第5話 発砲

「いやあ、美味かった! 食った食った、ご馳走さま!」


「それにしてもよく食べたなあ、エノモト殿は」


「ほんと、見ているこっちが胸焼けしそうだったわ……」


「でもタカシさんが美味しそうに食べているのを見ていたら、わたしもいつも以上に食が進みました」


「何だか妙に腹が減ってしまったんだよね。 どうしてだろう?」



 いやはや、我ながら本当によく食った。

 牛肉の串焼きに大きなソーセージが入ったポトフにローストビーフっぽい肉を挟んだサンドイッチにサラダと、日本に居たときよりも沢山の料理を次々に注文して自分の腹に収めて行った。


 いくら己の肉体が若返ったとはいえ、こんなにも入るのかというくらいの数々の料理が今、胃の中にギッシリと詰まっているおかげで苦しい。そして最後に食事の締めに飲んだ熱いコーヒーがこれまた美味い!



(うーん、この世界では当然ともいうべきか、多分ネルドリップ方式かそれに近いやり方で淹れられているんだろうけれど、思ったよりコーヒーに雑味が無いなあ……)



 コーヒーが存在していたことにも驚きだったが、まさか日本の喫茶店で飲むのと殆ど変わらない形で提供されるコーヒーの飲み方にも俺は内心かなり驚いていた。



(これならば、普通に人前でコーヒーを淹れて飲むことが出来るな。

 それにしてもこの世界の食文化がそれなりに発達しているのは意外だったわ……)



 今飲んでいるコーヒーだけではなく、ワインやビール、ソーセージにチーズなど日本の欧州スタイルの居酒屋であれば普通に食することが出来る食材や料理が当たり前のようにメニューに載っていた。幾つかの料理名はカタカナ表記ではなく漢字表記だったが、それでもどこかで耳にしたことがある料理名がかなりの数で記載してあったのだ。


 例えば俺が今飲んでいるコーヒーは表記が『珈琲』と書いてあったし、ビールは『麦酒』でワインは『葡萄酒』、シャンパンは『発泡白葡萄酒』、ソーセージは『豚の腸詰肉』、ステーキは『ビフテキ』という感じで一瞬ここがちょっと古くてレトロな昭和の洋食屋か喫茶店のような錯覚に陥った。



(もしかしたら、この世界に来る羽目になった日本人や転生して来た元日本人なんかが、この世界の食材を元に日本の料理を再現したりしたんだろうな……)



 そうでなければ『珈琲』や『ビフテキ』なんかの単語は出てこないだろう。



(ああ、そうか。

 自分でも驚くほど食べたと思ったら、料理の味が日本のそれに近いのかな?)



 だから料理を食べているときに何処かで食べたことがある味で、どことなく懐かしい感じがした筈だ。恐らく故郷の料理を食べたい一心でこの世界の料理や食材を試行錯誤して、日本の料理に近づけようと努力した日本人がそれなりにいたのだろう。そうでなければ、この食堂だけでこれほどの数の日本で食べられている料理の名前に似た感じの料理が供されるはずがない。

 


「ふう。 さてと……夜も更けたし、そろそろ行くか?」


「そうね」


「そうだな」


「ええ、行きましょう」



 食後酒を飲み終わったセマがおもむろに立ち上がり、一同を見回しながら声を掛けるとクランのメンバーがそれに応えるように頷いて思い思いに席を立ち上がるが、俺だけはそのまま席に座ったままだ。そして俺は財布を取り出して金貨を1枚目取り出して立ち上がり、セマの手を取って両手で包み込むように握手する感じで彼の右手に金貨を持たせる。



「俺はここでもうちょっと飲んでから帰るよ。

 っと、そうだ。 はいこれ」



 不意に俺から何を渡されたのか分からないセマが訝しげに己の右手を開くと、持っていた物の正体を知り驚いた表情でこちらを見る。セマの態度を不思議に思ったムシルとリリーは彼の掌の上に置かれた物を見て驚愕の表情を浮かべていた。



「……エノモト殿、この金貨は?」


「ここの食事代だよ。

 みんな分の金額を計算して出したつもりだったんだけど、足りなかったかな?」


「いや、充分過ぎるほど足りるのだが……

 そうじゃなくて、何故エノモト殿が金貨を出すんだ?」


「今回のここの支払いは俺が出すってことで。

 まあ、俺が調子に乗ってアレコレと注文して食べまくっちゃったからさ」


「でも、それで金貨は多過ぎだろう!?

 確かに全員で食べた料理や酒の数は多いが、これは……」


「それにさ、この中じゃあ俺が一番年上なんだから、俺が支払わないと格好つかないじゃん?

 俺の故郷の酒の席では目上の者が代金を支払うのが普通なんでね」


「しかし、これほどの金額はいくら何でも多過ぎだ。

 それにお互い初めて知り合った人間にここまでされるのは気が引ける。

 エノモト殿の気持ちは分かるが、これはお返しするよ……」



 セマが気の毒そうな顔で渡された金貨を俺に返そうとするが、俺はやんわりと断る。俺としてはギルドのことを色々と教えてくれたお礼も兼ねているのだが、一番の目的は彼らと繋がりをつけておくための金でもある。


 はっきり言って俺はこの世界に誰も知り合いがいない所謂ぼっち状態だ。まあそれは当たり前なのだが、これからは様々な人脈を持つことが急務である。何故ならば、俺はこの惑星の各所を巡り、異世界『ウル』に来た日本人や元日本人転生者の下を訪れて無名の神が送り込んだ者達を見つけて地球に送り返さないといけない。


 そうなると日本人や元日本人達を探し出して彼らへ近付くためには、幅広い人脈と伝手が必要不可欠だ。この世界の誰が彼らと繋がりがあるか分からない以上、少しでも伝手や人脈を広げておく必要がある。


 特にセマたちのような、国を跨いで活動する冒険者や商人たちは独自の情報網を持っている可能性が非常に高い。そんな彼らと繋がりを作るのに夕食を奢る程度で済むのならば金貨1枚など安いものだし、仮に日本人絡みの情報を得られなくてもそれ以外で何か有益な情報を得られるかもしれない。



「まあまあ、一度渡したものを戻されるというのもバツが悪いから受け取ってよ。

 もし気の毒だと思うのならば、次また一緒に飲んだときに奢って貰えればいいからさ」


「だが……」


「ねえ、リーダー。

 ここでずっと押し問答してても埒があかないから、ここは素直に受け取っておけば?」


「うーむ……わかった。

 ならば、ここはエノモト殿の好意に甘えて奢っていただくことにするよ」


「そうして貰えればこっちも嬉しいよ。 あ、お釣りはいいからね」


「えっ!? で、でも、それはあまりにも……」



 やっぱり、釣り銭は返すつもりだったのかセマは再び驚愕の表情を浮かべて俺を見るが、俺はそんな彼をどこ吹く風といった感じで見返して笑いかける。



「いいから、ここは年上に良い格好させてよ。

 ここで釣り銭を貰ったら、俺がセマに支払いの使いパシリをさせたみたいで恥ずかしいじゃない」


「…………分かった。

 いただいた釣り銭はこちらで預かっておくことにするよ。

 いいか? あくまで預かっておくだけだからな! いいな?」


「わかった。 じゃあ、そういうことで」



 それで納得したのか、彼は金貨を固く握り締めて会計に向かって行く。

 だが、俺の予想では金貨の釣り銭は十中八九、無くなってしまうことだろう。俺が釣り銭は返さなくていいと言ったときのリリーの顔は「待て」の合図を飼い主から指示されて涎を垂らしながら餌の前で必死に待つ犬の姿に似ていたから。



(まあ、あれだけ飲み食いして騒いだのに請求金額が日本円で3万円超といったところだろうけど、それに対して10万円を貰った上に釣り銭は要らないと言われたんだから、リリーが挙動不審になってしまうのも仕方がないのかな?)






 ◇






 別れ際、セマを始めクランのメンバー全員で礼を言われてむず痒い気分に襲われつつも、彼らが店から去るのを見送った俺は再び席に戻る……のではなく、バーカウンターの方へと向かい席に着く。



「コーヒーをお願いします」


「珈琲ですね。 かしこまりました」



 コーヒーを注文してそのままカウンターで店員がコーヒーを淹れる作業を眺めていた。

 ガスコンロの代わりなのだろうか?

 店員が水の入ったケトルを鉄製の五徳の上に乗せ、その中心に据えられている平べったくて赤く丸い宝石のような石に直結した摘みを捻った瞬間、赤い炎が出現して湯を沸かし始める。



(ほお? これは地球でいうところのガスコンロなのか?)



 まさかガスコンロに相当する湯沸かし用の道具があるとは思わなかった。



(確かイーシアさんから聞いた話では、『魔道具』と『魔導具』があるんだっけ?)



 魔道具と魔導具。

 声に出すと発音が同じなので判りづらいが、前者はちょうど目の前にあるガスコンロのような物や暖房器具、照明などといった主に日常生活で使われる道具の内、魔力を動力源にした物を総称して『魔道具』と言うらしい。


 対して『魔導具』は魔法杖や魔剣、魔導鎧など魔法そのもので動いて魔法を具現化させる物の総称として用いられており、ときには魔法石も魔導具と呼ばれることもあるのだとか。


 そんなことを考えながらボーっとコンロを見つめているとお湯が沸く。

 店員が素早くコーヒーを淹れる準備を整えてケトルを持ち、取手が付いた布袋に詰められたコーヒーの上から湯を注ぐ。予め細かく挽かれたコーヒーの粉に湯が染み込むと嗅ぎ慣れた香ばしい匂いが鼻の中に充満する。



(ああ、この匂い。

 日本のコーヒーと違って若干焦げた匂いがするけれど、それでもいい匂いだ)



 ネルドリップと殆ど変わらないやり方で淹れられたコーヒーは下に置かれている小さな鍋に注がれていく。ケトルの中の湯が無くなり、淹れられたコーヒーが鍋の中へと注ぎ終わると店員が用意していた幾つかのカップへと素早く注ぎ入れる。



「お待たせしました。 珈琲です」


「ああ、どうも」



 他にもコーヒーの注文を受けていたのか、店員は別に注いだコーヒーの入ったカップを盆に乗せてテーブル席の方へと歩いて行った。



「……………美味い」



 砂糖もミルクも入れていないブラックの状態で一口飲むがなかなか良い味だ。豆をどのように焙煎して細かく挽いているのかはわからないが、日本の喫茶店で飲むコーヒーに引けを取らない。



「よお。 料理はどうだった? 美味かったかい?」


「ええ、美味しかったですよ。 ご馳走様でした」



 一人のんびりとコーヒーを飲んでいると、不意に背後から野太い声が話し掛けてくる。瞬間的に声の主が誰なのか思い出した俺は笑顔で振り返りながら応える。



「そういや、シアが世話になったそうだな。 その節はありがとうよ」


「世話になったのはこちらの方ですよ。

 腹ペコになって店を探しているときに丁度彼女に声を掛けられましてね。

 お陰で美味い昼飯にありつけました」


「そう言って貰えるとこっちとしても嬉しいね。

 お前さんたちがさっき食ってた料理は、全部うちの倅が作ってんだ」


「へえ。 倅ってことはシアちゃんのお兄さんになるんですかね?」


「だな。 シアが十四で、倅は今年十八になる。

 将来は皇宮の料理番になるんだって息巻いてる身の程知らずだが、料理の腕は本物だ。

 今は他の料理人と肩並べて料理を作れるくらいまで成長しやがった」


「それは凄い。

 私も自分で料理しますが息子さんの料理、マジで……ああ、本当に美味しいですよ」


「そうかい。 だがお世辞でも倅の前では言わねえでくれよ?

 あいつが聞けば調子に乗って無駄に沢山の料理を作っちまうからな。

 ……っと、そうだった。

 ところで話は変わるが、お前さんここら辺の人間じゃねえだろう?

 どこの出身なんだ?」


(これはまた、いきなりストレートな質問が来たな……)


「日本という国の出身ですよ」


「ニホン……確か俺たちが話してる言葉がニホン語だったと思うが、要するにお前さんはそのニホンから来たってことでいいのか?」


「そうですよ。 まあ、日本が何処にあるって聞かれても地図が無いんでこの大陸より東にある島国としか答えようがありませんが……」


「そうか。 

 まあ、地図なんてそんな大層なモノは普通の人間が手に入れられる代物じゃねえから、お前さんが言ってる『大陸より東にある島国』は俺には想像もつかんがな」




 この答え方は予め決めていたことだ。

 イーシアさんがこの世界では地球と違い、人間以外の種族とも意思の疎通を円滑に進める目的と言葉の持つ多様性を活かすために、長い年月を掛けて共通語となる言語を定着させるべく試行錯誤を続けて来たと。


 そのために他の異世界の言葉や地球に存在する数多くの言語を比較した結果、多様性に富んだ言語として日本語を選択し、異世界『ウル』の共通言語を日本語にするために各時代の教育機関からこの世界に適応可能な日本人を何人か連れて来たと言っていた。ついでに日本人の持つ多様な文化をこの世界にぶつけて刺激を与え、異世界『ウル』の文化を良い方向に持って行きたいとも……


 しかし、この世界の者たちは『日本語』が何処から来てどのように伝わって現在のような[共通語]に発展したのかという経緯を知らないため、当然『日本国』という国を知らない。勿論、言語を研究している学者の中には『日本語』起源を突き止めようとしている者もいるかもしれないが、異世界からもたらされた言語な以上、真相を突き止めることができるものはいないだろう。


 そんな中で俺が「日本から来た」と言ったら、自分達が話している共通語をもたらした日本の場所に興味を持つのは当然である。本当ならば、この世界に存在する何処かの国の出身と言ったほうが手っ取り早いのだが、何処で誰が誰とどう繋がっているか判らない以上は100%純粋な嘘はつけない。


 それならば「日本から来た」という事実はそのままに、日本国が位置している場所だけテキトーな嘘を言えば故郷に対する具体的な突っ込みをされたときでもボロは出にくい。何たって場所以外は事実を言っているのである。しかも、インターネットやSNSのような瞬時に調べることが出来る手段が存在しないこの世界では俺が言ったことを異世界『ウル』の住人が確認する術は無い。


 というわけで、俺はグレアムさんの日本国の場所については調べようがない『テキトーな嘘』を彼から質問される前に予め答えたのである。



「そんなものですよ。 まあ、私が逆の立場でも同じだと思いますよ」


「だな。 だが、そうなるとお前さんもあの連中と同郷ってことになるんだな……」


(ん? この人、今『お前さん』って言ったか?)


「すいません。 ええっとお……」


「おう、そういや面と向かって自己紹介していなかったな。

 俺はグレアム。 名前は好きに呼んでもらっていい。

 さっき一緒にいた冒険者たちから聞いてるだろうが、以前は傭兵をしてた。

 今は見ての通り、しがない肉屋と食堂の店主だ」


「自分は孝司 榎本です。 訳あって今は旅をしています」


「ほお、旅か。 いいねえ、旅が終われば二度と会えないだろう者達との出会い、その土地土地で食べる郷土料理! 俺も傭兵時代は色んな国へ赴いて戦場で戦って来たが、のんびりと旅をしたことは終ぞなかったな……ところで、お前さん姓があるってことは日本って国の貴族の出なのかい?」


「違いますよ。 日本人は全員に姓がありますが、国民が皆平等な国なんです。

 貴族はいません」


「そうか。 にしても国民全員が姓を名乗れるって、不思議な国だな」


「まあ、それは置いといて。

 さっきグレアム……さんが、言っていた『あの連中』とは何ですか?」



 そう、これがさっきから気掛かりで仕方がないのだ。



(…………っと、そうだ)



 コートの内ポケットに入れていたモバイル端末を取り出して何気ない感じを装いつつ、カメラの録画機能を作動させてカウンターの上に置いているカップに立てかけるようにして端末を置き、ピントをグレアムさんに合わせる。



「何やってるんだ?」


「いえ、何もないですよ。

 それよりもさっき『あの連中』って言っていましたが、何なんですか?」


「ああ、あいつらのことか?

 いやな……ここら辺じゃあ黒髪黒目って風貌はそれなりに見かけるから珍しくも何ともないんだがよ。

 ただ、感じた雰囲気が異様というか何というか……尋常じゃねえ殺気を放つ奴らを見たんでな」


「殺気……それはどんな奴らなんです?」


「歳はお前さんよりも下……恐らく十代半ばそこそこくらいじゃねえか?

 女二人に男四人の集まりで全員が俺たちシグマ人よりもやや肌の色が濃くて黒髪黒目……いや、二人ばかし少し茶色掛かった髪だったかもな?

 六人全員、身形が良くてお行儀の良い振る舞いをしてたから、見ようによっちゃあ何処ぞの商人か貴族の子弟に見えないこともないんだが……気配が尋常じゃない。

 ここベルサじゃあ、方々の国から魔族や亜人だってそれなりの数が訪れて来ているのってのに、奴らまるで古参の龍族や長耳族の歴戦の戦士以上の殺気を発散していやがった……

 信じられるか? 俺くらいの長年戦場に身を置いて来た野郎なら兎も角、十代かそこらのちんちくりんのガキんちょが、それも女含めて全員がそんな雰囲気を纏っているなんて普通じゃねえよ。

 一目で一流の職人が誂えたと判る上等な軽鎧や防具を身に付けていて、全員が魔力を付与された剣や戦斧、弓、魔法仗なんかの高価な魔導武具をこれ見よがしに持ってたんだぜ?」


(うーん、これだけじゃあ彼らが日本人かどうか判らないなあ……)



 グレアムさん自身が言っていたように黒髪黒目の人間は俺も目にしていた。門の外の列に並んでいたときやこの街を歩いていたときにそれなりの数を目にしていたし、中にはアジア人そっくりな者が居たのを見て驚いたこともあった。


 確か以前読んだファンタジー小説で日本人が何人も召喚された異世界では、日本人の容姿を色濃く引き継いだ子孫が沢山いるなんてのを見たし、この世界には現実に日本人が何人も転移または召喚されてるそうだから、グレアムさんが見た集団がそういった『日本人の子孫たち』という可能性も否定できない。



(確かあの小説では召喚された日本人は全員『勇者』として異世界に呼ばれたんだっけか?)



 まあ、ここはグレアムさんが見かけた彼らと俺は一切関係ないということを伝えておこう。彼らが日本人であろうがなかろうが、もし何かヤバいことをやらかしたときに俺も同列だと思われたら困る。



「すみません。 実際に彼らを見て見ないと同郷かどうかは判りません。

 因みに彼らは6人だけで行動していたんですか?」


「いんや、ほかに十人ばかし冒険者風の格好をした男と女がいたぜ。

 ま、あくまで冒険者だがな?」


「というと?」


「これはあくまで俺が傭兵だった頃の経験に基づいたものなんだが……あいつらは多分軍人だよ。

 身形こそ冒険者を装ってたが、長年身体に染み付いた身のこなしは一朝一夕でどうにかなるもんじゃねえからな」


「んー、ここで見たということは彼らは食事をしていたんですよね?

 何か話しはしてましたか?」


「いやあ、あのときは店が混雑しててうるさかったからな。

 全部を聞き取れたわけじゃねえが、『勇者』とか『討伐』、あとは『これ以上の侵攻を止めなければ』とかを言ってたな。

 あとはさっき言った冒険者風の奴らが、黒髪黒目の連中の周囲を守るように動いていたのが印象的だった」


(うーん、これだけ聞けばやっぱりその黒髪黒目の6人は日本人なのか?

 『勇者』って如何にもなワードだし……ただ『侵攻』という言葉が気になるな)



 間違っても『信仰』や『進行』という意味ではないだろう。

 そうじゃないと、討伐という言葉は出ないはずだ。



「彼らは何処から来たか判りますか?

 あと名前や何処に行くとか何か言っていませんでした?」


「多分、ウィルティア公国だと思うぞ?

 一緒にいた冒険者風の連中の中にウィルティアの国章が入った短剣を持った奴がいたからな。

 とは言っても国章が刻印された剣を譲り受けて持ってた可能性もあるから、あくまで推測に過ぎないが……

 名前は……そうだな、確か『ヨウコ』と『サトウ』っていう名前が頻繁に呼ばれてたのを覚えてる。

 行き先は分からねえな。

 あの連中がここに来たのは八日ほど前だが、まだ帝都に居るかもしれないし、もしかしたらもう別の街に移っているかもしれねえ」


「そうですか……」



 名前を聞いた感じでは日本人っぽいが果たして昔この世界に来た日本人の名前なのか、それともつい最近来た日本人の名前なのかは判断がつかないが、これは一応イーシアさんに報告しておいた方が良いだろう。念のためグレアムさんとの一連の話は動画撮影してあるので、録画データを報告書共に送ればイーシアさんなり御神さんなりが調べてくれるだろう。



「まあ仮に行き先や名前が判っても関わらない方が身のためだと思うぜ?

 ああいう連中は一度関わっちまうと碌でもないことに巻き込まれるのは目に見えてるからな」


「いや、わざわざ警告するくらいなら、最初から言わなければ良かったのでは?」


「だってしょうがねえだろう。

 黒髪黒目は珍しくねえが、あいつらやお前さんのような独特の雰囲気を持つ奴って余りいないんだからよう……」


「ええぇ……」


(ま、まあいいや……)



 取り敢えず、時間が時間だし宿に帰ることにしよう。

 店内の壁に掛かっている昭和の達磨時計そっくりの掛け時計を見たら、針は午後9時を指している。俺はカップに残っていたコーヒーを一気に飲むと立ち上がりながら財布を出す。



「取り敢えず、今日はこれでお暇させていただきます。

 また後日、気になることがあったら訪ねて来ても良いですか?」


「おう。 昼時の忙しい時間帯を外して貰えれば構わねえぜ。

 あと店の開店時間は午前十一時から午後十時までで、定休日は毎週火曜日だから気をつけてくれよ」


「分かりました。 ところでこのコーヒーは幾らですか?」


「一杯、銅貨四枚だ」


「じゃあ、私はこれで失礼します。 面白い情報ありがとうございました」


「面白いかどうかは判らねえが、まあ何かの役に立てなら良かったよ。

 またうちの店に飯でも食いに来てくれよな?」


「ええ。 また来ます」



 バーカウンターの上に銅貨を置いてグレアムさんに見送られながら俺は店の出入り口を目指して歩き出す。歩きながらも既に俺の頭の中はイーシアさんにどういう風に報告書を作って送信しようか?という問題で一杯だった。






 ◇






「ふう、6人ねえ……」


 食堂を出て少し歩いたところでストレージに収納していた拳銃の入ったホルスターを装着し、機関銃を装備し直した俺は元来た道を戻りつつ、泊っている宿を目指して街路灯が連なっている大通りを歩いている最中だ。もう酔っ払いの声も聞こえてこないところを見ると、みんな家に帰ったのだろう。大通りには、寒さも手伝ってか人通り殆どない。



(早く帰って寝よう……)



 とはいえ、イレギュラーな事態が判明した以上、今日中にイーシアさんに報告書を提出する必要がある。



(うーん、報告書を出すのは良いけれど、まさか今回の件が切っ掛けでより面倒なことに巻き込まれる可能性は……ないよね?)


「どうも嫌な予感がするんだよなあ……」

 


 と、そんなことを呟いていたときだった。

 前方から酒臭い匂い微かに薫って来る。よく見ると、女性が一人フラフラと千鳥足になって歩いているのが見えた。



(酔っ払いか? このクソ寒い中、あんな恰好じゃ凍死するぞ?)

 


 見た感じ、自力で歩いて自宅に帰るところなのだろう。

 時折、立ち止まっては歩くという行為を繰り返しているが、今にも倒れてその場で寝てしまいそうなほどで非常に危険だ。日本ほど治安が良いとは思えないので、若い女性がこの寒さの中酔い潰れて雪が薄っすらと積もった路上で寝てしまうと凍死の危険性や下手すると追剥ぎやそれ以上に良からぬことを企む者達の餌食になりかねない。



「危ないなあ、あの娘……」



 日本なら、タクシーを呼ぶか警察に通報するかになるのだろうが、生憎この異世界ではそんな常識は通用しない。


 

(仕方ない。

 泊っている宿まで運んで、明るくなって酔いがさめたら帰らせるか)



 今は夜で辺りも暗いが、明日朝になればあの女性も多少酔いがさめていることだろうから、一晩暖かいとこに置いておけば大丈夫だろう。もしここで放って置いて凍死でもされたら寝ざめが悪い。



「おーい、あんた……」



 俺が声を掛けようと思って近づいたら、誰かが酔っ払っている娘の前にいる。女性が相手にもたれ掛かっているところを見ると、どうやら知り合いのようだ。



(ホッ。 良かった、知り合いが迎えに来たか……)



 一時はどうなることかと思ったが、知り合いが迎えに来ているのなら安心だ。

 そう思い、歩き出した俺はもう一度女性を見たその時……



「あ?」



 女の子がそう呟いて、一瞬“ビクン!”と震えたように見え、そして次の瞬間には彼女の背中から血塗れの剣が生えているのを目撃することとなった。



「…………え? 何? はあーっ!?」



 驚きの余り、声を上げる俺を他所に女性がズルズルと力なくゆっくりと路上に倒れ込んでいく。すると、そこには中肉中背の鎧を着込んだ男が血に濡れ染まった剣を持って佇んでいた。

 

 金髪の男は物言わぬまま倒れ、己の身体から流れ出る夥しい量の血で路上に積もった白い雪を真っ赤に染めていた女の子を暫く無言で見つめていたが、こちらに気付いたのかゆっくりと顔を上げて正面を見据える。


 そして無言で“ニヤァ”と気持ちの悪い笑みを浮かべながら、標準的なサイズの日本刀とほぼ変わらない長さの剣を俺に見せ付けるように掲げる。



(やばい! 目が合った……)



 そう思った瞬間、男はもの凄い速さで、走り迫って来た!



「ひッ!?」



 剣を構えて迫り来る男に恐怖を抱きながら、俺は縋るような気持ちで機関銃のピストルグリップを強く握る。



「ぶひゃひゃひゃひゃァァァアアアーーーーーー!!!!」


(コイツ……尋常じゃねえ!!)



 人を刺し殺している時点で尋常ではないのだが、この時の俺はそんなことも分からないほどパニックに陥っていた。


 想像してみて欲しい。

 日本刀ほどのサイズの剣を持ち、気持ちの悪い笑みと叫び声を出して走って迫ってくるガタイの良い男の姿を。仕事柄、逮捕術や護身術の訓練に励み、犯罪者やその予備群を日常的に相手している警察官や薬物捜査を行う麻薬取締官ならば話は別だろうが、犯罪者に全く出会ったこともなければ、格闘技の『か』の字も知らない普通の一般市民が血に濡れた剣を持った男に追い掛けられた場合の恐怖を。


「情けねえ。 そんな奴、オレなら金属バットで一発よ!」なんて言う奴もいるだろうが、それは実際に出会っていないから言えるのであって、現実にそんな状況に出くわしたら果たしてそんな勇敢な行動に出られる一般人がどれだけいることか……


 そしてそんな状況に出くわしてしまった俺は拳銃どころか機関銃を抱えているというのに反撃することも忘れて逃げ惑っていた。



「うわぁぁぁぁぁァァァァァァーーーーーッ!!!!!」



 恥も外聞をかなぐり捨てて泣くように叫びながら逃げる俺とそれを追い掛ける剣を持った男。時折、振るわれる剣から刀身に付着していた女性の血液が迸り、周囲の路上に薄っすらと積もった雪の上に小さな赤い花が咲き乱れる。



「ゲヒャヒャヒャヒャヒャッ!!!!」



 狂った笑い声を上げて執拗に男は追い掛けてくる。

 これで「待てぇーッ!!」とか「ゴルァ!!」とか言って怒鳴りながら追いかけてくるのなら未だしも、人間のというよりは動物としての獰猛さの部分を本能として前面に押し出しつつ、タガが外れて狂った笑いというのが余計に恐怖を増幅させる。


 間違っても話が通じるような状況ではなく、顔面の筋肉が緩んだような気色の悪い笑みを浮かべているのに目だけは血走って冷静に獲物を逃すまいとギョロギョロと周囲を睥睨しながらこちらをしっかりと目標として捉えているのが、この男の異常さを物語っていた。



「うおおおォォォーーーッ!?」



 横凪ぎに振るわれた剣の刃を間一髪でしゃがんでやり過ごす。

 しかしその瞬間、男が履いているブーツの爪先が視界一杯に入り、反射的に首を仰け反らせる。



「うひょぉ!?」


(危なかった!

 もう少しで顔面にクリーンヒットするところだった!!)



 男が放ったキックをまともに受けていれば大きなダメージを受けていただろう。もしそんなことになれば、痛みのあまり動きを止めた俺はあの剣で即座に斬られていた筈だ。それを思うと冷や汗が出た。


 目の前を掠めて行ったブーツを見ることなく、そのまま転がるようにして地面の上を移動して男と距離を取る。男の顔には相変わらず不気味な笑みを浮かべているが、その表情は先程のような余裕ではなく若干の焦りが見えた。



(いったい何を焦っているんだ?)



 そう考えていると先程まで静かだった周囲の建物の窓の幾つかに電気で作り出されたものとは違うぼんやりとした明かりが灯り、カーテン越しに人影が映った。それだけではなく耳をすませば人の話し声や幾つかの足音が遠くから聞こえてくるし、時折笛の音が耳に入る。そして目の前の男は確実にそれらを気にしている。それが証拠に先程までギョロギョロとしながらも獲物を見据えた目つきだったのに対し、今は周囲を目まぐるしく見渡しているのだ。



(なるほど……俺もこいつも結構なボリュームの声で叫んでいたから、近隣の住民が異常を感じて様子を見ようと出て来たのか。 でもって、こいつは自分の姿を見られるのを恐れているということなんだな?)



 ならば俺はとにかく助けが来るまでこの男から逃げ切っておけば良いわけだ。恐らく、さっきの笛の音はこの国の治安組織の者が放つ警笛の音なのだろう。異常な様子を見せるこの男も、自身が官憲に捕まることに対しては恐れを抱いているということか……



(怖くなって本物の銃を持っていることさえも忘れていたけれど、このまま逃げ続ければ発砲することなく危機を回避できそうだな……)



 日本でエアソフトガンに慣れ親しんだ所為か実銃……それも強力な機関銃を持っているにもかかわらず、思わず剣で襲い掛かって来た男から逃げ惑ってしまったが、本来剣で斬りつけられるくらいの至近距離ならば銃での射撃は余程下手くそな奴でない限りほぼ必中の距離なので、落ち着いて撃ち殺せば良かっただけのことなのだが、相手の殺気に気圧されてしまった。


 まあこれは仕方がないことだろう。

 平和な日本で暮らしていれば余程運が悪いかヤバイ裏の世界の人間でない限り、刃物を持った人間と対峙するのは警察官などの治安関係者のみだし、そうでなくとも本気で殺す気満々の殺気を遠慮なくぶつけられることなど普通はあり得ないので、本物の銃を持っているのにビビってしまうのは仕方がないだろう。



(もう少し、もう少しだけ逃げ続けられることが出来れば……って、え?)



 心の中で祈っていたことを読み取ったかのように剣を持った男が腰を低くし、手にしていた剣を腰だめにして構えたままこちらに向かって一直線に走り出す。しかも今までよりも素早い動きでだ!!



「え!? な、ちょ……ッ!!」



 男の出す今までよりも強い殺意に股間の息子が萎縮して思わず漏らしそうになるのを必死に宥めながら、自分の腕が生き残るために別の生き物の如く動き始める。具体的に言うと機関銃のコッキングレバーを引いて弾薬が挿入されている金属製のベルトリンクから初弾を引き出して薬室に送る準備を……


 PKP機関銃の特徴的なキャリングハンドルを利用したスコープマウントベースのレールに取り付けられたホロサイト内に灯る赤い光点を除いて男と点が重なると同時に射撃を開始。機関銃から撃ち出された無数の銃弾を受けた男は弾け飛ぶようにもんどり打って地面へと倒れ、俺は鼻腔をくすぐる硝煙の匂いに安堵する。






 …………………………なんてそんな格好良く決まるような展開になる筈もなく、ほんの十数歩という距離を一気に詰めて来た男に驚いた俺は機関銃を抱えたまま躓いて後ろへと倒れ、石畳みの地面の上に尻餅を突く。



(あ、俺死んだ。

 やっぱり小説じゃないんだから、普通の日本人が異世界で生きていくのは無理があるよなあ……)



 まるでスローモーションのようにゆっくりとした動きで迫って来るように目に映る男の姿を見て、首を刎ね飛ばされるか心臓をひと突きされるシーンを想像して既に諦めの境地に至っていたが、迫り来る剣の刃を前にして反射的に持っていた機関銃で自分をガードするように構える。斬りつけられる直前に左手で掴んでいた銃のハンドガードに装着されていた円筒状のバーチカルグリップを持つ位置がずれた瞬間、男が呻き声を上げた。



「がっ!?」


「え?」



 一瞬、何が起きたのか自分でも判らなかった。

 男の呻き声に反応して前を見ると男が剣を持っていないほうの左手で両目を覆っているではないか。



「あ……」



 何が起きたのか判らないが、座り込んだまま咄嗟に機関銃の銃口を男に向けて構えていると男が呻いている理由が分かった。機関銃を構えた先、男が銃に装着されていたフラッシュライトの光に照らし出されていたのだ。恐らく、銃のバーチカルグリップを握り込んだ際に取り付けていたフラッシュライトのリモートスイッチに手が触れ、点灯したライトの光が夜の暗さに慣れた奴の目に映り込んでしまったのだろう。


 小型ながら、裸眼で覗くと失明の危険性もある強力なLEDの光だ。街路灯のぼんやりとした光源に慣れた目にとってフラッシュライトの光は太陽光線をまともに見るのに等しい。男は未だに左手で目を押さえたまま呻いていた。



「…………し、死ねぇっ!!」



 チャンスは今しかないと言わんばかりに銃の引き金を引いた瞬間、眩しい光がマズルフラッシュとなって瞬間的に何十回も銃口部分で瞬き、耳の鼓膜が痛いと錯覚するほどの轟音が周囲に響き渡る。射撃状態にあった弾薬がベルトリンクから引き抜かる。直後に薬室へ挿入されてボルトが閉鎖された瞬間、機関銃としては一般的なオープンボルト方式によって撃発した銃弾が発射されて、射線上に立っている男を目掛けて勢いよく銃口から飛び出して行く。


 銃弾は本来持った役目……すなわち『ヒトを殺す』という役目を果たすべく男の体へと突き刺さり、そのまま身体の奥へと突き進んで行った。まず男が着込んでいた金属鎧とチェインメイルを破壊し、皮膚を筋肉を血管を内蔵を突き破り、時には巻き込みながら突き進んで骨を粉々にする。


 初弾を腹に喰らった男は知覚した痛みによって反射的に左手で銃弾が命中した箇所を抑え、衝撃で体をくの字にしながらよろめくが、その間にもフルオートで撃ち出された機関銃弾が次々に着弾する。腹を庇っていた左手を吹き飛ばし、そのままの威力で更に銃弾は腹の中へと容赦なく突き進む。


 銃弾が左肘に命中し、肘から先の腕が防具ごと吹き飛ばされて血を撒き散らしながら宙を舞い、胸に命中した銃弾が金属製の板金鎧を容易く突き破った後、胸骨を粉々に粉砕してその下にある心臓や肺をミンチに変える。顎に突き刺さった銃弾は下顎をバラバラに解体して血煙と共に歯や舌が飛び散り、奥に控えている延髄を破壊して外に出て行く。


 男の左目に機関銃の弾が当たって眼球が破裂した瞬間、白っぽい色の液体状の水晶体が溢れ出るが、銃弾はそれだけで満足せずに奥にある脳漿を破壊するべく頭蓋骨内部へと進入してそのまま外へと出ようとした。結果、解放された破壊力によって耐えきれなくなった後頭部が頭蓋骨ごと吹き飛ばされてその中身を地面へとぶち撒けた。



「ハアハアハアハア、ンハァ……ハア、ハアァー!」



 銃弾の嵐の洗礼を受けた男が倒れるまでほんの数秒。その間にPKPから撃ち出された銃弾は数十発に及んだ。機関銃を撃っている間、緊張の余り無意識に呼吸を止めてしまったが為に射撃後に訪れた静寂に自分の不規則な呼吸音がやけに大きく聞こえる。


 小刻みに震える両足を叱咤してゆっくりと立ち上がり、倒れている男の元へと慎重に歩いて行く。周囲には血生臭い匂いと共に燃え尽きた火薬の匂いが立ち込め、男が倒れている場所の地面の石畳には降り積もった雪ごと飛び散った血液で赤く染まっていた。



「うわぁ…………」



 目の前の惨状に思わず声が出る。

 どうやら機関銃の弾が首筋を掠めるようにして切り裂いて行った男の首には一目で分かるほどの大きな裂傷が生じており、血が未だ流れ出て赤く鮮やかな血と赤黒い血が小さな水溜りとなって血溜まりの表面に脂のような膜が張っている。至近距離から強力な7.62mm×54Rワルシャワパクト弾を撃ち込まれた男は即死だった。


 着込んでいた金属製の鎧やその下にあったチェインメイルを難無く貫いた銃弾を含め、十数発の機関銃弾により肝臓、心臓、左肺、首、左眼球及び脳漿を滅茶苦茶に破壊されて流石に生きているということないだろうが、ここは魔法が存在する異世界……もしかしたら生きる屍=アンデッドとなって再び襲い掛かって来ないとも限らないので慎重に死体を検める。


 血の匂いを極力吸い込みたくないという思いから、呼吸する回数を減らしたり止めたりしながら無残な状態となった男の死体を見るが、名前など身元の判別ができる物はぱっと見たところなかった。



「こっちだ!!」


「周囲の警戒を怠るな!」



 とその時、遠くから男達の叫び声が聞こえて来た。

 声の聞こえた方向に目を向けると、魔法による光なのだろうか?

 こちらに向かってゆらゆらと激しく揺れながらも接近して来る光が5つ。しかも金属製品がガチャガチャとぶつかる音や野太い男達の声からして恐らくこの国の兵士達なのだろう。



(に、逃げなきゃ…………!)



 そう思い足早にその場を去ろうと考えるが、地面が男の血で汚れていたことを思い出し、足元を見ると自分の足跡が雪の上に残っている。しかも足跡の一部が血液によって履いているコンバットブーツの溝の形状を形作っていた。



(不味いな。 これじゃあ、足跡を辿られて逃げきることが出来ないかもしれないぞ……?)



 女性を刺し殺していきなり襲い掛かって来た所謂『通り魔』を正当防衛で射殺したのだが、日本では当然過剰防衛であり、下手すればこちらが殺人罪で逮捕されかねない。勿論、実銃を持っていたら理由に関わらず銃刀法違反である。


 この国の司法がこのような殺人者に対する正当防衛の行為に対してどのような判断を下すのかは判らないが、『機関銃』という未知の武器が使われているのだ。それだけでも事情聴取は碌なことにならないだろうし、長時間拘束されてあれこれと調べられるのは非常に困る。



(とりあえず、この場から離れなければ…………)



 白く積もっているで綺麗な雪を何回か踏みしめてブーツの靴裏に付着していた男の血を洗い流し、俺はこちらに向かって来る光とは逆方向を目指して全力で走り出した。

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