寛解


「…すまない。大変迷惑をかけたそうだな。」


マルッセル劇場についてすぐ。

劇団員に通されて、劇場入り口の待合室へと向かった俺に対して、エリックさんは憔悴しきった表情で弱々しくそう言った。



「…相当、暴れてしまったようで自分でも恥ずかしいよ。」


マルッセル劇場を出た俺達は、近くのコーヒーショップへと移動していた。


店員に出されたコーヒーのカップで両手を温めながら、エリックさんは俯き加減にそう言った。


時折漂うひきたてのコーヒーの香りが、俺の鼻を軽くくすぐる。


「…いや、もう慣れっこっていうか…この街に来てからこんなんばっかりなんで、全然大丈夫ッスよ。」


そんなエリックさんを少しでも励まそうと思った俺は何とか明るい雰囲気で、軽く自分の頭を掻きながら笑ってみせた。


「…それも、俺がやったのか…?」


…が、頭を掻くしぐさをする際に挙げた俺の右手に真新しい包帯が巻かれている事に気がついたエリックさんは、眉間にシワを寄せながらさらに申し訳なさそうにそう呟いた。


「…はい。思いっきり噛みつかれました。すみません…。」


「…いや、謝るのはこっちの方だよ。君には本当にひどいことをしてしまった。本当に申し訳がない。だが恥ずかしい事に、自分でもあの時の事は全く覚えていないんだ。劇の後半くらいから気分が悪くなった…というか段々と視界がぼやけはじめてな。気がついた頃には、また同じ席で同じ場面の劇を見ていたからビックリしたよ。だから君には本当に申し訳がないが、正直自分が暴れていたという記憶が全くないんだよ。」


そう言ってエリックさんはコーヒーを一口飲むと、一息をついて静かに言葉を続けた。


「…まるで狐につままれたのか、自分一人だけがどこか遠くの異世界にでも飛ばされてしまったかのような感覚だったよ。だってあんなにいたはずの目の前の観客達が、一瞬で姿を消したんだからね。」


そう言って力なく微笑むエリックさん。


つまりエリックさんは観劇の途中ですでに症状を発生していたにも関わらず、終劇後にはきちんと他の客達と共に外に出て、それから暴れはじめてしまったという事なのだろうか。


俺は自分の頭の中に浮かんできたその事実を、素直にエリックさんにぶつけてみる事にした。


「…でもエリックさん。あなたあの時、きちんと自分の足で歩いて劇場の外まで出て来ていましたよね?」


「何だって!?」


エリックさんが思わず立ち上がってそう叫んだ。その衝撃で、テーブルの上のコーヒーが大きく音を立てながら揺れた事に気がついた俺は、咄嗟に両手でその二つのカップを押さえつけた。


エリックさんのその声に、まわりの客が一斉にこちらを向いたばかりか、近くにいた店員が怪訝そうな表情でわざとらしい咳払いをしながらエリックさんの事を睨みつけている。


「…ここで騒いだりしたら、それこそ本当にマズいっスよ…。」


「…あぁ…すまない。」


小声で囁くそんな俺の様子にはっと我に返ったエリックさんは、周囲の人達に軽く頭を下げながら静かに元の席へとついた。


「…それは本当なのかい?私はずっと劇を見ていただけじゃないのか?私はてっきり観劇中に暴れだしてしまったのだとばかり思っていたのだが…。」


「…いや、残念ながら劇場の外ですね。エリックさんは多分他の客達と一緒に自分で歩いて劇場から出て来たんだと思います。…最も俺が見た時には、暴れだす直前だったので実際に劇場から出てきた場面は見ていないのですが…。」


「…そうか。外に…出ていたのか。」


そう言ってエリックさんは哀しそうな微笑みを浮かべたまま再び俯いてしまった。


「…そうガッカリしないで下さい。幸い症状が軽かったのか、今ではもうすっかり元のエリックさんに戻っているし、ほらこうやってあなたの大切な写真だって無事だったんですから。」


そう言って俺は、自分のポケットからエリックさんの小銭入れを取り出し机の上に広げて見せた。


写真の中のエリックさんと奥さんは優しく微笑んでいる。


エリックさんはその小銭入れに出来た少しほころんだ部分を優しく指で撫でながら、哀しそうな表情で言葉を続けた。


今までなかったはずのその真新しいほころびを見て、自分が何をしようとしていたのかを理解したのだろう。


「…そうか。私はその写真にまで手を出してしまっていたのか…。君に噛みついただけでも十分許されない事をしているのに、まさか命よりも大事にしていたはずのその写真にまで手をかけようとしていたとはな…。今まであの症状は、この街では毎日のように起こっているもはや日常茶飯事なことで、私自身も目の前で症状を発症してしまった人を見たところで、いつも『…あぁ、またか。』くらいにしか思わなかったんだがな。自分の記憶がゴッソリとなくなってしまう事がこんなにも恐ろしい事だなんて思ってもみなかったよ。」


そう静かに話すエリックさんに俺は、何だか無性にいたたまれない気持ちでいっぱいになっていた。


「…ところで、エリックさんはこれからどうするんです?失礼な話、一度あの症状が出た人は…その…。」


俺はそこまで言って口ごもった。


「…あぁ、一度あの症状が出た人間は、近い内に再び同じ症状を起こすかもしれないって事だろ?その事については私も十分に理解しているつもりだよ。私の周りにも実際に繰り返し症状が出てしまった人間が何人もいるからね。」


そう言ってエリックさんは、手にしたコーヒーを一気に飲み干すと、そのまま窓の外を指差した。


「あそこに一つだけ門灯がついている家があるだろう?あれは私の姉の家なんだ。また症状が出てしまったら、すぐにマルッセル劇場に行かなくてはならないからね。あそこなら劇場にも近いし、しばらくは姉の家で世話になることにするよ。」


そう言ってエリックさんが指を座した方向には、4軒の古い長屋が連なっていた。その内の一軒だけが門灯を灯している。


「古い家だがね。最近両隣の人も引っ越してしまったとかで、いつも姉は電話で寂しいとかぼやいていたからね。まぁこれもちょうどいい機会だよ。」


エリックさんのその言葉に、俺はほっと胸を撫で下ろした。


「…君には本当に世話になったね。お礼と言ってはなんだが…」


そう言ってエリックさんは、急に小銭入れの中を探りはじめた。


「…そんな!いただけないです!」


エリックさんのそんな行動に、今度は俺がその場で立ち上がる。


周りの客や店員達から再び冷たい視線がこちらに向けられるが、今はそんな事に構っている暇はない。


「…いや、いいんだ。本当は治療費とかもきちんと支払わなければならないんだろうが、あいにく今はそれだけの持ち合わせがなくてね。それはまた後日改めてさせてもらうとして、今日のところはひとまずこれで…」


そう言ってエリックさんが小銭入れから取り出したのは、なんとマルッセル劇場のチケットだった。


「…エリックさん、これ…」


思わずチケットを覗き込む俺に、エリックさんは優しい笑顔で言葉を続けた。


「実は私の妻も生前はいつもあの劇場に行ってみたいと口癖のように言っていてな。『病気が治ったら、一緒に行こう』といつも励ましていたんだが、結局劇場には行けないまま2年前の夏に亡くなってしまった。それで去年の結婚記念日に、マルッセル劇場のチケットを私と妻用に二枚買って劇を見に行こうと思ったんだがな…。一年経ってもまだ気持ちの整理がつかなくて、チケットを買っただけで帰ってしまったんだよ。」


そう言ってエリックさんは、懐かしそうに手にした劇場チケットを眺めていた。


「…で、今までチケットはこの小銭入れに入れたままにしていたんだが、今日君と妻の事やバリー・アンダーソンについて話をしている内に、急にこのチケットの事を思い出してな。今日こそあの劇を観てみようとこの街までやって来たんだ。」


「実は俺もあの劇場に行きたかったんだが、ずっとチケットがとれなくて苦労していたんだ!本当にありがとう、エリックさん!」


まさかこんな形で念願のチケットが手に入るなんて…。


エリックさんから手渡されたチケットをまじまじと眺めながら、俺は思わず喜びの声をあげた。


「それは良かった。本当に観たいと思っている人にこのチケットを渡せるだなんて、それだけで私にも妻にとってもこんなに喜ばしい事はないよ。」


そう言ってエリックさんは、二人分のコーヒー代をテーブルの上に置くと、静かに席を立った。


「…もしこの街で何か困った事があったら、あの門灯のついている家を訪ねて来てくれ。君の為なら私はいつでも力を貸すからね。」


そう言ってポンっと俺の肩にひとつ手をやると、エリックさんはそのまま店を出て、あの一つだけ門灯の灯された家の中へと入っていった。


扉が開いた瞬間に、腰の曲がった老婆が笑顔になったのが窓越しにチラリと見える。


「…あの人も優しそうな人だな…。」


そう呟いて俺は残りのコーヒーを静かに飲み干したのだった。

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