていった。
アルバムを次々とめくっていくと、ふとグレッグが何かの展覧会で賞をとった時の写真が目に入った。そばには「12歳の少年が最優秀賞を受賞」という見出しの書かれた当時の地元紙の小さな切り抜きも一緒に貼られている。
「…小さい頃から絵が好きだったんだな。」
その新聞の記事を見ながら呟く俺に向かって、ロベルトさんはこう答えた。
「…あぁ、だから俺がグレッグに呼ばれて二人の元へと向かった時には、グレッグは一方的にルーカスから殴られててな。幸い大事には至らなかったんだが、それでも筆を持つ方の手を怪我させられないよう、子猫と右手だけは自分で必死に庇っていたよ。」
ロベルトさんのその言葉を聞きながら、俺がその写真をじっくりと眺めてみると、受賞の際にもらったものなのだろうか?
グレッグが描いたであろう大きなクジラの絵の前で、若き日のロベルトさんと共に誇らしげな笑顔を浮かべているグレッグの胸元には、盾のような物が抱えられていた。
それに気がついた俺は、すぐに近くの棚へと目を移すと、棚の上から順番に飾ってあるものをチェックしはじめた。
グレッグはこの賞以外にも数々のコンテストで受賞をしていたようで、その棚には一面に輝かしいばかりのトロフィーや盾が無数に飾ってある。
「…あった。」
その中でも一際大きく、そして丁寧な装飾がなされた盾を見つけた俺は、思わず声を漏らした。
盾には、「ドールズ新聞社絵画コンクール、最優秀賞」と書かれている。
…この子もドールズ新聞社で賞をとっていたのか…
ふと懐かしさも入り混じった奇妙な偶然をその全身で感じながら、俺がその盾を手に取ろうとしたその瞬間――――…
…ゴトン…
棚の奥の方で何かが倒れる音がした。
「…なんだ?」
その音に気がついた俺が、綺麗に並べられているトロフィーや盾達をなぎ倒してしまわないように、盾が置いてあった場所の隙間からそっと自分の手を突っ込んでみると、その指先には固く四角い何かが触れた。
引き抜いてみると、それは文庫本サイズの古めいた手帳のような物だった。
「…ロベルトさん、これ…」
俺は相変わらず懐かしそうにアルバムを眺めているロベルトさんに向かってそう声をかけると、その手帳の表面に深く積もった埃を手ではたきながらその手帳をロベルトさんに向かって手渡した。
「…こりゃあ、驚いた。グレッグがこんな手帳を持っていただなんて知らなかったな。確かにこれはグレッグの字だ。」
そう言ってロベルトさんがパラパラとページをめくっていくと、その手帳の中からはらりと一枚の写真が抜け落ちた。
床の上へと舞い落ちたその古びた写真の中では、幼い日のグレッグと、グレッグと同じ年くらいの男の子と女の子。そしてコック服を着た恰幅のいい男性が、店舗のような建物の前で楽しそうに笑顔を浮かべている。
俺はその写真を拾い上げると、無意識にその写真を裏返してみた。
するとそこに書かれていたのは…
「もしも私が神に選ばれてしまったというのであれば、その時は甘んじて罰を受けよう。」
とまるで走り書きかのような文字で書かれた奇妙な文章だった。
「…息子さん、カトリックだったのか?」
その文字を眺めつつそう尋ねる俺に対して、ロベルトさんはアルバムをめくっていた手をピタリととめると、俺に近づきながらこう答えた。
「いや、私達は特にどこかの宗教に所属したりとかいうことはないよ。…あれ?懐かしいなぁ~!グース一家じゃないか!」
そう言って、裏側の文字を眺めていた俺の反対側から、覗き込むようにして表の写真を見ていたロベルトさんは嬉しそうに声をあげた。
「…いや~いつの間にかアルバムの中のこのページから一枚写真が抜かれていたもんだから、一体どこに行ったんだろうと、今のこと考えていたんだよ。」
そう言って先程まで眺めていたアルバムの内の1ページを俺に向かって見せてくるロベルトさん。そこには確かに日焼けして色が変わってしまったページの一角に、写真が抜き取られたような四角い跡が残っている。
「…そうか…グレッグは、グース一家の写真を大切に持っていたのか…このページの事は、随分と前から気になっていてね。いや~良かった。やっと長年抱いていた謎が解けたよ。」
そう言って懐かしそうに写真を眺めているロベルトさん。まだ写真の裏の走り書きには気がついていないみたいだ。
「グース一家…?」
「あぁ。グース一家はパン屋を営んでいてね。本当は、オリヴァーズ・ベーカリーっていう名前だったんだが、ほら、ここ。看板が鳥の形をしているだろ?これはガチョウの形なんだ。グースっていう名前だからガチョウ。だからみんなからはガチョウのパン屋って愛称で呼ばれていて――――――…」
その瞬間、俺の頭の中ではバラバラに散らばっていたはずのパズルの破片が、ものすごいスピードで組み合わさっていった。
…ガチョウから白鳥へ―――――――…
古いマルッセル劇場の広告の裏に書かれていたその言葉は、何かの童話の比喩なんかではなく、このパン屋の事を示していたんだ。
そして、バリー・アンダーソンが病室で呟いたあの言葉こそ――――――…
…パ…ン…屋…
きっとこのガチョウのパン屋の事だったに違いない。
「…悪い、ロベルトさん!俺、今日はもう帰るよ!」
そう言って置いていたカバンを肩にかけながら、急に玄関に向かって走り出す俺に対して、
「送っていこうか!?」
と車のキーを見せながら声をかけるロベルトさん。
「いや!今ならまだバスがあるはず!あ!ロベルトさん!」
俺はロベルトさんにそう答えながら勢いよく玄関の外へと飛び出していったが、もう一度ちゃんと玄関先にまで戻って来て言葉を続けた。
「…また、ここに来てもいいかな!?」
そう言って、その場で駆け足なんかをしながら尋ねる俺に対してロベルトさんは、
「…あぁ、いつでも大歓迎だよ。」
と、優しい笑顔を浮かべたのだった。
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