第17話


            ◇◆◇


 帰ってきたリリーを迎えたのは、他でも無いアーサーであった。

「どこに行ってたんだよリリー! ちゃんと外に行く時は行き先を伝えてくれないと……何かあってからじゃ困るんだよ! わかってるのか!?」

「うん。ありがとうアーサー」

 リリーは彼の両手を握った。これで彼は逃げられない。わたしも逃げないから、きいて。アーサーは彼女が何を言おうとしているのかその面持ちですべて悟った。そして嫌だと拒もうとして、しかし彼女のその真摯さを裏切ってはならないと何とか堪えて、頷いた。

「あなたが真っ直ぐわたしと向き合ってくれたから、わたしは今こうして生きていけるのです。本当に、感謝しています。……ありがとう」

「リリー――」

「だから。わたしのすべてであるあなたに、わたしを理由に自分の夢を諦めて欲しくないの。諦めないことを教えてくれたあなたに、わたしは対等でありたいの」

 リリーはここに、宣言する。

「わたしは、フローラ楽団に帰ります。そして、もう決して夢を諦めたりなんかしない。だから、あなたも、逃げたりしないで。そうしてまた会いましょう。その日を、わたしずっと待っているから」

「……そう言うのは、おれを王の元へ行かせるため?」

「いつかはそうしなくちゃと決めていて、実行できなかったことなの」

――もう、逃げも隠れもしないから。

 凜々しく言い切った彼女に、これ以上言葉などかけられるはずもなかった。


            ◇◆◇


 それからリリーは団員たちに言い足りない感謝の言葉を繰り返して、自分は楽団に戻ることを告げた。皆、彼女を気遣って「そんなに焦って出て行くことないんだぞ」「ずっとここに居たって構いやしないわよ」と優しく言い聞かせたが、リリーは「もう決めたことだから」と笑った。

 意外にも、ジャンヌが彼女を抱き締めて泣き叫んだのだ。

「フローラ楽団の子たちのこと、ばかになんて出来ないわ。かわいい妹分が出ていっちゃうのよ、悲しくないわけないじゃない。嫌だわリリー、行かないでよ」

「ジャンヌさん……。いつもありがとうございました。その、何度も蹴飛ばしたりして、すみませんでした――あの、」

「そんなの全然いいのに……! どうしたの……?」

「あの、わたしたちフローラ楽団は、皆のことを本当の家族みたいに呼び合ってるんですけれど、その、ジャンヌさんのことも姉様って呼んでいいですか」

 ジャンヌの涙はこれにより、壊れてしまったかのようだった。ジャンヌは頷き、彼女を抱き締める腕に力を込めて、「もちろんよ。ぜひとも呼んで欲しいわリリー」

「ジャンヌお姉様、わたしも淋しいです。でも、わたしも胸を張って皆の前に立ちたいから」

 するとサーシャを始めとした女団員が二人をむちゃくちゃに抱き締め始めた。そうして声を上げてわんわん泣くので、男は自らの腕を目にあてて、人知れず泣き始めた。ブルーノも豪快なまでの男泣きで上からもみくちゃになった女ごと抱き締めた。ルイスはアーサーを一瞥して、尋ねた。

「君は行かなくていいの、アーサー」

「……おれはまだ、納得してないからなリリー」

 もう、会えなくなるの、わかってるんだろ。リリー。

 それでも、いいのかよ。

           

            ◇◆◇


 アーサーらが旅立つその日まで、リリーは劇団に身を置かせてもらうことになった。

「アーサー」

 扉を開けると、そこには黙々と支度するアーサーの姿があった。彼は彼女を突き放したり、無視したりといったことは絶対にしなかったが、彼女が話しかけてこない限りは自分から話さなくなってしまった。リリーは彼の隣に座り、黙っていた。たまには彼の準備を手伝ってやった。そんな日々を、旅立ちの一日前まで過ごしていった。


 都行きが明日に迫った日、アルダシールとブルーノが彼女を呼び止めた。

「話がある。私たちがまだ、アーサーにも黙っていることについてだ」

「俺たちは、王宮公演と同じくらい大切なことを行わなければいけないんだ。……君にしか頼めない。助けてくれ、お願いだ」

 リリーの中では、既に話を聞く前から答えなど決まっていたのだ。

「どうして急にそんな他人みたいに言うんですか。わたしが、やらないはずないじゃないですか。わたしに出来ることなら、何だってやります。……出来なくともうまくやってみせますから」


            ◇◆◇


 王宮からやって来た馬車が、もう劇団の前で待っていた。劇に出る演者のほとんどが馬車に乗り込んでいた。馬を操る御者は舌打ちして苛立ちをあらわにし、団員らに怒鳴る。

「まだですか、時間は前もってお伝えしていたはずですが」

「もう少しだけ、待ってやってください。彼らにとっては最後の逢瀬になるかもしれないんです」


 アーサーは床に座り込み、目前にいる彼女をじっと見据えた。何を思ったのか彼女は、最後になるかもしれないからと「首の包帯を巻かせてくれない?」と言い出した。彼は特に拒む理由もなかったので、彼女の好きにさせていた。

「目を閉じて」

 意図はまったくわからなかったが、リリーに任せようとアーサーは言われるままにした。「首、触ってもいい?」「いくらでもどうぞ」横暴に言って、彼はリリーの温度を感じる。そうすると、何だか意地を張るのも何だか莫迦らしくなって、自分の気持ちを正直に伝えようと思った。

「おれは、リリーが楽団に戻るの、本当は反対したい」

「どうして」

「だって。おれが行かないって言ったから、楽団に戻るんだろ? それって何か、無理矢理帰らせたみたいで」

「ちがうよ。わたしずっと考えてたことだから。でも、あなたから離れがたくって、ずっと、甘えていたの」

「ちがう。おれだって、ずっとここに居れば良いって」

「うん。ありがとう」

 包帯がしゅるしゅると音を立てて巻かれてゆく。この痣を見せるのも、彼女で最初で最後になるだろう。

「でもわたしはね、思ったのよ。あなたに庇護されて生きていたいわけじゃない。対等に、真っ直ぐあなたを見つめて笑えるようになりたいって思ったの。ごめんね、今までたくさん辛い思いさせたよね。わたし、自分勝手だね」

「それは全部おれの台詞だろう……! おまえが謝る事なんて何一つ存在しない。おれが悪いんだ。おまえの笑顔の意味に気づけなかったおれの、罪だ。――そんなのわかり切ってる。忘れたりしない。だから、もうこんな話はやめてくれ。最後がこんなで終わるのは嫌だ」

「うん。そうだね。――できたよ」

 アーサーは目を開けた。綺麗に巻かれていて、別段変わったところは見当たらない。

 リリーは無言でボタンを留め、オレンジ色のタイを結んだ。

「キスしようか」

「いやよお別れのキスなんて。するならもっと喜劇的なキスがしたいわ」

「じゃあ抱き締めようか」

「お別れのハグなんかじゃないからね」


 ようやく出てきたアーサーをみて、御者は彼に怒鳴り散らしたが、赤い目を見て複雑そうな顔をして、早く乗るよう促した。リリーと残された団員たちは皆各々に叫び、手を振った。アーサーが不安そうにこちらを見ていた。リリーは飛び切りの笑顔を手向けた。

「だいじょうぶよ」

 悲しみの色などどこにも見つけることができなかった。


            ◇◆◇


 リリーは畑を抜け森を抜け、ユグノーの家の前に立った。深呼吸してベルを鳴らし、彼が出てきたのを見て微笑み、

「歌を聴いてもらいたいんです」

 ユグノーは余計なことは何も口にせず頷いた。リリーは歌い始めた。こんなに安らかな気持ちで歌えたのは初めてだ。広々と、優しく、自分らしく、歌ってみせた。自然と声が出てきた。体いっぱいに自信を纏って、遠方に行ってしまった誰かを思って、歌う。

 歌い終わると、ユグノーはその皺の多い手で拍手し、笑った。素敵な笑顔だと思った。

「よくここまで乗り越えたね。マリアーヌ。貴女のアリアは素晴らしい。マリアとアリア。何よりも貴女にふさわしい」

「ありがとうユグノーさん」

 走り去っていく彼女に、彼は「自信を持って!」と声援を送った。リリーは大きく手を振った。次に行くべき所は、ひとつしかない。


「フローラ楽長、お願いです、もう一度わたしを――」

 言い終わることなく、気づけばリリーは楽長の腕の中にいた。楽長の熱い涙が頬に落ちた。ああ、自分はこんなにも大事な人に心配させてしまったのか、と申し訳なく思うと同時に、言い得ぬ喜びに身を委ねた。

「心配させて、この、莫迦娘! どうして死のうって思ったんだい!? せっかく貰った命を、どうして無下にしようと思ったのさ!? ばか、ばか、辛かったならどうして相談してれなかったんだ、どうして一人で抱え込んじまったんだよ……」

「ごめんなさいフローラさん」

「もうこんなことは一切合切やめにしておくれよ。これ以上大事な人の死を私に背負わせないでおくれ」

 トマスはゆっくりと歩み寄り、リリーとフローラを抱き締めた。

「フローラはね、旦那さんを亡くしているんだよ。その人が、娘が欲しいって言っていたもんだから、この楽団には女の子が多いんだ。そうして、自分をもう一人の母親だと名乗って、君たちを家族の一員として愛してくれているんだよ」

「トマスのことも、家族だと思ってるよ。それから、ユグノーのやつもね。あいつは近々強引にでもこの楽団に入れてやる。独りで陰気に生活させてたらリリーみたいにぽっくり逝かれそうで怖いんだよ。歌い手教えさせたり、金の管理させたりとまあ仕事は山ほどあるだろうよ」

 そしてリリーは、フローラと向き合った。

「お願いがあります」

「なんだい」

「――やりたいことがあるの。一生に一回の我が侭です、母様」

 フローラは白い歯を見せ、彼女に慈しみの愛にあふれた眼差しを贈った。

「一回と言わないで、十でも百でも千でも、我が侭を言いなよ、リリー。その資格があんたにもちゃあんとあるからさ」


            ◇◆◇


 三日三晩、馬車に揺られてたどり着いた都はルテジエンの街とは比べものにならない程の人口だった。道一面を埋め尽くすように多種多様な店が広げられており、御者が怒鳴って道を空けさせる。団員たちはその騒々しい都市の様子にすっかり心を奪われていた。リリーと別れてから始終伏せて寝ている彼を、ルイスは困ったように揺り起こした。「見てごらん。人がいっぱいで凄いよ」

「……いい」

「まだ泣いてるの? まったくだらしないな。あんまり格好悪いとリリーちゃんも愛想尽かしちゃうよ」

「泣いてねえよ」

「――心配なの」

「心配じゃない理由がない。……でも、リリーなら大丈夫な気もする」

「大丈夫だって! 君が居なくても彼女は立派にやるよ――ってあいた!」

 ルイスを殴りつけ、アーサーはもう一度目を閉じて眠った。

「本当は行かないでって言って欲しかったくせに」


            ◇◆◇


 王宮の中には広大な緑の庭が設けられており、色鮮やかな花が咲き、そろって風に揺れていた。華麗な宮殿は、中も今まで見たことのないほど広く、綺麗に編み込まれた絨毯が大理石の上に敷かれ、その上をどうやって歩けば良いのかということだけでも大騒ぎになり、王に仕える従者に冷たい目で見られた。

 ここには、アルテ劇団の代表としてアーサー、ジャンヌ、ルイス、アルダシールが訪れていた。

「こちらが客室になります。王のお呼びがかかりましたら、速やかに劇が始められるよう準備をしておいてください」

「わかりました」

 皆すぐさま持ってきた衣装に着替え始め、劇の最終確認をする。即興を入れる間、台詞、流れ。以前のような急な物語の展開は危険すぎる。あくまで念には念を。

 そんな中、一人の訪問者が現れた。アルダシールは「ついに来たか」と独りごちた。ジャンヌは眉を寄せる。

「皆、一旦部屋から出るぞ。アーサー、お前は残れ」

 そうして、訳の分からぬまま扉の向こうの人物と入れ違いに劇団の団員らは外へと出て行った。

 中へ入ってきたのは仮面を被った人間だった。アーサーは目を見張る。漆黒の仮面。その仮面は他でもない、アルルカンのもの。

「おれと、同じ……」

「そうだよアーサー。お前と同じアルルカンだ」

「何で、なんでおれの名前――、というか何で皆、出て行ってお前が、」

「もう、わからないかもしれないが」

 男は仮面を外した。そこに現れたのは、右目をつぶした中年の男の顔であった。一目見て、彼はその人物が誰なのかを直感する。心臓が煩くどくんどくんと脈打つ。感覚的に危険を察知して全身へ逃亡するよう信号を送るが、校長句した体はだらだらと滝のような汗を発するばかりで。

「あ、あんたは――」

「ウィル=クロムウェル。我が子に手を掛けた狂人だよ」

 アーサー=クロムウェル。今はもう、その名では名乗ってくれてないだろうけれど。


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