第5話 「協約締結の真相」

五 「協約締結の真相」

 マイクロフトは葉巻を手にしながら、ゆっくりこう言った。

 「日本海軍については心配ない。艦船も装備も新鋭だし、第一、主力艦の大半は 我が英国製だ。将兵の士気も高く、よく訓練されているという。それに比べてロ シアの太平洋艦隊の戦力は十分ではないし、整備や補給の能力も貧弱だ。極東水 域は、今のところは日本に任しておけば、制海権を押さえられるというのが我が 海軍の見方だ。」

 「しかし、ロシアは、大西洋や黒海方面にも有力な艦隊を持っているはずです  か。これが東洋の方へ回航された場合は、どうなるでしょうか?」

と私は尋ねた。

 「ロシアの艦隊主力の回航は開戦後となるだろう。従って開戦後は、日本は速や かにポートアーサー(旅順)、ウラジオストックのロシア艦隊を無力化しなけれ ばならないし、するはずだ。この間、英国はバルチック艦隊、黒海艦隊の極東へ の回航を極力妨害し、日本海軍へ十分な後方支援をすることが、軍事協約の目的 だ。これなら同盟条約の中立条項にも違反しない。すでに、膨大なカージフ炭が 日本海軍のために移送されている。極東の英海軍の貯炭場は日本に供給する石炭 でいっぱいだよ。彼らは全く燃料の心配なく戦えるはずだ。」

 ディオゲネス・クラブの来客室は相変わらず静かで、ウェーターが運ぶグラスの触れ合う音が聞こえるほどだった。ホームズと私は安楽椅子にくつろいで座り、クラレット(ボルドー産赤ワイン)を飲みながら今日までの調査結果を報告し、その後、話はおのずから日英の軍事協約についての話題となった。

 「兄さん、海軍は問題がなさそうだが、日本陸軍のほうはどうだい?」

 「うーん、これは少し問題があるというのが我が陸軍の考えのようだ。日本軍の 実力では、とてもロシアに対抗できないという見方が強い。駐日公使館の陸軍駐 在武官チャーチル中佐などは、マクドナルド公使とは正反対に、いつもひどい報 告を送ってくるよ。彼は日本の陸軍を田舎の自警団と酷評している。せいぜいよ くて我がインディアン・アミー(英印軍、英軍将校の指揮による現地インド人部 隊)程度で、清国や朝鮮などを相手にするのなら十分過ぎるが、フランス、ロシ アのような列強諸国の正規軍とまとも戦えるはずがないそうだ。もちろん陸軍最 高司令官のロバーツ元帥のような、日本の対露戦勝利を予測する見方もある。だ が、英陸軍の多くはこの協約には消極的で冷淡だ。彼らは日本軍と一緒に戦うの は嫌なようだね。」

 「それなら、なぜあんな出兵を約束する協約を結んだのかな?」

 「政治的な理由だ。日本は対露戦について英国の保障を求めている。とくに不安 視されているグランドフォース(地上戦力)についても、英国の積極的な関与を 求めてきて、あんな要求をして来たのだ。そして、それができない場合は、国策 を変える、つまりロシアと協調する可能性があるという。日本には元首相のイト ウ侯爵のような親露派もいて、ロシアと結ぶことを主張しているらしい。もとも と反英的なドイツ、フランスに加えて、日本までロシア側につかせたくないとい うのが、バルフォア首相やラムズダウン外相の考えだ。」

 「そうすると、陸軍は、いやいやながら、あの協約を結んだわけだね。」

 「陸軍の気持ちもわからないではないが、首相や外相の考えは、私もやむを得な いと思う。英国の参戦は今後1年以内に日露の開戦があった場合だ。ロシアの戦 意を見る限り、この1年以内に開戦は考えられない。彼らは日本が本気でロシア に立ち向かってくることなどあり得ないと考えている。日本は今、海軍に比べて 遅れている陸軍の強化に必死だ。今すぐ開戦があった場合は、独力で戦うのは困 難なので、英軍の支援を求めているわけだ。だから、1年間だけ保障を与えて、 彼らを安心させてやればよい。」

 ここまで言うと、マイクロフトはブランディをぐっとあおった。そしてウェーターを呼ぶと、我々のグラスも持って来させて、ブランディを勧めた。ホームズは、パイプにタバコをつめながら、

 「今回の事件について、政府は、どういった対処をするつもりなのだろう?」

 「それは、今後の展開による。これが新聞にあばかれると、ボーア戦争が済んだ ばかりなのに、また戦争をする気かと、内閣の責任問題になるだろう。ロシアが 開戦の口実とするかもしれないし、逆に、ロシアが自重するかもしれない。どち らにせよ、財政問題だけでも今の英国は戦争をする状態ではないよ。それに、た とえ日露が開戦となっても、陸軍側は本気で支援をする気はない。ニコルソン中 将などは、この事件をきっかけに協定の再交渉を主張しているくらいだ。」

私は、マイクロソフトの話を聞いている内に、しだいに福島少将や宇都宮少佐が気の毒になってきた。彼らが英国の守る気もない約束を信じている姿が哀れであった。私は、マイクロフトに尋ねた。

 「今回の事件が、たとえばフランスの仕業として、彼らが何の動きを見せないの は、なぜだと思いますか? フランスは英国と戦いたくないのが本音だから、公 式には協約書の存在を明らかにしないまま、水面下で、英国が日英同盟の条約公 文に違背していることを責めて、秘密協定の破棄を英国に迫るつもりでしょう  か?」

 「フランスは、実のところ英国と手を結びたがっている。彼らの宿敵はドイツ  だ。ロシアと協商を結んでいるのも、両側で挟み撃ちにしてドイツに対抗するた めだ。したがって、ロシアにはこれ以上極東に深入りしてもらいたくないという のが本音だ。協約書の内容を知った場合、君の言うようにこれを取引に使って、 英国に圧力をかけて手を引かせるか、あるいは、逆に、ロシアの戦争にこれ以上 巻き込まれないため、英国と緊密な関係を結ぼうとするかもしれない。そうすれ ば英国が日本に荷担しても、フランスが戦う必要はなくなる。」

私は、意外に思って、

 「あの誇り高いフランスが、英国と協力関係に立つとは考えられませんね。」

 「いや、英国が同意さえすれば、彼らは英仏協商を望むはずだ。勃興するドイツ に対抗し、 普仏戦争の恨みを晴らすためにも、頼りないロシアに義理立てするよ り、彼らは英国と手を結ぶだろう。」

 「英仏が手を組むことを、ドイツあたりはどう思うでしょうか?」

 「英仏が接近することは、ドイツはなんとか阻止したいことだろう。ラムズダウ ン外相の話の通り、日英同盟の始まりは、日本をロシアに立ち向かわせるための ドイツの画策だった。ドイツとしては、日本と戦わせることでロシアの関心を欧 州方面からそらし、あわよくば英国とフランスも戦争に巻き込んで、自分は漁夫 の利を狙いたいのだろう。今回の協約書は、ドイツにとって、ロシアの英国に対 する敵愾心をあおり、彼らを挑発して日本と戦わせる上で、非常に役に立つに違 いない。」

 「そうなると、今回の事件はドイツの関与も十分考えられます。しかし、この場 合でも、ドイツは目立った動きは見せないのはなぜでしょうか?」

マイクロフトは葉巻をもみ消しながら、

 「もしもドイツがこの文書を握った場合、まずは非公式にこっそりとロシアに通 知するはずだ。もちろん英国に対しては、ドイツは全く関知していないという顔をするだろうが。だから、この場合、反応はロシアから起こってくると思う。これは、協約書の紛失がロシアの犯行だった場合でも同様だ。しかし、先日、外務省で話があった通り、今のところ、ロシアにこの文書の存在を知ったと思われるような動きは全くないし、その兆候も見られない。」、

 「この間、おっしゃったように意図的に隠している可能性もありますね?」

 「それもあり得る。ロシア内部の穏健派が開戦を避けるため、押さえているかも しれない。しかし、ドイツが関与している場合は、それもいつまでも続けられな いだろう。」

ホームズが不意に言った

 「兄さん、今回の事件にドイツ、フランス、ロシア以外の国がかかわっているこ とは考えられるかな?」

 「うーん、あまり考えられないと思う。ただ、今回の軍事協定の会議は極秘だ

 ったが、やはりアメリカをはじめ主要国は、内容はともかく会議が行われた事実 はつかんでいるはずだ。関心は持っていると思うが、しかし、協約書の窃取まで

 はしないだろう。」

 「ドイツ、フランス、ロシアのうち、今回の事件に関与した一番可能性のある国 はどれだい?」

 「陸軍諜報局は、とくにロシアを念頭にして捜査をしているようだ。しかし、私 はドイツのほうを警戒すべきだと思う。諜報活動に関して、ロシアはかなりのや り手だが、全体に強引で荒っぽいし粗雑だ。今回の事件は、その手口からロシア人がやったとも思われない。」

「今回は、ドイツ人のやり方に近いのかい?」

「何の形跡も残さず、手口も分からず、盗まれたことさえ気づかないという点でそう言える。ドイツはロシアのように抜けたところがないし、きわめて巧妙で手が込んでいる。ただ、彼らのやり方は、非情というか悪辣というのか、徹底的にやりすぎる嫌いがある。これは秘密工作としては、作為的過ぎて逆に真意を見抜かれやすく、失敗だとも言える。」

私は、諜報活動というのはそういうものかと、興味深く聞きながらホームズに向かって、

 「ところで、我々を尾行しているのは、やはりそのドイツかな? 実に巧妙な尾行で、ホームズでなかったら気づかなかったかもしれないよ。」

マイクロフトが、肘掛け椅子からむくりと体を起こすと、

 「それは本当か! なぜ早く言わない。どんな連中だ?」

 「あとで詳しく言うつもりだったんだよ。馬車の中に隠れて姿はほとんど見せな い。昨日、ホテルから帰っておかしいと気づいたんだ。家の前の通りに目立たな いように馬車を停めて、我々が外出するたびに後をつけているようだ。今朝も、 僕がホテルを往復したとき尾行していたようだが、さっき日本公使館に行ったと き、尾行がはっきりした。だから、ここに来るときは、公使館の裏口から抜け出 してきたよ。」

 「私のところに来ることが知られないようにしたのはよかったと思う。ただ、君 たちが尾行に気づいたことを相手も悟ったと思うから、今度は違う方法で接触してくるだろう。注意してくれたまえ。」

マイクロフトは、急に椅子から立ち上がって、

 「早速、諜報局のほうに君たちの身辺警護と相手の正体を突き止めてもらお う。」

こう言うと、部屋を出っていった。

ホームズは、椅子に座り直して、

 「さて、諜報活動のほうは政府に任せて、われわれは密室の犯行の解明に当たろ う。3009号室の住人とほかの日本人の聞き取りが必要だ。サイゴウともう一 人の日本人、名前はなんといったかな?」

私は、手帳を取り出して、

 「発音しにくいがクスノキとか言ったな。軍人ではなく、宮内省の役人らし   い。」

 「そうそう。とりあえず、明日もう一度ホテルに行こう。サイゴウから聞いた高 名なゴロー・シバのロンドン帰着の日が分かるかもしれない。よかったら君も来 てくれるかな?」

 「午前中は診察があるので、午後には行けるよ。」

 「すまない。」

 「ところで高名と言ったが、シバという男はそんなに有名なのかい?」

 「うん、僕も最初は気づかなかったが、一昨日、サイゴウの話を聞いて思い出し たよ。2年前の拳匪の乱の英雄だ。」

私は、あっと思った。英陸軍の軍人で柴中佐を知らない者はいない。

 「ああ、あのリュウテナンコロネル(中佐)・シバかい? 外交団が2ヶ月にわ たって北京籠城したとき、各国のわずかな陸戦隊とともに公使館区域を守り抜い て、公使館員や居留民の命を救ったという、あのシバかい?」

 「そうだ。僕も驚いたよ。」

 私は、従兄弟のアーサー・ワトソンが、私と同じ陸軍軍医として拳匪の乱に従軍していたので、彼からその話をよく聞かされていた。

 「あの当時、タイムズの記事に詳しく出ていたが、彼の勇敢で冷静沈着な指揮は水際だったものだったらしい。あのとき防衛戦の総指揮を取った我が国のマクドナルド公使も軍人出身だが、北京籠城の功績の半ばはとくに勇敢で規律正しい日本将兵に帰すべきもの、とシバを非常に高く評価している。」

 「僕も読んだよ。タイムズの特派員のモリソンなどは、自分自身も籠城して重傷を負ったが、シバに命を助けられたと言っている。彼は、シバの勇敢さと高潔なサムライ精神を激賞していたね。」

私は、思わず言った。

  「そうか、あのコロネル・シバが来ているのか。ぜひ会ってみたいものだ。」

そのとき、マイクロフトが戻って来た。

「諜報局に電話して事情を伝えたよ。すぐに相手の身元を探索するそうだ。それと君たちには目立たないように護衛と監視をつけるということだ。担当官はシドニー・ライリー中尉、向こうから私のところに報告するので、君たちからは諜報局には連絡しないでほしいと言っている。」

 「分かった。この件に関しては政府にお任せするよ。こちらはいつもと変わりな く行動

するつもりだ。」

ホームズはこう言って、立ち上がり、

 「兄さん、今日はこれで失礼するよ。何か新しい事態が起こったら、すぐに連絡 してほしい。それと馬車の手配をよろしく。」

 我々は見送りを断り、玄関ロビーに向かった。マイクロフトは、ボーイに馬車の手配を命じた後、くれぐれも注意してくれたまえと言った。ロビーのソファで待っていると、すぐに馬車が来た。乗り込んだ後ホームズは先に私を自宅に送るよう御者に伝えた。

 「今日はお疲れ様。明日のホテル行きは、一昨日サイゴウにすでに伝えてあるの で心配ないよ。明日もフクシマ将軍は不在だから、サイゴウの聞き取りにちょう どよい。」

 「ベイカー街に行くのは、今日と同じ時間でもよいかい?」

 「もちろん結構だ。ゆっくり来てくれ。」

 「ところで、護身用に拳銃は必要かな?」

 「うーん、いらないと思うが、君が必要と感じるなら持ちたまえ。僕は、いつも 仕込み杖を持っている。」

ホームズはステッキの留め具を外すと、剣をわずかに抜いて見せた。

 自宅に着いた時は午後八時近かった。夕食の支度は調えてあったが、雇ったばかりのメイドはすでに家に帰っていた。私は今後どんな危険があるのか考えながら、一人遅い夕食を取った。

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