対話~追われる~ あだ名付けばあさんシリーズ

 ここに定期的に通い始めて長い彼女はその日、表情に不安が見て取れた。椅子に腰かけてもそのままなので、私は問いかけてみた。そういう仕事を、私はしている。

「何かありましたか?」

「あの……何と言えばいいか……」

「思った事を話してみて下さい。ゆっくりで大丈夫ですから」

「はい。あの、うつ病になったからと言って、誰かを好きになる気持ちまで薄れたりするものでしょうか?」

 私はこれまでの診察経験で学んだ範囲でこう答えてみた。

「うつ病というのは、心身に途方もないストレスをはらみ、解消出来なくなってしまう一面を持つ病気です。なので、状況的に色々な事がよく分からなくなってしまう、という事はあります。認知症的なものに似ており、物忘れがひどくなってしまい、それで人間関係がどうだったかなどを思い出せなくなる場合です。または、現実感を感じられなくなってしまう。

 ですが、症状が落ち着いて来るまでにも個人差がありますから、あなたが誰かを突然好きになってしまう事は、別におかしくはありませんね」

「そうですか……」

 彼女の硬かった表情が、少し穏やかになった。

 実を言うと、私はこの女性がとても好みなので、彼女がうつ病であるという現実がとても辛いのだ。

 しかし、私はさりげなさを装いつつ、訊ねてみた。

「素敵な方が見つかりましたか?」

「その、そこはよく分からないんですけれど……いいえ、気になる方はいます」

 ああ、無情。

 おのれ、幸せな男はみんな理不尽さの中で朽ち果てればいい。

「ですが、最近、変な夢を連続して見るんです」

「変な夢、ですか」

「はい。夢の中で、その男の人が、闇の中を何かから逃げているんです。私はそれを見ているんですが、近付けません。

 彼を追いかけているのは、大きな女の人の顔でした。顔だけが追って来るんです。そして、顎が外れているんじゃないかと思うくらいに口を開けると、長い舌を出して彼を絡め取るんです」

「ふむ……」

「何故か唾液は付いてませんでした。ですが、捉えては離すのを繰り返すんです。その度に、彼が明らかに消耗しているのが分かります。息を切らせてしゃがみ込んでしまったり……それで、

『もうやめて!』

と叫ぶ所で、目が覚めるんです」

「目が覚めた時は、どんな気分ですか?」

「基本的にはクタクタで……それだけじゃないんです」

「と言いますと?」

「その気になる男性は時折見かける、私のよく通る道にいる方なんですけれど、その夢を見る様になってから、どんどん痩せて行くんです。顔色も悪く、最近はマスクをする様になりました」

「彼にも何かが起きているんでしょうか」

「分かりません。ですけれど、私、彼とは話をした事もまだありません。なので、突然伺う訳にもいかなくて……正直、辛いです」

 これまでにはなかったケースかも知れない。私は努めて慎重に言った。

頓服とんぷく(不安抑制)のお薬を、少し強いものにしましょうか?」

「お願い出来ますか?」

「いいですよ。それで少し、様子を見ましょう。

 何かまた変わった事があったら、すぐにお電話を下さい。昼間なら出られます」

 その後、二言三言、言葉を交わし、今回の彼女の診察は終わった。




 数日後、彼女は住まいの近隣の、その辺りで一番高い建物の屋上へ忍び込み、飛び降りて死んだ。警察から、彼女のかかりつけの医師という事で事情聴取を受けたが、話の途中で聞いた近隣住民の証言によれば、彼女は飛び降りる直前にも

『彼を追い詰めるのはもうやめてよ!』

と叫んだのだという。

 私は刑事に、診察の時にも最近、彼女が悩んでいた様子だった事や、見たという夢の内容についてを打ち明けた。

 私にはアリバイがあったので、

『また何かご質問をさせて頂く事があるかもしれませんが』

と、お決まりの挨拶をされ、帰る事が出来た。




 それから何日後だろうか。私も妙な夢を見る様になった。

 昔、近所に年上の少年がいた。彼は当時ちびっ子だった私達をまとめるリーダー格だった。かと言って威張ったりしない、憧れのお兄さん、と言った所か。

 その彼が、闇の中を、巨大な女の顔から逃れようと、必死に走っていた。

 私はそこへ近づく事は出来ずにいた。やがて彼は女の舌に囚われては解放されるのを繰り返し、疲弊していった。

「おにいたんをいじめるのはもうやめてくれ!」

と叫んだ所で目が覚めた。全身に汗をかいていた。

……もしや、飛び降りを選んだ彼女を悩ませていたのも、この男なのだろうか。

 これから断続的に夢の中で、私を苦しめるのだろうか。

 そして私を追い詰め、やがては彼女の様に―


 私は実家の祖母に電話をかけ、その事を話した。

 電話の向こうからゲームの音が聞こえて来る。多分、最新機種で遊んでいるのだろう。最近は珍しくない、PCや携帯などにも詳しい老人なのだ。ボケ防止にはいいだろうと思う。

 さておき、祖母は一通り私の話を聞いて、こう言った。

「まーんずまんず、そりゃあ『あにむしり』だもい。おめえの患者さんや、おめえに昔、関係していた誰かが、別の誰かさひとめにしてラブCHU☆CHUしてえっちゅう気持ちが、今も残っていると、そういう風になって、おめぇ達にとっつくのよ。で、そういう悪さするっちゅうこっちゃなあ。

 それぬすても、弱ってる人を死なせるたぁ……患者さんはあわれなこっちゃもい」

「わっす、どすればいいのさ、ばさま!」

 私もつい地元訛りで訊ねる。

「今回出て来たのは女の顔だって言っだっけ?」

「ですもい」

「で、追っかけられてったのは近所にいだ、あの〇〇くんだったと」

「んだのす」(そうなんです)

「んだば(ならば)、今度そういう事が起こったらばさ、

『兄むしりのオールドミス、そいつのハニーはわっしだんべ』

と、繰り返し呟いてやればいいっさ。言葉に出さねえでも、心の中で唱えればいいっさ」

「わっすが今度はその女さ、追っかけられるんでねすかもい?」

「ホモが嫌いなおなごはいねえ。おれも地元のだげだげど、イベントで本出してるもい」

 衝撃。祖母の口からそんな話は聞きたくなかった。

「だげれども、三次元の近場でやられると肝を潰すおなごも少なくねえって事さ。だがら、大丈夫。

 とりま、そうすっと、相手は気持ち悪がって、おめぇの夢にも出なぐなるもい」

「と、とりま……いんや、あんがとう、ばさま! おら、試してみっど!!」


 私は祖母に言われた通り、その方法を試してみた。

 夢の中、闇の向こうから、お兄さんが走って来る。その後ろには巨大な女の顔。大きくさえなければ、なかなか整った顔立ちだと分かった。そしてお兄さんは今日も追われている様子だ。

 私は湧き上がる抵抗を押し殺し、祖母から聞いた通りの言葉を呟いてみた。


「あ、兄むしりのオールドミス、そいつのハニーはわっしだんべ」


 女の顔は嬉々としてお兄さんを追っていたが、それを聞いた途端、ぎょっとした表情でこちらを見た。……なるほど、言葉の通りに受け取ったのならあの表情も頷ける。

 お兄さんはその間に見る見る走って行く。よし、これがチャンスかもしれない。

 私はさっきの言葉を繰り返した。それも大声で。

「兄むしりのオールドミス、そいつのハニーはわっしだんべ! 兄むしりのオールドミス、そいつのハニーはわっしだんべ!!」

 懸命に叫びながら、奴の様子をちらりと見ると、酷く顔をしかめている。よほどショックだったのかもしれない。

 それを見ていると、私はどこか憐れみを覚えた。

 もしかしたら、あの大きな顔の女も、ただ純粋にお兄さんが好きで、それがどう間違ったのか、こういうアプローチ方法になってしまい、困っている可能性がないとも言い切れない。

 私は躊躇した。その間に、女の顔は少しずつ聞いた内容をスルーする方向に至っているのか、冷静さを取り戻しつつあった。

 まずい!


 そこに、祖母の声が聞こえた。

「その女が遠回しにおめぇの大好きな患者さん、死なせたとも言えるんだもい!」


……そうであった。

 慈悲はない。大首、殺すべし。

 即座に大首スレイヤーとして覚醒した私は、先程の言葉を、今度は演歌風にこぶしを利かせ、闇に向かって届けた。

「兄むしりのおおおぉォ~、オールドぉミィスうううぅゥ、そいつのぉ、ハニーはァ、わっしいいい、だんべぇえええ!♪」

 今度こそ大首は悲鳴を上げた。よし、大いに苦しめ。

 私は半分覚醒し、自分が眠りながら大声を上げている事に気付きながらも、彼女の仇に向けて、喉を震わせた。

 ほとんど目が覚める、という所まで繰り返している内に、果たして奴は消え、出て来る事はなくなった。


 しばらくして、同級生が亡くなったという知らせが入った。

 学生時代、私をとにかく同性の誰かとカップリングにして楽しんでいた女子で、見てくれはなかなかに美人で、

『その趣味さえなければ、誰かと結婚していたかもしれない』

という人物だった。娯楽の少ない田舎では、時として驚く様な趣味の持ち主が生まれるものだが、彼女は他を寄せ付けぬ、所謂一人ヘヴン状態で今に至っていたのだという。

 聞いた話では、実家住まいだった彼女は、ある日の昼間、家族と囲んでいた食卓で、突然

『今まで訳わがんねえカップリングにしてすまながっだじゃ!』

と叫ぶなり、倒れてこん睡状態のまま、息を引き取ったのだという。

 私の方に出て来た『兄むしり』はもしかしたら、こいつだったのかもしれない。


「あいつ、未だに我々をカップリングにして楽しんでいたのか……もしかしたら亡くなった彼女と私の新しいラブストーリーが始まった可能性もあったかもしれないのに、全くけしからん!」

 私は自分の部屋で、誰に言うともなく、そう呟くと、コップ酒をあおったのだった。

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