第6話


           ◇◆◇


「――ここの畑を抜けた先に、小さな森があるの。知ってる? 今は冬だから枝しか残ってないけれど、春になると鮮やかな色でいっぱいになるところ。ブリュニーの森と呼ばれているのよ。

 その森のずっと奥に、一軒の家があるの。ユグノーさんていう、わたしと同じ楽団にいる方とお友達の人で。今までたくさんの素晴らしい歌い手を育ててきた人なんだって。わたしもね、会いに行ってきたのよ。……なぜってわたしの歌が全然だめだからよ。――いいの、何も言わなくて。

わたしはもうこれが最後の望みだと覚悟して、その家のベルを鳴らしたわ。そしたら木の扉がゆっくり開いて、厳格そうに眉間を寄せているおじ様が出ていらしたの。その方がユグノーさんよ。ユグノーさんはわたしを見るなり、体の奥を震わせるような低いバスの声で仰ったわ。『話は聞いている。昔馴染みのトマスが熱心に頼んできたから、引き受けてやったが、今後一切御免だからな』って。わたしは構わないと答えたわ。ただ必死にうわごとのように『わたしの歌をみてください』とばかり繰り返したと思うわ。――実はあんまりきつく覚悟を決めてしまっていたから、緊張して頭が真っ白になったみたい。だからあまり記憶があまりないの。でもただ、ユグノーさんの眉間はずっと深く皺が刻まれていたことと、ピアノのある部屋に通されてそこで歌ったことくらいしか覚えていないの。

――歌の伴奏はユグノーさん自身がやってくださったの。とっても上手だった。こうやって色んな人をみてきた方なんだと思うと、わたし場違いみたいで。比べられてるのかなって。ちょっとだけ思ったのよ。

ユグノーさんはわたしの歌を聴いて、多分わたしを気遣う言葉を選んで、お話しになったわ。『マリアーヌ、あんたはあまりにも耳が良すぎる』と。

わたし何が何だかわからなかった。そうしたらユグノーさんがピアノの前にわたしを立たせて、目を閉じるよう指示してからいくつか鍵盤を叩いたわ。『同じように弾いてみろ。ゆっくりで構わないから』と仰るからわたし、言われた通りにやったわ。ユグノーさんは徐々に音の数を増やして、わたしに弾かせたの。そうして。

『ほら見ろ、あんたの耳は正確に音を拾う』

一瞬、唯一の長所を見出だされたのかと思ったわ。でもそれにしては声色があまりに冷たかった。

『これは致命的な欠点だ』ユグノーさんは一言で仰った。『あんたは耳がいいから、歌っている最中に伴奏や他の歌い手の音を、必要以上に拾ってしまう。だから、自分以外の音より強い音が聴こえると無意識にそちらに気を取られてしまうんだ。だから、自分の声がわからなくなっているんだ』

それからユグノーさんはわたしを気遣うように一瞥して、

『フローラは楽手だが、音楽の良し悪しはちゃんと判断できる。――だから、フローラが合わないと言ったのなら、それはおそらく正しいだろう』

 ――そしてわたし帰ってきたの。いくつか助言は頂けたんだけど、やっぱり皆、皆諦めろって。向いてないって、ああそうなんだって思うけれど、何でだろわたし何でまだ歌を歌っていたいんだろう……」

「リリー」

「才能が、自分のやりたいことに対する才能が、あれば諦めなくて済むのにな。どうしてわたしって自分の夢を叶えるために必要な才能を持って生まれてこなかったのかな。それさえあれば、他に何もいらないのに――」

リリーはそうして口を閉ざした。俯く彼女。それを見てアルルカンは声の調子を低くして、彼女に語りかけるように囁いた。

「きみがどうして諦めようとしているのかぼくには全くわからない、諦めたくないなら諦めなければいい。楽団を出ていけばいい。楽団を出てひとりで歌っていけばいい」

「そ、そんなのできるわけ……!」

 彼は一息置いてから、諭すように言った。

「ただ歌を歌うことだけなら、何処にいたってできるさ。声があればね。でも、きみはその楽団にこだわっているよね。――ということは簡単だ。きみの歌っていうのは、自分の満足の為のものなんかじゃなく、だれかに、出来ればたくさんの人達に聴いてもらう為の歌なんだよ。その人達が喜んでくれるのを見て初めてきみは、ああ自分は歌を歌っているんだと実感するんだよ。そうだろう?」

リリーは涙に潤む瞳を彼に向けた。仮面の奥の瞳がこちらを見据える。アルルカンは首を傾げる。

「そうだろう?」

 黙って頷きを返す。

「じゃあきみは、どんな歌を聴かせてくれるんだい?」

これには首を振った。

「……わかんない。だって今まで、歌いたい気持ちしか、知らなかったから。――でも。想いだけは、こめて。わたしの歌に対する想いだけは、こめて歌をうたうから」

リリーはぐっと息を吸って彼の両手を取って、優しく、強く握った。

「あなたの為を想ってうたうから、アルルカンさん、わたしの歌を聴いて」

そこにはもう悲嘆の色は無かった。

「勿論だよ」

それを合図にリリーは歌い始めた。涙まじりの声だったが、宣言通りに想いだけは、こめて。

彼女の観客はただ一人の道化師。月が彼女の姿に光をあてる。星が旋律に合わせ瞬く。それらの光を受け 彼女の金の髪が煌めいた。

「あなたはどうして、そんなに優しくしてくれるの」

歌を終え、リリーは静かに問う。彼はしばらくリリーと見つめ合った。それからアルルカンは静かに微笑んだ。

「素晴らしい歌をありがとう。さあ、もう遅いよ。早くお帰り」

「……ええ」

そう答えつつも少しも動こうとしないので、アルルカンは首を大きく曲げて彼女を覗き込んだ。

「どうしたの」

「――わたし、いつもあなたに救われてる。ほんとに感謝してるわ。だってあなた、わたしが本当に苦しいときにはちゃんと会いに来てくれるでしょう……? そのお蔭でわたし、また、がんばることができるの。ありがとう。――だから、あ、あのね、わたしもあなたのことを、もっとちゃんと知りたいの。あ、嫌だったらいいの! でも、でもね、せめて名前だけでも教えて? わたしも、あなたの名前を呼びたいもの……」

この問い掛けは、彼を尋常でないほどの動揺に陥れた。

仮面の奥の双眸が大きく見開かれ、せわしなく視線が揺れる。足が一歩二歩と後退りした。体がぶるぶると震え始める。冷や汗がわき出て、その頬を伝うように感じた。その色はまぎれもない、恐怖。しかしリリーは気づかず、期待と不安の入り混じった表情のまま、足下を見つめて彼の返事を待っている。

彼は荒い呼吸を繰り返し、ついには壊れた玩具のように動かなくなり、沈黙して――。


            ◇◆◇


アルテ劇団のアルルカンを演じているアーサーという人物は、男女問わず人気の高い役者であった。

それは勿論、彼が演じる役柄にも理由があったが(アルルカンは劇団一の人気者なのだ)、彼のあまり知られていない仮面の下の端麗な顔立ちもまた大きな理由になっていた。一度だけ使い古された仮面の紐が切れてしまい、結構な人に彼の顔が見られてしまったという事件があって、そのことが一気に噂として広まり、それを実際見た女性と噂を聞いた女性から異常なまでに多くの支持を受けていた。仮面の奥の神秘性に魅せられたのだろう。また、アーサーの仕事上がりを狙って訪れる女性も少なくなかった。けれどもまあ、ほとんどが彼の持ち前の話術により、それとなく送り返してしまうのだったが。


以前、アルテ劇団の団員に『他者の役を演じるというのは、どういうものなのか』と尋ねた者がいた。それに対し、ある人はこう答えた。

「危うい」と。「自分が自分で無くなる感覚に常に脅かされている感じだ。だから常に呑み込まれないよう揺らがぬ自分を持っていなくちゃならない。ずっと抗いながら、演じている」

ある人はこう答えた。

「もう一人の人格を持つこと」だと。「即興で演技するということは、その演じる役の自然な振る舞いというものを確実に身に付けるということ。一緒に生きる、もう一人の自分として受け入れ、板につかせる。そこまでしないと不自然さが出てしまう。不自然が役者から覗いた瞬間、途端に夢から醒めてしまい、劇はつまらないものとなる」

アーサーは言った。

「何もない」言い切ったのだ。「何も変わらない」


即興劇をやる上で最も大変なことは、演者が登場人物になりきらねばならないということだ。ただ、その役の感情がわかるだけでは即興という高度な技術を得ることなど到底出来はしない。登場人物に感情移入できる物語の読み手と同じ立場では演じることは愚か、皆の前に立つことさえできないだろう。

演じ手は実際に役の遍歴、性格、交友関係、思考回路や物事の嗜好までを完全に理解・把握した上で、自分のものとして背負っていかなければならない。演じるとは言葉にすれば簡単だが、それを実行する役者たちは恐ろしいまでの精神的疲労に慢性的にさらされながら演じているのだった。役が抜けなくて精神が病んだ者も実は結構な数いる。それも悲劇喜劇に関わらず、だ。――言ってみれば皆、多重人格者であることを強いられるのだ。舞台の上ではとある人格を持つために自己を切り捨てておき、舞台から下りたら捨てていた自己を拾いにいく。切っては付けてを繰り返す度に心が分離しやすくなって、最後には気づかぬうちに落ちてしまい、どこで失くしたのか分からなくなって――。

それを受けて、アルテ劇団を含め多くの劇団では、一人一役を基本とし専門的に役と向き合わせる傾向にあった。(例外もある。自己と役との切替に自信のある者だけ。アルテ劇団にも一人で三役扱える者がいる)

専門的となれば、より長く深くそれらと向き合わなければならないが、その分演技に乱れがない。

何よりアルテ劇団の特徴は〝仮面〟にある。仮面を被る者はそれをつけているか否かで人格を切り替えることができる。仮面のない人物もいるが、その場合は髪型を変えるなど各々に工夫し、自我を保っている。


アーサーは優れた道化師だ。『自然に』アルルカンを演じ、観客を一瞬のうちに惹き付け、魅了する。それゆえ『危うい』存在だとルイスは考えていた。何が最も危ういのか。それはアーサーが危ういと感じていないことが危ういのだ。アーサーはアルルカンに身を委ねている。いわば依存状態。つまりは自我を放棄してアルルカンに傾倒している。実際、彼が仮面を取って素顔を晒している時間の方が少ない。

そのことは団員たちも気に掛けて、彼にあまり役に入り込むなと注意するものの、全く言うことを聞こうとはしない。

「まあでも一概に悪いって言えないのよね。あたしらもアーサーの腕に頼ってるとこがあるわけだし」

そうしてアーサーは日に日にアルルカンという役に染め変えられてゆく。そのことを深く危惧する者がひとりだけいた。ルイス=エヴァンズ=ブライムという、彼と同じ劇団に所属する、温和な青年だった。

ルイスとアーサーは幼い頃から一緒にいた仲間であった。また、ルイスには過去にアーサーに救われたことがあった。そのことに対しルイスは多大な恩の念を感じているようで、その恩を返すことに日々躍起している節があった。その一生懸命さはアーサーでない者から見ても鬱陶しく思えるほどのもの。時には周りが見えずに、アーサーへの恩返しのみを頭に置いて行動することもしばしばだ。よって今回も例に漏れず、ルイスは行動した。

 仕事が終了したあと、アーサーは劇団へは帰らずにどこかへと歩き出した。たまたま一緒だったルイスは彼について行こうとした。するとアーサーは不愉快そうに眉をひそめた。

「ついてくるな」

「どこ行くつもり? もしかして昼に見かけた女の子のところ? 西へ行ったよね。あそこには畑と森しか無いって聞いてたけど、どうしたんだろ?」

「別にどこだっていいだろう。いちいち詮索するな。うっとうしい。おまえはもう帰れ」

 そう突き放すように言われ、ルイスはおとなしく小さくなる背中を見届けた。そして姿がみえなくなってから、――追跡した。ここ最近、アーサーが頻繁に外へ出掛けているのは、誰かに会うためなのだと確信していた。そしてその誰かは先ほどの会話により、例の少女だということが確定し、何よりその少女が彼にとって特別な人なのだということも、固く信じていた。

 アーサーはやはり西の畑の方角へ歩いていった。ルイスは彼に気づかれぬようにとある農家の陰に隠れた。

 しばらく待っていると森の方から例の少女が俯きながらこちらへやって来た。彼の姿を認めた瞬間、彼女はひどく驚いていたようであった。それを見て、どうやら今夜会う約束をしていたわけではないようだとルイスは推測する。

今日は風の強い日だった。轟、と音を立てて吹く風のせいで、彼らの声が途切れて聞こえてくる。が、まあ盗み聞きしている立場なので、そう文句の言える立場ではない。アーサーはルイスの隠れている場の近くにいるので、少なくとも、彼の声はほぼ正確に拾えるからまあ良しとする。そうしてルイスは二人の会話に聞き耳を立てたのであった。


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