第3話


            ◇◆◇


 急な雨が降ってきた。近頃は快い晴れ模様が続いていたというのに。

外は雨に驚く人々が大慌てで雨宿りできる場所を探しているらしい。人々が騒ぐ声をリリーは宿舎のベッドの中で聞くでもなく聞いた。

人の声に雑ざって激しく地面を叩きつける雨音も聞こえてくる。何故今日なんだろうと思った。でも、降るならば、もっと激しく降ってくれたらいいと思った。この気持ちを洗い流してくれるほどに、強く。――ならば、雨に打たれてしまうのもよいかとずるずると起き上がって外へ出てみたところ、にわか雨だったのか、雨はすっかり上がってしまっていた。どうしよう。

気づけば自然に、リリーは例の橋のところへと足を向けていた。冬という季節柄、夕暮れ時であっても辺りはもう十分に暗かった。

この時間帯に宿舎にいることは、演奏会から帰ってくる団員たちを出迎えることを意味する。そうなれば彼女らにたちまちに取り囲まれて、劇の感想や彼のことについて質問攻めにされてしまうだろう。それに対し返答することを考えるとたまらなく嫌になって、彼女らと出くわさないように裏口からこっそりと逃げ出した。またもや逃げ出すのだ。

(わたしはずっと逃げてばかりだ。歌からも、何もかもからも)

リリーはそう思いながら、川に架かるアーチ状の橋の上に立つ。

川は先程までのにわか雨のせいで水の量が増していて、激しく波立ち、泡立ちながらも、うねるように下流へ進んでいった。時折、真上に跳ねた水が飛沫をあげた、そうかと思うと今度は深くふかく川底に潜って姿を消した。ごうごうと不気味なまでの激しい音が鼓膜に響く。水の色は土砂を含んですっかり濁っているだろう。けれども、夕暮れの闇の中でははっきりと目にすることはできない。あいにく今日は月も雲に隠れ、街灯の火も頼りなく揺れているからだ。

吹く風は身を切るように痛い。今日こそはと、外出する前にたくさん服を着込んできたのに、何故だか以前よりずっと、夜風が冷たく感じられた。

――彼が逢いに来てくれるかも、という淡い期待が無かったといえば嘘になる。けれどそれを望むのはあまりにも都合が良すぎるのではないのか、現に自分は彼から逃げたのだ。会わせる顔などもう疾うになくしているのだ。

それなのに。


「危ないですよ、御嬢さん」


リリーは声の方へ勢いよく振り返る。そこには誰よりも逢いたかった彼がいた。心は一瞬にして安堵に似た歓喜に満たされる。けれどもそれをすぐに打ち消す。あまりにも身勝手な話すぎる。彼と会ってすぐに態度を一変させた自分を心の中で責めた。

すると急に、アルルカンは身体を折るほどにしなびて項垂れて、ひどく落ち込んだ調子で呟いた。

「すぐに帰ってしまったから。お気に召さなかったのかと思ったよ」

「そんなことあるわけないわ!」

 リリーは今日見た劇が、たとえようもなく素晴らしいものであったことを、拙いながらも必死に伝えようとした。しかしこの感動をすべて自身の言葉で表すことは不可能だとでも悟ったのか、リリーは途中で興奮冷めやらぬ形ではあったが歯がゆそうに口を閉ざし、そうして、溜息をついた。

「すばらしかったわ……とっても、とってもね。でもわたしには、劇場に足繁く通えるだけのお金がないから、――あの人たちみたいにあなたと一緒にはいられないの」

「あの人たち?」

「……っ、つまりは、わたしは貴方を裕福にさせてあげられるだけの金持ちではないということよ。あなたはあなたをご贔屓してくれる、裕福で立派で素敵な、そんなお客さまを探しなさってくださいな」

するとアルルカンは理解できないと、幼い子供が駄々をこねるような真似をして純粋な怒りを彼女にぶつけてきた。

「あんまりだ!」 彼は叫んだ。「やっと出逢えたばかりなのに、ぼくはこの出会いを大切にしようとしているのに、――もうどこかへ行けと仰る。なんてつれない人だろう!」

 そうしてアルルカンは肩をすくめてリリーを横目で一瞥する。そこには彼女を責めるような色があった。

「別にぼくはお金目当てにきみに近づいたわけじゃないさ。というか目当てなんてないんだ。ぼくがきみに会いに行くことに。何故そんなにひねくれて考えるの。百合は、純心の象徴だよ? きみに疑心は似合わないな。――それに何よりぼくには、きみの歌を聴くという大事な約束があるじゃないか」

「約束?」

「そう。誰かの代わりに歌を聴かせてと、確かにそう言った」

「あ、あの場だけの言葉だったのではなかったの?」

「――じゃあ今この場で高らかに宣言しよう、疑心暗鬼のお嬢さん」

 アルルカンは彼女の両の手を取ってしゃがんで、彼女の前髪に隠れた 輝く瞳を覗き込んだ。吸いこまれそうなほどに深く澄んだ双眸がこちらを捉える。

「ぼくはきみの歌を聴きにくるよ。リリー。だからまた誰かの代わりに聴かせてくれよ」

「もちろんよ……!」

リリーは何度も頷いた。アルルカンは微笑んだ。

「劇場の方でも、いつでもお待ちしていますのでまた、いらして下さいね」

「……劇場では、そうすぐには会えないかも」

 淋しそうに笑ったリリーに、アルルカンは何でもないように言った。

「ならぼくがまた逢いに来るよ」

 手が差し伸べられる。「ここへ、泣き虫なきみに逢いに」

「意地悪ね」

 リリーは涙を拭いながらその手を取った。

「そんなこと言うから。もう泣いたりしないわ」

「どうして? 何度でも泣けばいいじゃないか。そうしたらぼくが慰めてあげるよ」

「ふふ。……いいえ、もう泣かないわ。泣き虫だってからかわれちゃ、たまらないもの」

 何故か妙にがっかりした様子の彼に、リリーは思わず苦笑する。

「道化師が涙を求めるだなんて、可笑しいわ」

 ――何気ない言葉に、道化師の動きは止まった。目が、わずかに見開かれる。

そんな彼の不自然さにリリーは笑みを崩し、心配そうに彼を見つめた。

「どうか、した?」

その視線に気づき、再び道化師は弾かれたように動きだし、もとの陽気で明るいアルルカンに戻った。

このようなことは今日に限った話ではなかった。彼はリリーとの逢瀬を重ねる度に、突然言葉を詰まらせるといったような、らしくない『不自然さ』が彼の身にまとわりつくようになっていく。そして決まって、その時の仮面の奥の瞳は感情すべてを圧し殺したかのように、暗く重い影を差しているのだ。この日も、そうだった。その時には、リリーは必ず彼の目を見て問いかけた。

「なにかあったの?」

 アルルカンはそれにいつもこう答えた。

「全然。なんにもないさ。どうしてそう思うの?」

リリーは少し俯いて、感情を隠すようにほほえんだ。

「そんな風に、みえたから」

彼の闇を知りたいと、強く願った。


 今夜は、一日の終わりと始まりを告げる鐘が鳴り響く前に別れた。その間二人はずっと橋の上で様々な話をしていた。そのほとんどが主にリリーについての話であった。特別彼女がお喋りだからというわけではない。彼が次々と質問をしてきたからだ。

別れの際、リリーは道化師に大きく手を振って、そうして笑顔のまま帰路へと足を向け、歩き出す。――道化師が重ねている失敗に、何一つ気づかないまま。


            ◆◇◆


『百合の国』を統べる王は、王宮の窓を見つめて物思いに耽っていた。窓の向こうの空ではない、窓に映る自身の姿を見ていた。青白い肌、高い鼻、くぼんだ瞳。視線を自分の体へと移す。痩せて貧弱な体つき、不健康そうに見える。若い男の身体とはどうしたって見えなかった。指先を見た。そこは始終頼りなく震えている。溜息ひとつ、こぼれた。


『百合の国』は西にいくにつれて大きな山脈が広がっており、ところどころに丘陵があるものの、基本的には穏やかな平野に恵まれた国だった。また、気候も変動が少なく、ブドウやオリーヴといった果物類を主な栽培品として他国に輸出していた。自然に囲まれた生活をしているからだろうか、この国の人々の気性は大らかな人が多いともいわれているが、それは本当だろうか。その国を受け継いだ国王は、ふと思う。

王は十九番目のシャルルとして名を受け賜わった。

彼は早くから父を亡くし、幼子の時に即位することとなった。当然幼い彼に政治や国民のことなど任せることは不可能だ。よって代わりに彼の母が実権を握って、国を治めることになった。これは勿論、彼が成長するまでの肩代わりであるはずだったが。昔から虚弱体質であったシャルルは、城からあまり出ることなく育ち、また年の近い子供が身近にいず、たった一人の親である母も治国のため忙しくなかなか相手にされない幼少期を過ごした。だから友達や家族と話す上で自然と培っていくであろう意思表示能力が欠如しており、それにより人前に出るのを極端に嫌がって、ついには城に引きこもって外にも出なくなってしまっていた。そんな彼に母は呆れ果て、やむを得ず引き続き政務を執った。

国中から愛想をつかされたシャルル王だったが、彼にはたった一人だけ、心を開いて話すことのできる相手がいた。扉がノックされる。彼を訪ねてくる者など、今やもうその人しかいない。

「カルロ!」

 シャルルは弾かれたように振り返った。「入っていいよ!」

 すると扉はそろそろと開かれて、一人の滑稽な格好をした人が飛び出てきた。

「こんにちはシャルル、まぁた一人で空でも見ていたのか?」

 名ばかりの国王とはいっても、彼は確かな王族の血を受け継いでいる。そんな彼に対して呼び捨てで、尚且つ敬語を除いた言葉遣いなど、明らかなる非礼であり、絶対に許されることではなかった。――その人以外には。

「別にいいだろ……。どうせやることなんてないんだから」

 拗ねたような言い方に、カルロと呼ばれた男は高らかに笑って言う。

「友達を作れ! そんな風に卑屈になるから皆が近寄れないんだよ」

「う、うるさいな! 僕には君がいるからいいんだよ……友達なんてそんなの別に」

 シャルルの言葉尻が萎んで消えてゆく。カルロは極めて陽気に話しかけた。

「そう落ち込むんじゃねえよ。ほら、ジャグリングしてやるから、見てろ」

「うんっ!」

 カルロの前ではシャルルは幼い子ども同然だった。甘えるように、彼は実の父親に接するかのように彼を見た。子供時代に母親に存分に甘えられなかったからだろうか、彼は子供のような振る舞いをよくした。カルロもまた彼を父親のように軽く叱ってみせてから、道化を始める。

 カルロは宮廷道化師という、王族や諸侯に仕える専属の道化師であった。彼にもまた仮面がつけられており、外すことはない。当時、明確で不可侵の身分差が存在した『百合の国』だったが、宮廷道化師といった職の者だけは自らの意見を口にすることができ、時にはその意見が聞き入れられることもあったのだ。

「シャルル、せっかくなんだから、引きこもってばっかりいないで色々と動いてみるのはどうだ? 自分の国を自分の目でみてみるのも、いいと思うけどなあ俺は」

「……でも」

「なんならお忍びでどうだ? 一週間くらい潜ってみてさ、街の様子とか見世物とかも見てさ、あんたの姿なんて外の人間は知ってるやつのが少ないだろ? だってあんた、物心つくようになってからずっと人目避けてたんだから。な、気分転換だと思えばいいんだよ。あんたの祖先だってめちゃくちゃ遊びほうけてたんだぜ、あんたもちょっとくらい、許されるってば」

 シャルルは悩んでいるようだった。しかし、その表情は満更でもないといった色が浮かんでいる。

「あなたが手配してくれる?」

「勿論」

 シャルルは窺うように彼を見た。

「あなたも、一緒に来てくれる?」

「あんたが嫌って言ってもついてくぜ」

 シャルルは息を吸い込み、頬を期待に膨らませて言った。

「じゃあ行く!」

「わかった。うまくいくように手配してやるよ」

「うん!」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る