第13話 看病

「んごッ!?」



 突如頭が“ガクン”と前に振れて目が覚める。



「んあ? あ~寝てたか……」



 どうやら椅子に座ったまま寝てしまったようだ。

 無理な態勢で寝てしまったことによる痙攣現象、いわゆる『ジャーキング』によって体が不随意運動を起こしてその拍子に頭が前に振られたのだろう。


 お陰で頭の中はモヤモヤとした状態が続いており、身体が「もっと寝かせろ!」と訴えてくるし、口の中は唾液がネバついて気持ち悪い。



「ふぁ~! はあ、眠みぃー……」


(何で俺は椅子に座ったまま寝てたんだっけ?)



 ボーっとしたままの脳を必死に働かせて思考するが、ボンヤリとしたまま視線を正面に向けたとき、一瞬で脳が覚醒し同時に自分が椅子に座り込んだまま寝てしまった理由を思い出した。



「そうか。 彼女を寝かしつけて俺も釣られてそのまま寝てしまったのか……」



 ここは俺が宿泊している宿の部屋であり、その部屋に備え付けてあったベッドには一人の女性が横たわっている。壁にはハンガーに掛けられた灰色の制服の上下と白いYシャツとネクタイが引っ掛けてあり、その下には黒い革製のロングブーツが揃えて置かれている。



(今、何時だっけ?)



 腕時計を見ると時刻は午前0時27分を示している。

 どうやら彼女をベッドに寝かせてから約3時間ほど寝入ってしまったようだ。



(熱は?)



 おもむろに立ち上がってベッドへと近づいて寝ている女性の枕元に置いている体温計を手に取ってそのままパジャマの隙間から彼女の左脇へと体温計を滑り込ませて暫く待つと小さな電子音が部屋に響く。



(38.4℃か……最初に体温測ったときより下がっているとはいえ、まだ熱があるな)



 一番最初に体温を測った時は40.0℃を越えていたので、それよりも体温が下がったことは良いと言えるのだが、あくまで日本の家庭で常識とされる人間の体温の範疇で測っているため、果たしてこの常識が異世界でも通じるのかは分からない。


 が、こうやって見ると先程よりも呼吸は幾分か落ち着いているし、汗は引いているように見えるので多少はマシになっているのだろうと思う。



(この女性は何者なんだろう?)



 部屋の壁に掛けられた制服を見ながら彼女の素性に思いを巡らせる。

 制服の見た目はナチス政権下のドイツ保安警察の制服にそっくりだが、制帽や制服に佩用されている帽章や肩章、各種勲章に略綬、徽章といった類は保安警察やドイツ国防軍のそれとは様式や見た目が異なるので間違ってもこの異世界へ転移して来た武装SSやSD、国防軍兵士などではない。



(それに拳銃などの武器を持っていなかったしな)



 腰に巻かれていた帯革にはサーベルか何かを佩いでいたと思しき剣吊り帯が付いていたが、それ以外に拳銃を入れるためのホルスターや短剣、銃剣と言った装備は携帯していなかった。



(もしかして内勤の警察官や軍人なのかね?)



 仮に彼女が現場ではなく、内勤の警察官や軍人なら武器を持っていないのもうなずける。それにこんな地球の女優やモデルを遥かに凌ぐ美女が現場の第一線で活動している姿が想像できない。



(身分証を勝手に見るのは不味いよなあ……)



 一応胸ポケットに硬い感触があったので恐らく身分証の類を入れているのだと思うが、勝手に見てよいのか判断に迷う。雪に濡れた制服を脱がして冷えた身体を温めるためだったとはいえ、本人の了承も得ずに制服を脱がしてパジャマに着替えさせた行為だけでもセクハラ行為と見なされても仕方がない。


 これ以上、女性の持ち物を勝手に調べるのは失礼というものだろう。

 制服を着用している以上、彼女は何処かの公的機関の人間なのだろうから少なくとも犯罪者ではないはずだ。


 幸いなことにパジャマを着せているときにその魅力的且つ大変けしからん肢体に怪我や痣は全く確認できなかったので、恐らく体調不良によって雪の中行き倒れていたのだと思う。



(まあ口から血も吐いてないから内臓を傷つけている様子もないし、このまま様子見かねぇ……)



 一応、飲む点滴とも言われる某スポーツ飲料を飲ませたら無意識なのかゴクゴクと喉を鳴らして飲んでいたし、ひとまずこれで脱水症状に陥る危険はないだろう。



(……うん。 呼吸も落ち着いているな)



 口と鼻に手を近付けると規則正しい呼吸をしているのが分かったので、素人目ではあるが一応危機は脱したようだ。



(よし! 俺も寝るか……)



 さすがにこのまま椅子で寝続けるのはしんどいので、武器と共にこの世界に持ち込んだ寝袋とクッションマットを床に敷いて寝ることにする。



(ふーむ、マットのお陰でゴツゴツ感は皆無だな。

 それじゃあ、軽く何か食べてから歯を磨いて寝るか……)



 行き倒れている女性を助けるという予想外のハプニングに神経が参ってしまい非常に疲れた。体はピンピンしているが、瞼が異常に重く、セマ達との食事であれほど料理を食べたというのにまた腹が減っている。



「この時間だと下の食堂は閉まっているし……カップラーメンでも食べるか?」



 さすがに腹が減ったからといって宿の人に何か作ってもらう訳にもいかないので、お湯だけで食べることが出来るカップラーメンがこの場合適切な選択だろう。幸いなことに部屋を暖かくして加湿するために薬缶には既に水を入れて現在進行形で湯をストーブで沸かしているし、カップラーメンもかなりの種類と量が他のインスタント食品と共にストレージの中にしまってある。

 


「とっとと食べて寝よう」



 俺はストレージからカップラーメンと箸を取り出してすぐに薬缶からラーメンに湯を注ぐ。初めて異世界で食べるカップラーメンは大手メーカーが作るカレー味のラーメンであり、ロングセラーの逸品だ。


 3分後、モバイル端末のアプリによるカウントダウンの時間が0になると同時に電子音が室内に響き渡り、カップラーメンが出来上がったことを知らせる。



「ああ、良い匂いだ」



 カップラーメンのフィルムを剥がして箸を突っ込み、そこから麺と具材をよくかき混ぜると湯気に乗ってスパイスの匂いが鼻腔を刺激し、さんざん嗅ぎ慣れた匂いが日本での生活を思い出せる。ほんの少しだけホームシックな気持ちにさせて心を締め上げるが、それ以上に気がかりなのが目の前の女性だ。


 椅子に座り、“ズズズーッ”っという自分が麺をすする音をBGMにしつつベッドで寝ている女性を見るが真面目な話、彼女はどこの誰なのだろう?



(この国の人間なのかな? それとも別の国の人間?)



 彼女を背負って宿に戻った時、宿の受付に居たのは女将さんだけだったが彼女は俺の様子を見て驚きこそしたが、背負っていた女性に対して何処の誰とも言わなかった。この女性がどの様な理由であんなことになっていたのか分からないので、女将さんには迷惑料と口止め料、そして追加の宿泊費として金貨10枚を渡して誰にも口外しないようにお願いしてある。



(まあ日本円で100万円も渡したのだから、女将さんも約束を守ってくれるとは思うけど……これからどうしよう?)



 金貨を受け取った女将さんの驚いた顔とそれ続いての満面の笑み。俺が見るに女将さんがきちんと約束は守ってくれると信じてはいるが、問題は俺の方にある。何しろ明後日からギルドで冒険者の基礎講習が始まるのだ。


 セマ曰く冒険者の講習で一番時間が掛かると言われている筆記や算術など、主に頭を使う講習が免除になったおかげで基礎講習の時間は大幅に短縮されたと言って良いらしい。しかし、それ以外の講習……交渉や植物や魔物、魔導具の見分け方などの座学の他、対人戦闘や野外自活に生存術などを履修しなければいけない。


 座学を除けば殆どの科目が野外であるため、終了時間が夜になることも時々あるのだとセマは言っていた。こうなると目の前で寝ている女性の看病が疎かになってしまう。



(どうにか俺が不在の間に面倒を見てくれる人を見つけないとな……)



 時間は明日いっぱい。

 そして女性の面倒を見てもらうということは、面倒を見る方も女性でなければならないが、相手が目を覚ましていない以上、細心の注意を払う必要がある。


 極端な話、目を覚ました瞬間襲い掛かって来ないとも限らないので、肝が据わった女性……とあるアニメの映画でフライパンを片手に持ちながら「誰がそのシャツを縫うんだい?」といっていたようなドッシリと構えていられる女性が必要だ。



(ふーむ……やっぱり女将さんにお願いするしかないのかねぇ?)



 この世界で口を聞いたことがある女性は僅かに4人。その中で肝が据わっていると思われる女性はこの宿の女将さんだけだ。一応彼女からは金貨を渡した時に「何でも協力するから、遠慮なく言ってね!」と頼もしいことを言われているので迷惑を掛けてしまって非常に申し訳ないが、ここはお言葉に甘えて頼らせてもらうとしよう。



(そうとなれば、歯を磨きに行ったときに早速頼んでみよう)



 女将さんに頼むのは俺がいない間と、この女性の汗を拭いたり着替えの手伝いなど男である俺では出来ないことだ。



(本音を言えば早く回復してもらいたいのだけれど……)



 彼女がただの体調不良なのか、それとも何らかの病気なのか今一つ分からないが、何かの病気だったら本当は良くないのだろうがイーシアさんに泣きつけば何とかなるだろう。その見返りが俺のカラダの可能性は否定できないのが恐ろしいところだが……



「ふう、美味かった」



 色々と考えを巡らせているうちに麺を食べ終えてスープまで飲み干して小腹を満足させた俺は、就寝前の歯磨きと洗顔の為に歯ブラシと洗面用具を持って宿の1階にある洗面所に行くために部屋を出て行った。






 ◇






「じゃあ……すみませんが、よろしくお願いします」


「ええ、心配せずに行ってらっしゃい」



 宿を出てギルドに向かう俺の後ろ姿を女将さんが見送る。

 一昨日の夜から降り続いていた雪は昨日の昼過ぎには殆ど止んでしまって、今は朝日によって溶けるのを待っているような状態だが、積雪は高い所で50センチ近くもあり、道にもかなりの雪が積もっている。


 馬車や人々が通った後に残る轍や足跡によって雪が解けて歩ける道が作り上げられているので歩く分には支障はなさそうだが、一部はアイスバーンのようにツルツルとした場所もあるので転ばないよう注意が必要だ。



(まあ、ギルドに行く必要がある以上、行かない訳にはいかないが心配だなあ……)



 結局、問題の女性は昨日一日中目を覚ますことはなく、静かな寝息をたててグッスリと眠っていた。そののまま一日が過ぎ、ギルドで冒険者基礎講習を受ける日がやって来てしまったので、宿の女将さんと事前に打ち合わせていた通りに俺が不在の時間は女将さんが彼女の看病をしてもらうことにして、俺自身はギルドに向かう。



(ふう、魔族ねえ……)



 女将さんが言うには、ベッドで寝たままのあの女性の種族は魔族らしい。当初、『魔族』という言葉を聞いたとき俺は内心緊張していた。異世界ファンタジーでは基本的に魔族は人間と敵対しているパターンが殆どであり、偶に権力闘争で敗れた元魔王や異端の魔族が人間の主人公と仲良くなって行動を共にするという話が多い。


 そのため、俺は「とんでもない人物を保護してしまったのか!?」とビビっていたのだが、俺の焦りを感じ取った女将さんは大丈夫だと元気付けてくれた。何でも、他の大陸は兎も角、バレット大陸に存在する殆ど魔族は人間に対して非常に好意的であり、魔族国家では魔族だけではなく、人間や獣人も一緒に暮らしているらしい。


 そのためあの女性魔族もシグマ大帝国の帝都ベルサで行き倒れていたよいうことは大陸東側に位置する『魔王領』か大陸中央部の『ツァスタバ王国』の出身者ではと言っていた。一応、女将さんにはあと5枚の金貨を渡して彼女が行き倒れていた理由が判明するまでは黙っていてくれと頼んでおいた。



(魔族ってことは、彼女は魔族国家の軍人? それとも警察官なのか?)


「いや、駐在武官という可能性もあるのか? うーん、でもなあ……」



 女将さんに聞いたところ、この帝都ベルサには魔族国家の大使館や領事館は政治的、宗教的、種族的な理由で存在していないらしく、魔族を含む人間種を除く多種族国家関連の政府施設はシグマ大帝国の第二の都市『メンデル』に集中しているらしい。


 何でもバレット大陸一の国土と人口を誇るシグマ大帝国には一部の小国規模な都市国家を除いた国々が大使館や領事館をここ帝都ベルサに設置した際に魔族や獣人、長耳族といった種族をよく思わない人間種の国々から派遣されている大使や駐在武官との間で魔族や亜人族の者達とイザコザが発生することが多々あったそうだ。


 しかも、お互いに大使や武官という一般人ではく国を代表する者同士での衝突(主に街中で顔を合わせた場合が多い)。それは一歩間違えれば国家間の戦争に発展しかねない危険性を孕んでいた。主にそういった状況の場合、人間種主体の国家に所属する者達が一方的に嫌っていたとはいえ、何も手を打たないのは大帝国して不味いということで、転移魔法が一応実用化の目処が立った時点でそれぞれの大使館や領事館を物理的に分けるという策に至った。


 数の多い人間種主体国家は帝都ベルサに、それ以外の他種族・混成種族の国家が第二都市メンデルへと移ることになるのだが、面白いのはこのメンデルに大使館を移すという件を提案したのは他種族側からということだ。

 


(でもまさか移転先のメンデルが帝都以上に栄えるなんて誰も想像していなかったんだろうな……)



 実はここ帝都ベルサはシグマ大帝国の皇帝とその一族が暮らしているのは当然として、官庁の建物や貴族の邸宅や彼らが保有する半官半民の性質を持つ企業の社屋が建っており、首都の名に恥じない規模を誇っているのだが、いかんせんバレット大陸の北側に位置しているために交通の要衝からは微妙に外れている。


 それに対して第二都市メンデルは帝都ベルサから南東へ約750キロメートル離れた位置にあり、交通の要衝として栄えている上に巨大な運河の傍に街があることでこれを利用した物流も盛んだ。しかも、帝都ベルサの人口の約8割がほぼ人間種で占められているのに対してメンデルは人口の約7割が魔族・獣人族・長耳族で占められているため文化も多様で経済的な活気に満ちている。


 帝都ベルサが政治の舞台ならメンデルは経済が舞台となっており、経済規模だけで見れば間違いなくメンデルこそが経済の首都なのだ。やはり、ほぼ人間種だけの街では宗教などの違いはあっても多様な文化が生まれづらいのか経済活動もワンパターンになりがちなようで、それに比べてメンデルは多様な文化に満ち溢れている分、経済活動は活発だ。


 そのため帝都ベルサと第二都市メンデルそれぞれの街に行くと「ここは本当に同じシグマ大帝国の街なのだろうか?」と疑うほど両街の雰囲気は全く違うと言われているらしい……


 因みにバレット大陸の国々のうち約半数以上の国が国家レベルでの経済規模とヒト・モノ・カネの自由な往来を拡大する目的で領主制度を廃止しているため、領軍や騎士団といった異世界ファンタジー定番の軍事組織ではなく、常備軍が整備されている国が多いとのこと。(中には領軍や騎士団が常備軍へと横滑りして組み込まれて編成された例もあるようだ)


 そのため貴族だからといって必ずしも貴族家が治める領地を持っているというわけではなく、領主制度が廃止された後、新たに企業経営者や官僚に軍人、議員や政策顧問といった肩書きを持つに至った者も多く、資産が少ない下級貴族などはそのまま貴族階級を国へ返上後に下野して民間人になった者も多数いるのだとか。



(もし駐在武官とかだったりした場合、彼女はメンデルから来たのかねぇ?)



 昨日、セマ達と魔法の話について聞いているときにクラン唯一の魔道士であるエフリーが転移魔法について言及していたが、転移魔法が実用化されたおかげで政府機関やギルド、資金力がある企業などでは書類や金銭、情報のやり取りが転移魔法を通じて行われているようで地球のようにリアルタイムとまではいかないが、ある程度の速さでこれらの作業が完了するらしいとのことだ。


 もちろん、転移魔法の陣が存在するのは規模の大きな街や国にとって重要な地域のみであり、それから外れる中小の規模の街には未だに転移魔法陣が設置されていない場合が多いのだとか。そのため、今でも早馬を使った郵便や書類、決済手形の輸送が行われている地域も多く、それらを護衛する依頼が時折ギルドに舞い込むらしい。



(やっぱり、エフリーが言っていた転移魔法を利用してメンデルからベルサまで来たのだろうか?)



 これもエフリーが言っていたことなのだが、神様が作ったのではない以上、転移魔法には当然欠点もある。その幾つかの欠点に普通の人間の転移は出来るものの、高魔力保持者は転移魔法が使えないというものだ。


 これはどういうことなのかというと、魔法が使える使えないに関わらず高い魔力を持つ者は転移魔法陣によって通る跳躍空間に入ることができないというもので、現在も実験や試行錯誤が行われているそうなのだが、その結果は芳しくないらしく、過去には魔王領の実験施設で大規模な暴走事故が発生して死亡者が出ていると聞かされた。


 そのため転移魔法の大規模な実験に関して各国は及び腰だそうで、『魔王領』だけではなく魔法先進国である『ダルクフール法国』においても転移魔法の実験は遅々として進んでいないらしい。高魔力保持者が転移できないだけで少数とはいえ、中級レベルの魔道士なら数人、魔力無保持者なら十数人は運べる上に重量制限があるといっても情報や金融関係で使うだけならば特に不都合はないので敢えて研究を進める魔法研究者は少数派らしく、鉄道網が整備されつつある昨今、転移魔法実験の予算や補助金、助成金の類も少なくなる傾向にあるのだとか?



(仮に転移魔法を使ってメンデルからベルサまで来たとして、何故あの場所で行き倒れていたのだろうか?)



 考えれば考えるほど疑問は尽きない。

 大体、軍人にしろ警察官にしろあんなところで行き倒れること自体が不思議である。



(誰かに追われていた? いや、それなら服が汚れていたり、どこかに怪我をしていてもおかしくないのに彼女の身体には傷どころか痣の一つもなかった)



 思わず服を脱がせたときに見た彼女の人間離れした完璧なプロポーションを思い出して体が熱くなるが、かぶりを振ってそういう思いを追い出して冷静に分析する。が、やはりどう考えても『これだ!』という決め手が無い。



(やっぱり、本人が目覚めた後に直接聞くしかないか……)



 頭を振って気持ちを切り替えて、今からは冒険者のことだけを考える。

 今日から始まる冒険者の基礎講習。事前に聞いたところによると、今日は座学になるとのことだったので、集中力を欠かない為にも冒険者と関係ないことは考えないようにしないといけない。そう思い俺は気を引き締めてギルドへと続く道を雪で滑らないように気を付けながら歩を進めた。





 ◇






「ああ、ようやく宿が見えてきた」



 ギルドでの冒険者基礎講習の初日を無事終えた俺はヘロヘロになりつつも宿へと帰ってきた。今日ギルドで教えてもらったのは依頼人との交渉術に始まり、地図の見方、植物や魔物、魔獣と言った生き物の見分け方や生態、依頼中に賊などに遭遇した際の対応の仕方など昼食を挟んで朝から夕方までみっちりと教え込まれた。



(にしても俺達が物覚えが良いからって教官らは無茶し過ぎだろう……)



 季節が冬ということもあり、冒険者の基礎講習に参加していた人数は俺も含めて僅かに4人だけ。そのため講習は次々に進んで行き、黒板に書かれた項目をノートに書き写すだけでも一苦労であった。



「ただ今戻りました……」


「あら、おかえりなさい! 彼女起きているわよ」


「え? 本当ですか!?」


「ええ、今は……あら、行っちゃったわ……」



 女将さんの言葉を聞いた瞬間、冒険者の基礎講習に対する集中力を欠くことになるために敢えて考えないようにしていた件の女性魔族が目を覚ましたということで、居ても立っても居られなくなった俺は足早に自分が泊っている部屋へと急ぐ。



「っと、やべ……」



 部屋の前までやって来てドアノブに触れた瞬間、はたと気付いてドアノブから手を離す。思わず扉を開けようとしたが、向こうにいるのは女性だ。迂闊に開けようものなら、着替えている女性と鉢合わせになって痴漢だセクハラだと悲鳴を上げられかねない。



「ゴホン! すぅ……すいません、起きてますか?」



 一度深呼吸してから扉をノックしてから起きているかの確認の言葉を送る。すると中からゴソゴソと音がして返事が返ってきた。



「はい。 起きています」


「入りますけど、よろしいですか?」


「えっと、その前に貴方は一体誰ですか?」



 入室を許す言葉の前に誰何する声が扉越しに聞こえてきたが、女性から見たら俺は初対面の男である。警戒するのは当然だ。



「昨日の夜、雪の中倒れていた貴女を助けてこの宿まで連れてきた者です」



 そう言いつつイーシアさんがこの世界に降りる際に用意してくれた身分証を取り出して扉の下、床との僅かな隙間から身分証を差し込む。すると、身分証が部屋の中へと引き込まれたと思ったら、すぐにまた戻ってきてすぐに扉が開いた。



「どうぞ」


「あ、はい。 失礼しま……す?」


「どうかしましたか?」


「ほぅ……あ? すいません、ちょっと入りますね」



 このとき、正直言って俺は彼女を見た瞬間心を奪われていた。

 地球ではありえない紫色の髪に赤い瞳、肌は白く、顔は一流の造顔師がデザインしたかと思うほど整った顔、そして意思が強うそうなキリリとした眉と俺がこれまで出会った女性の中で間違いなく一番キレイと思った瞬間だった。


 別に美しすぎて精気を感じないという訳ではない。

 今は体調が悪いのか顔色は昨日の夜より良くなっているとはいえ、健康というにはほど遠い。だが病的とは言えない雰囲気があり、少しづつ良くなっているというのが分かる。



(背が高いな。 多分、180センチ近くはあるか?)



 170センチを少し超える俺が彼女を若干見上げる形になるので間違いなく女性の中では長身の筈だ。特に今の彼女は俺が予め用意していたスリッパをはいているので、身長が底上げされてはいない。



(それにしてもこの色香……堪らん!!)



 背が高く少し肩が広い女性は何処かゴツイ雰囲気があったりするが、彼女の周囲に漂うのは男を狂わせかねないほどの色香だ。ベッドに腰かけるためにこちらに背を向けたときにボブヘアーに切りそろえられた髪とパジャマの襟の間から覗いたうなじは至高そのもの。


 しかも、彼女自身の体臭なのだろうか?

 彼女から漂ってくる香水とはまた違う、優しく甘い匂いは控えめでありながら俺の脳を直撃する。

 正直言って外見は俺の好みどストライクで一目惚れだった。



(ハァ……良い匂いだなぁ。 ずうっとこの匂いを嗅いでいたい……)


「はぁー……ハッ!? ヤバ……ッ!!」



 思わずフラフラと彼女の後をついて行って、そのままベッドに押し倒してしまいそうになる衝動を頭を振って必死に思い留まる。まるで誘蛾灯に誘われる蛾と同じように引き寄せられそうになるのを必死に我慢しながらベッドに座った女性と相対する。



「先ずは自己紹介の前にお礼を言わせてもらいます。

 ありがとう。 貴方のお陰で私は命を落とさずに済みました。

 いくら感謝してもしきれません。 本当にありがとうございます」


「い、いえ、助けたのは本当に偶然なんです。

 それに他人とはいえ、倒れている人を見過ごすことは出来ませんよ。

 だから、そこまで畏まらないで頭を上げてください」



 お礼を言いつつ深々と頭を下げる女性に慌てて俺は声を掛ける。



「すいません。

 助けていただいた上に泊まらせていただくなど……正直言ってどのようしてお礼をすれば良いのかわかりません」


「いや、別にお礼を目当てに助けたわけではありませんし。

 日本人の習性なんですかね?

 困ってる人や怪我をしている人を見ると助けないわけにはいかないじゃないですか」


「はあ……そうなのですか?」


「そうなのです。

 だから、助けられたから何かお礼しなくてはとか考えないでください。

 もし気が済まないのなら、一刻も早く体の調子を整えないと……」



 このままではお互いにお礼をするしないという話だけで明日になってしまうので、多少強引にでも話題を変える必要がある。すると相手もそれを察したのか、苦笑しつつもこちらの意図に乗って自己紹介を始めた。



「ありがとうございます。

 そう言っていただければ、私も畏まらずに気が楽です。

 ところで自己紹介がまだでしたね。

 私の名前は『アゼレア・フォン・クローチェ』と言います。

 種族は見ての通り魔族で、出身は魔王領です」


「ああ、やはり魔族の方だったんですね。

 ええっとぉ……もう身分証を見て分かったと思いますが、私の名前は『孝司 榎本』です。

 以後、お見知りおきを」


「先程見た身分証では『榎本 孝司』と表記してありましたが?」


「ああ、それは私の出身国では姓が先で名を後に表すのが一般的なんですよ。

 でもこの大陸では名が先で姓を後にして名乗るでしょう?

 だからそれに倣って名乗りました」


「そうですか。 お心遣いありがとうございます」


「いえいえ。

 ……ところで、ちょっとお聞きしたいんですが、クローチェ……さんは軍人か警察官なんですか?」


「…………何故そう思われるのですか?」


「いや……申し訳ないんですが、昨日ここに担ぎ込んだときに濡れていた制服を乾かすためにマズイとは思ったんですが、服をパジャマ……いや、寝巻きにお召し替えさせていただきました。

 そのときにあちらに掛けてある衣服が軍隊か警察の制服に思えたので……ああ後、男である自分が女性である貴女の承諾を得ずに勝手に服を取り替えてしまい、誠に申し訳ありませんでした。

 率直にお詫び申し上げます」



 彼女に対する自分の推測を述べつつ、俺は昨日クローチェさんの了解を得ずに制服を脱がしてパジャマに着替えさせたことについても謝罪する為に椅子から立ち上がって彼女に頭を下げた。



「そんな……あの、頭を上げてもらえますか?

 着替えについては仕方がありません。

 寧ろ、そのお陰で体温の低下を防いでくれたのですから、私としては感謝の念しかありません」



 驚きつつもベッドから立ち上がってこちらに近付き、頭を下げている俺の後頭部に手を添えて優しく起こそうとするクローチェさん。まさか頭に手を添えるとは思わなかったので、慌てて俺は頭を上げて後退った。



「そ、そうですか! ははっ、怒ってなくて良かった。

 ところでさっきの話ですが、やっぱりクローチェさんは軍人さんとかなんですかね?」


「ええ、榎本さんの仰る通りです。

 私は[魔王領国防軍]より『魔導少将』を拝命しています」


「ああ、やっぱり軍人さんだったんですね。 魔導少将ですか!

 ん? 魔導少将? 少将? 少将……少将ーッ!?」


(ほんげーーっ!? 『少将』ってことは、この人っていうかこの方は将官……将軍ってことか!!

 ぎょえーーーー!!!! 俺、何気軽に会話しちゃってるの!?)



 彼女の階級を知った俺は思わず後ろへと飛び退って直立不動になって反射的に地球の軍隊式敬礼を行った。いくら神様の後ろ盾があるとはいえ、この世界では俺は無職の冒険者見習い候補であり、正式なギルド冒険者ではない。対して目の前の女性は魔族の将軍である。


 俺は昨日彼女から脱がせた制服を思い出していた。

 確かに制服の上着には略綬や幾つかの勲章や徽章が佩用していたのは記憶している。あのときは仮に目の前の女性が軍人だったとしても、彼女の見た目からして中尉か大尉または少佐クラスと思っていたのだが、予想は遥か上を行っていた……っというか、驚愕を通り越して内心笑うか泣くしかない。



「し、失礼しました! 少将閣下!! 数々の無礼、お許しください!」



 もう頭の中はパニックである。

 額は元より、頭や首に脇、そして背中に大量の冷汗が瞬時に滲み出て下着を濡らす。


 正直、今の自分が何をどう喋っているのかも覚束ないし、敬礼している腕と手は思いっきり震えているし、下半身もそれにつられて小刻みに振動している。


 彼女の言っていることが本当ならば、陸上自衛隊の階級に当て嵌めた場合『陸将』または『陸将補』に相当する階級であり、師団か旅団を率いる身分だ。米軍ならもちろん、そのままの『少将』であるがどう見ても20代前半に見える彼女の階級が少将だと地球の軍人たちに教えても「バカも休み休みに言え!」と怒鳴られること必至である。


 因みに彼女自身が言っていた『魔導少将』という地球ではまず聞くことがない階級を疑問に思った俺は後でこの魔導少将なる言葉を調べて驚愕することになる。この世界には魔法と科学が混在しており、軍隊においては魔法=魔導の知識が豊富で実際に高度な術式を具現化して行使できる魔法の専門家達の階級を『魔導系統』又は『魔導階級』と呼び、反対に科学=技術の知識が豊富で実際に高度な科学技術を兵器などの開発に活かせる専門家の階級を『技術系統』若しくは『技術階級』と呼称して区別しているらしい。


 またそれ以外の階級……主に魔法や科学に対して一般的な知識しか持たず戦闘や兵器開発にさして活用することがない将兵達は『一般系統』または『一般階級』という呼び名で区別されているらしいのだが、前述の魔導・技術階級はこれら一般階級に対して優越する関係になるため、例えば同じ『少尉』の階級でも魔導・技術階級は実質的に一つ上の階級である『中尉』に相当すると考えられているらしい。


 そのためクローチェ魔導少将の階級はこの世界の軍隊では実質的な『中将』と同義であるらしく、これを知った俺は顔をムンクの状態にして驚愕と畏怖を同時に味わうことになる。



「やめてください! 見たところ貴方は軍人ではないのでしょう?

 一般人の方がそんな畏まった態度を取らないでください!

 もうそんなことをされるのに私は飽き飽きしているんですっ!!」


「へ?」



 彼女の口から出た「そんなことに飽き飽き」とはどういうことなのだろうか?



「もう嫌なんです。 誰も彼も若い私の軍での階級を聞いた途端にそれまで親しげにしてくれていた大度を翻して畏まってしまうのが嫌なんですよ……」


「はあ……?」


「いっつもそうなんです。

 私の階級が将官だからとか、大公家の娘だとかで皆が私を特別扱いして挙句に私の名前に『様』や『君』などの敬称を付けて全く呼び捨てにもしてくれないどころか、一歩も二歩も引いた態度で接して来てこちらが空しいんです!

 ……うっ!?」

 


 それまでの彼女に接する人々の態度や言動に何か個人的に思うところがあったのか、まるで泣きそうな顔になってこちらに自分の内にため込んでいたであろうものを吐き出すクローチェさんであったが、突如として己の額に手を当てて苦しみ始めた。



「ど、どうしましたか? 大丈夫ですか!?」


「心配いりません。 ただの頭痛と目眩です。

 恐らく転移魔法を失敗した時の影響ですね」


「て、転移魔法ですか?」


「ええ。 ところで不躾なお願いで申し訳ないですが、何か食べ物はありませんか?

 空腹で身体に力が入りません……」



 そう言われて彼女の顔を見るがやはり力が入らないのだろう。

 今も顔色は青白く、如何にも不健康な状態であるというのが嫌でもわかる



「食べ物って……お粥とかですか?」


「とにかく体に力が入りません。

 食べ物なら何でも良いので持って来てはいただけませんか?」


「そ、そんなこと言われても……ああ、そうだ!

 分かりました。 何とかします!!」



 俺は慌てて部屋を出て階下の食堂へと向かって行った。






 ◇






 目の前で食べ物の山がみるみる消えてゆく。

 チーズやソーセージ、ハムやパンに果物といった地球でも違和感のない食べ物が綺麗に整えられた口の中に消えていき、傍にあったワインを瓶ごと一気に煽れば“ゴポリ、ゴポリ”という音と共に中身を減らしていく。



「イヤイヤイヤイヤ! そんなに慌てて食べたらいけませんって!

 胃が受け付けないですよ!!」


「うるっさいわね! いいから、そこの腸詰めを渡しなさい!」


「うひーっ!?」



 据わった目つきで睨み付けられて固まっている隙に俺が持っていたソーセージを彼女はひったくるようにして取り上げてそのまま齧り付く。


 長身とはいえ、一体その細い体の何処にあれだけあった食べ物が入っているというのだろうか?この宿の女将さんに事情を話して用意してもらった食べ物、主に手づかみでも食べられる加工食品や発酵乳製品や果物を用意してもらったのだが、それが今や殆どが食い尽くされていた。



(見ているこっちが胸焼けしそうだ……)



 大食いの人が食事をしているのを見たことがある人の気持ちというのはこういうのを言うのだろうか?どこまで食べれるのかという興味とそれまであった大量の食べ物がどう見ても入っているとは思えない細い身体を見て思う不思議な気持ち。そして残りも食べてしまうんだろうなあという確信と見ているこっちの満腹中枢が刺激される錯覚。


 女将さんが「わたしが何とかするわ!」という頼もしい言葉と共に用意された俺も食べることを想定して用意された食べ物の山は、今や風前の灯火となっている。因みに俺は彼女の食べっぷりに呆れてしまって、一緒に食べるどころではなくなり、彼女に食べ物を供給する係となっていた。



「ふう……ありがとう、美味しかったわ。 じゃあ、私は暫く寝るわ」


「ええっ!? せめて歯を磨いてから寝ましょうよ……」


「後で磨くわ」



 そう言ってクローチェさんは布団を被ってベッドで寝始める。

 と思ったら、ガバッと起き上がってこちらを見て話し掛けてきた。



「あ、そうそう。

 言うの忘れていたんだけれど、お願いしたいことがるの」


「え? 何でしょうか?」


「私のことは敬称無しで『アゼレア』って呼んでもらえるかしら?」


「はあ……? えっとぉ、わかりました。 アゼレア……さん」


「アゼレア! さん付けも不要よ。

 私も貴方のことを姓ではなく、名前の『孝司』で呼ぶから、貴方も私のことはアゼレアって呼び捨てにして!

 それと私が将官だからって無理に言葉を丁寧にする必要はないわ。

 友達と話すような感じで気軽に話してちょうだい」


「はあ……わかりました。 えっとぉ……ア、アゼレア?」


「うん、よろしい!」



 そう言って満面の笑みでこちらがドキッとしている間に彼女は俺が名前を呼び捨てにしたことで満足したのか、布団を被り直して眠りに就いた。

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