第14話


            ◇◆◇


 最近、赤毛の青年が教会へ訪れる姿をよく見掛ける。彼は教会の椅子に腰掛けて、ステンドグラスで描かれた神の絵をぼんやりと見つめている。その横顔は深い物思いによって暗く翳っている。司祭はゆっくりと彼に近づき、彼の隣に座った。

「初めまして、ですね。いえ、貴方のことはよく見かけていましたから、初めてではないのでしょうか」

「――はじめまして」

 わずかに一礼した青年に、司祭はふふと微笑んだ。

「私が女でしたからきっと驚かれたことでしょう。私、女司祭なんですよ。でもこれでも一応、この街の教会を管理しているんですよ」

「はあ」

「ここは良い街ですね。上が言うように娯楽を禁止になんてしなくて、本当によかった。やっぱりね、娯楽を無くすのってちょっと筋違いだと思いません?人生楽しんでこそ! ですよ。娯楽が神を冒涜するはずがありません。だってどちらも人を幸せにするでしょう?」

「よく喋る司祭さんだな」

「よく言われます」

 しばらくの沈黙の後、アーサーは開口した。

「あの。おれ今まで神様とかそういうの、信じたことなくって――それでも。神様にでも誰でもいいから、心から、叶えてほしいことがあるんですけど……。おれ、その、祈り方も知らないんで、代わりに祈ってもらってもいいですか」

 司祭は首を傾げて、慈悲深さを表情に浮かべて笑った。

「教えてあげますよ」

「いや。でも、あなたの方がきっと神様も聞き届けてくれるでしょ。少しでも可能性があった方がいいんだ」

「あら。そんなに叶えたいことがあるのなら、他力本願はよくないんじゃありません?」

「……司祭なのにそんなこと言っていいのかよ」

 司祭はすっと顔を上げて神の絵を眺めた。

「私は、神のことを信じています。嘘じゃありません。信じています。――けれど。道を切り開くのは人間だって思っています。それを神様はご覧になってくれています。だから、何一つ私たちが行うことに無駄はありません。……こういう言い方すると、司祭らしくないからって怒られちゃいますけれど。我々神に仕える職の者が、目を向けるべき者ってやっぱり人間なんですよ。神以上のことはできません。人間ですから。当然です。できないこといっぱいあって当然なんです」

 だから。あなたのことを教えてください。司祭は青年の手を握って語りかけた。

「そうしたら、私もあなたの願いのために、助言を施すこともできるでしょう」


 アーサーは話し始めた。自分の大事なひとを、自分の手で壊してしまったこと。何故そんなことをしたのかはうまく答えられないけれど、それは全部自分の弱さがしたことで。今はその人の心を取り戻そうとして、どれもうまくいかず、自分が狂ってしまいそうだと、彼らしい言葉で一生懸命、何度もつまずきながらも話しきった。

「これは、人間がどうにもできないことの中に入る、のでしょうか」

「いいえ」

 司祭はゆっくりと言い聞かせた。

「本当にそのひとを助けたいと思うのなら、まずは貴方から、貴方のすべてをそのひとの前に晒しなさい。貴方が言う弱さも、うまく答えられないことも、できるだけ形にしてみせなさい。そうしたら、みえてくるものがきっとあります」

「……みえてこなかったら?」

「そうしたら。私が間違ってたことになるので、もう一度考え直しです。ですからまた、会いに来てください。今度は、その大事なひとも一緒に」

「――ほんと。変わった司祭さんだよ」

 でも、と彼は立ち上がり、わずかに口端を上げた。「ありがとうございます。ちょっとだけ、参考にしてみようと思います」

「ええ」

 すると。向こうの方から二人の足音が聞こえてきた。アーサーはそちらを見やって、そうして司祭に小声で囁いた。

「彼女が、ぼくの大事なひとなんです。噂をしたら、やって来てくれました」

「へえ、どんな子かしら」

 彼と同じくらいの歳の青年の手を握る少女。司祭は思わず目を見張る。アーサーは駆け寄ってしゃがみ込み、リリーに少し話しかけてから、ルイスを見上げた。

「なんでお前……」

「またここに居た。ちょっと僕用事ができちゃって、今劇を上演してるから人がいなくってさ。リリーちゃん独りにするのもあれだから、君のところまで連れてきたんだ」

「ああそうか。ありがとう」

 じゃあ、帰ろうか。彼女はルイスの手から離され、今度はアーサーによって手を握られる。

「さようなら、司祭さん」

 手を振る彼に、司祭はやんわりと笑みを返した。そうして内心思う。彼女の心を取り戻すのはとっても大変でしょうね、と。あの少女は、瞳が空っぽだった。表情は何ひとつ浮かんでいない。まるで。

(人形みたいで。生きてるのに、心は死んでいるみたいで。なんだか空恐ろしい)

 そうして。司祭は祈る。彼らの道が少しでも明るくあるように、と。


            ◇◆◇


 扉をノックする。返事など勿論返ってこない。アーサーはわかってはいるものの、淡い期待を捨てられずにいた。

「アーサーだ。……入るぞ」

 また例によって部屋主の許可なしに中へと入った。ベッドの上に腰かける彼女は、何も変わらぬ光の消えた瞳でわずかにこちらを一瞥し、興味をなくしたように再び虚空の彼方へ目をやった。

 アーサーはゆっくりと歩み出し、椅子を引いて彼女の隣に座った。

「聞いてほしい話があるんだ」

 膝上に置いた両手がじんわりと汗ばんでいるのがわかった。

「誰よりもリリーに聞いてほしいんだ」

 そう口にして、彼女の反応を待った。長い間、彼女はずっと遠くを眺めていたが、ついには根負けしたのかゆっくりとではあるが、彼の方へと顔を向けた。

「ありがとう」

 ――じゃあ話すよ。今まで自分で話したことが無かったから、きっと聞きづらいかもしれないけれど。アーサーは挫けそうになる心を叱咤して、言葉を紡いだ。

「おれの過去の話だ」


            ◇◆◇


 おれは、当時とある旅回り一座の座長だった男と女との間に生まれた子だった。旅一座で生まれ、育ったおれには故郷と呼べる故郷は無かった。ただ、〈薔薇の国〉という当時世界的に発展していた国で公演している時に生まれたらしいから、一応そこが形だけでも故郷と言えるんじゃないのかな。ルイスもその国出身なんだ。全然立場の違う人間だけどな。

 父親は一流のアルルカンで、母親は一流のコロンビーヌで。まさしく役同士の関係を自らに当てはめた例だった。しかしやがて二人は意見が合わなくなり、おれが生まれる頃には完全に明らかな溝が出来上がっていた。おれが物心つく前にはもう、母は酒浸り、父は中毒的陶酔を仕事に向けていた。誰もおれを顧みない。……それが当たり前だと、当時は思ってたんだよな――。

 そしてある時。旅一座の収入がみるみる少なくなり、共にいた仲間も消え、二人は飽きなかったのが不思議なほどに莫迦らしい喧嘩を繰り返した。――そんな時にルイスと出会ったんだっけ。あいつ金持ちのくせに、自分が正当に評価されないことに嫌になって逃げてきたんだぜ。莫迦だろ、暖かい家に引きこもってぬくぬく暮らせばよかったのにな。まあ、おれはあんまりあいつに対する羨望みたいなものは持ち合わせてなかった。自分の問題の方で手一杯で、他人なんて考えてられなかったんだろうな。――。

「ま、ルイスの話は置いといてさ……」

 息を整える。ここから、自分は長年封印してきたトラウマを開放し、それについて他でもないリリー相手に喋るのだ。怖い。冷や汗が噴き出し、両手に力が入る。額を拭い、目を瞬かせて眼球の乾燥をおさえる。口内がからからに渇き、声が擦れる。聞き苦しいだろうことは百も承知だ。今にも立ち上がり、自己を守るために忘れていたいと、アーサーを形成するほとんどのものが強く訴えるが、一片の使命感が彼の中で暴れる衝動を食い止めていた。リリーには話さなければ。恐る恐る彼女を窺うと、その目が真っ直ぐこちらを見据えていたので、それに励まされ何とか話を続けた。

「それで、おれの母親は」

 おれの母親は浴びるように酒をのみ続けたことで健康を著しく損なわせたのだろう、体を壊し、それでもまだ酒に酔って現実をごまかしたので、治る病気も治らず、ついには命を失った。

 ――ここで初めて、なくしたものの大きさを知った父親は生きることを止めたくなった。

 しかし、そいつにはおれという云わばしがらみがあった。

 そいつは言った。

『アーサー。賢いお前はもうこの一座が終わっちまってるのも、ちゃんとわかってるな』

『でもまだ人いるよ』

『それでもいっぱいいなくなっただろ。わかるな、俺たちはもう生きていけないんだ』

『そんなことない』

『あるんだ。わかれ』

 そいつの瞳が怪しく揺れている。焦点が合ってない。しかし眼球は明らかにおれを射抜き、おれから視線を外す気配は微塵もない。

 おれは狂気にすべてを呑まれた人間をそこで初めて見たんだ。それが実の父親だったわけだけど――。

 ……おれは抵抗した。でも当時まだ幼い子供だったおれにその手を振り払うこともましてや逃げ出すこともできなかった。『死にたくない!』なぜだろうその時は、それに対する猛烈な拒絶が心身を包み込んだ。生きていたいわけではなかった。それでも信じていた父親に殺されたいわけでは決してなかった。

『俺たちは死ぬ運命だ』

 そいつは暴れるおれの首に手をやった。宙ぶらりになる足を無茶苦茶に動かし抵抗したが、みるみる息が吸えなくなって頭が真っ白になった。――そいつは実の子供の首を絞めたんだ。

 ――もうあと何秒か助けに入るのが遅れてたら、おれは確実に死んでいた。妙に静かで明かりのついていない座長の部屋を不審に思った人々が助けに来てくれたんだ。おれは命からがら逃げ出したが、ここに居ては直に殺されるだろうことを強く感じていた。正気に返ったそいつが頭を地面につけて何度も謝ってきた。だとしても、おれはここを出て行くという決意に変化はみられなかった。そして、寝静まった夜を狙って、逃げ出した。その時、運悪くルイスにみつかって、結局二人で抜け出すことになったんだが。

 それで。遠く離れた場所へ逃げるために船に乗り込み、叩き込まれた芸をみせてやったり下っ端として働いたりして金を工面して。で、やっと着いた別の国で何とかこのアルテ劇団に拾ってもらってさ――。そうしてやっと今があるんだよ。そうしてリリーと出会ったんだよ。


「――リリーに、見てもらいたいものがあるんだ」

 アーサーは一番上まで閉めていたボタンを一つ一つ外してゆき、首元をあらわにした。そこから覗いたのは、きつく巻かれた真っ白の包帯だった。アーサーは小刻みに震える手で、途中何度も手を止めながら、やっとのことでその包帯を解いた。さすがのリリーも目を見張った。そこには、

「これが、不愛の刻印だ」

 浅黒く、まざまざと残った人の手形があった。その痣は、ぐるっと彼の首を巻き付いており、指の形までくっきりと焼き付いていた。それを、アーサーは自ら触れようと手を浮かせるが、それを心が拒むのかうまくゆかず、始終手を彷徨わせていた。

「これを鏡で、見る度に思うんだ。おれは、親から受ける愛を受けられず、……愛されず、生きてきたのだと。それが、何よりも苦痛で、辛くて、淋しくて、消えてしまいたくなった――。この世で愛されない者はいない。よく教会で耳にした言葉に、おれは背を向けた。嘘だ。じゃあ自分は何だというのだ。その言葉の例外だとでも言いたいのか。おれは父親を憎んだ。だから、セカンド・ネームを捨てた。おれはただのアーサーとなった。実の親に殺されかけた、愛を知らずに生きてきた哀れな子供として。

 でも。アルルカンになれば、その役自体がもう既に人気者で、人々に愛されていたから、おれは進んで彼を演じた。アルルカンになれば、人が寄ってきた。面白可笑しいことを言えば、笑ってくれた。……でも、それはおれに対する笑顔ではなく、あくまでアルルカンという仮面に向けられたものだった。――だから、おれは自分という存在を滅し、アルルカンという役になりきり、一体化しようと思ったんだ。同じものになれば、自分も愛されるのだと。――滑稽だよな。でも、おれは必死だったんだよ。そこにしか道はなくて、周りなんて見てられなかった。だからおれは、リリーを傷つけてしまったんだよなあ……。ようやくアルルカンとして完璧に生きていけそうだったのに、目の前にリリーという人間が現れて、おれは動揺したんだ。リリーは、いつだっておれを見てくれていた。アーサーを、愛してくれたんだ。

 おれは誰でもよかった。愛されたかった。無償の愛、というものに憧れ、渇望していた。だからアルルカンを選んだ。

 ――でもリリーは。アルルカンでないおれを選んでくれた。その時すぐに、おまえの手を取っていればよかったのに。おれは、長年積み上げたこの、簡単にからっぽの愛を得られる仮面を手放すことができなかったんだ」

 アーサーは静かに泣いていた。その泣き顔に、ひどく儚く、愛にあふれた笑みがまじった。彼女の名を呼んだ。

「リリー、おれ、変わったんだ。おれは、もう誰かの愛に縋ったりしない。おれが、リリー、あなたに愛を捧げようと思うんだ。一生を懸けてでも。全部捨ててでも。そうしたいんだ、そうさせてくれ。他には何もいらないから。あなたは拒絶したって構わない。ただ、生きていてくれればそれで、そうしてさえくれるなら、おれはもうもう何も構いやしないんだから」

 言って、椅子から降りて地面に跪き、彼女の手を取り、その手を自らの額に強く押しあてる。それは、一生服従を誓う、彼なりの証明。

 ほのかに当惑の色を浮かべるリリーに、アーサーはやんわりと微笑んで、懐からナイフを取り出した。試しに指の上で刃を滑らせてみた。鮮血の玉が一粒、二粒とこぼれた。

「それでも、あなたが死を望むなら。あなたはその刃を使えばいい。でも。それでもって命を絶ったなら、おれもともに死ぬ。おれに計り知れない恨みがあるだろう、だからおれをひと思いに突き刺して殺してもいい。罪は無い。もう遺書も書いてある。あなたに絶対に罪が問われないようにしておいたから。心配ならみてきてもいい。おれは殺されたっていい。あなたになら。むしろ本望なんだ。――。つまり、あなたが死のうと思うのなら、おれもまた道連れだということをお忘れないように……。これはおれの我が侭だ。それでも、おれは必ず後を追いかけるから。独りには、しないから」

 そう言って、リリーにナイフを握らせた。鋭利な刃。心臓を一刺し、貫けば命は無いだろう。彼女は黙ってその鈍い光を食い入るようにみつめていた。

「……どうして、話、したの」

 久しぶりの声に純粋なる歓喜を示しながら、アーサーは温かく微笑んだ。

「あなたが抱き締めてくれた時、首に手を回してくれただろう? それにおれは驚きはしても、不思議と嫌悪感を抱かなかったから。きっと、それだけリリーが特別で、唯一のひとだったんだと気がついたから。だから」

 リリーは再び沈黙した。じっと手元の刃を眺めている。決断しかねているのか。その白い肌に、玉のような汗が伝い始めた。ナイフを握りしめる手がしきりに上下する。唇をきつく噛みつくように閉ざした。嗚咽が漏れ始める。目に涙がにじんできた。刃の切っ先が自らに向けられる。呼吸が荒くなる。肩で息をし始める。葛藤、迷い。苛まれる激情の間に挟まれて、選択さえまともにできなくなる。視界がぐるぐると回転する。死への切実な願望と、他の命を道連れにするという大きすぎる罪悪感。リリーは途方に暮れたようにゆるゆると顔を上げた。そこには、アーサーの優しい笑顔があった。もう無理だった。

 リリーはナイフを投げ捨てて、自らもベッドから滑り落ち、彼と向き合った。そうして細い腕をあげて、彼の首元へ手をやった。なんと深く傷つけられたことだろう。こんなにもくっきりと、不愛の傷が彼の身体に残っている。リリーもまた泣いていた。アーサーはそっと目を閉じて、彼女の指先を喜んで受け入れようとした。しかし彼女の手は途中で躊躇した。

アーサーはゆっくりと目を開けて、彼女に囁いた。

「……リリーになら、触れられてもきっと大丈夫だ」

 自ら小さな手首をとって、痣の方へと近づける。触れられた一瞬はびくりと反射的に身をよじったが、深呼吸してから彼女に笑いかけた。

「初めてだから、緊張する」

 リリーはその痣を慈しむように撫でた。アーサーは頭を垂れ、その温度に涙を流した。

 ふたりはどちらともなく、お互いに抱き合った。リリーのこぼした涙の熱さから、彼女の愚直なまでの優しさを感じて、アーサーは涙がとまらなかった。


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