5-8 人魚まがい

 何が起きたのか、理解するのにしばらくかかった。

 三人とも、シェンが消えた後の虚空をぽかんと見つめていた。


 ひょおぉ……と谷風の音が沈黙に響く。

「飛び降り……た?」

 呆然と呟くスティンの声。

 ポルはおそるおそるスティンの顔を見る。

 みるみる青ざめていく彼の顔が目に入ったとたん、ポルは弾けるように事態を理解した。

 慌ててしゃがむと、崖の淵から身を乗り出す。スティンとルズアも同時に、ポルの両脇から下を覗いた。

 びゅう、と谷底からの風で髪が舞い上がる。

 吸い込まれそうに暗い谷。

 目眩を覚えるくらいはるか下の下、底を流れる川の面に上がる白い飛沫が、かすかに見える。

 隣のスティンが、崖っぷちにランタンを掲げる。

 すると、ぼんやりとわずかに、谷底の手前にあるものが浮かび上がった。

 崖に根を張る細い木。崖の淵から谷底までのちょうど真ん中あたりで、崖の面から垂直に突き立っている。

 頼りない幹の先に、白い指。さらにその奥に、らんらんと黒光りする二つの黒い瞳――

 数回目を瞬くと、谷間の暗闇に目が慣れてきた。

 徐々にはっきり見えてくる、谷底で不規則な模様を描く水しぶき。

 その手前にある浮かぶ黒い瞳から、だんだんシェンの顔がわかるようになってきた。

 シェンは細い木の幹に片手でぶら下がり、もう片手には双節棍の棒部をだらんと一本握って、こちらをじっと見つめている。

 視線のやりとり、数秒間。

 突然シェンは無音でにんまり笑って、んべぇ〜っと舌を出した。

「ンの野郎……」

 それを知ってか知らずか、ルズアが重低音でつぶやく。

 シェンはふいっと目を逸らし、そのまま軽く前後にぎいこ、ぎいこ、と数回揺れて、勢いで双節棍の棒部の先を崖の面に突き立てた。

 どうやら、崖の面は案外柔らかいらしい。ポルは軋む木の幹を見て、揺れた勢いで折れてしまわないかヒヤヒヤした。

 しかしそれもつかの間。シェンが突然ぱっ! と木から手を離した。

 ポルは息を飲んだ。

「シェン嬢っ……」

 スティンも思わず声を上げる。

 ガリガリガリ、と土の削れる音を響かせて、シェンはゆっくり落ちていく。双節棍で勢いを殺しながら、所々の石や割れ目に手をかけたり足をかけたりして、谷底へと降りて行っているようだ。

 せっかく追い詰めたシェンに逃げられているところだというのに、ポル達は固唾を飲んでシェンの崖降りを見つめる。

 シェンは器用に双節棍と小さな足場を使いながら、半分落ち、半分降りるようなスピードでどんどん崖の淵から遠ざかっていく。

 川面はもうそんなに遠くない。ポル達がいるところから、四分の三ほどの距離を降り切った。

 その時――

「あっ」

 驚きの声が、谷底から上がってきた。

 次に見えたのは、双節棍を片手に握ったまま空中で仰向けになったシェンの体。

 双節棍を握っていない方の手から、大きな石が落ちていった。

 その手が強張ったようにポル達の方へ伸びる。指が宙を掴んで、虚空を切る。

 全てが、時間の流れが変わったみたいにゆっくり、ゆっくり起こった。

「ああぁ……っ」

 甲高くて短い叫び。

 シェンは目一杯こちらへ手を伸ばしたまま、背中から谷底へと落ちていく。

「おい‼︎」

 ルズアが思い切り怒鳴った。

 瞬間、パシャーン……と冷え切った水音がして、谷底の川面が沸き立った。

「落ちたぞ!」

 スティンが叫ぶ。

 ポルは跳ねるように立ち上がった。魔法陣を描いた紙切れを握りしめ、左へ向きを変えると、川下の方へと全速力で走り出した。

 後ろからスティン、さらにその後ろからルズアの足音がする。

 ポルは一瞬足を止めて谷底を覗く。白波立つ水面に、目を凝らすとポルのカバンが浮き沈みしているのが見えた。しかし、肝心のシェンが見えない。

 再び地面を蹴る。崖っぷちの狭い道で出せる全速力で飛ぶように走る。

 眼球が風に当たる。髪がなびいて邪魔だ。息が切れてきた。ポルは頭を振って顔にかかる髪を払うと、魔法陣の紙切れを握り直す。


 そして、とん――と、谷間の闇の中へ身を投げ出した。


 ふわりと一瞬浮かぶ身体。

 しかし次の瞬間、目が回るような速さで落ちる、落ちる、落ちる。

「ポル嬢‼︎」

「おいバカ!」

 スティンとルズアの叫びが追いかけてくる。耳元で、氷のような風がごうごう唸る。

 寝間着が風を受けて破れそうだ。

 本能が死んじゃう、と訴えているらしい。体が強張って動かそうにも動かない。

 岸壁がどんどん上に流れていく――

「くっそおぉ!」

 ルズアの雄叫びが遠くから降ってきた。本当にずいぶん遠い。

 お屋敷の三階から飛び降りた時とは、とても比べ物にならない長さだ。まだ落ちる。あの時はどうやって無傷で着地した? まだまだ落ちる――

 握ったポルの手の中から、稲妻が落ちたかのごとくカッと金光が走る。岩壁が一瞬ぼんやり照らされる。

 すると身体が綿毛になったみたいに、ポルはふんわりと浮き上がった。

 風の轟音が消えた瞬間、どうどう、ざあざあ……と流れる水の音が耳を襲った。

 足下を見ると、顔へもろに飛沫がかかる。ほんの一メートル下はもう水面だ。

 ポルは服の袖で飛沫を拭うと、空中を蹴る。

 空転する車輪みたいに、足が宙を回って少しだけ前へ進む。このまま宙を走って前に進めないものか。

 二歩、三歩、四歩めでバシャッ! と足が水面を掻いた。足首から先の冷たさに、思わず歯をくいしばる。

 すると次の瞬間、突然重力が戻ってきた。

 ぐいっと水面に引き寄せられる。


 パァン!

 水面が割れる音とともに、氷のような重い水に全身が飲まれた。

 しびれる。

 頭が真っ白になる。

 何も見えない。何も聞こえない。ぴくりとも身体が動かない。背骨が折れそうな力で、後ろから水流が体を押す。心臓が口から飛び出そうになる。頭蓋骨が割れそうだ。

 息ができなくて口を開けたら、水が思い切り流れ込んできた。飲み込む前に口を閉じて吐き出す。

 まずい、このままじゃまずい。

 動かない足を必死で動かして、水をかく。身体が上の方へ浮いていく感触。

 足が動いたら、徐々に身体が動くようになってきた。

 足に合わせて、手でもがむしゃらに水をかく。すると、手の先が空気に触れる感覚があった。

 必死で足をバタつかせ、流れに身を任せながら上にのぼる。ばしゃん、と音がして、ついに顔が水から出た。

 沈む力に抵抗しながら、顔の水を払って思い切り息を吸う。死ぬところだった、という気持ちが押し寄せてきて、思わず体を動かすのを忘れる。とたんに、畳み掛けてくる水の力に飲まれそうになる。

「バカ野郎! 泳げ! 何してる!」

 耳に入った水をつきぬけて、わずかにルズアの叫びが聞こえた気がした。

 泳ぐ。そうだ、泳がなければ。泳ぎ方――水泳ごっこ。半分身体の感覚がなくなって、ぬるく感じる水の心地から、昔の記憶を呼び覚ます。

 小さい頃、お屋敷の風呂場でメルと一緒にやった水泳ごっこ。メルの人魚みたいにきれいな泳ぎ方を、見よう見まねで水に潜った――

 波の隙間からなんとか息を吸い込むと、思い切り頭を沈めた。ごぼごぼ音を立てて水が鼓膜に迫る。

 ちょっとした浮き方と水中で目を開ける方法だけでも、あの時メルに教わっておいてよかった。流れを味方につけたつもりになって、必死で水を蹴る。

 もどかしいほどぼんやりした視界に、血眼でシェンの影を探した。

 シェンはきっと泳ぎも得意に違いないけれど、こんなに冷たい水にあの高さからうっかり落ちて、まともに泳げるのだろうか。いや、わからないが、上から目を凝らしたとき到底そうは見えなかった。

 それなら、まだ泳げているはずの自分の方が速いと思った。シェンが自力でなんとかできているのならそれでいい。そうじゃなかったら――

 息が続かない。息継ぎのしかたを知らなかった。さっきみたいに無様に水を掻いて、なんとか水面から顔を出す。息を吸う間に身体が水に吸い込まれて、再び潜る。

 バカなことをしているのはわかっている。でもじっとしていられない。やっと見つけたシェンに、崖の上から手も伸ばせずにいるなんて。

 役に立ちそうなものを何にも持っていなくて、本当に身一つだったから、これ以外他にやりようが思いつかなかったのだ。賭けだった。本当に命そのものを賭け金にした勝負。絶対に勝たなきゃいけない。

 空を切るように息を吸いながら、重い鎖がついたみたいに固まっていく腕と足を振るう。なんとなくわかってきた。息継ぎは息が続かなくなる前にしなければならない――とか。



 水に頭を沈めること数回目。何かが、ぼやける視界の端を横切った。

 大きな影だ。ポルは慌てて、水から顔を上げた。

 頭から流れ落ちる水滴の隙間から、川面に何か浮いているのが見える。

 てらてら光る白っぽいもの。そこに巻きつく白くて細い何かと、濡れそぼった青い服、球を描く黒い髪――


 ダメだ。全然ダメだ。シェンは泳ぐどころか、ピクリともせず茫洋と流されていた。

 痙攣するように早打つ心臓を飲み込み、ポルは両手両腕に力を込めて、流れを斜めに渡ろうともがく。

 思うように近づけない。少し先なのに、流れに阻まれて手が届かない。

 中の空間をいじっているせいか、ポルのカバンが水に浮くのは幸いだった。ああやって頭が水面に出ているなら、ちょっとくらい息はできているはずだ。

 流れに逆らおうとするほど、進むスピードが遅くなる。バランスを崩して溺れそうになる。

 流されながら潜り、潜っては顔を出すのを繰り返す。疲れでだんだん息が吸えなくなってきて、目眩で視界が霞む。

 それでも、シェンの姿だけはなんとか追い続けられていた。ほとんどぼんやりした影みたいにしか見えないけれど、その色と形から、徐々にシェンが水しぶきに揉まれるカバンからずり落ちていっているのがわかった。


 だめだ。


 頭の中に浮かんだのは、たったそれだけ。

 ありったけの力で全身をくねらせると、今まで考えていたことが、全部頭から吹っ飛んだ。

 骨がバラバラになりそうなくらいの水圧。

 空っぽの頭が吐き気でいっぱいになる。

 もうやめたい、もういいじゃない、と身体中で思っていた。それなのに、足も腕も無意識に水をかく。

 泣きそうだった。泣いていたのかもしれない。吐き気じゃなくて、もう吐いちゃってるのかもしれない。なにがなんだかわからなかった。何にも見えなくて、何にも聞こえなくて、息の仕方がわからない。

 それなのに、進む方向だけはわかっていた。それなのに、生まれた時から決まってたみたいに進むのがやめられない。それなのに、それなのに、それなのに――

 気がついたらシェンの頭が目の前にあった。


 すっからかんの内臓に、〝ポル〟が戻ってきた。

 ポルは藁をも掴むように左手を伸ばすと、がばっ! とカバンに掴みかかった。

 ポルの重みでカバンが少し沈む。シェンの丸まった背中を右肩で押すと、なんとかうまい具合にシェンの体が少しカバンの上に乗り上げた。

 カバンはポルがつかまっても、水に反発していっこうに沈まない。シェンの体の下からはみ出すカバンの角にしがみついて、ポルはやっとまともに息を吸った。

 急にほっとして、意識が弾け飛びそうになる。

 ポルは不意に数秒、強烈な眠気と戦った。力の抜けた指からカバンが逃げていきそうになり、本能のスイッチがパチンと入り直す。

 目の前にシェンの顔があった。

 べちょべちょになった髪が顔に張りついている。それを右手の指でそうっと退けると、おでこの冷たさに驚いた。

 髪の下から、真っ青な頰と紫色の唇が露わになる。

 半開きになったまぶたの隙間から、目玉がわずかに動いてポルをとらえた。

 目が合った、と思った瞬間、ポルの理性がゆっくりと働きだす。

 シェンの額から手を離すと、思い切り自分の目をこする。少しだけ目が見やすくなった。

 シェンの背中にカバンごと抱きつくと、足に力を込めて肩まで水面から出し、耳に入った水を振り払う。少しだけ音が聞こえるようになった。

 流されるままに、あたりを見回す。ずいぶん川を下ってきたのか、冷静になってみると飛び込んだ時より川の流れは遅い。

 ポル達はほとんど川の真ん中を流れていた。両側の崖が、同じくらい遠くに見える。

 でもそれは、必死に息継ぎをしながら見た岩壁よりは相当低いようだ。これなら、無事岸にたどり着けたとしても崖を登れなくて……なんてことにはならなさそうだ。

「ポル嬢!」

 不意に、懐かしい声。

 幻聴だろうか。もう一度耳の中から水を逃そうと頭を振ったら、キィィンと耳鳴りがした。

「ポル嬢! こっちだ! 見てくれ!」

 耳鳴りの音をかいくぐって、その声は聞こえてきた。よく通る、優しげな男の声。

 見てくれ? こっちを? …….どっちを?

 ポルはガンガンする頭をもたげて、もう一度あたりを見回した。

 すると、左側の岩壁の上に、点のような光が見えた。

 オレンジ色の光。ランタン。それに照らされる、白い上着。白衣。スティンだ。

「ポル嬢‼︎」

 スティンの声は、ほぼ金切り声に近かった。ポルが見ていることに気がついたのか、スティンはランタンを持っていない方の腕をこれでもかと振りまくった。

「ポル嬢! もう少し先だ! そこに岸がある! すぐに見える!」

 そう言うと、スティンは川下に向かって走り始めた。点のような光が、揺れながら崖の上を動いていく。

 ポルはそれについていくような気分で、黙って流され続けた。実際、全身が痛くて泳ごうにも泳げなかった。

 氷のように冷えた互いの体を寄せ合いながら、小さなカバンに命運を預ける。気を抜いたら眠ってしまいそうで、ポルはひっきりなしにシェンの呼吸と脈を確認した。

 浅くてゆっくりな息がかすかに聞こえる。たまにポルの手先や顔を視線で追うから、意識はあるようだ。しかし水を飲んで体が冷え切っているせいか、朦朧とした虚ろな目をして、凍りついたように動かない。

 もっと身体をくっつけて温めようかと思ったが、自分も冷えきっているものだから、これ以上くっついても体温を奪い合うだけだろうとポルはなんとか結論した。

 カバンの中のものを使って温まろうにも、水の中でシェンをカバンに乗せたまま中を物色するのは無理に等しい。そもそも、そんな器用な動きが今のポルにできるはずがなかった。そういえば自分だって、息をするのがやっとなのだ。

 氷漬けになった脳みそで、なおもうだうだと考え事をして時間を潰した。まるで、二人して天からのお迎えを待っているみたいだった。


 気がつくと、徐々に川の流れがカーブを描き始めていた。

 湾曲する流れに押されて、ポル達のつかまるカバンがゆっくりと回転する。ポルはシェンがずり落ちないよう、シェンの背中と一緒にカバンをいっそう強く抱え込んだ。

 ちょうど半回転したあたりで、ポルは今まで流れてきた川の上流を見上げた。ここ数日の雨で増水していることもあるのだろう、闇の中から無尽蔵に水が吹き出てくるように見える。

 よくこんなところに飛び込もうと思ったものだ。

 と投げやりな反省が頭をよぎったのもつかの間、ポルはまた徐々に回転して、視界は崖で埋め尽くされていった。そういえば、さっきより流れが速い気がする――

 ――あ、そうか。

 ポルはひらめいて、首をもたげた。

 川のカーブは、外側の流れが一番速いんだった。それに、河岸はカーブの内側にできるのだ。今ポルたちは、カーブの外側の流れに乗ってしまっている。ということは、このままぼうっと流されていたら、スティンの言っていた河岸を通り過ぎてしまう。

 取るに足らない知識を、いちいち頭の中でえっちらおっちらと確認する。そして、重い体を引きずるように弱々しく水を蹴った。

 カバンがくるくる回るばかりで、なかなか思う方に進まない。仕方なく、もっと体に力を込める。少し進んだ。もっと込める。全身がだるくて重くて痛くて泣きそうになった。

 続けるしかない。

 早くしないと、スティンの言っていた岸を素通りしてしまう。


 途方もない時間を、水を蹴ることだけに費やした気がする。いつの間にか、少しずつカーブする崖の内側から、灰色の石でできた河岸の端が覗き始めた。

 あそこなら上がれる。あそこがゴールだ。

 そう思った途端、生存本能が脳髄で火花を散らした。

 体が急に軽くなったような気がする。ポルはシェンを強く抱えて、カバンにむんずと捕まり、数秒前には考えられない強さで水を蹴る、蹴る、蹴る。

 あたかも流れる水でできた壁を蹴飛ばしているように、ポルの体は妙にすいすい進んだ。

 外側の速い流れを脱して、川の真ん中あたりへ。随分流れが緩やかになった気がするが、ここでもう一踏ん張りしないと岸にはたどり着けない。

 さらに、水の壁を蹴る。ついに、行く手の闇の奥に河岸の終端が見えた。そんなに広い岸ではないみたいだ。

 暗い岸の真ん中あたりに、点のようなランタンの光がひとつ踊っている。

「ポル嬢! こっちだ!」

 スティンの声がするのと同時に、ランタンの光もいっそう揺れた。

 白衣の薄ぼんやりした影も、ランタンの光に照らされて炎のようにゆらめく。その横で、闇に沈んで真っ黒に見える人影が、もうひとつゆらりと立っていた。ルズアに違いない。

 ポルはランタンの光をいっしんに見つめながら、月に手を伸ばすような気持ちで足を動かし続けた。あのランタンの中の火は、さぞあったかいのだろう……



 ずいぶん流れが緩やかになった。

 と思った瞬間、つん、と何かがつま先にあたる。

 さらに足を動かすと、足裏の体感が、水ではなく砂利を蹴る感触に変わった。

 足がついたのだ。

「もう少しだ!」

 スティンが叫んで、じゃぶじゃぶと岸辺から川に入ってきた。後ろにルズアも続く。

 四本の足が立てる白波をぼんやり眺めながら、ポルはしっかり川底に足をついて、シェンの背中を押しながらぐいぐい歩を進める。

 首が、肩が、胸が……と水から出るにつれて、どんどん体が石になっていくように、ズンと重くなる。物理的に空気が重い。足に力が入らなくなりそうだ。

 しかし、前を見るとランタンの灯りがそこまできていた。もう、ランタンの形や針金の曲がり具合までわかる。

 じゃぶじゃぶこちらへ向かってくる四本の足が、ついに目の前までやってきた。足の立てるわずかな波を感じて、ついに進むのを諦める。

 その瞬間、ばしゃん! と顔に飛沫がかかって、突然体が腰から持ち上がった。

 つま先までが水から引き上げられる。温かい二本の腕がポルの胴体と腿の裏を絡めとり、しっかりと固定するように肩へ担ぎあげた。

 あまりに心地よい温かみでぞわりと鳥肌が立ち、助かった――と思ったその時、担がれて天地逆になった上半身から飲んだ水が逆流してきて、げ、ぅげ……と変な音を出しながら噎せ返る。

 肺や胃の奥から押し寄せる水で、口と鼻の奥が塞がって焼かれるように痛い。生理的な涙で周りが見えない。

 みっともなく飲んだ水と変な涙をぼとぼと水面に吐き出しながら、ポルはからっぽになって自分を担ぐ腕と肩に揺られていた。


 じゃぶじゃぶいう足音が、やがて砂利を踏む音に変わった。

「ルズア殿、もう降るか」

 ざり、ざり、とけたたましい音の合間に、少し遠くからスティンの声が聞こえる。

「ああ」

 すぐそばからルズアの疲れ切った声が聞こえた。

「じゃあ、あそこの穴で休もう」

 あそこの穴…….を見たくて首を持ち上げようと動いたら、ピキッという痛みとともに首の筋を違えた。

「暴れんな」

 ルズアにぴしゃりと釘を刺され、ポルは仕方なく身体の力を抜く。ちょっと動いただけでしょ、という口答えが頭の隅をよぎって消えた。


 目の前を流れていく河原の石たちはだんだん細かくなって、やがて砂地に変わってきた。

 ごうごうと唸る川の音もずいぶん遠くなって、やっと陸に上がった実感がわいてくる。

「ここいらだな」

 スティンが言った。ルズアが足を止めて、ポルの体の揺れも収まる。

「立てよ」

 ルズアはつぶやくと少しかがんで、ポルをそっと地面に下ろした。

 頭が急に上下反転してくらくらする。

 久々にすら思える地面の感覚、二本足での立ち方を忘れたみたいに一瞬ぐらつくと、慌てて手探りでルズアの肩を掴む。そのままルズアの腕を伝って、そろりそろりと腰を下ろした。

 姿勢が変わったせいか、さっき逆流してきた水が今度は下りてきて、再びげほげほ咳き込む。

 肋骨が痛くなるまでひと通りむせると、また勝手に出た涙が視界を遮った。

 ぐっしょり濡れた寝間着の袖で涙をぬぐい、寒さでガタガタ痙攣する体を両腕で抱きしめる。

 辺りを見回す。ポルたちは崖に空いた丸くて大きな穴の中にいるらしかった。

 石のどけられた砂地に、上はスティンが立ってもギリギリ頭を打たないくらいの高さで、四人が壁に背を向けて座ってもずいぶんスペースが余る。

 都合のいい場所があったものだ。

 ポルの向かいの壁を背にして、スティンの白衣にくるまれたシェンが横向きに寝かされていた。スティンはその隣で、座ってカバンをごそごそ漁っている。

「だめだ。やっぱり全部濡れてる」

 川の水でびしょびしょになった毛布や寝袋を穴の隅にぽいぽい放りながら、スティンは苛立たしげに吐き捨てた。そしてふ、と息をついて、シェンの頭の下へカバンを差し入れる。

 当のシェンは水の中にいたときより青い顔をしていた。やはり冷えているのがいけないらしい。寒ければ体が強張って震えるはずのところ、シェンはむしろ死体のようにだらんとしている。

 ポルは隣にいるルズアの方へゆっくり手を伸ばすと、その腕をつついた。

「あんだ」

 ルズアはぶっきらぼうに言いながら、小さく手を差し出した。氷漬けになったみたいに動かない指で、ポルはなんとかかんとかそこへ字を綴る。

『あのね』

 両手をすり合わせ、ほう、と息を吹きかけて温めなおすと、

『ぶっ倒れたらごめん』

 ポルはちょっとだけルズアの顔を見て微笑んだ。

 そして、縮こまる体を無理やり伸ばすと、シェンのところまで這って行く。

「ポル嬢?」

 白衣の下からシェンの濡れた上着を脱がせようとしていたスティンが、怪訝な顔をしながらポルに場所を譲った。

『ランタンちょうだい』

 ポルがそう言うと、スティンは慌ててランタンを取ってくれた。ポルはそれを横たわるシェンとポルの間に置いて、シェンを包む白衣をめくった。

 シェンの服の襟元に左手を、自分の服の襟元に右手を置いて、ランタンの中の炎に視線を向ける。

 大きな火に手をかざした時感じる、わずかな温かい風。

 カラッと乾いた春風もそれに似ている。

 燃えさかる太陽と乾いた春風の下で干した洗濯物は、ちょっと埃っぽい香りがして、それがとてつもなく心地いい。

 自分が今心の底から欲しているもの。本能が求めている温かみ。想像するのは、簡単だった。

 目を閉じて、大きな火や春風のことだけを考える――

 すると突然、ぶわっ! とポルの周りに熱いくらいの風が吹いた。服どころか肌や髪からも水分を奪って、ポルの体を包み込むように吹きぬける。

 風が去ると、さっきまで凍りそうだった体の表面が温まって、ほおぉ、と大きな吐息が出た。

 目を開ける。

 シェンの服も、白衣の下できれいに乾いているようだった。突然体が温まったシェンは、一瞬憑き物でも通り過ぎていったみたいに激しく震えたあと、はあ、おぇ……と水を戻し始めた。

 シェンの身体が機能しだしたのを確かめたポルは、再びずりずり這ってルズアのところに向かう。

 地面に引きずり込まれていると錯覚するほど、身体が重くて動かない。寒くて身体が硬直している時とは違った不快さだ。


 なんとかルズアの隣に戻って、穴の壁に背を向ける。

 重い身体を目一杯伸ばすと手近な石を拾って、地面に大きく丸を描いた。

 拾った石を丸の中へ投げ捨て、それをじっと見つめる。

 今度は炭。真っ黒でススだらけの木炭だ。竃の中に入れて、火をつけるとよく燃える。竃で肉を炙ると、肉の脂が垂れてよりいっそう燃え上がる。

 煤けた炭のかけらを、石ころの姿に重ねる。そして、もう一度目を閉じる――

 ぼうっ!

「うわっ」

 スティンの驚いた声。

 目を開けると、マシュマロが焼けるくらいの大きな火が、燃料も何もない地面の上で燃え盛っていた。

 一秒遅れて、がつん! と頭を殴られたような感覚。

 首がグラグラする。視界が暗転して、谷底へ飛び降りた時みたいに平衡感覚が吹き飛ぶ。地面があったはずなのに、どこへともなく底なし穴を落ちていくようだ。

 耐えられない吐き気。何にも見えない暗闇で、ぐるぐる身体が回っている。思わず、何かにつかまろうとポルはがむしゃらに手を伸ばした。

 すると、力強いなにかがぐっとポルの手首を握った。勢いよく腕が引っ張られる。

 次には、硬くて厚い手がポルの頭をとらえた。無重力の真っ暗闇の中で、ポルはその手に体を預けた。

 全身が脱力するのと同時に、意識がゆるやかに溶けていく。

 ぱち、ぱち、と爆ぜる火の粉の温かい音と、遠くから聞こえはじめた雨の音を最後に聞きながら、ポルは泥のように眠りへ落ちた。

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