「それで、現場を見て何が分かったの?」


 私は次々運ばれてくるディナーを前に、枢野先生に尋ねた。

 時刻は夜の六時半。私と枢野先生、それからホームズさんはホテルへと移動し、そこのレストランで食事をとっていた。よくイギリスの料理は不味いという話を聞くけれど、それは大きな誤解である。確かに日本に比べれば手軽にかつ美味しいものはない。牛丼のチェーン店もないし、ラーメン屋もない。フィッシュアンドチップスはどう擁護しても美味しくないし、それどころかコンビニなんかで売られている食べ物すらも不味いくらいだ。

 しかしそれは安価なものに限れば、の話である。良い質のものにはそれなりの値段が伴うのがこの国――と言うより、世界の常識だ。つまり、それ相応のお金を払えばたとえイギリスでもかなり満足のいく食事をとることが可能なのだ。

 そういうわけで今私たちの前にはとても美味かつ高価だと予想される料理が並んでいるのだが、しかし今の私にそんなものを気にしている余裕はなかった。


「まあまあ、折角の食事ですからね、食べ終わってからゆっくりお話ししますよ」


 と、先生はこっちの気も知らないで呑気に言う。

 私一人では説得できないと思い、私はホームズさんの方に視線を向ける。しかし彼女も彼女で食事に夢中なようで、私の視線にすら気付いていなかった。まったく、繊細なのか図太いのかよく分からない人だ。あるいは刑事という職種が彼女をそうしているのかもしれないし、もしそうならきっと推理作家であるところの枢野先生も同じようなものなのだろう。


「それに、イギリスでは仕事の話をディナーの場に持ち込むのはあまり良いとされていませんからね」

「先生のお仕事は小説家で、探偵ではないんじゃないの?」

「まあ、双方同じようなものですよ。僕にとってはね」


 先生はそう言ったかと思うと、また食事に戻っていった。仕方がないので、私も食事に集中することにした。




「――さて」


 食事も一通り終え、時刻は午後の八時を回ろうとしている。

 私たちとフレデリックのやり取りを食後のコーヒーを飲みながら聞いていた先生は、今度こそ事件の真相を話してくれるかと思いきや、そんなことはなかった。彼は唐突に見つかった被害者――フレデリック・アンダーソンに会いたいと言い出したのだ。


「面会事件はとっくに終わっているのよ?」

「何とかなりませんかねぇ」


 ちらり、と彼はホームズさんの方を見る。視線を向けられた彼女は少し考えると、


「分かりました、ロンドン警視庁スコットランドヤードからの正式な協力要請ということで病院に頼んでみましょう。でも、フレデリックさんがまだ起きているとは限りませんよ?」

「その辺はご心配なく。きっと彼は寝るに寝られない状況でしょうから」


 先生はそう言って、まるでイタズラを楽しむ子供のようにニッコリと笑みを浮かべる。




 病院に着いた私たちであったが、またもや先生がわがままを言い出した。わがままと言っても今度のは簡単なことで、私たち二人に先にフレデリックの病室に行くように、ということだった。そして先生が来るのを扉の前で待機するように、と。

 私たちは取りあえず彼の言う通りにすることにした。けれど扉の前でいつまでも待ちぼうけをくらうのは御免だぞ……と思っていると、しかし存外早く先生の方の用件は済んだようで、ものの五分ほどでフレデリックの病室前にやって来た。


「先生、何をしてきたの?」

「まあ、ちょっとした細工を……それはそうと波戸さん、貴女にまた一つお願いしたいことがあるのですが」

「またぁ? ……まあ、良いけど。ここまで来たら毒を食らわば皿までってやつね」

「流石は編集者ですね、博識です」

「ま、作家のお願いを聞くのも編集の仕事だからね。でもおだてても何も出ないわよ……それで、今度は何をすれば良いの?」

「僕が合図したら、僕の携帯に電話をかけて欲しいんです」

「……それだけ?」

「ええ、それだけで、万事上手くいってくれると思いますよ」

「はあ?」


 いつものことながら、この人の言うことは意味が分からない……。

 どうして私が電話をかけるだけで事件が解決するというのだろう。

 しかしここで理由を聞いたところでこれまたいつものことながら、先生は答えてくれないだろう。煙に巻かれて、馬鹿にされるのが落ちだ。

 とにかく私は言われた通り、いつでも先生に電話をかけられるように自分の携帯を用意することにした。

 私の用意ができるのを見計らって先生は扉をノックし、そしてそれを開けた。


「夜分遅くに失礼します」


 そう言って病室に入っていく先生の後を、私やホームズさんも追いかける。

 フレデリックの病室は本来ならば二人の病人が入れるようになっているのだが、現状彼一人だけが使っている。そして彼のベッドの上では常夜灯が物寂しげに光っていた。来客の存在に気付いた彼が読んでいた雑誌から顔を上げる。


「昼間の刑事さんたちじゃないですか」


 言いながら、彼は明かりを常夜灯から通常の照明へと切り替える。


「どうかしたんですか?」

「実は……」


 と、ホームズさんが枢野先生にチラリと視線を向ける。先生は一歩前に出ると、こう切り出した。


「初めましてミスター・アンダーソン。僕の名前は枢野猫といいます。しがない推理作家ですが、今回の事件で警察に知恵を貸しています。どうぞよろしく」


 フレデリックはキョトンとしている。当然だ。こんな時間に押しかけていきなり自分は推理作家だと言われては、誰だって困惑するだろう。

 しかし先生はお構いなしに続ける。


「巨大な犬が一家を襲う――現代では少ない実に興味を惹かれる事件です。アンダーソンさん、昼間にもお話されたと思いますが、貴方が見たという犬は、一体どんなものだったのでしょう」

「それは……だから、大きくて、黒いやつだよ」

「なるほど」

「ライオンやトラなんかよりも大きかった」

「そうでしょう。ところでその犬に、は生えていましたか?」

「は……?」

「手ですよ、手」


 先生が両手を前に出し、開いたり閉じたりする。


「手って、人間みたいな……?」

「ええ」

「そんなものはないに決まっているだろう。だって、相手は犬だぞ、犬!」

「そうですか……」


 先生は窓際まで歩いて行くと、すっかり夜の闇に覆われた外へと視線を向ける。


「不思議ですねぇ」

「何がだよ」

「ミスター・アンダーソン。そこにいる」私たちに視線を向け、「彼女たちから伝え聞いたところによると、犬は貴方がた一家を襲い、食料にしたらしいですね」


 フレデリックさんは、昼と同じように青い顔になりながら、


「ああ、そうだよ。少なくとも、僕はあの化物に食われそうになった」

「良いですか、もし、ですよ。もしその犬が貴方たち一家を食べるつもりだったらですよ、どうやってそれを自分の住処に運んだのでしょう」

「それは……咥えていったんじゃないか」

「なるほど……貴方の場合はどうでしたか」

「僕の場合も、多分そうだったんじゃないかな。意識を失っていたから、よく分からないが」

「なるほどなるほど……」


 先生は再度視線を窓の外へと向ける。まるで何かを考えながら話しているように。

 その様子を見て、私はようやく今ここで繰り広げられているやり取りはただの聞き込みなどではなく、“探偵”と“犯人”の対決なのだと気が付いた。

 やはり一家を消した犯人はフレデリックなのか……。

 しかし私は昼にホームズさんとしたやり取りを思い出して、多々ある矛盾点を、この推理作家はどのように解決していくのか気になった。

 私は先生の言葉に再度耳を傾ける。


「いや、どうもすみませんね、ミスター・アンダーソン。職業柄、細かいことが気になって仕方がないんですよ。それはそうと、お体の方はどうですか? 怪我などしていませんか?」

「お陰様で、特に大きな怪我はないよ」

「それは良かった」


 そう言うと彼は振り向き、本当に安心しているような表情を浮かべた。そしてそのままの流れで私の隣に立つ。


「後は貴方を襲った犬が見つかれば万事解決なんですが……どうですか、何か気付いたことなどありませんか?」

「気付いたことって言われても……昼間と、それからさっき話したことで全部だよ」

「ええと、確か主に犬の見た目に関してでしたね。大きくて黒い体毛の犬でしたか……他には何かありませんか?」

「何かって言われても……」

「何でも良いんですよ。臭いでも鳴き声でも、何でもね」

「そうだな……」


 アンダーソンが記憶を辿るように視線を泳がせる。

 そして、その時だった。

 私の横に立つ枢野先生が、肘で軽く私を突いた。

 ――合図だ!

 私は慌てて(それでいてフレデリックには気付かれないようにあくまで自然な動作で)ポケットに手を伸ばし、先生の携帯に電話をかけた。

 すると次の瞬間――窓の外からけたたましいほどの犬の鳴き声が飛び込んできた。

 唸り声、それから遠吠え、形容しがたいものもあった。

 これにはフレデリックも驚いただろう。もしかしたら心的外傷トラウマを刺激されてパニックになるかもしれない。

 しかし、私はその次の瞬間、突如聞こえてきた犬の鳴き声などよりもはるかに信じられない光景を目にすることになった。


「そうだなぁ……臭いは、やっぱり獣臭かったよ。それから鳴き声は、低くて、大型犬のそれをもっと迫力が増した感じだった」


 と、まるで何事もなかったかのように、フレデリックが答えたのだ。

 私は思わずホームズさんと顔を見合わせていた。


「あの、フレデリックさん」

「はい?」


 彼がこちらを向く。

 至って普通な顔色だ。特に驚いている様子も、ない。

 これはどういうことだろう、と脇にいる枢野先生に目を向けた。彼は改まって咳払いを挟むと、


「波戸さん、もう一度お願いします」


 と、言った。私は頷き、再度先生の携帯に電話をかける。

 するとさっきと同じように、窓の外から重々しい犬の鳴き声が聞こえてきた。やはりあれは先生が仕組んだことだったのか。


「ええ、ネットで拾ってきた適当な犬の鳴き声を着信音に設定していたんです。波戸さん、どうもありがとう」


 私は電話を切る。


「さて、ミスター・アンダーソン。貴方を襲ったのは“犬”でしたね。きっとその鳴き声は今流したようなものだったのでしょう。では、貴方はどうして何の反応も示さないのです?」

「そ、それは……気付かなかったんだよ」

「ええ、そうでしょう! そうなるように、貴方が意識を逸らして過去を回想している隙を狙ったのですから。ですがね、ミスター。普通、貴方の言うような事件に巻き込まれたら、否が応でも反応してしまうものですよ」

「……」

「さらに言いますとね、」


 先生が一歩前に出る。


「僕には現場を見た時から――いえ、貴方が生きていたと話を聞いた時から、貴方こそが、アンダーソン家の四人を殺害した犯人だと考えていました」

「なっ、何を根拠にそんなことを……! 僕は被害者なんだぞ!」

「ホームズさん」


 フレデリックの言葉なんて気にも留めずに、彼はホームズさんの方を振り向く。


「未解決事件に最も多く見られる条件って何だと思いますか?」

「え? ええと、突然言われましても……そうですね、事故に見せかけて犯行が行われた場合、通り魔的な犯行の場合、後は……“被害者の遺体が見つからなかった場合”でしょうか」

「その通り。ですから、」


 再びフレデリックの方を見て、


「貴方は遺体が見つからないようにした。そしてその為に架空の犬の存在が必要だったんです。魔犬の存在がね」

「ちょっと待ってよ、先生」


 私は口を挟む。


「仮に犬が嘘だったとして、でも、この犯行をするにはフレデリックさんにとってリスクが大きすぎるって話したじゃない」


 餓死するリスクを背負ってわざわざ一カ月もの間身を隠す理由がない。


「そうですね。ですが、もし、そのリスクがなかったとしたら?」

「どういうこと?」

「つまりですね、食料などが存在していたらどうなのかという話です。一カ月の失踪という条件が残るだけですから、僕にはリスクではなくリターンだけが残ると思いますよ」


 確かに……フレデリックが一カ月もの間姿を消していたのは彼の姿を見る限り事実だろう。それならば犬に連れ去られたという話により一層説得力が得られる。


「つまり枢野先生は、計画的な犯行だったというんですか?」


 と、ホームズさん。しかし枢野先生は首を横に振り、


「いいえ、おそらく突発的な犯行だったはずです」

「どうしてです?」

「計画的な犯行だったとして、犬の仕業に見せかけるならもっと細かい偽装工作をしていたはずです。ですが今回の場合――発見された車の周辺に関してだけでもその工作はずさんと言わざるを得ません」

「と、言いますと?」

「確かに足跡は精巧に残されていました。ですが、

「ないって? 何が?」

「あるべき痕跡、とでも言いましょうか。例の魔犬には黒い体毛があったと言います。ですが現場には一本たりとも残されていない!」

「風で飛ばされたのかも」

「ええ、その可能性はあります。では糞は? あるいはフレデリックさん以外の家族の血痕は? 話によれば父親のゲイリー氏はその場で殺害されたそうですが、現場にはそんな痕跡何一つ残されていませんでした。まさか、犬が自分で証拠を隠滅したとでも?」


 捲し立てるように話す先生。しかし当のフレデリックは何も答えない。

 しかし、そうか……だから先生は初め、フレデリックさんに「犬に手は生えていたか」なんて質問したのか。手でもなければ、犬が証拠を隠滅することはできないし、殺害した家族を一度に住処に運ぶこともできない。


「どうですか、フレデリックさん。僕が話せば話すほど、貴方が犯人という真実しか浮かんでこないと思いますが」

「……が、ない」

「はい?」

「証拠がない……証拠がないじゃないか! 確かに君の言葉では犬の存在が嘘かもしれない。だがそれは犬の存在を否定しただけであって、僕が殺人を犯したという証拠じゃあない!」

「御説ごもっとも」


 フレデリックの言葉に、私も付け加える。


「それに、さっき言っていたリスクがないってことも、説明されてないわ」

「ああ、そうでしたそうでした。どうも言葉を省略するのが僕の悪い癖でして……しかしそのリスクの話と、この証拠の話は繋がっているんですよ」


 そう言うと、先生は再び窓の外に視線を投げかける。


「先生、さっきからどうしたの? 窓の外ばかり見て」

「いえ……あ、来ましたね」


 そう言ったかと思うと、外から車のエンジン音が聞こえてきた。車はどうやら複数台いるようだ。


「何です?」

「証拠ですよ。噂をすれば、というやつですね」


 それから間もなくして何人かの警官が病室に押しかけて来た。驚く私たちに向けてか、あるいは何が起こっているのかまるで理解していないフレデリックのためか、先生は謎解きを続けた。


「リスクは食料がないこと。そしてやるべきことは家族を消すことです。この二つの要素から浮かび上がる真実は一つです――ミスター・フレデリックは、家族を殺害し、そしてんですよ」

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