5-12 くず星をぎっしりと


**********



 シェンは話が下手くそだった。

 いつも嘘八百をベラベラしゃべるくせに、本当のことはろくに言えないらしい。

 死にかけのセミみたいなガラガラ声で、つまりっつまりのアルバート語を捻り出す。出てきた言葉を頑張って繋ぎ合わせても、あまりちゃんとした意味はわからなかった。

 それでもなんとか、推測を交えながら理解できたシェンの話は、こんなふうだった。



 シェンが生まれたのは、イクノ神国とエン国を隔てる山脈の麓。元々、その土地に駐屯していたエン国皇帝の兵士たちが住み着いて、そのまま村になった場所だという。

 村の北側には森に覆われた山脈がそびえていて、それを越えたむこうは神国だった。だから、神国が山脈を越えて攻めてくると、男たちは真っ先に兵として動かねばならない。国境の村はみんな、そんな感じだそうだ。

 その村で、シェンはきょうだい達と、両親とで暮らしていた。シェンは六人きょうだいの三番目。上の二人は兄で、下には弟が一人、妹が二人いた。

 父はエン国軍の武術を伝える道場の主人で、母は他の家と同じ、ただの村の女だった。シェンは毎日、男の子たちと取っ組み合って遊んでいた。


 シェンが六つの時。

 神国との戦が始まった。おそらく――それはまさに、ポルがこの間ビリエスティの新聞で読んだ「神帝戦争」の始まる瞬間だったのだろう。

 それまでエン国は、何度も神国に攻め込まれている。村の男達は、例によってすぐに戦へ駆り出された。

 でも、その時の戦は何かが違うようだった。

 男達が村を出て行って数ヶ月後、次は女達までもが戦に呼ばれた。

 それも、御触れの着いた次の日までに村を発たなければ、残っている者の首をその場で刎ねるとまでいう。

 大人のいない村に、子供たちだけ置いていくわけにいかない。子供たちは国境の村を離れ、エン国の内地へ集められることになった。

 女たちまで集める御触れが出たことなど、今まで一度もない。村の女子供は皆取り乱しながら、村を離れる準備を始めていた。

 シェンも弟妹を連れていく準備をするつもりだった――

 シェンの母親は、違ったらしい。

 シェンの母親は、シェンと残りの弟妹たちを集めて、こう言った。


 母さんは戦へ行く。お前たちも内地に呼ばれた。

 でもこのまま内地に行ったら、いずれ大きくなってから戦に行かされて死ぬだけだ。

 だから、お前たちは一緒に行かないんだ。

 村からずっと西に進んで、南に下ると大きな港がある。そこから出る船に乗って、海を渡るんだ。


 そして、母親はシェンに、水筒となけなしの銀貨を渡した。

 弟妹たちと、困惑するシェンを家の中に残して、母親は去り際に言った。


「いいかい、一人になっても生き延びるんだよ」

「お前たちの誰か一人でも大人になってくれりゃ、それに越したことはないんだ」

「じゃあね、シェンシンリンラン」――――

 それっきり、母の顔は見ていない。



 村人たちが出て行ったあとの村で、シェンは家から出て行けずにいた。

 寂しくて泣く弟と妹を宥めながら、夜を迎えた頃――

 外から無数の馬を駆る音が近づいてきた。

 家を飛び出してみると、それは黄色の旗を掲げた、皇帝陛下の兵士たちだった。

 残っているのが見つかれば、首を刎ねられる。

 シェンは慌てて、弟と妹一人ずつの手を引いて、家の裏にある山の木陰に隠れた。

 しかし、家の中にはまだ末の妹が残っている。

 皇帝軍の兵士に見つからないよう、シェンが隙を伺って家に戻ろうとしていた、その時。

 山の峰から、松明の火が近づいてくるのが見えた。山の向こうから来る神国軍だ。

 村にいた皇帝軍の兵士たちは、不意を突かれて逃げ出した。

 それを見たシェンは、家にいる末妹を放ったまま、両手に弟と妹を引きずって、山から必死に逃げた。

 ようやく村の畑に身を隠したシェンが家の方を振り返ると――そこではもう、山から下りてきた神国軍と、それに追いつかれた皇帝軍がぶつかっていた。

 火を放たれたのか、兵士の持つ松明が落ちて燃え広がったのか、そこかしこの畑や家で火の手が上がる。

 そしてその端に、シェンは見た。

 畑の隅。ふらふらと家の外に出てきた小さな末妹が、戦の火の中で燃えているのを――


 そのあとは、シェンは母に言われた通り、弟と妹を連れて西へ西へと旅した。

 海岸線にぶち当たったとき、初めて見た海はあまりにも気味悪かったという。

 その海を延々南に下って下って、やがて聞いていた港の近くに、大きな船が停まっているのを見つけた。

 その船は、岸から荷物を積み込むところだった。山のような木箱を積んでいるのは、船乗りの男たち。シェンは近くにいた一人に声をかけた。持っている銀貨を見せて、「これで海の向こうまで行けるのか」と……

 銀貨を取った男は「乗せていいか船長に聞いてくる」と言ったきり、戻ってこなかった。

 旅賃を掠め取られたと分かった時には、もう船は出発しようとしていた。シェンは仕方なく、弟と妹を引っ張って、岸に残っていた空の木箱へ忍び込んだ。

 シェンたちの入った木箱は荷物と一緒に船に乗せられ、そのまま海を渡ることになった。


 シェンたちの入った荷物が入れられたのは、おそらく船倉だろう、木箱やかめが所狭しと詰め込まれた、真っ暗な部屋だったらしい。

 何も見えない狭い木箱の中で、子ども三人、見つからないように息を殺して待つ。

 ポルの知っている限りでは、エン国北寄りの港・武江ぶこうからアルバート王国のビリエスティまでは、平均ひと月くらいかかる。

 飲める水は船倉の中の甕に入っていたが、食べるものはなかったらしい。というより、あっても船員に見つかるのを恐れて、おおっぴらに探せなかったのだろう。

 どれくらいの間、何も食べず空腹に耐えたのか――何か月も旅をして、ただでさえ弱った子どもの体に、箱の中の数週間が追い打ちをかけた。妹が最初に力尽きた。気がついたら動かなくなっていたそうだ。

 死んだ妹の体についた虫を、弟と二人で食べた。その時の記憶に残っているのは、血と肉の……そこまで聞いて、ポルは想像するのをやめた。


 とにかく、どれだけか経って、船はようやく海の向こうに着いた。

 船員たちが船の積荷を下ろしに来た時、ついにシェンたちは見つかった。掴みかかろうとする船員を蹴飛ばし、シェンは走って逃げた。

 弟は弱りすぎていて、箱の中から動けなかった。それともシェン自身が弱っていて、箱の中から引きずり出してやれなかったのか……その両方か。シェンは一人で、船を転がり下りた。

 船着場に降り立ったシェンが、船の方を振り返ると――船員たちが、みんな面白そうに船縁からシェンを見下ろしている。船員の一人が、弱り切った弟の体をつかまえ、海の上へぶら下げて大笑いしていた。

 その光景をシェンはただ見ていた。

 すると突然、弟を掴んでいた船員の手が、パッと開いた。

 弟の体は布切れのように海へ落ちて、白い飛沫を上げた。

 シェンは走って逃げた。



 その次に気がついたら、シェンは荒地に建つ白い建物の前にいた。

 それが、シェンにとって初めてのアルバート王国、初めての孤児院だった。汚い体のまま門の前でうずくまっていたら、中から修道女がやってきて、シェンを招き入れてくれた。

 そこからの孤児院生活は、ろくなものじゃなかった。

 食べ物は足りないし、言葉は通じないし、腹が減って毎日他の子ども達と喧嘩してばかり。

 喧嘩の構図はいつも、シェン対ほかの子供全員。修道女たちの手を焼かせたシェンは、やがて孤児院からつまみ出されてしまった。


 それからは、歩いて色んな孤児院を転々とした。

 しばらく続けたが、結局どこにも居付けなかった。

 やがて孤児院を頼るのはやめて、盗みで食い繋ぎながら一人でふらふら放浪するようになった。

 数年間、そうやって過ごしたある日。

 シェンは旅の見せ物一座と出会った。

 ……というよりは、「見つかった」と言うべきかもしれない。一座が連れていた荷馬車に忍び込んで中で寝ていたら、一座の子供にまんまと捕まったらしい。

 飯と寝床があれば何でもよかったシェンは、一座に入って働き始めた。

 見世物一座は、彼らが拠点を構える王都近くの小さな町、ランタナヤを目指していた。一座のリーダーに可愛がられ、みんなに歓迎されながら、ランタナヤに着くまでシェンは小間使いとして何でもやった。

 そしてついに目指すランタナヤに着くと、シェンを待っていたのは、見世物小屋で披露する芸の修行。

 そこで、運動神経の良さがリーダーの目に留まった。

 シェンは、リーダーから一座の目玉演目「猛獣使い」を引き継ぐことになった。檻の中で猛獣と殺り合うショー、つまりは剣闘士のようなものだ。


「猛獣使い」ショーの初舞台は、ほとんどシェンの記憶にはないらしい。

 檻の中で獣と対峙した瞬間「殺される」と思ったそうだ。とにかくめちゃくちゃに殴りかかって、暴れて、気がついたら獣は死体になっていて、ショーは終わっていた。

 その時から、そんなことが何回も続いた。逃げるための戦いしかして来なかったシェンにとって、どちらかが死ぬまで終わらない檻の中の勝負は、地獄以外の何でもなかったのだろう。

 それでもシェンは、一座から逃げ出さなかった。


〝一人になっても生き延びるんだよ〟

〝お前たちの誰か一人でも大人になってくれりゃ、それに越したことはないんだ〟

 大人になるまで、何が何でも生き延びなきゃいけない。

 それは翻って、大人になったらこんな必死に生き延びなくてもいい、ということ。

 だから「大人」になるために、証人が必要だとシェンは考えたらしい。

 もといた村の成人の儀式もない今、一人で大人になる方法を、その時のシェンは思いつけなかった。シェンがいつ大人になったのか認めてくれる人間が周りにいなければ、いつまでも生き延びるための戦いから降りられない。

 それが、一座を抜けて一人旅を再開しない理由だった。シェンは一刻でも早く大人になって――生き延びることを諦めたかったのだ。


 しばらく「猛獣使い」を続けたある日。

 突然、一座のリーダーが失踪した。

 子供たちは、物心ついた頃から親と慕ってきたリーダーを失い、みんなしてパニックになった。仕方なく、残された子供たちの中で一番年長のシェンが、子供たちを宥めて回った。

 シェンがどうにか子供たちをまとめて次のショーの準備まで漕ぎ着けたころ、ランタナヤの町長が訪ねてきた。

 見世物一座の資金繰りを牛耳っている町長が、外国から仕入れた珍獣を一座に連れてきたという。とっておきの、「猛獣使い」ショー用の獣だと町長は自慢げに言った。

 果たして――

 その獣はトラだった。

 町長は、珍獣との死闘を見せ物にして儲け、さらにショー後に珍獣の毛皮を剥いで売ればもっと儲かると思ったらしい。

 新しい商売に手をつけて、彼は上機嫌だった。

 反対に、檻の中のトラを見せられたシェンは絶望していた。

 トラはまだ大人になりたてだったのか、表情は赤ん坊のようだったという。それでも体長はシェンが横に寝そべった時より大きい。見ただけで、今まで相手にした獣の比にならないほど危険だとシェンにはよく分かった。

 そして、なぜ「猛獣使い」だったリーダーが突然一座から逃げ出したのかも――


 死刑の日を待つように、シェンは次のショーを迎えた。

 シェンはいつもの準備にのっとって一座のメンバーを動員し、猛獣ショーの準備を始めた。最後、獣を猛獣小屋の檻からステージ用の檻へ移すのは「猛獣使い」シェンの仕事だ。

 二つの檻を突き合わせ、獣が逃げないよう慎重に檻の扉を開け放つ。その瞬間だった。

 気がついた時には、トラが檻の扉の隙間に体をねじ込んでいた。

 獣の巨躯が、檻の外へ出る。

 周りに控えていた一座の子供や手伝いの若者たちは、突っ立ったまま呆けていた。シェンは反射的に、トラが今出てきた檻に入って、内側から鍵をかけた。

 その途端、誰かが悲鳴をあげた。

 檻の外へ出たトラが、周りの人間を食い殺し始めるのは同時だった。それはもう、紙でも引きちぎるように。

 その場にいた全員をやすやす牙にかけ、大人も子供も、騒ぎを聞きつけてやってきた人間を片端から肉片にしていく。シェンはその光景を、一人安全な檻の中から眺めていた。


 その日の夜。

 シェンは、檻の中でいつの間にか眠っていた。

 目が覚めると、町長の屋敷にいた。トラを町中へ逃した犯人として連れてこられたらしい。

 屋敷に居合わせた町長の息子たちによると、トラは、とっくにランタナヤの森の中へ姿を眩ましたのだという。そして当の町長は、シェンの逃したトラに食い殺された。シェンはそれで、罰を受けるばかりの状況らしかった。

 シェンは、何もかもが馬鹿らしくなってしまった。

 絶対にやりたくなかった猛獣使いのショーを引き継いだことも。

 役目を放り出してさっさと見世物一座から逃げなかったことも。

 早く大人になりたいばかりに、この一座にしがみついていたことも――

 シェンは、見張りについていた男の隙をつき、捕まっていた部屋の窓から外の森へと逃げ出した。


 森を進んで、進んで、進んで――ついに森を抜けた時、たどり着いたのはラエニ川のほとり。あの、王都の真ん中を流れる川の下流だった。

 シェンはラエニの流れを遡り、ほどなくして王都へ行き着いた。

 中へは入れなかったので、城壁のそばで、王都から出てくる馬車を物色した。適当な荷馬車を見つけると、シェンはその荷台に潜り込んだ。


 馬車がシェンを運んできたのは、王都近くの町アーラッド。

 あてもないから、しばらくそこで生活することにした。ちょうどいいことに鉄鉱山があったので、そこへ入って、使われていない坑道の横道にねぐらを作った。

 しばらく経ったある日。

 シェンは、二月祝勝武闘祭のことを耳にした。

 百万ベリンだ。

 住処なんか、木の穴やら何かでいい。そこに賞金の百万ベリンがあれば、一生食い物と着る物に困ることはないだろう。人里の近くで暮らすことができれば、孤児院や見世物小屋なんかに入らなくたって、いつか誰かがシェンを大人扱いしてくれる。

 これで、他人に振り回されるだけの子供時代とはおさらばだ。

 期待して、シェンは武闘祭へ申し込んだ。人前で戦うのには慣れている。だから、自分なら優勝できるかもしれないと淡く思ってしまったのだ。


 結果は、無残なものだった。

 決勝戦で負けた。目の前で、一生分の食うに困らぬ生活を掠め取られた。これなら初戦で敗退するくらいの、希望のかけらもない戦績だった方がまだマシだと思った。

 ――だから、欲しかった賞金を持っているはずの男と、さらに賞金以上の金を持っていそうな女を見て、うっかり諦められなくなってしまった。気がついたら声をかけて、旅にくっついていく話を持ちかけていた。

 大人になるだけなら、どこかに居場所を作る必要なんかない。

 必要なのは金だけだ。大人になるまで、一人で暮らすための。

 ポルたちと旅をし始めてからこの方、見世物一座の時と同じ轍を踏みたくなくて、今度こそさっさと逃げようと思っていたのは確かだ。

 長いこと隙を伺いすぎた。ビリエスティの新聞を読んだ時、心のどこかで、これだ――と直感した。

 海を渡って逃げれば、ポルたちは絶対に追って来られないだろうと思った。でもそれが、故郷に帰るつもりだったかというと、そうじゃない。

 今しかなかったから宿を飛び出していた。この先どうするとか、そんなことは微塵も考えずに――



**********



 聞かなきゃよかった。

 シェンが黙った瞬間、ポルの頭をその言葉がよぎった。

 シェンがしまっていたものの重みに殴られて、脳がガンガン鳴っている。

 でも、ポルは次の言葉を待った。

 シェンは紙みたいに白い顔で、ポルを下から見上げた。唇が何度か、かぷ、かぷと動く。

 吐く息がかかるほど近くにいるシェン。シェンの下瞼が、心臓の鼓動が打つたびにぴくぴく引きつる。こちらを見上げていた視線が、ポルの顎を、首を、鎖骨を、胸を通って、膝元まで落ちていった。

「これで、」

 はあ、とシェンはため息をつく。続きの言葉まで一緒に出て行ったようなため息。

 さっき頭をよぎった言葉がシェンに聞こえていたんじゃないか、ポルは急に不安にすらなってきた。

「……ぜんぶ、」

 ほとんど空気だけの声で、シェンはつぶやいた。


 そうだったの。

 ――違う。

 大変だったわね。

 ――そうじゃない。

 あなたはよく頑張ったと思うわ。

 ――そんなのじゃなくて。

 私、あなたが二度とつらい思いをしないように頑張るわ。

 ――そんなこと、言えるわけない。


 言葉を頭の中でちぎっては捨て、ちぎっては捨て、結局なにも出てこない。

 ポルはシェンの背中に手を回して、そっとさすった。

 言葉が出てこない。なんて言えばいい。

 思わず空を仰ぐと、そこには雲も鳥も何もなくて、息の詰まるような虚空。

 ポルたちのはるか下から、夕焼けのどす黒いピンクが、果てしない無の底に引き摺り込もうと迫ってくる。天も地も、上下左右も、過去も未来も何もない、ポルが永遠に推しはかることのできないまっさらな無。その中に、突然放り出されたようだ。

 ポルはぞっとして、とっさにシェンを抱きしめた。

 シェンの体は、朽木のように細くてすかすかで、ポルが力を込めたら潰れてくしゃくしゃになってしまいそうだった。全部を話した後のシェンは、何もかもを出し切って残った抜け殻みたいだ。

 なくなる。このままじゃ、シェンが。

 ポルは抱きしめていたシェンの肩を押すと、体を離した。シェンはされるがまま、だらりとポルの胸あたりを見ている。

 穴のような両目。

 つるりとしたその表面が、底なしに虚しい夕日の色を映して、澱んだピンクに光っていた。

 なんてことをしてしまったんだろう。

 シェンの皮の中にぎゅうぎゅう詰まって何とかシェンの形を保っていたものを、全部絞り出せ、と。言ったのは自分だ。うそだ。そういうことじゃなかったのに。全部って――全部って、何のつもりでそんなこと言ったんだっけ? ぐちゃぐちゃになってきた。ひっくり返った小麦粉袋。割れた卵。破裂したソーセージ。弾け飛んでなくなる水の泡。そんなものが頭の中で踊る。中に、何か詰めなくちゃ。しぼんで消えてしまう。

 シ ェ ン

 と言うつもりで、シェンの左手の甲をとんとんとん、と三つ指先で叩く。

 ふっ、とシェンが顔を上げた。

 瞬間、


 パンッ!


 その頬を、ポルは思い切りひっぱたいた。

 シェンの体がふらりと左に揺れる。夕日のピンクが、黒い髪の上をつるりと滑る。

 シェンは目をまんまるに見開いていた。穴のような瞳の奥に、わずかな驚きの色。

 ポルは乱暴にシェンの手を取った。

『あなたの事情は、よく、わかったわ』

 いつのまにか息切れしている自分に気がついて、小さく深呼吸する。できるだけ憎らしげにシェンのことを睨んで、

『よくわかったけど、それで、許されると思わないでよね』

 心臓がどくどくと高鳴る。それに合わせて涙がせり上がってくる。ポルは必死に、眉間と喉に力を入れてそれを飲み下した。

 何言ってんだろ。償いに全部見せろと言われて、シェンは言うとおり全部見せてくれた。じゃあもう、シェンのしたことは償われたのに。話が違う。めちゃくちゃだ。ばか。そうじゃない。いい加減にしろ。

 シェンの右目からぽろりと涙が落ちた。

對不起ごめんなさい……」

 わずかな風にもかき消されそうな、音のない声がシェンの唇から漏れた。

『あなたが私たちのことどう思ってたのか、何のつもりであんなことしたのか、もう全部わかったんだから』

 意味不明な台詞なのはわかっている、問題はそれをシェンの中にちゃんと詰め込めているのかどうかだ。頭の中でエルヴィーの姿を想像する。エルヴィーのマネだ、形だけでも。図書館の女王はきっと、いや絶対に泣いたりしない。騎士団の鬼は、こんなところで泣いたりしない。

對不起ごめんなさい、」

 さっきよりはっきりしたシェンの声。それに合わせて、今度は左目から涙が落ちる。

『今から、あんたのことどうするか考える』

 フン、バカみたいなこと言って、と頭の中にいたエルヴィーが鼻で笑った。

『言っとくけど――』

對不ごめんなさ――」

『何よ今私が喋ってるでしょう‼︎』

 シェンはぎょっとして、とっさにポルから手を引っ込めた。ポルは真っ白な頭でその手を捕まえて、

『大体なによ、意味わかんないのよ。アルバート語で喋ってくれない? あんたは――』

 その先の言葉が喉につっかえた。

 これ以上言うのはあんまりだと、吹っ飛びそうな論理思考が訴えている。

 ポルはふ、と小さく息をつき、脳の中に空気を送り込む。なけなしの正気を振り絞り、心臓の鼓動を少し落ち着けると、一言、一言、今から言うことばを頭の中でイメージして、シェンの顔を見た。

『あんたの』

 シェンの方が小さく震える。シェンが怖がっている。

『あんたの故郷なんて、ど、どうでもいい』

 さっき飲み込んだ言葉が、つるりと戻ってきた。

『どこから来たとか、帰りたいとか帰りたくないとか、知ったことじゃないのよ』

 シェンの両目から、彼女の膝にぼたぼたと涙が降った。

 なんの涙だろうか。

 あんまりにも理不尽なことを言われているからに違いない、絶対そうだ。それが証拠に、これは昨日の晩、崖の淵でポルたちに追い詰められた時みたいなウソ泣きじゃない……と、ポルは思う。ようやく、あの時ルズアがなぜ嘘泣きを見抜けたのかわかった。

『あんたが、私たちに何をしたかだけよ。あんたと私に関係あるのは。せいぜい私たちとのことだけ心配してれば』

 もっとマシなセリフあったんじゃないの。

 とっくに結論出したくせに、バカみたいなこと言って。

 頭の片隅で思いながら吐き捨てる。

 シェンはとめどなく、ぼろぼろぼろぼろ泣いた。鼻水と一緒にぐじゅ、ぐじゅ、とみっともなくしゃくり上げる。その姿が、ポルには内臓が焼けるほど愛らしく見えた。



**********



 夕日はいつの間にか、ポルたちのはるか下にある地平線へ沈みきろうとしていた。

 天を仰ぐと、冷たい群青に白い星がちらちら光り出している。塵の粉みたいに小さな光。

 虚空の果てにあるクズ星を見て、ポルはほっ、と息をついた。

 頭の中がめちゃくちゃだ。さっきから少し間を置いて、自分の鼓動が緩やかになってくる。頭の中が爆発しそうな感覚を、ようやく感じられるようになってきた。吐きそうな緊張で、今更のように体が震える。

 このめちゃくちゃは、どうせまだどうしようもできない。ここで、眠ってしまいたい。

 目の前でまだぐじゅぐじゅ鼻を啜っているシェンを、抱き枕みたいに抱きしめる。あったかい。

 今までの事情を聞いて、これからどうするか話し合っただけ。のはずが、なぜか命からがらの状態だった。魂がすり減った感じがする。

 二人とも、もう立てそうにないし。このまま朝まで眠ってしまおうか。ちょっと、さむいけど――

 ガタッ、キッ、キキッ

 後ろから鋭い音。

 ポルは小さく跳ね上がると、シェンの体を胸に押し付けて振り返る。昼間ポルたちの出てきたガラス窓が、細く開いていた。

「ぁ……あの」

 か細い声は、スティンだった。

「は、話し中にす、まないんだが」

 シェン以外の声が懐かしい。

 反応するのもだるくて、ポルはぼうっと声の方を見ていた。窓の隙間から、薄ぼんやりと銀縁眼鏡が光る。そのほかは、真っ暗でよく見えない。

「この家の、ご、ご主人が呼んでいる。シェン嬢を……すぐに降りたほうがいい、と思う」

 開いた窓をそのままに、それっきり銀縁眼鏡はふらりと闇に消えた。


 ポルはしばらく固まっていた。体が重くて動きたくない。

 しかし、呼ばれているんじゃ仕方がない。体の中に残った体力の残りかすを集めて、錆びた鎧でも着ているような動きで、シェンに向き直った。

『行きましょうか。呼ばれてるんですって』

 シェンは呆然と正面を見ていた。かすかな星灯りでもわかるほどシェンの顔は腫れていて、涙の後がてらてら光っている。さっきまで一生懸命しゃくり上げていた呼吸は落ち着いて、小さくぜえ、ぜえ、と聞こえてくる。

 ポルは屋根に手をつき、片足ずつ立ち上がった。腿とふくらはぎが攣れて痛い。ひざが、ガクガク笑っている。

 ポルはシェンの両脇に手を入れると、のけぞるように引っ張り上げた。シェンも、ポルと同じくらい脚が固まっている。

 どうにかして二人で屋根の上に立つと、カバンに魔術書と財布だけ入れて、よた、よた、と窓に向かった。

 なんだか滑稽で、笑いそうになった。

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