第11話 暴走

「魔力反応良好」


「魔法石とクローチェ少将閣下の魔力同調開始しました!」



 実験室の中では慌ただしく転移魔法実験の準備が進められていた。

 地球とは違って床の上にはコードなどの配線が全く見当たらず、代わりに円柱や円錐形に形作られた魔法石が実験室内の床の上に所々に設置されており、その間を白衣を着た研究員達が歩き回って実験開始の最終準備に励んでいた。



「所長、転移魔法跳躍目標地点より連絡ありました。

 目標地点の魔法陣起動を確認。

 双方の転移魔法陣、共に異常無し!」


「よろしい。

 跳躍用転移魔法陣に魔力を供給して起動させたまえ」


「はっ! 魔力供給開始、転移魔法陣起動っ!」


「転移魔法陣起動ぉ!!」



 この実験の最高責任者であるザウアーの指示の下、実験室の床に描かれた魔法陣の傍に設置されていた魔法石が光る。接続されていた魔導回路から魔法陣へ魔力の供給が開始されると魔法陣が白く輝き始め、魔法陣の中央に立つアゼレアが下から照らし出されると同時にケピ帽から出ている紫色の髪が浮き上がる。



「転移魔法陣の発光を確認」


「魔力反応上昇中。

 十……二十……三十…………五十までの上昇を確認しました」


「全術式起動確認完了! 最終自己診断結果…………良好。

 装置の確認状況は全て緑オールグリーンです!」

 


 四角い板状に切り出された水晶板に映し出された数値やグラフを確認していた研究員がザウアーに異常無しの報告をすると、彼は静かに頷いて次の指示を出す。



「結構。 これより転移魔法の跳躍実験を開始する。

 魔導術式記録装置の状態はどうかね?」


「装置異常ありません。 いつでも行けます!」


「よろしい。 少将、これより転移魔法の跳躍実験を開始する。

 少将は私の合図で全魔力の放出を切ってくれたまえ」


『了解しました』



 分厚い窓硝子で仕切られた向こう側の部屋……実験室の床に描かれた幾何学模様の魔法陣の中央で静かに佇んでいたアゼレアは閉じていた目を開けてザウアーの方を見て頷き、再び目を閉じる。



「それでは実験を開始する。 研究員達は実験室から退避したまえ」


「全員実験室から退避せよ。

 繰り返す、実験室の中いる研究員達は直ちに退避せよ」



 ザウアーの指示で実験室から研究員達が隣の実験制御室へと続々と退避して来る。最後の研究員が実験室へと通じる分厚い金属製の扉を重たげに閉めると実験室の中はアゼレアだけとなった。



「これより転移魔法の跳躍実験を開始する。

 これより転移魔法の跳躍実験を開始する。

 魔力反応上昇開始」



「魔力反応上昇開始!」


「魔力反応再上昇中。

 現在の数値は六十……六十五……七十……順調に上昇中」


「クローチェ少将の魔力放出確認しました。

 現在、魔法石の放出魔力に同調して上昇中」



 アゼレアの魔力放出を監視していた研究員が報告すると同時、実験制御室全体に高出力魔力独特の重圧感に包み込まれる。



「いつまで経ってもこの重圧には慣れませんね。 所長」


「少将の魔力は上級魔族達の中でもとびきり強力だからねぇ。

 私も長耳エルフ族の中では魔力が高い方ではあったが、初めて少将の魔力に触れたときは震えが止まらなかったよ……」


「所長ほどのお方でもやはり少将閣下の魔力は驚嘆に値するものなのですか?」


「驚嘆とかいう生温いものではないよ。

 本音を言わせてもらえれば恐怖すら抱くと言っても過言ではないね」


「う……」



 ザウアーの言葉を聞いて「それほどのモノなのですか?」という感想の代わりに呻き声しか出せなかった研究員は視線をザウアーからアゼレアへと移す。ザウアー本人はあまり気にしていないようだが魔王領国防軍魔法技術研究所の所長の席にある彼の魔力は中堅の上級魔族を凌駕するほどであり、「長耳族の中では魔力が高い方であった」と言っているが、間違いなく長耳族でも一二を争うほどの高魔力保持者なのだ。


 ある意味でバケモノじみた魔力を持つザウアーが恐怖を抱く程の「アゼレアという魔導少将が持つ魔力量はどれほど膨大なものなのか?」という疑問と「彼女の持つ魔力の秘密を知りたい」という魔法を探求する者として当然ともいえる研究欲を刺激されたが、研究員はガラス越しに見える魔導少将の姿を見てかぶりを振る。


 相手はただの国防軍現役将官ではなく、『魔導』の名称が階級の前に付くバケモノ中のバケモノ。古参貴族出身者やその子弟が多くを占める外務省や商務省、魔王領中央議会と比べて中堅・新興貴族出身者が多い国防軍の中にあって上級魔族の中でも古参中の古参であり、大貴族の筆頭とも言える『吸血族大公家』の息女という家柄だけでも他の将官たちの追随を許さない立ち位置にある怪物だった。ただの一研究員風情が不用意に近寄って良い相手ではない。


 これは魔王領だけではなくバレット大陸や他の大陸国家にも言えることだが、この世界の軍隊の階級には幾つかの[系統]が存在しており、『魔導系統』と『技術系統』そして『一般系統』に大別される。それぞれの系統によって階級の前に魔導や技術の名称が付くのだが、『一般系統』に関しては階級に名称は付加されない。


 『一般系統』とは言葉通りで一般的な戦務に就く将兵の系統に分類されており、地球の軍隊における階級のそれと大差はない。対して『魔導系統』と『技術系統』は地球で言うところの『魔法』と『科学』のそれに分類される。


 前者は魔法技術を得意とし、後者は科学技術を得意とする軍人に付く肩書だが、『一般系統』の軍人達とは出世速度や配属される部隊や部署に明確な違いがあり、日本の法務省のように国家公務員採用総合職試験をパスした法務官僚より司法試験をパスした検事の方が上であるという慣例のように軍によっては同じ階級であっても魔導・技術系統の軍人達は一般系統の軍人達と比べて優越し、一つ上の階級と事実上同等であると見なされることもある。


 そのためアゼレア・フォン・クローチェ魔導少将は魔王領国防軍内外において一つ上の階級である『中将』に相当すると考えられており、魔族を含めた者達から容易ならざる人物と見なされている。これは[魔族]という存在が上・中・下の種族等級に関わらず殆どの者が何らかの魔法を使えることが関係している。


 これは一般国民の殆どが何らかの魔法を使える長耳族にも言えることなのだが、軍隊や官公庁やギルドといった組織において『魔導系統』の階級や等級を持つ者は魔法の達人か達人並みの知識を保有する者であり、「将来、国家や軍組織またはギルドの中枢で辣腕を振るう者」と認識されているのだ。


 そんな背景を持つ魔王領国防軍の魔導将官を改めて研究員達は凝視し、彼らは内心安堵する。





――――この魔導少将が仮想敵国の軍人でなくて良かったと





 魔導の名称が付く将官はバレット大陸に存在する国家の軍事組織においてもそう多くはなく、人間種主体の軍隊を入れても稀少な存在だ。もちろん魔法が一般的に使えない人間種や獣人族とそうではない魔族種や長耳族を主体とした軍の魔導系統階級とを比較して同じであると総じることはできないが、それでも絶対数は少ない。


 各国の軍の魔導系統の尉官や佐官級の階級になるとその数は将官級と比べてグッと多くなるが、魔導系統は研究職を除けば科学を司る技術系統と比べて後方ではなく戦場の第一線で活躍する野戦将校が多いのが特徴で戦術面ならば兎も角、戦略面で作戦を立案できる将校が少ないのも泣き所のひとつとなっている。


 そんな貴重な存在である上級魔族魔導将官が転移魔法の実験に参加しているのだ。実験の総責任者であるザウアーの両肩にかかる責任は非常に重大であるという事実を改めて実感した彼ら研究員達は一層の気を引き締めて実験に挑もうと気合いを入れる。





 そんな時だった突如として予想外の状況に見舞われたのは……





「な、何だ!? どうしたぁーっ!?」



 耳に入ってきたのはけたたましい警報音と怒号。

 次いで赤い警告灯の光が目に飛び込んで来たことで実験室にいた全員が瞬時に理解した。

 「何かしらの事故が発生したのだ」と……



「ま、魔力逆流! 転移魔法陣に異常発生!!」


「クローチェ少将閣下の魔力反転!

 同調していた魔法石から魔力が閣下に逆流していますっ!!」


「何ぃ!?」


『う……ぐ、ああああぁぁぁぁーーーーッ!!!!』



 分厚いガラス越しに悲痛な叫び声が響き渡り、叫び声が響くと同時にガラスや実験室がビリビリと振動する。実験のために転移魔法陣と魔法石に同調させて放出した己の魔力が逆流し暴走した影響による苦痛で叫び声を出したアゼレアの声に暴走した魔力が乗って空気を振動させているのだ。



「閣下……!? アゼレア様ぁーー!!」



 アゼレアの護衛兼副官を務めるフレア・ターナー憲兵中佐が窓ガラスに顔面を打ち付けんばかりに思い切りくっつけてガラスの向こうで自分の体を抱き竦めるようにして苦しむアゼレアを見つめる。普段の冷静沈着で氷のような雰囲気を身に纏った一人の軍人としての彼女を知っている者が見れば驚いたことだろう。今のフレアの顔はそれらとは程遠い酷く狼狽した軍人というよりは気弱な少女と言っても差し支えない状態だった。



「魔力供給を遮断! 余剰魔力の緊急放出を開始したまえ!!」


「はっ!! 魔力供給遮断!! 魔力緊急放出開始ぃ!!」


「供給遮断! 緊急放出開始します!!」



 ザウアーの咄嗟の指示を受けた研究員達は彼の指示を迅速に実行する。

 実験用転移魔法陣と魔法石からアゼレアへと逆流していた魔力が魔導回路ごと遮断されて床に描かれていた転移魔法の陣とは別の位置に描かれていた魔法陣へと余剰魔力が回される。





――――余剰魔力緊急放出用魔法陣





 大規模な魔法実験や大出力の攻撃魔法発動時にとして用いられる非常用の魔法陣だ。事故や術式の暴走時に行き場を失った余剰魔力を地中または大気中に無害化した上で放出する魔導回路の一種で、大抵の魔力であれば電気の放電のように放出して魔力の暴走を防ぐ。


 魔力は魔法陣や術式を介して実体化して攻撃や防御といった戦闘手段や加工や工作といった技術の行使に用いられるが、その前の段階の魔力は適切な方法で処理すれば無害化出来る。その手段の一つとして用いられるのが『魔力放出用魔法陣』だ。


 ただしこれには一つの前提がある。

 それは「魔力であれば無害化して放出できる」という前提なのだが、残念なことに今回はこの前提は通用しなかった……当然である。


 魔王一族を含めた全魔族の頂点に位置する高位上級魔族の大規模魔力暴走に対して通常の魔法災害事故を想定して作られた魔法陣など役立たず以前の問題だった。結果、事故防止を目的に作られた魔法陣の魔導回路は破綻する。猛烈な光を周囲に撒き散らしながら……



『アアアアァァァァーーーー!!!!』



 アゼレアの叫び声が一層大きくなり、悲鳴というよりはもはや金切り声に近い状態になった時、実験室と実験制御室とを隔てていた大きな分厚い一枚ガラスに亀裂が入る。



「いかん!! ターナー中佐、そこから離れなさい!

 全員、すぐに私の後ろに退避したまえ!!」



 ザウアーの咄嗟の呼び掛けによりフレアは嫌々ながらも窓ガラスから身を離し、すぐ彼の指示に従い研究員や警備兵達と共にザウアーの背後へと対比する。



「精霊の神よ! その全能を世界に示し、我々を守り給え!!」



 ザウアーが術式を展開し、魔力が満ちると同時に彼を中心に薄い黄色味がかった魔導防御壁が展開すると同時に厚さ百五十ミリにもなる分厚い防護窓ガラス全体に亀裂が走ったかと思った瞬間、無数の細かい亀裂によって一瞬真っ白になった防護ガラスが砕け散ってザウアー達に襲い掛かる。

 そして辺り一面に閃光が走り、周囲の音が無くなった。



「全員伏せたまえッ!!」


「うわぁああああ!!!!」


「ぎえぇぇーーー!!」


「ひいぃぃーーーー!?」


「アゼレア様ぁーーーー!!??」



 全員の耳の鼓膜から音が無くなったかと思った瞬間、その鼓膜を突き破らんばかりの轟音が響き、次いで魔導防御壁では防ぎきれなかった衝撃波が彼らを襲って何人かの研究員や警備兵が後ろへと吹き飛ばされて行った。





 

 この日、魔王領国防省魔法技術研究本部第七研究区画で発生した魔法事故災害に起因する大爆発により研究区画にあった研究棟二棟が倒壊。隣接する第六研究区間の研究棟の内一棟が半壊し、負傷者四十五名を出すという大惨事になった。


 奇跡的に死者こそ出なかったものの魔研は一時的に機能が停止し、国防省保安本部と憲兵隊による事故調査が行われることになる。魔研の所長であり転移魔法実験の責任者であったザウアーは身柄を拘束された後に所長の席を剥奪され、事故防止を怠ったとして憲兵隊によって在宅起訴される運命であったが、調査中にある事実が発覚し、所長である彼に全ての責を負わせるのは適当ではないとして所長の地位はそのままに、一年間の自宅謹慎という事故の被害状況から鑑みれば比較的軽い処分へと変更されることになる。






 ◆






「号外だよ! 号外! 号外ィー!!」



 魔研での事故から一日経った次の日の昼下がり、魔王領の首都『ヴィグリード』のとある街角では常に公正明大を謳う報道機関であると同時に世界最大の新聞社でもある[国際通信社]の社員が号外新聞を配っていた。偶々近くを通りがかった通行人達は無料で配られる号外に何気なく目を通すが、紙面を読んだ次の瞬間皆一様に驚いた表情を浮かべる。


 日本の新聞紙のそれとは明らかに品質が落ちる紙質で作られた号外の紙面には魔王領の首都ヴィグリード郊外にある国防省魔法技術研究本部の研究施設において大規模な魔法事故が発生したということ。それによって研究施設の一角が爆発四散し、多数の負傷者が出ているという内容であったが、紙面を読んでいる彼ら彼女らが驚いているのはそれによって一人の高位上級魔族が行方不明になっているという記事であり、号外の紙面の一角にはこういう見出しが躍っていた。






――――国防省魔法技術研究本部で魔法実験中に大規模な爆発事故!!


――――実験に参加していたクローチェ魔導少将が行方不明!?






 国際通信社による報道によって魔研で発生した事故はほぼ一週間ほどの期間でバレット大陸中に広がった。また、それと同時に魔王領から魔族最強の存在であり、戦略級攻撃魔法を含む各種大規模攻撃魔法の使い手である高位上級魔族の存在が消えた事実も瞬く間に大陸中に広がったのだった。


 




 ◇






 バレット大陸一の国土を誇るシグマ大帝国の帝都ベルサでは夕刻から雪が降り始めていた。降雪量は時間を追う毎に次第に多くなり始め、人々は早めに仕事を切り上げていそいそと帰宅を始める者とその前に何処か外で夕飯を食べるか一杯引っ掛ける者とで別れて行動し始める。


 そして雪が降り始めて数時間経ち、夕食の時間帯も過ぎて極一部の酔っ払いを除いて殆どの人々が家路に着き、帝都の街が雪の白と夜の黒の二色の色が重なることによって灰色の静寂を基調とした景色に満ちた街中で動く影があった。



「う……」



 まるで灰色の街並みに溶け込もうかというような灰色の服に雪が降り積もった状態で、一人建物の外壁にもたれ掛かっている者がいた。まるで満身創痍かとでもいうように呼吸は荒く、医療に詳しく無い者でも一目で彼の者が医者に診て貰わなければいけないほどに苦しんでいるのが分かる。



「ハアハア……ッ! ……ここは?」



 「何処?」という問いかけの言葉さえ満足に続かない程に衰弱した状態を晒している彼の者を知っている人間が見たらさぞかし驚いたことだろう。今にも気を失って倒れ伏してしまいそうな状態に陥っているのはかつて魔族最強の存在と恐れられていたアゼレア・フォン・クローチェ魔導少将であった。



「つぅ……!」



 己が今置かれている状況を把握しようと懸命に周囲を見回そうとするが、激しい頭痛に苛まされて上手く思考が纏まらない。まるで頭の中を直接金槌で引っ叩かれているような感覚に立っているのも辛くなり、その上激しい目眩も重なって目を瞑ると世界が逆さまになったような感覚に囚われてそのまま倒れて転げ周りそうになる。


 堪らず建物の外壁にもたれ掛かったまましゃがみこんで蹲る姿勢になり、このままではいけないと四肢に力を入れるが体は言うことを聞かないばかりか、ガクガクと震え始める。



(寒い……)



 視界に雪が写り込んできたということは自分がいる場所の季節が冬であると分かる。実験時に被っていた制帽は転移直後に落ちたらしく、今頭を覆っているのは制帽ではなく雪が薄く積もっているお陰で頭から爪先まで体が冷え切ってしまっていることから、外気がかなり冷え込んでいるという事実を嫌というほど思い知らされる。



(駄目……だ……わ…………)



 普段の状態であればこれくらいの気温など仮に下着姿であっても全く問題ないのだが、今は状況が違う。体力はおろか、魔力のほぼ全てを失っている状況では今の自分は非戦闘員である人間種の女子供でも容易く殺すことができるくらいに脆弱な姿を晒している。


 今の時代、魔族に対する偏見や差別はほぼ無い地域が多くなった。しかし、魔族や人間種などの種族の関係無く機会があれば女性に対して不埒な行動を……己の中にあるドス黒い欲望を叩きつけたいと企んでいる者はいつの時代にもいるものだ。それは平和と言われて誇り高い魔王領であっても残念ながら一緒でなのある。


 もし、そういう状況に見舞われた場合、今の自分には抗するだけの力は全くない。正に絶対絶命の状態だ。


 

(逝くのは怖く……ない。 でも、せめて……!)



 軍人としての道を歩んだときから、いつかは戦場で散る日がやって来ることへの覚悟は既にできている。しかし、それは戦場で軍人として軍人らしく散ることであって、こんな何処かも知らぬ場所で人知れず……しかもこのような無様な姿で死に様を晒す覚悟など到底無い。



(灰になるための魔力も無い……か…………)



 戦場において捕虜となるのは仕方がない。

 が、拷問を受けてこの身を陵辱されて祖国と大公家の恥にされるのならば潔く自決を選ぶ。仮に死体となった後でも、屈辱や政治的な取引に用いられる可能性を考慮してこの身を自爆ではなく、地獄の業火で灰にするための最低限の魔力……その僅かな魔力さえも消失している今、自分は死体にもなることも許されないのだ!



(運良く巡回中の警官や憲兵が発見してくれる……ことはない……わね…………)



 魔研での転移魔法の実験失敗とそれによる魔力の暴走と爆発。

 あの爆発によって跳躍空間内に弾き飛ばされた自分は、その弾き飛ばされた勢いのまま何処かの場所に転移したのは理解できた。

 

 恐らく魔王領の何処か……建物があるということは何処かの街中であるというのは分かるが、果たしてそれが幸運かどうかはわからないし、巡回中の警官や憲兵、善良な一般市民に発見されて保護……というのは都合が良すぎるか?



「あの……大丈夫ですか?」



 突如背後から声を掛けられて思わず体がビクリと反応する。

 声からして若い男性の、それも一般人の声だろう。警官や憲兵であればまず最初に掛ける声は「大丈夫ですか?」という心配ではなく、「そこで何をしている?」という疑いを込めた問い掛けだからだ。



「うぅ……」



 下肢に力を入れて立ち上がろうとして最早そんな僅かな力さえもないことに気づいて自分の身体が揺れて前に倒れるのを朧げに知覚する。



「え? ちょ、ちょっと……!」



 自分が目の前で倒れたことに驚いたのか、声の主は随分と慌てた様子で駆け寄って来るのが雪を踏み締める音で感じる。そして直ぐに自分の体が抱え上げられたことも分かった。



「ちょっと、本当に大丈夫ですか!? って、うわ!

 顔が真っ青じゃないですか! この雪の中じゃ凍死しますよ!!

 気分が悪いんですか? 良かったら救急車を呼……じゃなかった、自宅か病院まで送りますよ?」



 声の主は見るとやはり若い男性……しかも人間種の男性だった。

 黒髪黒目という容姿は最近では珍しくなくなったが、若いとはいえ男性でここまで真っ黒で艶のある髪は珍しい。見たところ彼は本気でこちらのことを心配しているようで、酷く慌てている。



(少なくとも貞操の危機は脱した……のかしら?)



 このような状況では見も知らぬ若い男を全面的に信用することはできないが、少なくとも目の前の彼はからは野蛮な雰囲気や何か下心があって近付いて来たのではないというのだけは雰囲気や身なりで分かる。彼の顔には本気で他者を心配しているのだというある意味でお人好しな表情しかなかった。



「寒い……助けて…………」



 何故かは知らないが「彼は信用できる。 助けてくれる」という根拠のない保証なようなものが心の何処かにあったのか、自然と助けを求める声が口から出ていた。そしてそれを聞いた彼はこう言った。



「分かりました。 とはいえ……うーん、とりあえず暖かい場所に移らないと凍死してしまいます。

 近くに私が宿泊している宿がありますから、とりあえずそこまで行きましょう」



 そう言われて最早返事する気力すらなく僅かに首を縦に振る。

 彼はそれを見て了承の合図と見たのか、体や頭に積もった雪を手早く払い落とし、彼がたった今まで着ていたであろう外套を脱いで私の体を覆うように包んでから前に回り込む。



「すいません。

 雪が酷くなってきたので、手取り早くおんぶして宿まで連れて行きますけど良いですか?」



 私が女だということを意識してか体に触ることに対して許可を求めてくるが、そんな紳士的な対応にも答えられないほど衰弱している自分を見て彼は一刻の猶予もないと判断したのか、男性は意を決したかのように私を背負う。



「直ぐそこまでですからね。

 すみませんが、ちょっとだけ我慢して下さい!」



 真摯に他人を助けようとする者の行いが嫌なわけがあるものか。

 私は彼にお願いする代わりに僅かな力を振り絞っでしがみつくと、彼はそれを合図に私を背負ったまま立ち上がり足早に歩き出す。



「すぐ着きますからね。 大丈夫ですよ!」



 彼が歩く度にユサユサと背中が揺れて背負われている私も一緒に少し揺れるが、歩き方から彼が私を揺らすまいと懸命に静かに歩いているという気遣いが伝わってくる。



(温かい……)



 重ね着した服越しにも関わらず背中から伝わってくる彼の体温。

 そして彼の体温がまだ残る外套に包まれながら、何故か私は今までの人生で最高の幸せに浸っている事実に気がついて彼の肩口に顔を埋め、寒さで強張った唇を押し当てていた。

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