第5章

 気が付くとベットの上に横たわっていた。

 白い壁、白い天井、消毒液のような臭いが鼻をつく。

 自分の部屋ではないその空間をしばらくぼーっと見つめてていたが徐々に記憶が蘇り『鷹』の拠点を潰した後ヴァンフォートによって警察病院の病室に放り込まれたのだと思い出した。

 だが正直記憶が曖昧だ。

 シュナイザーにリックが撃たれて、そこにヴァンフォートが来て何か話しかけられているうちに16、17部隊の隊員もやってきて。それから撃たれた腕の応急処置をされて、他の隊員と同じように事後処理をしていた気がする。

 それから病院に連れて来られて、処置が終わると付き添っていてくれたキースも一旦身体を休めるために支部へと戻って行ったはずだ。

 ニーナ自身は寝ていたのか起きていたのかわからない。

 ぼーっと天井を見続けていた気もするし、眠っていたような気もする。

「今、何時だろう」

 残念なことにサイドテーブルの上には時計がなかった。

拠点を制圧した時間が何時だったのかもわからないが、カーテンの向こうはすで明るくなっている。

 『鷹』捜査の中心となっている16、17部隊は徹夜で事後処理に当たっている事だろう。それに捕縛した『鷹』メンバーが何人いるのかはわからないが、すぐに尋問が行われるはずだ。

 あそこに囚われていると言われていた人たちは無事に救出出来たのだろうか。

 早く戻らなければ。

 ニーナ自身も『霧』について報告しなければならないことがある。

 恐らくリックを殺されてしまった事に対する尋問もあるだろうし、それなりの処分も下されるはずだ。

 まだ新人のニーナは降格されようもないし、現状では謹慎という事もないだろうから恐らく減給か。

 だが思わずため息がこぼれるのはそれが理由ではない。

 ギシギシと音がしそうな上半身を起こして、包帯がまかれた左腕に服の上から触れる。

 あの時、リックを撃ったのは間違いなくシュナイザーだった。

 そして彼は、ニーナのターゲットだ。

 その事実が未だにニーナの胸を締め付けている。

 考えないようにしようとしてもあの時の光景、言葉が頭の中で何度も繰り返される。

 そして闇の中からシュナイザーを呼んだあの声。

 一瞬松明の明かりに照らされて浮き上がった銀糸は幻か。

 左腕から離した右手で額を押さえてうつむく。

 目を閉じ視界が塞がれると、あの時の光景が今まさに起こっているかのように浮かんできた。

 元々シュナイザーと関係があってもおかしくはないと思っていた。

 二人とも支援活動に熱心という共通点がある。

 だが一度シュナイザーに訊ねた時ハミルトンについて知らないと言っていた。

 今となってはその発言自体も怪しく思えてくる。

「うっ……」

 強烈な吐き気に襲われ顔をしかめた。

 シュナイザーの発言が嘘だとすればあの声の正体はハミルトンだという可能性が高まる。嘘でないとすればハミルトンが生きている可能性が低くなる。

 ニーナにとってはどちらに転んでも地獄だ。

 生きていてほしい。でもハミルトンが『霧』のメンバーだとしたら、ハミルトンもまたニーナの捕縛対象になってしまう。それだけは現実にならないでほしい。

 ただでさえあの優しかったシュナイザーが『霧』のリーダーであり、リックを殺した犯人であるという現実に打ちのめされているのだ。

 これ以上はきっと耐えられない。

 一転して逃げ出したい気持ちに駆られていると「お前、大丈夫か?」という声が頭上から降ってきた。

 顔を上げれば珍しくジニーのように眉を下げているキースの姿がある。

 目立つからかIPUの制服は着ておらず、ワイシャツにジャケットという格好だ。

 いつの間に入ってきたのかと言う疑問は、自分に原因がある事がわかっていたので口にすることはしない。

「おはようキース、早いね……」

「まあ、俺達のヤマじゃないって言っても手伝ったからには色々やる事あるしな。お前も昨日の事詳しく報告しなきゃならんから連れて来いって言われてんだよ。でも体調悪そうだし、明日にしてもらうか?」

「ううん、大丈夫。じっとしてる方が色々考えちゃって身体に良くないから一緒に行くよ」

「……そうか。腕、大丈夫か?」

「うん。今は痛み止めも効いてるし」

「あんま無理すんなよって、お前に言っても無駄か。せめて痛み止めたくさんもらって帰れよ」

「さすがに痛みに喜ぶ趣味はないからそれはちゃんともらってく。ていうか痛いとまともに仕事できないし」

「そりゃそうだろ。腕ぶち抜かれてるんだぞ。本来なら安静にしてなきゃならんのに昨日の今日で報告に上がれだなんて隊長達鬼だよな」

「それだけ迅速に対応しなきゃいけないって事なんでしょ。……それに、一番生け捕りにしなきゃいけなかったリックを殺されちゃったんだし」

「お前が撃ったんじゃないんだろ?リックは左の太ももと額を撃ち抜かれていた。足だけならまだしも、お前が至近距離から額を撃ち抜くようなやつじゃないってわかってるさ。それに、現場で回収された銃弾は俺たちが使っている物とは違った。物証でもお前は白ってわかってる」

「それは、心配してないけど……」

「じゃあ何を気にしてるんだ?リックを撃った犯人を取り逃がした事か?」

「うん、まあ……。あのね、シュナイザーってわかる?」

「ああ、教会で会った?」

 何故突然シュナイザーの名前を出すのかとキースが首を傾げている。

 その姿を仰ぎ見て、再び白い布団に視線を落とした。

「……あの人が、リックを撃ったの」

「はあ?なんで――」

「シュナイザーは支援活動に熱心だった、そして『霧』も貧しい人たちを支援していた。シュナイザーはが運び込んだ木箱から火薬が検出されたって聞いて嫌な予感はしていたの。極めつけが『霧』のリーダーはカラスのように黒い髪を肩まで伸ばしているっていう証言」

「――おいおいマジかよ」

 キースの中でもすべてのピースが繋がったのか、声から動揺が伝わってくる。

「つまりあいつが『霧』のリーダー……」

「間違いないと思う。『鷹』と『霧』が対立しているって証言もあったし……」

「あいつが『霧』のリーダーだとすれば、リックを撃った理由にも説明がつくな」

「うん……」

「…………」

 二人の間に沈黙が落ちた。だが絞り出すような声でキースが名前を呼んだことでそれは打ち破られる。

「――お前、続けられるか?」

「え?」

 何を指して続けられるのかと聞いているのか、頭を動かしてもすぐにはその答えにたどり着かなかった。

 顔を上げれば、泣きそうな、それでいて苦いものでも飲み込んだかのような複雑な表情のキースとまともに視線がぶつかる。

「少なからず慕ってたシュナイザーを捕まえなきゃいけないんだぞ。出来るか?」

 念を押されるように言われて反射的に頬が膨らんだ。

 キッとキースを睨みつける。

「馬鹿にしないでよ。私はIPUであることに誇りを持ってるし、自覚だってある。公私混同はしない」

「でも精神的な辛さはIPUであろうとなかろうと関係ないだろう。せめて泣きたくなったら俺に言えよ?葵屋の大福くらいは奢ってやるから」

「――ありがとう」

 今その優しさに泣きそうになったことは黙っておいた。





 16、17、18部隊の各隊長、副隊長を前に、平隊員のニーナひとりが当時の状況を報告するという他隊員から見れば地獄のような室内だったが、生来ニーナは立場や権力があるからと言って恐れを抱かない性格の為なんなく報告を終えた。

 ニーナの報告を聞いた隊長達は皆それぞれに眉を寄せて何かを考え込んでいる様子だ。

 そんな中ヴァンフォートが苦々し気に口を開く。

「ローゼン・シュナイザーか……。正体不明の『霧』がまさか目と鼻の先で動いていたとは」

「これで例の木箱が完全に黒になったわけですね。カモフラージュの為に支援先の教会に孤児たちを集めていたのでしょうか?」

 ヴァンフォートの言葉に頷いたアッシュが疑問を投げかけると、今度はその言葉にヴァンフォートが頷いた。

「その可能性もある。どちらにせよあの牧師はグルと見ていいだろう。すぐに連行してくれ」

「はい。すぐに手配します」

「それからシュナイザーの支援先を捜査する。関係先の情報を集めてくれ」

「はい」

 アッシュが珍しく足音を立てて部屋から走り去っていく。

 その後姿を驚きにも似た気持ちで見送っているとヴァンフォートに名前を呼ばれた。

「今日は休んでいていい。情報が集まり次第関係先を捜査するからそれに加わってくれ。本来なら休ませてやりたいところだが……」

「いえ大丈夫です。この状況で休んでいる方が気が滅入りますから」

「そうか。だが情報が集まるまではしっかり身体を休めているように。お前の事だから射撃訓練くらいはできると思っているかもしれないが、衝撃が傷に響くぞ。それが嫌ならやめておけ」

「……はい」

考えていたことをまさに言い当てられてニーナは視線を逸らす。

 その様子を見てヴァンフォートは呆れたようにため息をこぼした。





 夕方。支部の大会議室で18部隊の捜査会議が行われていた。

 今日1日で得た情報を報告し、情報を共有するのが目的だ。

 休んでいていいと言われたニーナだったが、大事な捜査会議は欠席するわけにはいかないと参加している。ただし報告出来る情報などない肩身の狭い立場なので最後尾の隅に座っていた。

「――牧師の尋問は進みましたか?」

 アッシュの問いに「はい、報告します」と立ち上がったのはキースだ。

 牧師を連行するメンバーに選ばれたことは本人からの報告で知っていたが、尋問にも参加していたとは知らなかった。

 ニーナはまだ訓練ではない尋問の経験はないので少し羨ましく思ったが、相手があの牧師だと思い出しすぐにその考えを消す。

 彼を尋問できるほどまだ心状態が整っていない。

「牧師はやはりシュナイザーの裏稼業の事を知っていました。悪いこととはわかっていたが子供たちや難民を助けるには莫大な資金が必要で、仕方なくやったのだと言っています」

「ではやはり牧師とシュナイザーはグルだったんですね?」

「いえ、確かに武器の一時的保管に教会を貸していたのは事実なのですが、どこでどのような活動をしているかは知らないと。ただ多額の支援をしてくれるのに返せるものがないのでせめて場所だけでもと貸していたと」

「なるほど。その証言が本当だとするのなら『霧』のアジトについても知らないということですね」

「『霧』のメンバーやアジトについてはほぼ把握していないと言っています」

「……なるほど。シュナイザーについての調べはどうなっていますか?」

 アッシュの質問が牧師の尋問内容からシュナイザーに移ったのでキースが着席し、代わりにフィジーが立ち上がった。

「表向きはかなりやり手の美術商のようです。芸術品を見る目が確かで、それに関する知識も豊富。時に美術館から監修を依頼されるほどだったようで、少し前にはハミューズの美術館でシュナイザーの企画した展示会が開催されています。富も相当得ていたようですが、その殆どをハミューズのスラム街に住む人々の支援に使っていたという証言があります。シュナイザーの詳しい資産については照会をかけているところですが、スラムの人々の証言はほぼ一致しているので多額の支援をしていたというのは間違いなさそうです」

「その辺りは牧師の証言とも一致していますね。シュナイザーはかなり矛盾を抱えているように思いますが、まあそのあたりは我々が追及しても仕方のないことですから、皆さん彼が孤児たちを救っているからと言って己の正義を揺らがせることのないようにしてくださいね」

「はい」と全員が頷く中、ニーナだけは頷けないでいた。

 シュナイザーは何故犯罪に手を染めながらも支援を続けているのか。

 罪を犯していることに対する罪悪感からか。それとも、支援し続けるために罪を犯しているのか。

 その方が納得できる。

 彼の難民や孤児たちを救いたいという思いは本当だったと思う。

 美術館で見せた表情は嘘ではないはずだ。

 それにもしそうでなかったとしても孤児たちを助けている事は事実だ。

 もし彼が捕まったら支援を受けていた人たちはどうなるのだろう。

 恥ずかしいことだが、ニーナひとりの財力ではとても賄えない。

「では最後に俺から『鷹』についても報告しときますね。16、17部隊からの報告によると北の医療工場で捕らえられていた人たちは無事に解放され、現在中央病院で治療中です」

「彼らは難民や孤児がほとんどなんですよね?治療が終わった後はどうなるのですか?」

 メンバーのひとりが手を上げて疑問を投げかける。

 その質問にアッシュは表情ひとつ変えずに答えた。

「彼らに関しては地元警察に任せていますが、バルトから流れてきた難民であると伝えている者もいるようです。正式に国へ入国していない者、身分を確認できない者は強制的にバルトへ送られるでしょうね」

「そんな……」

 会議室にひやりとした空気が流れてくる。

 ニーナも背中に冷や水を浴びせられたような震えに襲われていた。

 紛争から逃げてきて『鷹』に捕まり、売られる寸前に助けられて、今度はまた紛争地帯へ戻されるなど想像しただけで恐ろしい。

 それはあまりにも残酷すぎるのではないか。

 だがIPUの一隊員でしかない自分たちにはそれを変えることはできないことも理解していた。

 これは国と国の問題なのだ。

 それがわかっているので、全員が俯いて何かに耐えるようにテーブルの上の拳を握りしめていた。

「――それから、残念ながら多数の遺体も発見されています」

「――――!」

「焼却炉から数体、裏の空き地に掘られていた穴に無造作に投げ込まれていた骨は数えきれないほどで、現在調査中です。それから、医療用保存庫の中には取り出したばかりと思われる内臓が見つかっています。心臓から肺、腎臓、肝臓、ありとあらゆる臓器が見つかっているので、おそらく使えるものはすべて取り出されていたのでしょう。そして取り出したあとの抜け殻を焼却していた」

 うえっと誰から耐えきれなくなったようにえずいたのが聞こえて、思わずニーナも口を覆った。

 想像しただけで胃から酸っぱいものが上がってくる。

 そんな中フィジーが「臓器売買をしているという確証を得たわけですね」と発言した。

 それにアッシュが頷く。

「そうです。彼らが身寄りのない人々を誘拐し、人身売買に使えない者たちは臓器を抜き取って殺していたという事が確かなものになりました」

「これで『鷹』と『霧』が対立していた理由もなんとなく見えてきましたね」

「そうですね。誰だって自分の手の中にあるものを奪われるのは嫌でしょうから」

 本当にそうなのだろうか。

 『鷹』と『霧』は取引上のトラブルがあったという噂もある。

 けれど本当に自らの手の内にあるものを奪われたからだというのなら、シュナイザーを心から嫌うことなど出来ない。

 もちろん許可のない武器売買は違法で罪に問われるべきだ。だがもしシュナイザーが元々支援活動に熱心でその活動の中足りない資金を得るために犯罪に手を出したとしたら、情状酌量の余地はあるのではないか。

 ニーナの心は揺れていた。

 こんな時相談できるのはやはりヴァンフォートしかいない。

 救いを求めるようにニーナは会議が終わっても最後まで残って捜査資料を見直していた隊長に声をかけた。

「どうした?」

「……シュナイザーは本当に捕まえるべきなんでしょうか?」

 蚊の鳴くような小さな声に、しかしヴァンフォートは怪訝そうに眉を寄せて資料からニーナに視線を移す。

「なに?」

「……もしシュナイザーを捕まえたら子供たちやスラムの人たちはどうなるんでしょう。彼を捕まえたら彼らの生活はもっと苦しくなるんじゃないですか?それが正しい事とは思えません。それに――」

「ライラック」

 めったに聞かないヴァンフォートの低い声がニーナの言葉を遮り、一瞬身体が震えた。

「それ以上は口にしない方がいい。少なくとも今ここではな」

「……何が正しいのかわからなくなってきました。私達は国際的な犯罪組織を取り締まらなければいけません。でも、その組織によって助けられている人たちがいるとしたら、その人たちにとっては私達が悪ということになりませんか」

 今まで何の疑いもなく信じていたものが急に足元から崩れ去っていくような恐怖。

 右も左も、上も下もわからないような不安。

 自分の進むべき道は何だったのか。

 信じていたものは何だったのか。

 迷子の子供のように途方に暮れている。

「――この世はすべてが悪であり正義でもある。誰もが己の正義、価値観に基づいて行動する。お前はIPUだ。IPUの正義感に疑問を抱いたらここを去らねばならない。お前の正義はどこにある?」

「私は……」

 なんだかんだ厳しいことを言っても優しいヴァンフォートだが、今そう問う上司の声には優しさなどみじんもない。

 突き放すような冷たい声色。

 救い上げてくれる手がない事を知っていよいよニーナは泣きそうになった。

 その時に初めて期待していたのだと気づく。

 それが自分たちの仕事だからやるしかない。指示に従っていればいいと言われる事を。

 何も考えず誰かに従ってるのは楽だから。

 けれどヴァンフォートはそんな甘えを許さなかった。

「お前の心を、人生を他人に委ねようとするな。自分で選び取ったものこそ価値がある。それに、そんな風に生きて行けばいつかきっと後悔する。逃げずに向き合え」

「…………」

「話はそれだけか?なら早く夕食をとって休め。本来ならまだ入院が必要な傷だ」

「……はい」

 いっそこのまま病院に戻って引きこもりたい衝動に駆られる。

 しかし逃げるわけにはいかないことも本当はわかっている。

 18部隊の隊員として、そして度重なる失態を拭い去るためにも。

 でも立ち向かい方がわからない。

 IPUとして『霧』を捕まえなければいけない。しかしそうなれば確実にあのスラム街に住む人たちの何人かはもっと厳しい環境に突き落とされてしまう。

 以前スラム街で人質に取られていた子供。そして教会に住む子供たち。皆自国では考えられないほど細い手足をしていた。

 あの子たちの人生はどうなるのか。

 その時自分に出来る事は何かひとつでもあるのだろうか。

「――ライラック」

「はい」

 いつまでもその場を動こうとしないニーナを椅子の背もたれに身体を預けながら見上げたヴァンフォートが「迎えに来ている」と告げた。

 何の事かわからずに首を捻っていると顎で背後を示される。

「もう話は終わったからさっさと連れていけ」

「――バレてましたか」

「キース!」

 開け放たれたままの扉から頭を掻きながら姿を見せたのは先程先輩たちと雑談しながら食堂へ向かったはずのキースだった。

「ずっと影が見えていた。身を隠すときに光の当たり方を計算するのは基本だぞ」

「すいません。丁度背中を預けやすい場所があそこだったんで」

 キースも本当に気配を消すつもりはなかたのだろう。

 ニヤニヤしているその顔を見てヴァンフォートが大きなため息を吐いた。

「まあいい。さっさと行け」

「はーい。ほらニーナ、行こうぜ。今日の夕飯お前の好きなシチューだってさ」

「え、ホント?」

「ホントホント」

「じゃあ急がないと!ヴァンフォート、話を聞いていただいてありがとうございました」

 正直食欲などなかったが、キースの好意を無下にするのは気が引けたので無理やり明るい声を出す。

 ヴァンフォートが片手を少し上げてそれに応えた。

 それをきっかけにニーナとキースは揃って会議室を後にした。

「今日さ、取り調べ担当したんだね。知らなかった」

「おう。なんか楽そうだからお前やってみろって急に言われてな。すっごい緊張した。やっぱり訓練と実際容疑者と向き合っての取り調べは違うな」

「そっか。いいなぁ、私も取り知らべしてみたい。かつ丼あげた?」

「ばか。お前小説の読みすぎ。大体あれは賄賂にあたるんじゃなかったか?」

「そうだった!」

「てか実際空気重くて食事なんて出来る空気じゃなかったぞ。先輩たちの無言の圧がすごかった」

「それはどちらかというとキースの心情だよね?」

「そうだけど、あんな雰囲気で食事できるって相当な精神じゃないと無理だぞ」

「うーん……、そうかも」

 ニーナは想像する事しかできないが、自身に容疑がかかって取調室に入れられているのに食事をするなど無理だと思った。

 誰にだって初めての場所では多少なりとも緊張するし、ましてや狭い部屋でいかつい顔をした隊員に問い詰められるのだ。その空間で何時間もしつこく事実の確認をされるのだから精神はかなり削られるはずだ。

「あれ知ったらもう絶対悪いことしないでおこうって思った」

「はは、何それ。普通に生きてれば中々法に触れる事はないと思うけど」

「まあなー。でも、世の中何があるかわからないから。もし俺がやばい方向に進みそうになったら引っ張り戻してくれよ?」

「キースに限ってなさそうだけど、その時はボコボコにしてでも連れ戻す」

「怖ぇな、おい……」

 隣を歩くキースが頬を引きつらせている。

 その絶妙に変な表情に思わず笑ってしまった。

「だってキース捕まえるなんて絶対嫌だし」

「……そっか」

 それからしばらく無言で進む。

 次の角を曲がれば食堂が見えてくるという位置で「なあ」と言ったキースが足を止めたので、自然とニーナも足を止めた。

「俺だって嫌だからな、お前の事捕まえるの。文字通り骨折れそうだし」

「ちょっと――」

「だから!……だから、絶対落ちる前に引き上げてやる。俺は絶対お前に手を伸ばすから。辛かったり苦しかったり自暴自棄になってやばい時は手を伸ばせ」

「キース……」

 なんだろう。心臓が締め付けられているみたいに息苦しい。

 でもこの苦しさは嫌じゃない。

 自然と顔が緩みそうになるが、それをキースに見られたくなくてニーナは必死で表情を引き締めた。

 自分には少なくともひとり、救い上げてくれる人がいる。

 どんな道を選んでも、正しい道を示してくれる人がいる。

 それがわかっただけで今まですっかり無くなっていた食欲が湧き上がってくるのを感じた。





 シュナイザーが関わっていると思われる施設がとりあえずの捜査対象となり、18部隊の隊員が手分けして聞き込みに当たっていた。そこで不審な点があれば後日令状をとって改めて詳しく捜査を行う予定だったのだが、良いのか悪いのかシュナイザーの裏の仕事については誰も知らない様子だった。

 それだけで『霧』に関する捜査はかなり難航していたのだが、さらに厄介な事に多額の資金で国に見捨てられた人々を救ってきたシュナイザーは時に神のようにあがめられる事もあり、彼が捜査対象となっているとわかった途端あからさまにIPUに嫌悪感を表す者も出てきてしまった。結果聞き込み自体続行が危うくなり、これで『霧』を解体できると信じていた隊員にため息が増え始める。

 再び捜査が暗礁に乗り上げようとしていた時、思いもよらない情報がもたらされた。

 難民や孤児たちを支援する為のチャリティパーティーにシュナイザーが出資しているというのだ。まさかこの状況で会場に現れるとも思えないが、念の為選抜メンバー15人で会場に潜入することになった。

 そのメンバーにまさか選ばれるとは思っていなかったニーナは驚愕したが、参加者が一般人であることもあり早々簡単には激しいやりありにはならないであろうというヴァンフォートの予測で納得した。

 まだ怪我が完全に治っていないニーナが活躍できる数少ない現場なのだ。

もしアジトへの潜入だとしたら確実にメンバーから外されていただろう。

 もしかしたら未だに揺れている心を見抜いたヴァンフォートがニーナに決意させる為にそうしたのかもしれないが。

「会場は7番街にあるエイジ伯爵の邸宅です。招待状は裏から手を回してメンバー分用意しました。招待状は本物ですが、記載されている名前は偽名になりますので各自別紙に書かれたプロフィールを暗記してその架空の人物になりきってください。情報漏洩を防ぐ為に会議終了後30分で回収し、焼却処分します。ああ、当然ドレスコードもありますからスーツやドレスの準備も忘れずに」

 選抜メンバーが集められた会議室でそう説明するアッシュ。自身もメンバーに選ばれているのだが諜報活動が趣味と言ってもいい彼はどことなく浮かれているように見えた。

 他人に成りすますのが楽しみで仕方がないのだろう。

 実際彼はいくつもの現場に潜入し、敵味方問わずたくさんの情報の情報を部隊にもたらしてきたのでこの手の活動に対する信頼度は高いのだが、その浮かれ加減は少し不安を抱かせる。

 周囲にバレないよう小さく息を吐き出して、ニーナは手元に配られた自身の偽プロフィールに目を通した。

 ニーナの偽名はリーナ・ライック。本名と微妙に近い名前なのは万が一間違えた時に誤魔化せるようにという配慮なのだろうか。

 身長体重はニーナと同じ、ハミューズ出身で世界中を旅している貴族の令嬢という設定になっていた。

 両親ともに支援活動に熱心で、仕事の忙しい両親に代わってパーティーに出席することもある。性格は極めて活発で、社交的。

 支援を募るパーティーなので招待客の設定が上流階級になるのは仕方がないのだが、令嬢らしくなどふるまえないというニーナの心情を先読みしたかのような性格設定になっていてほっとする。

 これなら無理やりおしとやかにふるまってぼろが出るという事もなさそうだ。

 マナーの方は養成学校時代に徹底的に叩き込まれているので問題はないが、堅苦しい食事は苦手なので我慢する事になりそうだ。

 それに目的は『霧』の関係者の捜索、それからシュナイザーの確保だ。

 パーティーは室内の会場で行われるらしい。招待客は約200人と聞いているのだが、それほどの人数を入れられる会場を私有地に持っているなど羨ましい限りである。

「今回は皆さん初対面の設定ですから互いのコミュニケーションは周囲に気を付けて行ってくださいね。もちろん単独で捜査することになりますが、会場を離れる場合は必ず他のメンバーに報告する事。勝手にいなくならないように」

 何故かアッシュがニーナを見たが、その意味は深く考えないことにして愛想笑いを返しておく。

 するとアッシュが怖いくらいの笑顔で見つめてきたので無意識に身体が震えた。

 一拍後、再び視線を前に戻したアッシュが「万が一の為に銃の所持は忘れずに」とメンバーに告げる。

「銃……」

 その単語に導かれるように脳裏にシュナイザーがリックを撃ち殺したあの場面が蘇り、咄嗟に配られた資料を持つ手に力が入ってしまった。

 紙がクシャっと嫌な音を立てる。

 先程よりも腕の痛みが増しているような気がした。

 ふうっと息を吐き出して精神を落ち着かせる。

 こんな事で動揺していてはとても任務はこなせない。

 頭から嫌な記憶を追い出すように偽のプロフィールを暗記しているとあっという間に時間がきてプロフィール資料だけが回収されてしまった。あまり集中出来ていなかった自覚があるので不安だったが、頭の中で復唱してみれば特に問題はないようで安心する。

「ではこれで会議は終了です。各自準備を進めておいてください。当然ですけど会場までは各自で行ってもらいますからルートの確認も忘れないでください」

 最後にそう言い残して今回の作戦リーダーであるアッシュがさっさと部屋を出て行く。今にもスキップしそうなほど軽い足取りに本当に楽しみなんだなと少し羨ましくなった。

 今の自分に出来るのか。そんな不安ばかりが押し寄せる。

 何度目かわからないため息を吐いた時、不意に机の上に黄色の可愛いビニールに包まれた飴が一粒コロンとふってきた。

 顔を上げれば熊のように大きく毛深いフィジーが「疲れただろ?やるよ」とさわやかな笑みを残して去っていく。

 一体何なんだとその後姿を眺めていると、また正面に人が立った気配がして視線を戻した。

 今度は例の工場制圧作戦で先陣をきったルノルドだった。

「これよかったら」

 そう言って差し出された一口サイズに包まれたチョコを受け取る。

 ニーナが受け取ったのを見ると「じゃあ」と片手を上げて去って行った。

 その後も作戦に参加するメンバーが代わるがわるニーナに何かしらのお菓子を差し出して会議室を出て行く。

 ニーナの机に置かれた資料がお菓子で見えなくなった頃、部屋に残っているのはキースとニーナの二人だけだった。

「これ、どういう事?私今日誕生日だっけ?」

 説明を求めるように隣の席に座っていたキースに問う。

するとニヤニヤしたキースが「俺からもあるぞ」と飴をお菓子の山に投げ込んだ。

「だから何なの?いきなりみんなで子ども扱い?」

 確かに部隊の中ではキースと共に最年少だが、今までそんな子供のような扱いを受けた事がなかったのでプライドを傷つけられたような気がしてむすっと頬を膨らませる。

 それを見たキースが「すねるな」と笑った。

「みんなお前の事気にかけてるんだよ。……例の教会襲撃事件で相当落ち込んでたの知ってるし、名誉挽回をかけた工場制圧作戦で腕撃ち抜かれるし。お前が元気ないと調子狂うのは俺だけじゃねぇって事だ」

「――――」

 お菓子の山に視線を戻す。

 よく見れば包装紙に何か書き込んである。

『フォローできなかった俺達も悪い』

『気にするな。お前らしくないぞ』

『元気だけが取り柄だろ』

『笑顔!』

 まだまだたくさんのメッセージがあったがそれ以上読めば泣いてしまいそうで、ニーナはお菓子の山を抱え込むようにして机に突っ伏した。

 その頭上から「持つべきものは仲間だよな」とキースがしみじみと呟くのが聞こえる。

 まったくその通りだと思った。






 スーツは銃が隠しやすくていいなとニーナはシャンパングラスに入れられたノンアルコールカクテルを飲みながら思った。

 ニーナはドレスで思い切り肩を露出している為銃は太ももに固定している。

 正直歩きにくくて仕方がない。

 元々銃は得意ではないし、どちらかと言えば肉弾戦が得意なので置いてくればよかったとさえ思う。

 だが万が一、そう考えたら多少動きにくくてもと我慢して装着してきてしまったのだ。

 エイジ伯爵の屋敷には問題なく潜入出来た。

 先程エイジ伯爵のためになるありがたいスピーチも終わり、今は歓談の時間となっている。あまりこういう場が得意ではないニーナは壁際で静かに会場を観察していたが、さすが諜報活動が趣味と言ってもいいアッシュはニコニコと人当たりのいい笑みで初対面の貴族たちに溶け込んでいた。

 他のメンバーもそれなりにうまく立ち回っているようだ。

 だが会場には肝心のシュナイザーの姿はない。

 これから現れるのかそれとも現れないのか。ニーナとしてはあれだけの騒ぎがあって正体がバレているという事もシュナイザー自身自覚しているはずなので、そう易々と姿を見せる事はないだろうと予想しているのだが、果たしてどうだろうか。

 主催のエイジ伯爵と彼によりそう夫人の姿を常に横目でとらえながら会場全体を見渡す。

 ここに来ていれば必ず彼らに挨拶に訪れるはずだ。このまま主催にも挨拶をせずパーティーを終わらせるつもりなのだろうか。それとも屋敷にすら来ていないのか。

 やはり屋敷の方も探る必要がある。ここには姿を現さなくとも別室で挨拶と忌避金を手渡して早々に去る可能性もあるのだ。

 アッシュも屋敷を探れるチャンスがあれば探ってもいいと言っていた。

 シュナイザー見つけられなくとも、彼に関連する何かが見つかる可能性もある。

 違法スレスレの行為ではあるが、バレなければいいのだ。

 誰も自分に注目していない事を確認するとニーナはひっそりと会場を抜け出した。

 時折メイドや執事が忙しく動き回っている姿を見つけたが、ニーナは気にせず堂々と屋敷を歩く。こういう場合こそこそした方が余計に怪しまれてしまう。

 実際ニーナに声をかけてきたメイドもいたが、トイレを探していて迷ったと答えれば丁寧に案内されただけで怪しんでいる様子はなかった。

 案内してくれたメイドが見えなくなってから再び屋敷の捜索を開始する。

 どこに何があるのかある程度事前に読んだ資料でわかってはいるが、とにかく広い。ひとつひとつ見て回るのではとても時間が足りなさそうだった。

「うーん、どうしようか」

 一旦立ち止まったニーナはしばらく思案してゲストルームと応接室に絞ることにした。

 頭の中で屋敷の構造図を開いてまずはどこへ向かうかを考える。

 会場に姿を見せなかったという事は人目を避けているという事。

 つまりここに現れるとしたらなるべく人目につかないようにしているはず。

「……確か離れがあったな」

 屋敷から渡り廊下でつながった離れの部屋。ゲストルームではないようだったが、離れは木々に囲まれたスペースにあるし、裏門から入れば人目につかずに部屋に入れる。

 シュナイザーが現れるとしたらそこだろうと見当をつけて、離れへと足を向けた。

 離れが近づくにつれ、人気がなくなっていく。

 5分ほど歩いてようやく離れにつながる渡り廊下が見えた。

 10メートル程先に離れの扉が見える。

 扉は開かれていたが、中が直接見えないように屈折した構造になっていて壁に掛けられた風景画が見えるだけだ。

 この先にシュナイザーがいるかもしれない。

 その時自分はどんな態度を取るのだろう。どんな気持ちになるのだろう。

 IPUとして彼を捕まえられるのだろうか。

 様々な不安が駆け巡る。

 気持ちを落ち着かせるように大きく息を吐き出してからニーナはゆっくりと足音を立てずに渡り廊下を歩き出した。

 緊張から呼吸が浅くなる。

 その呼吸を無駄に数えながら歩みを進めていると、風景画の前に人影が現れて息が止まった。

 足を止めたニーナの視線の先に、影の持ち主が姿を見せた。

ニーナを認識してわずかに目を見開いたその男は、しかしすぐに見慣れた笑みで「――やあ」と親し気に片手を上げる。

 肩に着くくらい長い髪を首の後ろで束ね、上質なスーツに身を包んだその姿は会場に招かれたどの貴族よりも貴族らしい。だがそこにいるのは間違いなくあの日リックを殺したローゼン・シュナイザーに間違いなかった。

 何事もなかったかのように振る舞うシュナイザーに自然とニーナの眉間にしわが寄る。

「……軽く挨拶を交わすような間柄じゃないですよ」

「そうなのかい?じゃあ友人だと思っていたのは僕だけだったのかな。寂しいな」

「やめてください」

 そんな事思ってもいないだろうにと苦々しい気持ちになる。

 今となってはあの日美術館で出会った事すら仕組まれたことのように思えてくる。

「……あなたは『霧』の幹部だった。それなら孤児院への多額の寄付も、銃の入手先もすべて納得がいく」

「だとしても証拠がないね?」

「教会から見つかった木箱から微量の火薬が見つかっています」

「木箱は使いまわしだからね。以前誰かが火薬を入れていたのかもしれない。僕が支援物資をそれで運び入れたからと言っても、証拠としては弱いな」

 ふふっと楽しそうにシュナイザーが笑う。

 ニーナもこの程度ではシュナイザーを逮捕できない事はわかっていた。

 だがまだ切れるカードはある。

「ではなぜリックを殺害したのですか?あの時『霧』との関係を指摘してもあなたは否定しなかった」

「僕がリックを殺害したという証拠は?」

「私が目の前で見ていたのに証拠がいりますか?」

「もちろん。君が思い込みでそう言っている可能性もあるからね」

「そんな――!」

 まさかここに来てあの日の事を否定してくるとは思わなかったので、思わず声を張り上げてしまった。

「他に僕がリックを殺害したところを見た人はいるのかな」

「それは……」

「信ぴょう性にかけるね。君ひとりの証言では裏付けとして物的証拠も必要になる」

「…………っ」

「さあ、どうしようか」

 頭を抱えてうずくまりたい思いに駆られながらも必死に思考を巡らせる。

 何か他にシュナイザーを追い詰められる証拠はないか。

「……以前お葬式で『霧』について尋ねた時、あなたは私に話せることはないと言った。知らない、ではなく、話せることはないと。それもあなたが『霧』のメンバーだから」

「ふーん。さすがの記憶力だね」

 もうチェックの状態だというのにまだシュナイザーは笑っている。

 だが否定はしない。

 ニーナは目の奥が熱くなるのを感じた。

 どうせなら違うとはっきり否定してくれたほうがいい。

 そうすればまだ彼が『霧』ではないと信じていられたのに。

「……あなたが支援活動に熱心だったのは隠れ蓑にする為だったんですか」

「それは違う」

 ここで初めてシュナイザーが強く否定する声を出した。

 俯いていた顔を上げると、思いの他強い意志がこもった瞳と目が合う。

「信じる信じないは君の自由だけどね」

「……どちらにせよあなたは私と一緒に来てもらいます」

「困ったな。それは出来ないよ。まだ僕たちの力を必要としている人たちがいるからね」

 見逃してくれないかなと気軽にカフェに誘うように穏やかに微笑むシュナイザー。

 一番恐れていたことを言われてしまった。

 ずっと気になっていた事。

「僕を捕まえたらスラム街の人たちはどうなる?こうして支援パーティーを開いてくれる人なんてほんの一握り。それに彼らはただ金をばらまくだけ。誰もあそこへ直接足を運ぼうとしない。それでは誰が彼らの現状を伝えるんだい?誰が本当に必要なものを伝えられる?結局僕たちが間を取り持つしかないんだよ。それとも君がやる?――無理だよね?君はIPUだ。仕事が終われば本部があるシヴァール王国へ帰る。無責任すぎないかな。それとも何かいい案が?」

「…………」

 ここ数日考えても考えてもいい案など浮かばなかった。その問題を今まさに突きつけられて手に汗がにじむ。

 やはり『霧』はこのまま野放しにしておく方がいいのではないか。

 脳裏によみがえるやせ細った子供たちの姿。

 答えられないでいるとあざ笑うようにシュナイザーがフッと鼻を鳴らした。

「僕を止めたいのならその美しいドレスの下に隠した銃を抜いたらいい」

「――――っ」

 ニーナにそれができないとわかりながら挑発している。

 それでもやはり銃を抜く気にはならなかった。

 まだ心が決まらない。

「……やっぱり君は、甘いね。君がIPUであるのなら躊躇するべきじゃない。君は一体どこに立っている?君の正義はあまりに揺れすぎている。早く心を決めないとどこにも居場所なんてなくなってしまうよ」


『お前の正義はどこにある?』


 ついこの前そう問いかけたヴァンフォートの姿が重なった。

 自分の居場所、自分の信じるものは昔からずっと変わらない。

 でも今いるこの場所で守れるものはあるのだろうか。

 救える人はいるのだろうか。

「――ローゼン?何をしている?」

 不意に聞こえたアルトボイスに反射的に顔を上げると、シュナイザーの後ろからひとりの男が姿を現すところだった。

 その様子が妙にゆっくりとニーナの目に映る。

 長い手足、シュナイザーと同じくらいの身長。そしてニーナと同じ銀の髪。

 見慣れたターコイズブルーの瞳がニーナの姿を捉えて、こぼれそうなほど大きく見開かれた。

「ハ、ミルトン……?」

 絞り出した声は震えていて、自分でも聞き取るのが難しい程小さかった。

 だが廊下の向こうの彼らはしっかりと聞き取ったようで、男と目で会話をしたシュナイザーが頷くと部屋の中へ入っていく。

 それを見届けた男が再びニーナをその目に映して、少し困ったように眉を下げた。

「久しぶりだね、ニーナ」

「――――っ」

 孤児や難民の支援活動に熱心でIPUのエースとして期待されていたが8年前突然姿をくらました兄ハミルトン。焦がれていた人物が今目の前にいる。

 記憶よりも背が伸びているが、その眼差しは変わっていない。

 どうして何も言わずにいなくなったのか。

 今までどうしていたのか。

 なぜ家に帰ってこなかったのか。

 会ったら聞きたい事がたくさんあったのに。

 言葉が渋滞してひとつも出てこない。

 それでも身体は勝手に走り出していて。

 慣れないハイヒールで転びそうになった時、ふわりとハミルトンの腕がニーナを受け止めた。

 そのまますがりつくように背中に手を回す。

 胸に頬を寄せればトクトクと脈打つ心臓の音が伝わってくる。

「生きてる……っ」

 もうこの世の人ではないのではないかと不安になった日は数えきれない。

 『鷹』の餌食になったかもしれないとおびえていた日々も。

 でも確かに心臓は動いている。

 その胸もそっと背中に回された手も、あたたかい。

「ニーナ……、泣かないで」

 そっとハミルトンが頭を撫でる。

 その時に初めて自分が泣いている事に気付いた。

 ハミルトンが困っている。そうわかっていてもどうしようもない。

 自分でもコントロールできない程胸がいっぱいで、涙がどんどん溢れてくるのだから。

 そんなニーナの気持ちをわかっているかのようにただハミルトンは頭を撫で続けている。

 数分間ハミルトンに縋りついて泣いていたニーナは、ようやくまともに息ができるようになって身体を離した。

「今までどこにいたの?どうして連絡をくれなかったの?私、ずっと探してたのに……っ」

 矢継ぎ早に質問を繰り返すニーナにハミルトンは目じりを下げた優しい微笑を浮かべて頷く。

「ニーナが俺を探してくれていたことは知っていた。連絡できなくてごめん」

「どうして……」

「ニーナ。本当は君にはもう二度と会わないつもりだったんだ」

「――――!!」

「よく聞いてくれ。俺は『霧』のリーダーだ」

「え――?」

 ハミルトンが、『霧』のリーダー?

 何度も頭の中をハミルトンの声が繰り返すが、ぼんやりとしたまま頭の中を抜けて行く。

 誰よりも正義感が強く、そのせいでIPUを抜けたと言われるほどのハミルトンが『霧』のリーダーだと言われてもまるで現実味がない。

 でもそれならなぜハミルトンはシュナイザーと一緒にここにいるのか。

 それにあの日、リックが殺された現場で聞こえた声はこの声ではなかったか。

 闇の中に翻った銀糸はこの髪ではなかったか。

 徐々に信じたくないハミルトンの姿がニーナの中で現実味を増していく。

 唇が、震えた。

「俺がこの街に初めてやってきた時、スラムはもっとひどい状態だった。子供も大人もゴミを漁っているような環境。そこにキャンプから溢れた難民が流れ込んできて、縄張り争いがそこかしこで起こっていたんだ。俺はなんとか彼らを救おうと全財産を注いで支援したけれど、すぐに底をついてしまった。両親にも支援を申し出たけれど、あの人たちはそんな事よりも養成学校を無事に卒業する事が重要だと言った……」

 その当時の記憶が蘇っているのか、ハミルトンの眉間に深いしわが寄った。

「IPUに入ればもっと多くの人を救える。素晴らしい仕事だと彼らは言った。俺もそう思ったから死ぬほど訓練して養成学校を次席で卒業した。無事IPUに配属され、これから素晴らしい日々が始まると信じていた。だがIPUは足元にうずくまる今まさに支援が必要な人たちを助けられるようなそんな正義の組織じゃなかった……」

「…………」

 それはニーナも感じていた事。

 IPUは国際組織は捕まえられても国内犯罪に留まっている組織は捕まえられないし、国の政策によって苦しんでいる人々を救う事はできない。

「それで、国を飛び出したの?」

「……ああ」

「支援の資金を得るために武器の売買を――?」

「ああ」

「そんな――」

 だがこれでシュナイザーが熱心に支援活動をしていたことも、『霧』の活動で得たと思われる資金がスラムの人たちに流れていた理由も納得がいった。

 恐らく『霧』はハミルトンの信念の元に集った人たちで結成されている。

 ニーナは自身の中の正義がグラグラと音を立てて揺らぎ始めるのを感じた。

 違法な武器売買によって国際社会の混乱を長引かせている『霧』は悪だ。

 だがその資金で国際社会が見捨てた人たちを助けている『霧』を悪だと言い切る事はできない。

 あのやせ細った子供たちが生きていられるのも、もしかしたら『霧』の資金があったからなのかもしれない。あの子たちが家と呼べないまでもきちんと屋根のある場所で休めているのも『霧』のおかげなのかもしれない。

 少なくとも地図にも載っていない教会に住んでいたあの子供たちを救っていたのはシュナイザーたちだ。

 それどころか政府が見捨てた人たちを『鷹』の脅威から守っていた。

 ニーナが守れなかった命を彼らは守っていたのだ。

「ニーナ。もう俺の事は忘れるんだ。そしてできれば俺の事を追わないでほしい。まだ俺たちの力を必要としている人たちがいるから」

「そ、れは……。でも私が追うのをやめたって他の誰かが追うだけだよ。ねぇ、何か他に方法はないの?まっとうな方法で彼らを助けられない?私だってハミルトンを捕まえたくない!」

「……ごめん。俺たちはずっとそうやってきたから、今さら方向転換はできない」

「そんな……」

「それでも君とは戦いたくない」

「私、どうしたらいい……?」

 もうどちらに進めばいいのかもわからない。

 縋りついて問いかけるもハミルトンは首を振るだけだ。

「――俺と戦うか、IPUをやめるかしかない」

「そんな!私嫌だよ!どっちも嫌だ!」

「ニーナ」

「お願いハミルトン!『霧』は解散させて!それで一緒に考えようよ!何か他に方法があるはずだよ!」

「ニーナ。スラム住む人たちを救う事は本来政府が国費を投入してやるべきことだ。それを自分たちの資金を投入してやらなければいけない大変さがわかってない。どれだけの金が必要なのかも。他の方法を考えたところで、まっとうなやり方では彼らを助けられないと絶望するだけだ」

「どれだけ大変かとか、どれだけお金が必要かとかなんとなくだけどわかるよ。だから一緒に考えようって――!」

「俺たちが何も考えないで犯罪に手を染めたと思うのか!」

「!!」

「IPUに入ることを夢見ていた俺が望んで手を染めたと!?それしか方法がなかったんだ……。とてもまっとうなやり方では助けられなかった。今だって救いたいのに救えない命が山ほどあるのに……」

「ハミルトン……」

「…………っ」

 突然ハミルトンがニーナを抱き寄せた。

 息も詰まりそうなほど強く抱きしめられて戸惑っていると、肩にハミルトンの額が押し付けられる。

 肩のあたりがあたたかいもので濡れた。

「――泣いてるの?」

「…………ごめん。少しだけ、このままで」

「うん……」

 ニーナもハミルトンの肩に顔をうずめる。

 人一倍正義感の強かったハミルトンがどんな気持ちで犯罪に手を染めたか考えもしなかった。

 自分の事ばかり考えていた。

 ハミルトンの気持ちを知って、それでもどこかで知らなければよかったと思う自分がいる。

 知ったところで迷いが大きくなっただけだ。

「……私たちはもう、一緒にいられない?」

「……そうだね。君がIPUであるかぎり」

「……ハミルトンが『霧』を辞める選択肢はないんだ」

「ああ。それはない」

「…………」

 よく尖れたナイフのようにハミルトンの言葉が心に突き刺さった。

 今すぐにIPUを抜ける決意なんてできない。

 でも抜けなければハミルトンとは一緒にいられない。

 ハミルトンの背中に回した手に力がこもる。

 ハミルトンも同じだけニーナを抱きしめる力を強めた気がした。

 時間が欲しい。どちらかを捨てる覚悟を決める時間が。

 だがどれだけ時間があっても答えを出せる自信はなかった。

「――もういかないと。君がいない事を不審に思って他のIPUがやってくる」

 不意にハミルトンの温もりが離れた。

 スッと身体を冷たい風が撫でていく。

 ニーナは拒絶するように首を振ったが、ハミルトンは悲し気に微笑むだけだ。

 その目にもう涙はない。

「さよならニーナ。できればもう出会わないといいな。君を見てると心が揺れる。とっくの昔に捨てたものがまだ手に入るんじゃないかと勘違いしてしまう」

「ハミルトン……」

「もう戻れないんだ。……さよならニーナ。愛してるよ」

 額に触れるだけのキスを落として、ハミルトンが去っていく。

 ニーナはただその後姿を眺めている事しかできなかった。

 しがみついて行かないでと駄々をこねたところでこの手を振り払われるだけだとしっているから。

 もう戻れないと言ったあの強い瞳の色がいつまでも脳裏から離れなかった。

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