第13話 これでいいのだ

 どうやら、ソファで眠っていたらしい。目覚めると、毛布がかけられていた。

「起きたか。そんなところで寝てたら風邪ひくぞ」

 築山がわたしの顔を覗き込む。もしかして築山が毛布をかけたのだろうか。何故こんなにも他人に優しく振る舞えるのだろうか。わたしには到底理解ができない。

 わたしは、毛布の礼は言わずに洗面所で顔を洗いにいく。備え付けの歯ブラシで歯を磨いて、口を濯ぐ。鏡を見ると、瞼が腫れていた。自分でも、あんなにも感傷的になるとは思いもよらなかった。髪を梳かしながら己の感情の不可解さについて考えを巡らせていると、築山が洗面所に来た。

「おはよう。築山くん」

 そう声をかけてすれ違おうとすると、築山はわたしの肩に触れた。

 一瞬なんのつもりだろうと逡巡しかけたが、すぐに理解できた。なるほど。性交渉を経て、こういった簡略的な接触の合意が取れたものだと思っているのか。獲物がわざわざ射られに来ているのを無碍にするわけにもいかないだろう。

 わたしは少しだけ背伸びをして、築山の頰にキスをする。

「おはよう、と言ったのよ。挨拶は返すのが礼儀よ」

「あ、ああ。おはよう」

 築山はわたしの肩から手を離し、棒立ちしている、与し易い男だ。わたしはそのまま洗面所を出て、チェックアウトの準備をする。バスローブを脱いで、あらかじめ準備していた下着を履き替える。スカートを穿いて、ソックスに脚を通す。ブラウスのボタンをつけていき、上からカーディガンを羽織る。バッグから時計を取り出して、時間を確認する。チェックアウトは九時。あと三十分くらいか。そのまま右手に時計を巻いて、ソファに座る。

 遅れて、築山がやってくる。「もうそんな時間か」と間の抜けた声で独り言ちて、準備に取り掛かる。築山は脱ぎ捨てていたジーンズとTシャツに袖を通し、ベッドに腰をかける。ふう、と一息ついていたが、なにがそんなに疲れる身支度だったのだろうか。

 わたしは、昨日購入した買い物袋の中身を確認する。

。なにに使うんだ」築山はベッドから声をかける。

「転ばぬ先の杖よ。それよりも築山くん。彼女がいる身分で、わたしとめでたく一線を越えてしまったけれど、これからどうするの」

 痛いところを突かれたらしく、築山は急に押し黙る。どうするの、とはわたしの中では優しい問いかけのつもりだったのだが。わたしが聞きたいのは由奈と別れるのか否か、ということだった。それを単刀直入に尋ねるのも築山には酷のような気がして、あえて彼の自由意志を尊重するよう婉曲表現に留めておいた。とはいえ、そこから導き出されるのはやはり別れるか否かの二択になるわけで、将棋でいうのような状態であった。悪い癖だ。詰み筋はすでに見つけているのに、長引く手を指してしまう。

「別れるよ。こんなことをして付き合い続けるのは、ダメだよな」

 築山は、一分ほど長考した末に、重い口を開いた。

 そう。それでこそ築山勇斗だ。由奈という彼女がいながらも、なし崩しにわたしを抱いた。わたしへの義理立てと由奈への不義理の贖罪を両立するには、それしかないだろう。わたしを放っておいて、由奈と付き合い続ける道もあるが、それを選ぶにはおまえは優しすぎる。日の元を歩くを得ず、日陰に生きるを得ず。おまえはそうやって、夕闇を怯えながら過ごすのがお似合いだ。

「できれば、無用なトラブルは避けたいから、わたしのことは伏せていてほしいのだけれど。昨日買ったを、箱から出すような事態は望んでいないわ」

 築山は、また黙る。目を閉じて、なにか考えているようだった。そしてしばらく経ってから「わかった」と、小さく呟いた。

「決まりね。さあ、チェックアウトの時間よ。カフェでも行きましょうか」

 わたしはそう言ってソファから立ち上がる。築山の腕を掴み、出口まで引っ張って行く。

 ここまでは万事、思い通りに動いている。

 わたしは気落ちした築山の前では努めて、明るく振る舞った。心の底から湧き上がる憫笑びんしょうを、上書きするために。

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