1-16 お八つ時に会いましょう

***********


「ポル様?準備できましたか?」

 ポルの部屋の前からエリーゼが小声で呼びかける。すると閉まった扉の向こうから、コンコンと軽いノックの音が二回聞こえた。”まだ”の合図だ。

「はぁー、メイド服ってのは動きやすくていいね」

 エリーゼの後ろのドアから、メルが背伸びをしながら現れた。エリーゼと同じメイド服に、長い金髪をうなじで結い上げている。

「よくお似合いですよ……って言うとイヤミみたいですね」

 エリーゼが返すと、メルはふふんと小さく胸を反らせた。がちゃっと音がして、今度は控えめにポルの部屋のドアが開く。現れたメイド姿のポルは、メルと同じようにうなじで栗色の髪を結い上げて、いくぶん慣れた様子で着こなしていた。ポルはエリーゼの手を取る。

『ペレネはまだ?』

「みたいですね。何やってんだか。あと三十分で三時ですよ」

「遅れました!申し訳ありません!」

 エリーゼが言い終わったとたん、階段の方からペレネが小走りでやってきた。

「本当に私たちだけで大丈夫なんですか?何かあったら二人じゃ……」

 不安顔のペレネに、エリーゼはわざとらしく息をついてみせた。

「はぁ、ペレネさん。私たちが伊達にお嬢様方が小さい頃からお目付役やってると思ってるんですか」

「そんなつもりで言ったんじゃありませんよ。ですが今は状況が違います」

「分かってます。ただ、今も一番沿うべきはお嬢様方の意向でしょ?お嬢様方にも最低限の妥協をしていただいて、私たちがこうしてお供するんじゃないですか」

「エリーゼ、あなたは……」

「あの、二人とも?」

 だんだんと熱くなる二人にメルが割って入った。ポルがメルの手を取ると、その手に何かつらつらと綴り出す。メルは頷いて再び口を開いた。

「二人には本当に感謝してるよ、勝手なことを言ってごめんね。とりあえずもう時間もないし、喧嘩するのはやめてくれる?」

 二人は気まずそうに、まったく同じ動きでしゅんとうつむいた。

「……そうですね。先方を待たせるわけにはいきませんし、出発しましょう」

 ペレネはしぶしぶといった感じに言うと、ツカツカと先頭に立って歩き出した。ポルとメル、最後にエリーゼがその後に続く。


 一行は雪の積もった裏庭に出た。通用門をペレネが開けると、門の外で門柱に持たれてぼうっと立っていた二人の門番が突然びしっと背筋を伸ばし、口を揃えて叫ぶ。

「お気をつけて!いってらっしゃいませ!」

「たるんでますよ。門番は飾りで置いてるわけじゃないんですが?」

 ペレネは厳しい声で門番をたしなめる。二人はさらにぴっちり硬直した。

「は、はい!」

「申し訳ございません!」

 ため息をつくペレネの後ろでポルが申し訳なさそうに手を振り、メルは門番たちにウィンクを飛ばした。

 そそくさと門を通りすぎていった一行が角を曲がって見えなくなると、門番の一人が呟いた。

「……怖えなぁ、ペレネさん」

「仕方ないだろ、悪いのは俺たちだし。その上この間の事件だしな。俺はお嬢様方の労りだけで幸せだぜ」

 もう一人が若干うっとり気味に返す。

「幸せそうだな、お前はさ……なら俺たちを叱りつける割に、なんでペレネさんとエリーゼさんのお付きだけでお嬢様方を外に出すんだ?それこそ危険すぎるだろ」

「お前は知らないのか。あの人たち、ああ見えて正面から取っ組み合いしたらめちゃくちゃ強いんだぜ。伊達にお目付けやってねぇよ」

「でも……それでも念は入れないのか?いくらお二人が強いとはいえ、二人だぜ……」

「さぁな」

 答えた門番は持っていた槍を置き、手を頭の後ろで組んで伸びをした。

「何か理由があるのさ。俺たちが知り得ないような理由がな」


**********


 ルズアとの約束の数週間前。しばらくぶりにメルとベッドを交換した日の次の晩、私は再びメルの部屋を訪れていた――例の、大事な話を切り出しに。

「旅?」

 寝間着を着て、ベッドでホットミルクをすすっていたメルは素っ頓狂な声を上げた。対する私も同じように寝間着を着て、その隣に腰掛けていた。お揃いのカップでホットレモネードをすすりながら、静かに頷く。

「オマエノカアチャン、デベソ」

 二人の間に下りた沈黙を、チェストの上のオウムが破った。やかましいと言わんばかりにアイテルが時計の上からギャア、と鳴いた。

「げふん……旅に出たい、というのは分かった。まあ、今は止めはしないよ。母さんの事件のことを任せたのは私だもん。ただ確認までに聞くけど、理由は母さんのことについて、それだけ?」

 メルは両目をつむって重々しく言うと、最後に右目だけを開いて刺すように私を見た。

『いいえ……全く関係のないことではないけど、趣旨から外れているのは認めるわ』

「ふうん。それで、その理由ってのはどういうことなの?」

 私はメルに向き直った。チェストや時計の上の動物たちもなぜか息を潜めているようだ。

『うん……あの。“魔術書”の最後のページに“聖清魔水”ってものに関する記述があってね』

 メルは訝しげに眉をひそめた。

「なに?それ」

『この間見せた“魔術”はね、まず自分と周囲の物質や環境との境界をなくすことによって自分の持つエネルギー……つまり体力や生命力を“魔力”に変換して、そのエネルギーをひきかえに周囲の物質や環境に超常的な変化を及ぼす術なの。体力や生命力はそれだけで人間や動物を精密に動かし命を保つだけの力がある。それは一番手近で、莫大な力よ』

「ふ……ふむ。そう、それで?」

『つまりいくら少しの力で大きな変化を起こすことができるからと言って、のべつまくなし魔術を使えば体力が、果ては生命力が消耗しきって死に至る。とあることをしたいと思えば、何処かでその代償を払えということなの』

「うん……大丈夫。なんとか理解してるよ。続けて」

『そしてそういうことだから、魔力はまず生命を持つものでないと持つことはあり得ないの。そのはずなのよ。でもただ一つだけ、魔力をもつモノが存在する』

「それが……?その、さっき言ってた……?」

 私は何度も頷く。

『ええ。あの本の著者が発見した、唯一の魔力をもつ水よ。ずっと人間どころか生命にすら触れなかったために神秘的な魔力を持つようになった、とあるわ。唯一その水を以ってのみ、代償なく魔術を使うことができる。あらゆるものを手に入れ、どんな病をも治し、どのような力も得ることが可能だろう、と』

 私はメルの反応を待つ。数秒して、メルが唇をそうっと開くのがわかった。俯向く私の頬あたりに、メルの少し怯えたような視線が痛い。

「ふ、ふぅん、それで……それで、ポルはそれを探しに行くっていうの?」

『……ええ。そうよ。きっとこの本の著者もこの水がいかに危ないかよく知ってたんでしょうから、どこにあるかが書いてないの』

「何がほしいの?ポルはその水を見つけてどうするって……」

『私――』

 メルの、金色の睫毛が震えていた。私は構わず続ける。メルが不安がるから隠すという選択肢は、私の中にはない。メルの信用をそんな風に裏切るつもりはなかった。


『声が欲しいの』


 **********


『声が欲しいの』

 ポルのその言葉は、わたしの中に今までで一番重く響いた。

「……そっ……か」

 聞いて、そして納得した。しょぼい返事しか出てこなかったけど、ちゃんとわかっていた。それはポルにはあんまりにも当然な望みだ。

 この広くて狭いお屋敷の中で、ポルが普段の生活で何も不便をしていなかったのはわたしもよく知っている。でも、そういうことではない。

 ポルは小さい頃からわたしが母さんの部屋で歌の練習をするのをずっと覗いていた。わたしはそんな姿も知っていた。ポルが母さんの誕生日に似顔絵を一生懸命描いて届けに行ったり、クリスマスには料理長とお菓子を作って渡しに行ったりしたけれど、その度に『もらってくれなかった』ととぼとぼわたしのところへ戻ってきていたのは、今じゃ古い思い出だ。しまいにはわたしに、歌を教えてくれないかと頼みに来たのも覚えている。もうずっと何年も、何年も前のことだ。

 母さんはポルを嫌いだったんじゃない。母さんはわたしのレッスン中にもポルのことをよく気にしていたし、もし嫌いだったのならこんなにも頑固に外の世界から声のないポルを守ろうと、彼女を籠の鳥にしたりはしなかっただろう。母さんは間違いなくポルを愛していた。

 それをきっとどこかで分かっているからこそ、ポルは何とかして母さんを喜ばせたかったんだと思う。わたしのレッスン中に母さんがよくしていた「すごいわ、よくできたわね」の顔が見たかったのだろう。

 それなのに母さんはポルからはいつも視線を逸らして、俯いて、黙ったまま悲しいような困ったような顔をしてばかり。最後までポルに笑いかけることはなかった。結局ポルが行き着いた答えは「母さんに喜んでもらうには歌うしかない」だったのだろう。

 わたしの左手に、ポルの温かい右手がすべる。

『ほら……母さんはいなくなってしまったけど、私がもし、もし歌えるようになったら、母さんはあっちで喜ぶんじゃないかなって……思ったりして』

 ポルはしりすぼみに呟いた。

 私がもし歌えるようになったら……それはポルにとってきっと、母さんが死んだからといって諦められることじゃなかった。そしてそれは、母さんがいなくなって空いた穴を埋める気持ちでもあるのだろう。母さんが死んだ次の日お屋敷から抜け出して、それから一週間必死で魔術書を調べて導き出したポルなりの解決策。いなくなった母さんに、いつか認めてもらうための。

 わたしはポルに声があったらとか、歌えるようになったらとか、そんなことはこれっぽっちも考えたことはない。小さい頃からずっと、今のこのポルがわたしの敬愛する双子の姉なのだ。だがそんなポルを差し置いて、歌姫として周りにもてはやされ、母さんにさも当たり前のように喜んでもらえる自分が、なんだかすごくずるいような気がして仕方なかった。せめてちゃんと顔くらい合わせないのはおかしいと思って、なぜポルと話さないのか母さんを問い詰めてもみたけれど、母さんはいつも話したくなさそうにはぐらかすし、わたしもそれ以上追求できなかった。何故ならポルを敬愛するのと同じように、母さんのことも愛していたから。

 これは家族として双子の姉妹として、お互いがお互いを理解し常に寄り添い隣り合ってきたわたしたちの唯一の、そして最大のすれ違いだった。

「そうかもね……」

 私はポルに笑いかけた。涙が出そうだった。

「それにせっかく外の世界を知ったんだから、思う存分見てくるのもいいかもしれないし。ただ……二つ、約束してほしいんだ。月並みな約束ではあるけど」

 声が震えないように、自慢の喉を頑張って落ち着ける。ポルは後ろめたそうに、ちょっとだけ笑っていた。これでいいのに――そんな顔、ポルはしなくていいのに。もっとにこにこで、外の世界を楽しんでる間に、母さんのことも歌のこともどうでもよくなっちゃえばいいのに。

『ええ。もちろんなんでも聞くわ』

 ポルの返事を聞いて、わたしは指を顔の前に二本立ててみせた。

「まず、いつも自分の身を一番に考えること。たとえ目的が果たせなくても、自分の身が危ないのなら真っ先に避けること。それと二つ目。ちゃんと今まで通り元気で、ここに……私のところに生きて戻ってくること。それだけ」

 ポルが笑った。

『全くそのとおりね。それじゃあ』

 ポルは小指を差し出す。わたしはその小指に自分の小指を重ねて、ポルの真似をしてにっこり笑う。

「ゆびきりげんまん?」

『ウソついたら?』

「針千本……は痛いからポルの大っ嫌いなオクラを毎日毎食食べさせる!ずっと!」

『うげぇ……それは勘弁して』

「よし、じゃあ交渉成立っ!ゆびきった!」

 二人の指が離れると、二人は目を合わせてたくさん笑った。


**********


 ルズアとの約束に、私たち四人は揃って出向いていた。まだまだ溶けない銀色の雪景色の中に、凍りそうなブルーグレーをした一条の河が流れている。河にかかる大きな橋の下の、そこだけ雪が積もらず土がむき出しになっているところに、遠目にでもわかる鮮やかな赤毛が佇んでいるのが見えた。

「待たせちゃってるみたいですね」

 エリーゼが目を細めながら言った。私たちは少し足を早めた。

 ゴーン……ゴーン……ゴーン……

 商店街にある教会の鐘が、遠くから重々しく午後三時を知らせた時、私たちはちょうど彼のもとへ到着した。

「お八つ時、なんて分かりにくい時間指定しやがって……それに随分大所帯だな」

 顔を合わせた途端に、ルズアは冷ややかな視線をくれてきた。メルとペレネは一瞬その視線に戸惑っているようだったが、私は気にせず彼に近づく。

『手紙はちゃんと届いたみたいね。わざわざ来てくれてありがとう』

「ああ届いたさ。喋る手紙なんて怪しいもん送りつけやがって。どういうことか説明してくれるんだろうな?あ?」

 後ろからどうやらメルが凄むルズアを睨みつけている。ルズアの口の聞き方が気に入らないらしい。

『もちろんよ、そのためにきたんだから。急な話で返事を迫ってごめんなさいね……まあまず彼女たちを紹介するわ。右がエリーゼ、左がペレネ。二人ともうちのメイドよ。エリーゼには会ったと思うけど』

 合図をすると、二人は恭しくお辞儀をした。わたしはメルの肩に手を置く。

『そしてこの子が……』

「メル・アトレッタ。違うか?」

 ルズアが私の言葉を遮り、メルに目を向ける。

「さっきから随分文句ありげだな?」

 言われたメルは、睨むような表情をぱっと笑顔に変えた。

「初めてお会いする方に、文句など思い至りもしませんわ」

 嫌味でない、お屋敷の客人や他家の上流階級に見せる丁寧な口調だ。

「俺はそんなに恭しく口をきかれる身分じゃねえんだが?」

 ルズアが口の端で笑って言うと、メルは笑顔を一瞬にして引っ込めた。

「あのさあ、この人ほんとにポルの友達?」

『ま、まあ……多少口が悪いだけよ。悪い人じゃないわ』

「ふぅん……」

 メルはやはり不満そうだ。ルズアを上から下まで眺め回して、私に目配せする。

「まあいいか。こんな寒いところで話すのもなんだし、移動しようか?」

「あ?どこに行く気だ?」

 ルズアもルズアで、当然ながら警戒心丸出しだ。私は慌てて彼の手を取った。

『一緒におやつでもどう?ってことよ。えっと……まあその……うちのおごりで』

 ルズアの目がぎらりと光った。

『オッケーだって、メル。行きましょうか』

「え、うん?そうなの?じゃあ……」

 状況がいまいち飲み込めないのか、目を白黒させながらもメルは先頭に立って歩き出す。私とメイド二人がそれに続き、その後からルズアが不服そうな顔からちらちら期待を覗かせながらついてきた。食べ物となると従順すぎて心配になる。

 橋に上ると、メルは質素な黒いフード付きのケープを羽織って顔を隠した。歌姫でなくても目立つメルの愛らしい容姿は今あいにくちょっと不都合だが、それにしても今日は商店街の方の人通りが多い。そういえば、今日は休日だ。周りの様子も以前に来た時と少し違う。農民たちが作物の種を物色しに来ていたり、服屋のマダムや本屋の若番が暇を満喫していたりするのを見かけた。道端で騒ぐ筋骨隆々の男たちは、きっと非番の憲兵だろう。その間をちょろちょろと初等学校休みの、ルズアの”カモ”たちが遊び回っている。人が多ければ視界も悪い。その点はメルがお忍びで外出するのに好都合なのだが、今度こそ私が顔見知りと鉢合わせないようにしなければなるまい。メイド二人に先を行ってもらい、私はルズアの服の裾を引っ張りながら数歩後ろをはぐれないようについていった。向かう店の目星はつけているのだろう、メルは早足でずんずん進む。

 たどり着いたのは小さな軽食屋だった。雪よけの大きな庇にかかった赤い布の看板には、へたっぴな白文字で“ビリー・ボッツのケーキと料理”と書かれている。小さな丸いドアを入ると、ふわっと生ぬるくて甘い空気が顔に当たった。薄暗い店の中はやっぱり休日の人気で賑わっている。

 メルはうつむき気味にこちらを振り返ると、“一緒に来て”と手で合図した。私とルズア、メルは三人で隅の丸テーブルを囲み、メイド二人はすぐそばの違うテーブルに着く。注文を取りに来た女主人に適当なケーキと飲み物を三つずつ頼むと、私たちは真剣な顔で額を付き合わせた。

「で?本題は?」

 ルズアはテーブルにドン!と肘をついて仏頂面になる。私はメルと顔を見合わせると、メイド服のポケットからメモ紙と鉛筆を取り出して、メルの前で鉛筆を走らせた。


 密談することしばらく。

 話の最中料理を頼んでは次から次へと平らげていたルズアが、食べる手を止めた。

「……で?母親を殺した犯人と、意味のわかんねえ水を探すための旅に、同行人として一人でついて来い、そういうことでいいんだな」

 ちびちびとホットレモネードを啜りながら二人で説明していたのだが、ルズアは案外ちゃんと理解してくれていた。周囲の目をひく食べっぷりを披露しながら話もまともに聞くなんて、とんだ芸当もいいところである。説明し直すつもりでいたらしいメルの顔が呆れていた。

 周囲にちらちら目をやると、ペレネが何度もこっそりシャンパンを頼もうとするエリーゼを説教している。私はテーブルに向き直って、空になっているルズアの手をつついた。

『ええ、そういうことよ。使用人に同行してもらって、お屋敷の人を減らすわけにいかないとも思ってるわ。突拍子もないことを言ってごめんなさいね』

「突拍子もないってのは“魔術”とやらのことか?あんな手紙送ってきやがって、てめえは頭がおかしくなったのかと思ったぜ。帰る前に一発殴らせろ」

 メルがきっと目を吊り上げた。

「そりゃペレネたちを突破できてからだね、彼女たち強いんだから!」

「俺には勝ってねえけどな」

 ルズアは口の端を吊り上げてメルを見下ろした。

 ここにルズアを呼び出すためにお屋敷の誰かを路地裏に使わすのは危険だと思ったのだが、 エリーゼが自ら行ってくれるということで、メルに確認を取って護身用の武器携帯のもと手紙を届けてもらうことにした。しかし、もちろん盲目のルズアに手紙は読めない。そこで“魔術書”にあった“蓄音魔術”を使い、魔法陣を描いた紙に手紙の内容を読み上げるメルの声を貼り付けて送ったのだ。それでしゃべらない手紙と同じように、何度も読み直せる。比較的単純な魔術だが、メルが読み上げている間ずっと魔術を発動しておかなければならないので、まだ使い始めたばかりの私にはかなり体力が要った。そのあとしばらくは動けなかったのを思い出す。

「ええっうそでしょ?いくらなんでもあんたがそんなに強いわけないじゃん」

 メルが突っかかり返す。

「あいつが弱いんじゃねえの」

 ルズアはせせら笑った。私はため息をつく。

『あら、エリーゼにはくれぐれも粗相のないように言っておいたのに喧嘩したの?怪しまれないようにちゃんと名乗ったでしょう?』

「うるせえな、あいつの態度がなめくさって……」

「いぇっっくしょおおおい!……ウィー」

 エリーゼのくしゃみが店内に響きわたって、全員がそちらを振り返る。凍りついた店内でエリーゼだけがきょろきょろしていた。

「ひぇっ?なななんですか?ただのくしゃみなんですけど……」

 エリーゼからゆっくり目を逸らした私たちは、静かに机に向き直った。店内は再びざわつき始める。ルズアが真剣な顔で口を開いた。

「それで、その変な水が、あらゆるものを手に入れ、どんな病をも治し、どのような力も得ることができるってわけなんだろ……つまりそれが俺にとって、てめえの旅に付き合う駄賃ってことかよ」

『あー……悪く言えばそういうこと』

 私は飲み終わったカップをテーブルに置いた

「あるのかどうかもわかんねえもんで取引しようたあ、胡散くせえにもほどがある」

『そうね……でも私は本当にあると思うの。根拠もあるわ』

「根拠ってのは?」

『“魔術”は本当にあった。あなたも見たでしょう?』

「それだけ?」

『それだけじゃだめ?』

 ルズアは黙った。

『“魔術書”は本物だったわ』

 ルズアがメルに意味ありげな目線を投げる。メルはカップに残ったレモネードをすすりながら、ルズアに向けて首を傾げた。私はいつの間にか身を乗り出していたのに気づいて、椅子の背もたれに体を戻した。

『……私はそう思う。信じるか信じないかも含めて、お返事をいただきたいわ』

 私はルズアから視線を外す。たとえルズアが来なくても、旅には出ようと思っていた。彼を誘ったのは……私の理由は単なるわがままだ。“聖清魔水”を見つけて私の声取り戻したい。あわよくば、彼の視力も。彼が望んでいなければただの失礼なお節介だ。だから口に出すつもりはないが、あんなに怪我だらけにならずに済むのなら、私はそうしてほしかった。

 それにお屋敷にこもっていたら犯人は追いかけられないが、お屋敷を離れるということは母の残像をあそこに置いていくことでもある。ぼんやりした母の影で何にも見えないのはもうごめんだ。できれば一度お屋敷と別の世界に行くために、私はお屋敷の人と同行するのは避けようと思ったのだ。

 つまり私の勝手なわがままのために、この旅に彼を巻き込み、メルを含めたお屋敷のみんなを置いていく。これからアトレッタ家当主のメルを支える屋敷の者が一人でも余計に減らなくていいじゃないかと、自分には言い訳し続けていた。

 黙って空を睨んでいたルズアが、わずかにこちらへ顔を向けた。

「いいぜ」

 重々しく言う。

「そのかわり俺がお前の護身になると思ってるなら言っておく。お前の命を守れる保証なんざねえぞ。その上旅費も一銭も持ってねえ。箱入り娘のお嬢様がどうやって旅なんてするのか知らねえが、飢える時は飢えて死ぬ時は死ぬだけだ。俺はあくまで俺の目的のためだけに旅をする。お前の言った駄賃は、まあもらっといてやってもいい。俺はただのスラムのゴロツキだ。どんなわけか知らねえがそれを同行させるつもりなら、いいんだろうな」

『あなたにも、旅をしたい目的があるのね』

「なきゃ断ってんよ」

 メルの顔に不安の色がよぎる。それを察知したルズアが、一瞬メルを睨みつけた。ルズアに話を持ちかける手前、私はそれくらい言われるだろうと覚悟していた。返事には迷わない。

『ええもちろん。それで構わないわ』

 メルの視線が私とルズアの間を行ったり来たりする。

 数秒の沈黙のあと、ルズアはついと顔を逸らした。

「じゃあ、交渉は成立だ。サンドイッチの皿あと一つとケーキ三つ」

「え、ちょっと、まだ食べるの⁉」

 最後の言葉をカウンターに投げかけたルズアに、メルが思わず叫んだ。ルズアは嬉しそうにニヤニヤ笑う。

「どうした、破産か」

「うるさい失礼な!うちはそんなくらいじゃ破産しません!持ち合わせがあったかどうか……」

 メルが財布をごそごそし出しているうちに、ルズアは運ばれてきた料理にすぐさまがっついていた。最初からペースが落ちていない。

 少し離れた席ではペレネが上品にコーヒーを啜る傍ら、同じものに挑戦したらしいエリーゼがコーヒーカップを持って、「うぇー苦いー、しぬー」とお店の人に失礼なことを言っていた。テーブルの角砂糖には気づいていないようだ。

 その平和な光景が、私の心には棘のように痛かった。


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