二話 膨れ上がる欲望

 青年が味方の尖兵せんぺいに発見されて、父頭曼と再会を果たしたのは、彼が月氏の王庭から逃亡して、実に六日後の夕方であった。

 それまで獣を獲って空腹を満たし、川の水で喉の渇きをしのいだ。思えば、これほどの期間、ひとりで生きたことなど、初めてだった。族にいるときは、常に従者がついていたし、月氏のもとにいたときも見張りがいた。


  ――有意義な時間だった――

 自分の内面と向き合えた青年は、そう思った。


  味方は天幕を張り、かがり火を掲げ、野営の準備を始めていた。

 通された幕舎に入ると、入口左に髭面ひげづらの男が胡坐あぐらをかいていた。青年の父、頭曼である。

 

「ただ今、戻りました」


 青年は無表情で言った。見捨てられた怒りなんぞはとうに失せていた。別の感情ならあったが。


「そうか……」


 命からがら帰ってきた息子に対してかけるには、あまりに素っ気ない一言だった。

 父は複雑な表情を隠せていない。それはそうだろう。邪魔な長男を消せなかったのだ。


「無事に逃げ出してきただけではなく、王の馬まで奪ったそうだな」


「はい、見事な駿馬です。やつの悔しそうな顔が目に浮かびます」


 実は、あの馬には『ナル』という名をひそかにつけていた。

 遊牧民にとって馬とは特別な生き物である。馬は彼らの生活に肉薄しており、家族に等しい。いや、ナルほどの駿馬となると家族以上か。

 

 が、父は息子の手柄について、それ以上は触れず、話題を変えてしまう。


「お前はどう見る。このまま連中と戦って勝算があると思うか?」


 父は試すような視線で、息子を見た。


「敵は、邀撃ようげきの準備をすでに終えているころです。正面からやりあっても勝ち目は薄いと思います」


 思ったより早く、匈奴の裏切りが月氏側に露見していたのだ。奇襲は失敗である。


「このまま逃げ帰れと?」


「いえ、あくまで『正面から』は勝てないと言っただけです。それに逃げたところで、すぐこちらへ攻めてくるのは必定。一戦して叩いておく必要があると思います。あなたには裏切られ、私には宝を奪われたのですから、月氏の王は相当、頭に血が上っているはず。その怒りを利用し、一度退いたふりをして有利な場所へ誘いこめば、勝てます」


 頭曼は腕を組み、しばし悩んだ。

 普段であれば、若造の言うことなど即座に跳ね除けていただろうが、ここでは迷った。提案自体、筋の通ったものに思えたし、なにより父に私見を述べる息子の表情が珍しく自信にあふれたものだったからである。その変化の原因が何なのかまではわからない。


 ――やるか――

 頭曼は腰を上げた。


「おのれが言い出したことだ。お前も、いつわって撤退する先頭部隊に入れ。奪った馬を見せつけてやれば、ますます王は激怒するに違いない。危険な役回りだぞ。一歩間違えれば死ぬ。覚悟はよいな?」


 厳しい表情で息子に問う。有無を言わせない雰囲気だった。


「命を賭けましても」


「ちなみに隊長ではないぞ。一兵卒として、だ」


 明らかに跡継ぎであるはずの長男にさせる役目ではない。


「わかりました」


 だが、青年は即答した。迷いを完全に断ち切っていた。少し前までの青年なら、うろたえていたところだが、今は違う。先の逃避行で手にした何かが彼の中にある。


 ――こやつ、やはり変わった。変わったように見える――

 頭曼は、本当に息子が変わったのか、を確かめたかった。人の内面を見たければ、危険に放り込んでやればいい。それも最大級の危険に。死が近づくと本性が暴かれる。人とはそういう生き物である。


 ――死んだら死んだ、で構わん。その程度の器だったということだ――

 もし青年が戦場では振るわず、生涯を閉じたのならば、愛する女の息子を跡継ぎにすればいい。

 

 問題は、息子がこの自信にあふれた表情を崩さず、役目を見事に果たした場合である。

 ――その時は、考えを改めてもいい――

 頭曼は長男に現れた露骨な変化を見て、こう思えるようになっていた。


 愛する女の子も大事ではあるが、有能な跡継ぎも大事である。先に青年を捨て駒にしたのは、『あいつでは族の指導者としてダメだ』という思いが前提としてあったからに他ならない。


 匈奴の情勢は案外厳しい。東には東胡とうこ。西には今から戦う月氏。北には丁零ていれい。南にはしん。四方に敵を抱えていた。中国の側から見ると、匈奴とは常に厄介な連中であり、ずっと強かったような印象を受けるが、それは全くの誤解である。このころ、匈奴は追い詰められていた。


 月氏、東胡、丁零は匈奴と同じ遊牧民である。秦は『始皇帝の秦』と言えばそれで伝わるだろう。

 特に南方の秦から最近、手痛い一撃を浴びていた。

 きっかけは、ある予言の書だった。書には、『秦を滅ぼすのは胡である』、と書かれていた。当時、『胡』といえば、匈奴のことを意味していた。


 始皇帝は、良将の蒙恬もうてんに十万とも三十万とも伝わる大軍勢を率いさせ、オルドス地方の匈奴を攻撃させた。当時、諸族を統一し、力を増していた匈奴であったが、蒙恬には負けた。

 蒙恬は、匈奴の逃亡を確認すると、万里の長城を築いた。築いたと言っても、えんちょう、秦がそれぞれに造っていた長城を繋ぎ、強化した物に過ぎなかった。

 ちなみに、オルドス地方とは、黄河の彎曲部わんきょくぶに位置し、しばしば争奪戦が起こっていた要地である。


 とにかく、族がそういった苦しい状態だったから、長男が英主であり、現状を打破できる力を示すようなら、跡を継がせても構わないと頭曼が考えても無理はない。



 何日も平原を行軍した。不思議と緊張はなかった。斥候せっこうによって、敵軍の位置が知れる。

 青年の予想通り、月氏王は激怒していた。現状、かき集められるだけの兵を集めて、小高い丘の上に布陣。匈奴軍の到着を今か今かと待っていた。

 予定の場所に兵を伏したのち、頭曼は本隊を率いて、挑発するかのように敵正面の小山に陣を張った。




「かかれ」


 少壮の部隊長が叫ぶと、同時に匈奴軍の先鋒せんぽうが突っ込んだ。遊牧民の軍隊は、ほとんどが騎兵で構成される。この先鋒部隊も例に漏れない。もちろん、青年もナルに乗って、一兵卒としてこれに加わっていた。


 矢が降った。雨の如く降る矢雨。それに向かって走らねばならないのだ。一瞬、臆病風に吹かれそうになる。


「速度を緩めるな!」


 味方の誰かが叫んだ。

 中途半端が一番まずいのだ。命を投げ出す思いで突っ込んだほうが、かえって生存率は上がる。

 ナルもそれを知っているのだろうか。特に指示を出されていないのに、速度を上げた。

 気づけば、青年は隊の最先頭を走っていた。

 後ろの兵が、馬から撃ち落とされる。速度を上げていなければ、撃ち落とされていたのは青年だった。

 一騎。また一騎。味方兵が落ちる。

 敵は目と鼻の先。敵の騎兵も矢を放つのを止めて、剣や槍を抜いて、こちらに突っ込んでくる。


 ――まだ死にたくない――

 青年は思った。だが、怖いからではない。もっと別の次元から発する想いだった。

 ――大勢を引き連れて、大地を駆けたい――

 という欲は、志と呼ぶにはまだ小さい。だが、果たすことなしに死にたくない。


 確かに青年は、今現在、多くの兵を背に走っている。指揮官でないが、結果的に彼らを引き連れる形にはなっている。

 ――しかし……――

 足りない。たかが、数百騎では足りない。数千騎でも足りない。

 ―― 万は欲しい ――

 と思った。

 同時に、

 ――俺はこれほどまでに野心家だったのか――

 と、己の欲深さに気づき、青年は驚く。

 

 恐れず敵に突っ込んだ。剣を躍起やっきになって、振った。

 ――俺の力を見せつけてやる――

 父に、ではない。後ろにいる、味方の兵に見せたかった。


 あちらは丘から平地へ、こちらは平地から丘へ、攻撃を仕掛けている。当然、勢いの差で不利に立つのはこちらである。

 敵の騎兵団子に飲み込まれれば、死は避けられない。

 接触の直前に馬体を左に向ける。すれ違いざま、青年の攻撃が、ひとりを捉えた。敵の槍先が頬をかすめるのを感じる。

 斬った敵が落ちるのを確認する暇もなく、旋回。後方へと一旦離脱。他の味方も続々と敵にぶつかっている。

 弓を取って、そんな味方を援護した。騎射は遊牧民の得意技である。

 敵にほころびが見えると、剣を手にして、再度突っ込んだ。血しぶきが顔に掛かったが、それをぬぐいとまもない。

 はたから見て、青年の戦いぶりは実になめらかであった。


 元々、彼個人の戦闘能力は低くない。

 しかし、それにしても目覚ましい動きだった。

 ――ナルのおかげだ――

 青年は確信する。

 ――速度でも、突撃力でも、負けない――

 そういう自信が活躍を生んでいた。

 戦闘中にも関わらず、青年の活躍に幾人かが目を奪われていた。頭曼もそのひとりであった。

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