戦う理由と、空飛ぶ少女


「私、実はその箒の事を知っているんです。

 えぇ、だって彼は……父上が選ばなかった箒、ですからね」


 森の奥へ入って行く。

 木々の間隔はどんどんせまくなり、自由には動けない。

 そんな中で、エスメラルダさんはこちらに視線を向けながらすいすいと飛んでいる。……まるで障害なんて何も無いみたいに。

「それ、どういうこと……?」

 箒さんは、何も言わず森の木々をよけていく。一瞬間違えば激突してしまいそうなその速度に、わたしはようやく慣れてきた。


「文字通りの意味です。そこの箒は、父上の援助を受けて箒を作っていた職人……名前はクローヴァ。そうですね?」

「箒さん、人間だったんだ……!」


 薄々そんな気はしてたけど、はっきり聞いてなかったんだよね。

「でもなんで人間が箒に……呪われたの……?」

『……バカめ。オレ様は呪いの道具ではないと言ったはずだぞ』

 はぁ、と箒さんはため息混じりに答える。

 その声は、いつもと違って全く楽しそうじゃない。

『確かに、オレ様の職人としての名はクローヴァだ。だがしかし、今のオレ様はただの一本の、史上最高の箒に過ぎない……』

 いや、やっぱりいつも通りかな? ただのってつける割に自己評価がやたらと高いんだもんな、箒さん。じゃなくて、クローヴァさん?

『よそ見をするな。来るぞ!』

「おわっと!?」

 箒さんが一喝して、急に方向を変え、エスメラルダさんと距離と取る。

 がだん! 後ろの方で、木に何かがぶつかって爆ぜる音がした。

「あら、また避けられてしまいましたか。勘の良い箒ですね……」

『アイツ、隙があれば魔法を撃ってくるぞ。下手に会話をするな』

「ごめん、箒さん。でも……」

 気になる事はもう一つあった。

 選ばなかった、って……何か、あったのかな、って。


『……オレ様は、あの娘にだけは勝たねばならない』


 たずねる前に、箒さんは言う。

 その言葉だけで、エスメラルダさんが言ってることは本当なんだろう、と分かる。けれど箒さんはそれ以上、何も教えてはくれない。


 木々の間を抜けていく。

 深い森の中では、やはりエスメラルダさんも簡単に手出しは出来ないらしい。しばらくの間は魔法を撃たず、飛ぶのに集中していた。

『ここで差を縮めるぞ。幸い、敵はアイツが先に倒しているからな』

 大魔法による先手。おどろいたけれど、後続のわたしたちにとっては良い状況になったみたいだ。

 後ろから追ってくる魔法使いさん達も速度を出しにくい今、魔法を使えないわたしたちは距離をかせぎたいところ。

 ぐぐ。箒さんはほんの少し高度を上げて、速度を増す。

『あまり動くなよ?』

「うん……危ないもんね……」

 避ける動きは最小限に。顔や足のすぐそばを、分厚い木の肌が過ぎ去っていく。

 ぶつかれば痛いし、かすれば切れる。

 そんな中で、わたしの心臓はどくどくと鳴った。怖い、んだけど、それでも速度を上げる度に感じる、面白さ。


 耳に届く風の音は、木々を横切るたびに一瞬途切れて、また響く。その中で聞こえる、葉っぱのざわめく音。

 薪を拾いに入る森と今の森とじゃ、全然見え方が違う。


 それに、前を見ればそこには……金色の髪をなびかせた、エスメラルダさんが飛んでいる。

 木を避ける度に、箒さんはエスメラルダさんに接近していく。少しずつ、少しずつ。速度だけなら、負けてないんだ。追い付ける。抜ける。今度は……!


「分かりませんね。どうした貴方はそうやって笑えるのですか」


 エスメラルダさんが、振り向いた。

 その手には小さな杖が握られていて……!

「……っ!? 危ないっ!」

 ひゅっ、と杖が振られ、その先端から光の球が飛び出す。わたしと箒さんは高度を落としてそれを避けるけど、その一瞬で、またエスメラルダさんとの距離が遠のく。

『迂闊に近付けばその時は、か。フン、ダイナディアの娘らしいといえばらしいか』

 箒さんはつまらなそうに呟く。

 アイツも、魔法の扱いには長けていた、と。

 ……やっぱり、そうなんだ。わたしは納得する。エスメラルダさんも、そのお父さんも、スゴい魔法使いなんだろう。

 だからだ、とわたしは思う。


「箒に乗れるのが楽しいんです。エスメラルダさんみたいな、スゴい魔法使いと戦えるのが嬉しいんです。だってわたしは、ただの宿屋の娘だもん」


「……乗れるだけで。戦えるだけで。貴方は満足していると?」

 エスメラルダさんは聞き返す。

 緊張したようだった彼女の顔は、一層険しく引き締められていた。

 強く、硬い。鉱石みたいだ、とわたしは思いながら、答える。

「うん。それだけでも、十分楽しいですよ」

 知らなかった世界に触れている。手が届かないと思った場所に手を伸ばしている。結果がどうとかより、わたしは今この時間が楽しかった。


「でも。勝てたらもっと楽しいな、って思ってるから」


 負けるつもりで戦ってはいないよ。

 わたしはそう答えた。決して、勝負する気がないわけじゃないんだ、って。


「……そんな理由で」


 エスメラルダさんはわたしから視線を逸らして、前を向く。

 ほんの少しだけど、その身体が震えたような気がした。何かに力を籠めるような、震え。ざわ、とわたしの胸に不安が生まれる。


「そんな理由で戦う貴方に。そして父に選ばれもしなかった箒なんかに……!」


 大きく息を吸った、ように見えた。

 エスメラルダさんは。叩きつけるような声で、わたしと箒さんに叫ぶ。


「負けるわけにはいきません……!

 わたしは。負けてはいけない。ダイナディアの、娘ですから……!」


 ぐん。

 エスメラルダさんの箒が、加速した。

『……まだ速度が上がるのか……!?』

 せっかくちぢめていた距離が、少しずつ離されていく。

 単純な速度は勿論だけど……エスメラルダさんは、わたしたちより無駄なく飛んでいる。

 ほんの少し、身体を揺らして動くだけ。それで木々を避けきって……

「……んっ……?」

 ぴ、と頬に何かが当たる。……赤い、雫。もしかして、とわたしはエスメラルダさんの身体に目を向けた。

 がす。エスメラルダさんは時折、木々に身体を擦っていた。

「よけきってるんじゃない、あれ……!」


 少しくらい当たっても良い。

 エスメラルダさんはそう割り切って、飛んでいた。


 木の枝が跳ねる。枯れた葉が髪にかかる。そんなことに構いもせず、エスメラルダさんは進んでいく。

「なんでそこまで……!?」

『決まっているだろう。勝つためだ』

「だって、まだエスメラルダさんの方が前で……!」

 痛みを堪えてでも進む、その気持ちがわたしには分からなかった。

 なにより、まだエスメラルダさんの方が勝ってたのに。

『だがオレ様たちは追い付いて来た。負ける可能性があると、感じた』

 故に、と箒さんは語る。

 負けないためには、今ここで。多少の痛みなどものともせず、進む以外に道はないのだ……と。

『……乗り手が貴様でなければ、オレ様もその覚悟を求めた所だがな』

 呟きつつも、箒さんは速度を上げない。

 傷を負わせる真似はしないと、箒さんは言っていた。

 その気持ちに、ウソはないんだろう。

「でも、どうしよう箒さん? このままじゃ……」

『森を抜けた所で取り返す他は無いな。少なくとも、ここでのリードは許すこととなる』

 森を抜ければ、また草原だ。

 はばむもののない広い空。魔法でねらわれやすくはなるけど、箒さんも思いっきり速度をあげることが出来る。

 それに、周りに敵となる魔法使いはもういない。エスメラルダさんが倒してしまったから。

 ここはゆずっても良いのかもしれない。別に、それで勝てなくなると決まったわけじゃない。まだ、どうにか……

 ……いや、そうじゃない、か。

「森を抜けても、同じことだよね」

 草原でも、エスメラルダさんは全力で勝利を狙うはずだ。今ここで手を抜いて、それでも勝てる、だなんて、わたしには全く思えない。

「箒さんはさ。勝ちたいんですよね」

『無論だ。オレ様はオレ様の力を、ダイナディアに見せつけねばならない。……そうでなければ、この箒を作った意味も無い』

「だったら少しくらい、無茶します……!」

『……またか。オレ様としては喜ばしい事だがな。本来、箒レーサーとはそうであるべきだ。……だが、キサマは……』

「勝てるかも、って思った時が、一番楽しかったから」

 今でも楽しい。二番手だって、わたしには十分凄いことだ。

 だからここで妥協したって、つまらなくはない。辛くもない。

 でも。それ以上の胸の高鳴りを、わたしはもう、知ってしまっているから。

「行こう、箒さん」


 


『……つくづく。おかしな娘だ、貴様は』

 ぐん。箒さんは速度を上げながら、笑い混じりに呟いた。

「そうかな。わたし、どこにでもいるような普通の子だと思うけど」

 何の取り柄もない。それどころか、あんまりにもどんくさくて。

 あぁ、そういう意味では、おかしいのかな。一つくらい……誇れることがあれば良かったんだけど。

『そう悲観するな。キサマは十分に……。……いや。まさか、な』

「……? 箒さん、なにか言った……?」

『気にするな。それよりそろそろ、速度の限界だ。気合を入れろ、!』

「えっ、あっ、うん!」

 名前。呼ばれた。そういえば箒さん、初めてわたしの名前……

「……っ……」

 がす、とすねに木肌が触れた。一瞬の、けれど鋭い痛みがわたしの身体を貫く。

 けれどこれくらい。そうだ、痛みは嫌だけど、慣れてる。

「お料理する時ね、よく怪我しちゃうんだ……!」

 包丁で指を切るなんて、よくある事だ。気を付けてるつもりなんだけど、不思議とやってしまう時がある。

「った……!」

 木の枝が、頬を打った。ひりひりと痛み、頬っぺたが熱を持つ。

「よく転んで、色んな所ぶつけるし……!」

 箒さんと出会ったのだって、転んで箒を折っちゃったのがそもそもの原因だ。なんでだろうね、一日一回はつまづいてる気がするな。

「のわっ……!」

 ばささ、と木の葉に顔を叩かれる。髪の毛に葉っぱが付いてしまったみたいだ。

「掃除してたらさ、体中ホコリまみれになったりもするし……!」

 夢中になりすぎて、埃をかぶってることに気付かないんだよね。

 あ、集めたホコリの上に転んじゃって……ってこともあったかなぁ。

「うん、だから、大丈夫」

 ちょっとくらいは、平気。

 それよりも……追い付きたい。


「背中! 近付いて来た!」


 一度は離されたエスメラルダさんの背中。

 また見える。近付いてる。負けて……ない!


「……っ! また、付いてきて……!」


 エスメラルダさんは、こっちを見て驚いたみたい。

 ここまでするなんて、思ってなかったんだろう。

「あはは……ごめんね、まだ、負けるつもり、無いから……!」

「だからっ……! どうして貴方は、そんなに笑えるんです……」

 苦しそうな、焦ってるみたいな、エスメラルダさんの顔。

「……? だから、楽しいからだよ。エスメラルダさんは、違うの?」

「――そんなわけがっ……!」

 答えを聞く前に、森を、抜ける。

 ふわっ、と暖かい日がわたしの顔を照らす。

 目の前の景色は開けて、ジャマするものは、何もない。

「箒さんっ!」

『……全魔力を速度に回す!』

 ぶぉ、と箒さんが力を増した。ぶるぶるとその柄が震える。

『向きは……任せる』

「わ、分かった……!」

 わたしは力の限りそれを握って、前を見る。

 箒の向きは、本当なら乗り手が決めるものだ。常に先端を飛びたい向きに合わせる。曲がるのにはコツがいるけど……直進なら、まだ。

「行かせない!」

 けれどエスメラルダさんの魔法が、行く手をはばむ。

「わっ……!」

 わたしは肩からぐるっと倒れ込んで、横に回転。……何度も振り回されていくうちに、ちょっとずつ覚えた。

 すると箒の先端がぶれるから、慌てて修正。もう一回直進に戻して、わたしはエスメラルダさんに接近していく。

 やっぱり、箒の速度では負けてない。


「認めません……私は、貴方を認めません!」


 エスメラルダさんはけれど、前をゆずりはしない。

 無数の光弾がわたし達に迫る。あ、この数は無理。

『……チッ、当たるよりは良い!』

 だがそこで箒さんがまたコントロールして、光弾の雨をよける。

「ごめん、集中して欲しかったけど……」

『完璧に熟せ、などと要求出来るものか。キサマは十分にやっている』

 箒さんは小さな声で呟いた。なんか、居心地が悪そうに。

「どうかしたの? もしかして、どっかぶつけた?」

『違う。違う違う! そうではない。オレ様は……』

「よそ見をしている余裕があるのですか!」

 一息つく間もなく、光弾は続く。

 上昇、上昇、上昇。ひゅぅぅと音を立てながら、箒さんは高く飛び上がってそれを回避していく。

「エスメラルダさん、疲れてないのかな?」

『そんなわけがあるか。あれだけの魔法を撃った後だぞ?』

 じっ、とわたしはエスメラルダさんを見つめる。その肩は、ほんの少しだけ上下していて……うん、確かに、疲れてるみたい。

『箒に使う魔力に、あの大魔法。オレ様たちが追い付くまで他の魔法を使わなかったとも思えん。とすれば……』

 魔力の量も底が見えてきてもいい頃だ、と箒さんは言う。というより、並の魔法使いであればもう、飛ぶので精いっぱいの筈なのだ、と。

 だけど彼女は、並じゃない。まだある程度は魔法を撃つ用意もあるみたい。

 急降下しながら距離を詰める箒さん。前髪が跳ね上がる。エスメラルダさんは速度を緩めず、すぅ、と息を吸う。


「《我が声は怒り。我が杖は導き》」


「……え、嘘でしょ……?」

 その、呪文は。

 普通の魔法なら分かる。それでも普通なら難しくて……


「《天より出でその偉大なる姿を現したる者よ》!」


 いや。だって。待って。箒さん、さっき……

『……オレ様とて信じられん』

 短い返答。完全な想定外。

 なんて、考えてなかった。


「《我は拍手で出迎えよう! 故に、ここに来りて示せ。万雷の力をっ! 覇王の咆哮を!!》」


 叫ぶような、詠唱。

 きっ、と彼女はわたしを、睨み付ける。

 びくっ。わたしはその瞳を見て震えた。気圧された、ってやつだ。

 勝たせない。わたしと箒さんに向けられたのは、敵意に似た感情。


「――《砕きの、稲妻》ッ!」


 黒雲が広がり、稲光と共に雷が降り注ぐ。

「あわわわわわっ……これどうしようっ!?」

 障害物もない、草原。

 森の中ならよけられたけど、今ここにきて、これをよける手段が……?

『また速度で抜くしかない。……だが』

 思い出すのは、先日のこと。

 雷の雨を抜けた先。わたしと箒さんを待っていたのは、鎖の罠だった。

 それを乗り越えないと、負ける。

「……とにかく、飛んで!」

 考えるのは、飛びながらだ。

 だってそうじゃないと、迷ってる間にやられちゃう。

 ずがん!

 ずがん!

 ずがんずがんずがん!

 震動と光。焦る気持ちと裏腹に、箒さんは真っ直ぐに、全力で前に進んでいく。ちら、と見たエスメラルダさんは……やはりあの手を使うつもりなんだろう。


 勝てない。ただ飛んでも。


「私はダイナディアの娘。負けるわけには……いかないのです!」


 肩で息をするエスメラルダさん。

 あぁ、そうか、とここまで来て、ようやくわたしにも伝わった。


「他の誰にも! どんな魔法使いにも! ……なにより、遊び半分でここまで来たような子に! 父上が選びもしなかった箒に!」


 怖いんだ。


 負けるのは、怖い。


 何にも持たないわたしでさえ。負けて当たり前だと思っていたわたしでさえ。ここまで頑張って、追い付けないかもしれないと分かったら。

 苦しい。怖い。向き合いたくない。

「っ……!」

 胸を、抑える。きっと今のわたしの顔は、エスメラルダさんと同じ顔だ。


 緊張に、口を結んで。笑う余裕なんか全く無くて。


 辛い。悔しい。負けたくない。負けたくない。負けたくない!


 家の名前を背負う彼女は。皆の期待を背負う彼女は。わたし以上に押しつぶされそうな気持を持っていたのかもしれない。

 負けるはずがないと。負けるわけにはいかないと。ずっと、エスメラルダさんは口にしていた。


 わたしは? ただ楽しいだけ。自分でも何か出来る気になって、付いて来ただけ。そんなわたしが勝てる理由なんて、やっぱり、一つも……


『――落ち着け、ステラ』


 箒さんの声が、頭に響く。

『勘違いをしている。キサマは。考えるべきことは、負けない事じゃない』

 言葉の意味が、受け取れなかった。

 負けても良いわけじゃないんでしょう、箒さんは。わたしは、違うけど。ここで押し勝てる理由が、わたしには――

『負ける理由でもない。キサマが考えるべきことは、一つだ』

 箒さんは断言する。

 いつもの強い口調で。自分が世界で一番偉いみたいな口調で。命令するみたいに。人の気持ちなんてまるで考えてないみたいに。


『勝つ事だけ、考えろ』


「……勝つ、こと……」

『ここで勝てれば、キサマはどう感じる?』

「ここで、勝てたら……」

 息を吸う。稲妻の音が耳に届いて、あぁ、今の今まで周りが見えてなかったな、と気が付いた。

 勝てたら、どうかな。わたしがエスメラルダさんに勝てたら。

「……そんなの、前に言ったのと同じです」

 一瞬、目を閉じて。自分の心に問いかけた。

 答えは変わってない。絶対勝てる、なんて今も全然、これっぽっちも思えないんだけど。それでも、だ。


「勝てたら、楽しいです」


 だから、勝つ事を考える。

 勝ちたい。勝ちたい勝ちたい勝ちたい!

 だったら何をしたらいい? 雷を乗り越えたあと、わたしはどう動けば……

「……あ、そうだ」

 思いついた。一つの手段。

 なんだ、簡単な事じゃないか。ちょっと心配だけど、やってみよう。

「このまま進んで、箒さん」

『良いんだな』

 箒さんの確認に、わたしは頷いた。

 前をじっと見つめる。エスメラルダさんは振り向いてないけど、わたしたちが雷を超えて近づいてくる気配は感じ取っている筈だ。

 だって、片手は杖のまま。

 雷轟の中を飛んでいく。緑の草原は、黒雲に覆われて暗い。時折光る稲妻は、けれど夜になったわけじゃないから、鮮烈な光には感じない。

 エスメラルダさんの背中に、迫っていく。

 だんだんと大きくなってくるその背中は、だけどよくよく見れば、わたしとそんなに変わらない。……まぁ、身長の分は違うけど。

 もう少し。もう少し。もう少し!


「届く。届く届く届く! 届け!」


 叫ぶ。箒を握る手に力を込めて。この身体に魔力が流れてないことがもどかしい。例え少しでも、箒さんの力になれればって。

「……っ!」

 エスメラルダさんが振り向く。その顔は。口元は。もう来るなと言わんばかりに強く、強く、拒絶を示していて。


「――《繋ぐ光よ》!」


 また、その詠唱を耳にした。

 杖から伸びるのは、魔法で出来た鎖。それを受ければ、わたしは跳べなくなるけれど。

 逆に言えば。これだけよければいいわけで。


「……信じてるからね、箒さん」


『……? おいキサマ、何を……』


 手を、放した。

 体の力を抜いて、ころ、とわたしは箒から落ちる。

 不思議だ。あんなに高い空にいたのに、瞬く間にわたしの身体は地面へと一直線。まるで、地面とわたしが糸で繋げられてるみたいだ。

 ひゅぅぅ、と風がわたしの全身を包む。でも前からじゃない。下から。だんだんとお腹の中身がせり上がってくるような、気持ち悪さ。

 空の上では、エスメラルダさんは信じられないって顔をしていて、その魔法はやっぱり、不発に終わっていて。

 よけられた。うん、よけられたよ、箒さん。


『――馬鹿な事をするな!』


 ぐい、と引き寄せられた。

「あわわわわ……」

 服の襟に箒さんの先端が引っ掛かって、ぐっ。わたしの喉元が抑えつけられる。

「あぶぶ……だって、けほ……」

 わたしは箒さんに掴まってもう一度またがりなおす。

 あぁ、助かった。死ぬかと思った……ちょっと吐きそう……

 箒さんは再び、速度を上げて空に昇る。

 地面とはさよならだ。やっぱりまだ、降りられない。

『死ぬだろ、アレは! 死んだらどうする!』

「……うん、めっちゃ怖かった……もうしたくない……」

 っていうか二度とやらない。絶対。

 だけど。それでもやったのには、ちゃんと理由があって。


「箒さんさ。『』じゃないんでしょ?」


 助けてくれるって、思ってたから。

 信頼というか、多分箒さんの中で、それは許せないことなんだろうな、って思ってたから。

「だから。大丈夫かなって」

『……あぁ大丈夫に決まっている! オレ様だからな! オレ様という最高の箒だからな! だがアレはダメだ!』

 わぁわぁと箒さんは大きな声でわたしを叱る。わたしもちょっと反省した。

 それでも。これで。

「後は速さだけですね、エスメラルダさん!」


「……っ……本っ当に! 意味が! 分かりません!」


 草原を抜け、街の西門へと入る。

 抜ければそこは、見知った街の上空だ。

 あとは建物の上を抜けて、ゴールの塔まで飛び続けるだけ。

 エスメラルダさんも流石に魔法切れだろうし、箒さんとの一騎打ちかな?

 だけどエスメラルダさんは……凄く、困惑した顔をしていた。


「貴方には、そこまでして勝つ理由なんて無いでしょう!?

 貴方はただ箒に乗せられているだけで、家名も、誇りも、周りの期待も……負けてはならない理由なんて、一つも持っていないじゃないですか!」


 エスメラルダさんはほとんど叫び声みたいな声でわたしに問いかける。

 その通りだ、と思う。わたしには、負けちゃいけない理由は一つも無い。

 それを持っているエスメラルダさんが、どれほど負けたくないと思っているか。それはわたしには想像できないことなんだろう。


「でも、勝ちたいって思ったから。勝つ方が楽しいなって、思ったから」


「……そんなの、納得が出来ません……!」

 エスメラルダさんは前を向く。

 街の中。ゴールまではあとほんの少し。

 わたしたちは横に並んでいて、まだ勝敗は、分からない。

「私が戦うのは、ダイナディアの誇りを示すためです! 挑んだ魔法使いたちだって、己の名を上げる為に。力を示すために……その箒だってそうでしょう!?」

『……確かにな。オレ様もこのレースに出たのは、己の力を示すためだ』

 箒さんは肯定する。その言葉は、エスメラルダさんには聞こえないけれど。

『今もそれは変わらないし、間違ってるとも思ってない。オレ様の力は偉大で、それは広く示されるべきだ。……ただ』

 オレ様の言う通りに続けろ、と箒さんは言う。

 わたしは頷いて、彼の言葉を、そのまま伝えた。


「『箒レースは、飛ぶ人間のモノだ』」


「……っ……そんな、こと……! 私は……!」

 声を押し殺すエスメラルダさん。

 その言葉は、彼女の中に響いたのだろうか。分からない。考える余裕も無く、目の前にゴールが見えてきたからだ。

『……実の所な、ステラ』

 箒さんはそれから、小さな声でわたしだけに伝えた。


『それを理解出来たのは、キサマという最高の乗り手に恵まれたからだ』


 他ではこうはいかなかっただろう。

 箒さんはそう言って、『もう黙る』と一方的に会話を打ち切った。

 それも仕方のない事だ。

 だって、ゴールまではあと数秒。


 わたしたちとエスメラルダさんは、まだ並んでいる。


 ぐぉぉ、と風が強くなった。箒さんが全ての力を注いだんだろう。


 目を開けるのが精一杯な強い風。



 周りの声も、音も、何も聞こえない。




 景色さえ溶けて、何も分からなくなるほどの速度を超えて。




 ゴールラインを。

 超えた。


 ふっ、と全ての糸が切れる感覚。緊張も、速度も。

 急激に遅くなっていく世界で、わたしの耳に、遅れて音が届く。


「――優勝は――」


 誰だ。どっちだ。あぁ、知りたい。知りたくない。知りたい。けど怖い。

 ばくばくばくばく。心臓の音が響いて、うるさい。

 聞こえない。だから静かに。全身が沸騰するような感覚を抑えて聞く、最後の、言葉は――




「――エスメラルダ・リージェント・ダイナディア」



 ああ。



 ……負けちゃったんだ。


 歓声が耳に届く。

 はぁぁとわたしは大きく息を吐いた。

 隣のエスメラルダさんに目を移す。

 彼女は荒い呼吸で、まだちょっとしんどそうな顔をしていて。

「……おめでとうございます」

 わたしはどうにかそう言ったけど。

 頬っぺたには、熱いなにかを感じていて。

 泣いてるんだな、って後から気が付いて。

 悔しいって、こういう事なんだなぁって、ようやく、理解した。

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