第10話


            ◇◆◇


 演奏会が終わり、片付けも終え、リリーは会場の扉を開けてそこから逃げだそうとした。

 その姿を見た楽員の何人かが、彼女を引き留めた。

「どこ行くの、リリー」

「……姉さま」

「また、例の劇団のとこへ行くの、リリー」

 アニスはそっと歩み出た。その手は静かな怒りに震えていた。エウリカが必死に押しとどめようとするが、それを振り切った。

「逃げちゃ、だめだよリリー。たしかにあんたは大きな失敗した。でも、逃げちゃだめだ。闘わなきゃ、いつまでたっても満足いく歌なんて歌えやしないよ」

 何かを堪える声に、リリーは翳った瞳でぼんやりと見つめた。アニスを押しのけ、この楽団で一番人気の歌い手で、厳格な者が出てきた。そして、思いの丈を、尖った刃を突き立てるように彼女にぶつけた。

「いつも努力してるから、頑張ってるから大目に見てあげてたけど、もう限界。あんたやめなよ。娯楽に遊びほうけてるくらいなんだから、あんたに歌なんかいらないよね。努力しない能なしって夢を持つ権利さえ無いの。あんたの暇をうめるために楽団があるわけじゃないし、あんたに合わせるための時間なんて無いから。逃げたきゃ逃げればいいじゃない。覚悟無いくせにここに居ないで欲しいわ」

「ちょ、ちょっとそれはあんまりだわ……!」

「何よ。あんたたちや楽長がべたべたに甘いから、それに乗っかってぶらぶら遊びまわるのよ、大体私はずっとあんたたちの態度が気に入らなくて――」

「な、なによ、だってリリーは今まで――」

「ネム、あんたが何か適当に言ったのも私ちゃんと知ってるんですからね。勝手なこと言って。リリーをたぶらかしたのはあんたでしょ、本当――」

 リリーは感情の無い声で呟いた。

「やめて」

 ちいさい囁きだったが、皆の口は一瞬にして閉じられた。俯いているので彼女の表情はみえなかったが、それがどこか恐ろしく思えた。まるで自分たちが知っている少女とは別人の――。

「ネム姉さまも悪くない。アニス姉さまも、誰も、だれも悪くない」

 前髪が風になびいて、虚ろな双眸が露わになった。周りにいた者たちは皆、彼女から狂気に似た何かを感じ、戦慄した。

「悪いのは、わたしだけだ」

「リリー!」

 騒ぎを聞きつけた楽長が彼女の前に立った。リリーは楽長と向き合った。そこに怯えの色はない。何も、表情らしい表情は浮かんではいなかった。しかしそれは夜の闇に溶けて、見えにくくしていた。楽長はそれに気づかず、ただ一言、宣告した。

「いいかいリリー、二つに一つだ。諦めるか、出て行くか。あんたが決めな」

 そうして。リリーは項垂れた。そのまま崩れてしまいそうに思えたが、彼女は自分の足で歩き、扉の中へと入っていった。そして、そのまま宿舎へと帰っていった。隣にはエウリカとネムがついた。アニスは泣き崩れた。リリーを詰った歌い手はいまだおさまらない震えに、怯えていた。


            ◇◆◇


 宿舎にて。リリーは一緒に寝ている団員たちに声を掛けた。

「姉さま、寝た?」

「……いいえ、起きてるわ」

 隣にいた姉だけが起きていた。他は皆、整った寝息をたてている。

「エウリカ姉さま」

「――大丈夫よリリー。歌だけが音楽じゃないもの。一緒に頑張りましょう。私もね、たくさん失敗してきたわ。でも、そのお蔭で今があるの。あなたは決して恥じたりしてはだめよ。次に繋げるの」

 そう言って少し起き上がって、リリーの髪を撫でつけた。

「もうお休み」

 そうして彼女の頬にキスをした。「大丈夫、だいじょうぶよリリー」


 しばらくしてから、リリーは声を掛けた。

「姉さま、もう寝た?」

 今度は返事が無かった。リリーは起き上がり、辺りを見渡した。

 ――そして。隠していた荷物を引き出し、着替え、ベッドから抜け出した。

「……ごめんなさい姉さま。わたし、もうここには居られない」


            ◇◆◇


 宿舎を出ると、フローラ楽団の近くにルイスがいた。細かい雪がちらつき、外の気温は肌を刺すようだった。彼の口元から白い息が漏れる。

「忘れてた? 今日、劇のチケット届ける日だったでしょ」

 そうしてにこやかに手を上げた彼に、リリーは駆けて、服の裾を掴んだ。

「……どうしたの」

「お願いが、あるの」

 リリーは潤んだ瞳で見上げた。

「わたしを、アルテ劇団で働かせて」

「えっ」

「アーサーには内緒で、劇団に置いてほしいの。何でもするわ、何でもするから……」

 ルイスは体を丸めるように訴えてくる彼女が、なんと可憐であやうい存在なのだろうと思った。自分は彼女に多くを望みすぎていたのではないかと思った。やはり無茶だったのだ。アーサーの心を変えることなど、決して。

 ルイスはそっと彼女の肩に手をやった。

「大丈夫。女性の願いを、無下にするなんてこと僕は絶対にしないよ」

「ルイス、さん」

「おいで。僕がなんとかするから、安心してください」

 ありがとうと擦れた感謝の言葉が、妙に胸に突き刺さって離れなかった。


            ◇◆◇


「いいかピエール。ここはおれが大袈裟に動き回るから、おまえはピエロットらしく体全体でおれの動きを追ってくれ。そうしたら、おれはぴたりと立ち止まるから、ピエールはしばらくぐるぐると視線を回して最後には目を回して軽く卒倒する感じで。いいか?」

「ぼ、ぼくにできるかな……?」

「できるようにしろ」

「は、はあ……」

「日に日に良くなっていってるから。自信を持て」

 次にアルダシールのところへ向かう。

「ちょっといつもとは形を変えて、悲劇の面を強く出そうと思うんだけれど、どう思う? ほら、〈百合の国〉の人間って悲恋とか好きだろ? だからこの演目が受けると思うからさ」

「――ああ、そうだな。その方がいいかもしれない。土地に合わせて工夫するのも大事だしな」

 そしてルイスのところへ行く。

「台本、もう少しピエロットの独白を増やせ。テーマは悲恋だ。〈百合の国〉受けを重視して書け」

「わ、わかった。でも、間に合うか?」

「間に合うに決まってるだろ? 大筋を変えるだけだ。劇はほとんど即興なんだから台本なんて無いに等しい」

 そうして最後に、ジャンヌのもとへと足を向けた。

「おい、莫迦女。いつも通りだからな。ヘマすんなよ」

「いわれなくてもわかってるわよ莫迦男!」


            ◇◆◇


 アーサーは王の訪問も明日に迫っているということで、一日休みをもらった。彼は半日を台詞回しや振る舞いの確認、手品や軽業の練習などをして過ごした。そして昼飯を食べてからふらふらと劇場へと足を向けた。そこはいつも通りの群衆がチケット片手に集まっていた。アーサーは珍しく上機嫌で口笛を吹きながら、受付の方へ足を向けた。思った通り、仮面をつけた人間がチケットをひたすらにちぎっていた。その内の一人であるルイスを見つけ出し、思い切り背中を叩いた。「ぎゃっ」情けない悲鳴が上がった。

「精が出るねえ、エヴァンズ君?」

「だからそれやめてって言って――」

「何でだよ。おまえの家の名前じゃねえか」

「……僕がその名で呼ばれる資格はもう無いんだから」

「ふうん?」

「それより! 何しに来たのさ。邪魔? 暇なら手伝ってよ。――というか君、何だかお酒のにおいがする……なんで? もしかして酔っ払ってるの?」

「ん? ああ、ブルーノおやじの酒が戸棚に隠してあったから、ほんの少しち頂戴した」

「ほんと何してるんだよ、……、今日は明日に備えて休むんじゃなかったっけ? ――ちょっと聞いてる?」

「うーんしかしついに明日かぁ。長かったような短かったようなだなあエヴァンズ君よう。ええっと劇に出ない奴らは何してたんだっけか……あ、舞台の衣装とか裏方で働いてくれてたんだっけか。ご苦労ごくろう。何人かは特別に休みを出してやっといたぜ。おまえも休みたいなら休めばいいんじゃねえか? ま、あとはおれらに任せて、出世道駆け上がろうって話だな! これでヒモジイ思いはしなくて済むなあ、おれ様々か? はは!」

「饒舌だね。酒のせいかな」

「吹っ切れたからだろ?」

 アーサーは嗤う。

「どっかの目障りな女が消えて、ずっと引っかかってたもんも消えて。全部楽になった。あとはアルルカンに委ねるだけだ。どうだ。素晴らしいだろ」

「あ、アーサーっ!」

「何だよ大声出して……わかったよ、消えますよ。ったく」


            ◇◆◇


 その帰り道にひとりの乞食と目が合った。どこに行ってもこういうやつはいるよなぁとアーサーは思いながら、良いことを思いついたとばかりに口端を上げ、そいつを手招きした。

「来いよ。腹いっぱい食い物、食わせてやるよ」


            ◇◆◇


 楽屋の扉がノックされる。

「お荷物が届いています」

 面倒に思ったアーサーはいい加減に返事した。扉が開かれ、仮面をした人間が入ってきた。どうせルイスのやつだろうと決めつけ、アーサーは途切れた話を続ける。「それでさあ。おれが唯一気に入ってた歌い手がいてさぁ。おれもそいつのその歌だけは認めてやってたんだけど、ひとたび舞台に立つとさ、全然だめなわけ! 嗤っちゃうだろ? おまえいっつも歌いたい歌いたいって莫迦みたいに繰り返してたくせにさ、いざ舞台に立ったら足が竦んで歌えませんってか。始終目は泳いでるし、体震えてるの遠目でもわかったし、歌も全然だめ。音楽のこと全く知らないおれでもわかるんだから、よっぽどだろ? な、そう思うだろ?」

 楽屋の隅で、がさがさと物音がしている。乞食がアルルカンへの贈り物を片っ端から広げてそれを口に押し込んでいるのだ。

「まあおまえは今、食べることに必死だもんな。まあ食えよ。その代わり一回切りだし、他の連中に言うなよ? 言ったら今まで食った分全部支払ってもらうから――あ、服とかは置いとけよ。使えるもんは使わないと女も可哀想だろ?」

 贈り物の山のその中には、見慣れた包み紙があった。仮面の人間がじっとそちらを見ているので、アーサーもちらとそちらを見た。が、すぐに視線を背けた。そこに乞食の手が伸びたのだ。

 乱暴に梱包が無茶苦茶に破られ、中から綺麗な焼き色をしたパンプキンパイが現れる。

 一度は目を逸らしたアーサーだったが、それを見て高らかに嗤って、笑い涙を拭いながらひどく謗った。

「あいつってさぁア。口開けばすぐ夢だ何だって喚いてたけどさ。結局は自分の才能の無さに絶望して、でも大好きな故郷にも帰るに帰れなくて、異郷の地で孤独感に打ちひしがれて、やりたいことさえ見えなくなって逃げてる臆病者だろ? 結局さ歌なんて言うほど好きでもなくて意固地になって拘ってるだけだろ。そんなやつが夢を叶えられるわけないのになぁ! なあ?」

 話し相手の乞食は黙々と咀嚼するのみだ。

 彼に言葉を返す者などいないはずだったのに。

「――で」

「あ?」

 ドサッ。

荷物が地面に落ちた。アーサーは「おい!」と舌足らずに怒鳴ってみせたが、わなわなと震えるその手が体が何かを訴えようとしていた。アーサーはその違和感に気づき、それが確信に変わった時、大きく目を見張ることとなる。

「誰だ……、ルイスじゃないのか。おい、ちょっと待て――おまえ、まさか、嘘だろ」

「――しないで、わたしの」

 リリーは体全体で、喘ぐように叫んだ。

「……わたしの、わたしの大事な夢を、莫迦にしないで――ッ!」

――どれほどの苦痛がそこにあるのか、その表情は仮面に遮られ、わからない。

 楽屋の扉が勢いよく開く。

「リリーちゃん!」

 もう一人の仮面の人間が彼女と入れ違う。アーサーは唖然として動くことができない。ただ動揺を隠せない荒々しい呼吸を、繰り返し、くりかえし。

「……っ、アーサー、君は、君はッ!」

 アーサーの肩を思い切り引っ掴んで、強く揺さぶった。ルイスは堪え切れぬ憤怒のあまり、自らの瞳を真っ赤に潤ませている。

「とんでもないことをしてくれた。なんで僕じゃないってわからなかった? 背丈だって全然違ったし、声だって!」

「金髪だったから、あんまり考えなくて、それに、酒が」

「話にならない」

 ルイスは彼を睨みつけた。

 アーサーは力無い質問を呟くばかり。「なんで、なんであいつがここに、楽団はどうした、なんでなんでなんで……」

 この騒ぎに乞食はすぐさまありったけの食料を腕に抱えてわが身をくらませていた。さすがと言うべきか。いや、そんなことよりも。

 ルイスは胸ぐらを掴んだ。怒りと彼への憐れみと彼女への申し訳無さに掴んだ手が揺れる。

「僕はどうやら彼女を過信しすぎた。ここまで救いの無い人間を、どうこう出来るやつなんていなかった」

 その目からはついに涙が零れた。

「君は彼女を、無茶苦茶に傷つけたんだ」

「あ……っ、う、あ」

 視点の定まらない目を冷淡な射抜くよう見据えながら、純粋な心に怯える不憫な男に諦めの息をつく。胸ぐらを放し、手首を握り、彼に背を向ける。

「探しに行こう」

 彼は狂ったようにぼそぼそと「仮面……アルルカンの仮面が」と口を動かした。この期に及んでまだ。――。ルイスは勢いのまま自らの仮面を引き剥がし、それを彼の手に押し付けた。

「これでいいだろ!」

「あ――」

「行くよッ!」


 二人は夜が明けるまで帰って来なかった。白んじた空は無情にも思え、ルイスはふらふらとその場に膝をつき。アーサーはその空の下に、ただただ立ち尽くしていた。


 ――今日、〈百合の国〉の王がルテジエンに到着する。


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