第9話 暗黒病棟の呼び声


「えっ? リリヤさんもまだ帰ってきてないの?」


 マーディーは目を丸くした。

 朝から穴蔵荘セラーに尋ねてきたレイヤとアンニカは、その様子を見て苦みの走った表情を浮かべる。


「やっぱり……義兄さんも、ですか?」

「二人揃って一晩帰らないとは……」


 視線を感じて振り向くと、寮の男子たちが顔だけ覗かせて様子を窺っていた。

 レイヤもアンニカも、学院では一、二を争う美形だ。寮暮らしの男どもには珍しいのだろう。何せ奴らは、れっきとした男であるマーディーをお姫様扱いすることすらある連中である。

 しっしと手を振って追い払いつつ、マーディーは思案した。


「二人とも無断外泊って……それって、そのう……言いにくいんだけど……そういうことじゃ?」

「ありえません。リリヤ様に限って婚前交渉など」

「婚前交渉って……。古臭いなあ、エルフィアは」

「ドワーフィアがいい加減なのです!」

「なにおう!? 世界一数字にうるさい僕らに向かって何を言うんだ!」

「まあまあ」


 レイヤが困ったように笑いながら二人を取りなす。


「わたしも、姉さんと義兄さんが……っていうのは、その……ありえないことではないと思います」

「だよねえ。あの二人、僕らの前では結構喧嘩が多いけど、なんだかんだ二人きりのときは甘々なのかもしれないし」

「……だとしても、なぜ朝になっても帰ってこないのですか?」


 不服さを押し殺した表情と声で、アンニカが言った。

 マーディーは、うーん、と首を傾げ、


「まだラブホにいるんじゃない?」

「デリカシー!」

「うぼぁーっ!」


 アンニカの小さな手が、万力のようにマーディーの頬を掴んだ。

 ギリギリギリ、と手に力を込めながら、アンニカは人殺しの眼光で睨んでくる。


「……レイヤ様の前で、そのような汚らわしい言葉を使わないでください……!」

「んぐぐぐう……!」


 マーディーは口を塞がれたまま睨み返した。言葉狩りなんて前時代的な圧力には決して屈しない。

 レイヤが照れたような顔を愛想笑いで誤魔化した。


「あはは……。まあ、その、こういう日もある、ということで……。今日はあの二人の穴埋めを頑張りましょう、二人とも」

「あー、そっか! 創立記念祭の作業がまだ……!」

「従者としては当然です。……が、もし夕方になっても帰らないようであれば……」

「……うーん。そうだね。さすがに夕方になっても帰ってなかったら心配かなあ」


 ラブホテルってそんなにずっと泊まっていられるものなのかな、とマーディーは思う。一応あとで調べておこう。

 レイヤがおとがいに指を添え、軽く眉根にしわを寄せた。


「そう、ですね……。じゃあ、もしそうなったら、お二人で探してみてくださいますか? わたしはいろいろと忙しいのでお手伝いできませんが、エルフィアの実家の手を借りるのも面倒なことになるので……」


 お二人で?

 マーディーは学生服にヘッドドレスをしたちぐはぐメイド女ことアンニカを見た。


「……このピンク髪と?」

「ピンクじゃありません! ストロベリーブロンドです!」

「えー? ピンクでしょー。どう見てもー」

「…………このチビ」

「きっ、君よりはデカいよ! 5センチくらい!」

「ふっ。155センチ以下。チビチビチビ!」

「う、うるさいっ! このピンクおっぱい!」

「ピンクおっぱ……!? ひ、人が気にしてることを両方ともっ!」

「いだあーっ!!」


 足を思い切り踏んづけられてぴょんぴょんするマーディーを見ながら、レイヤがくすくすと肩を揺らした。





「リリヤさん、帰ってた?」

「……いいえ」


 夕日が横ざまの影を落とす頃。

 リリヤの部屋に所在を確認しに行ったアンニカが、厳しい表情で戻ってきた。


「相変わらず情報端末ブラウニーも通じないし……ほんと、何やってるんだろ?」


 応答のない小型タブレット状ブラウニーをポケットに戻し、マーディーは首を捻る。

 本格的に怪しくなってきた。

 デリックの無断外泊は今に始まったことではないが、連絡まで取れないというのは普通ではない。しかも創立記念祭前の忙しい時期に……。


「足取りを追います」


 アンニカは宣言するように告げた。


「もはや看過はできません。独自にリリヤ様の行方を調査します。目立つ方ですから、少し聞き込みをすればすぐに足取りを掴めるでしょう。……それでは」

「ちょっと待った」


 立ち去ろうとしたアンニカの肩を、マーディーは咄嗟に掴む。

 アンニカは鬱陶しげな表情を隠しもせずに振り向いた。


「……なんですか? あなたに構っている暇はないのですが」

「君のアナログなやり方じゃあ非効率だろ。僕も一緒に探す」

「必要ありません。それでは」

「レイヤさんの指示は?」

「……………………」


 アンニカは途端に無表情になって沈黙した。

 彼女にとって、主やそれに準ずる人間の命令は絶対なのだ。たとえそれが、気に食わない相手と力を合わせろ、といったようなものでも。

 アンニカは苦虫を噛み潰した表情を浮かべて、整った顔を台無しにした。


「……役に立たないようなら放っていきますよ」

「こっちの台詞だね」


 マーディーはにやりと笑みを見せつけて告げる。


「実はもう当たりを付けてあるんだ」





「この大SNS時代、多くの人間が自分の生活をネット上に垂れ流してる。見たこと、聞いたこと、食べたもの、何でもないことまで何もかも。あれほど目立つ二人なんだ、それを追っていけば必ず尻尾を掴めるって、そう思ってた」


 12階建ての病院は、夜闇の中で不気味に聳え立っていた。

 マーディーとアンニカは、近くのコンビニの前で缶コーヒーを飲みながら、何気なく病院の入口を観察する。


「案の定だったよ。この辺りでスーツを着たドワーフィア人とエルフィア人のすごい美男美女がいたって話を見つけた。ドワーフィア人とエルフィア人の男女ってだけでも珍しいのに、美男美女って言ったらあの二人だろ? スーツを着てるっていうのは謎だけど」

「先日までレイヤ様が入院していた病院……ですか」

「ついでに言うと、謎の出火で半分くらい燃えちゃった病院。今でもたまにニュースに出てくるね」


 さらにもうひとつ、とマーディーは指を立てる。


「入口の門に、天見隊の見張りが立ってるでしょ?」

「ええ。二人」

「そのうちの片方だと思うんだけど、SNSでこんな風に言ってた。『同僚が二人、勝手に持ち場を離れてどこかに行った』。ちょうど昨日――デリックさんたちがいなくなった頃からね」

「……怪しいですね」

「きな臭すぎて、正直あんまり関わりたくないよ」


 マーディーは缶コーヒーの残りをぐっと飲み干して、ゴミ箱に放り込んだ。


「……でも、そうも言っていられないよね。デリックさんがピンチかもしれないんだから」


 アンニカが包み込むように缶コーヒーを持ったまま、じっとマーディーの顔を見つめる。

 マーディーはたじろいだ。


「え……っと、なに?」

「いえ……どうしてあなたは、そこまでデリック様に尽くそうとするのかと、そう思って……。わたしのように、侍従として仕えているわけでもないのに」

「救われたからだよ」


 容易い質問に、マーディーは即答する。


「デリックさんがいなかったら、今の僕はいない。だから、少しでも恩を返せそうなことがあるなら、できることをしようって決めてるんだ」

「……できることを?」

「そう……僕にできることを、できる限り」


 その言葉は、マーディーにとって一種の呪文だ。

 自分を自分のまま成り立たせるための、どんな魔術言語よりも強力な呪文だった。

 アンニカのほうに視線を振り、言葉を返す。


「君も似たようなものでしょ?」

「……わたしは……」


 コーヒーの缶を握るアンニカの手に、きゅっと力が籠もった。


「……憧れの、ようなものです」

「ふうん。いいじゃん、憧れ」


 じろりと、アンニカは半眼でこちらを睨む。


「簡単に言ってくれます」

「簡単じゃあないの?」

「……リリヤ様は、特別なお方ですから」

「まあ、そうだね。デリックさんもそうだ。……でも、今ここにいるのは僕たちだけだ」

「ええ――わかっています」


 アンニカも、缶コーヒーの残りを一気に飲み干した。


「行きましょう」





 アンニカがあっという間に侵入経路を見つけて、二人は見張りに気取られることなく病院の中に入った。

 アンニカはリリヤの身の回りを世話するメイドで、今も特徴的なピンク色の髪にヘッドドレスをつけているが、侵入の手際はまるでスパイだった。


 少し聞きかじったことがあるが、彼女はリリヤやレイヤの実家、フルメヴァーラ家に代々仕える侍従の家系らしい。

 リリヤの専属メイドになるためだけに育てられた、プロ中のプロなのだ。

 その英才教育の中に、家事以外の技術も含まれていた、ということだろう。


「……あの」


 そのアンニカが無愛想に言った。


「もう少し離れてくれませんか?」


 ぶんぶんぶん、とマーディーは首を振る。

 夜の病院である。閉鎖中である。明かりのひとつもついていないのである。

 すなわち、怖いのである。

 そういうわけで、マーディーはアンニカの小さな背中にへばりついていた。


「お、一昨日にあんな目に遭った直後の身には、ちょっと難易度が……!」

「そんなに怖いなら待っていればよかったでしょう」

「で、で、でも、僕じゃないとわからないこともあるかもだし……!」


 はあ、とアンニカは呆れたように溜め息をつく。


「わかりましたから、おかしなところを触らないようにだけしてください。あなたには前科がありますから」

「りょうか――ひえっ、手術室……!」


 すいすい歩いていくアンニカに引っ張られる形で、階段を昇っていく。

 4階から火事の痕跡が如実に表れてきた。

 廊下は荒れ放題、病室の扉はほとんど焼け落ちていて、ますますゾンビでも飛び出してきそうな雰囲気になる。


「リリヤ様とデリック様が何か目的を持ってこの病院を訪れたとしたなら、十中八九、火事の原因を調べるためでしょうね。妹であるレイヤ様が巻き込まれたのですから」

「……あの二人、なぜか天見隊に任せとけばいいようなことに首を突っ込んじゃうからなあ……」

「そして大抵、とんでもないことに発展するのです。この街が転覆するような事件やら陰謀やら……」


 普段は喧嘩ばかりしているあの二人が行動を共にするときは大抵そうなのだ。あの天才たちをして、協力せざるを得ないような状況がそこにある。

 そうは言っても今回はただの火事だし、大層なことにはならないと期待したいが……。


「……延焼の具合から見て、出火元はおそらくここですね」

「精霊管理室……?」


 焼け残ったプレートにはそう記してあった。


「また変なところから出火したんだなあ……」

「……とりあえず、中に入ってみましょう」


 アンニカがゆっくりと扉を開けて、中の様子を懐中晶灯で照らす。

 マーディーも、恐る恐るではあるが、情報端末ブラウニーのライトアプリを使って部屋の中を照らした。


「うわっ、ひどいなあ。高そうなコンピュータが丸焼けになってる」

「真っ先に目に付くのがそれですか……」


 アンニカはライトの先をあちこちに振り、


「誰もいない……ようですね。火災の痕跡以外には、特におかしなものも見当たりません」

「うん……。デリックさんたちはここには来なかったのかな?」


 マーディーは焦げた床を照らしていく。幸い、死体が転がっていたり、派手な血痕が残っていたりはしないようだった。


「――ん?」


 しかし、目につくものはあった。

 マーディーはそこを重点的に照らして目を凝らす。


「ここ……ちょっと、焦げ方が違くない?」

「焦げ方?」


 丸焼けになった巨大コンピュータの傍だった。

 マーディーは床に膝をついて、そこにそっと指で触れる。


「……一部分だけ手触りが違う。まるで焦げた床をみたいな――」

「意図的に――」


 マーディーはアンニカと顔を見合わせた。

 おそらく、同じことに思い至ったのだ。

 ――デリックの電撃魔術!

 マーディーは床に指を這わせ、感触の違う部分を調べていった。


「線……? 図形……? あ、いや、違う。文字だ、これ! ここにあるのは……たぶん、『A』……?」

「手分けして調べましょう!」


 二人で床を探り、焦げ跡によって刻まれた文字を調べ上げた。

 結果、ひとつの単語が浮かび上がる。


「『P』……『A』……『L』――」

「――『PALERIDERペイルライダー』?」


 それはマーディーにとって、馴染みの薄い単語だった。


「ペイルライダーって……確か、神代の神様の名前だよね?」

「神様と言っても魔神ですが。《七天の魔神》の一柱、病を司る神霊を宿した《駆け広がる病天のペイルライダー》――」


 デリックはなぜこんなメッセージを残したのだろう? 頭を捻るが、理由がさっぱりわからなかった。


「……ちょっと待ってください。どうやら、残された手掛かりはこの文字だけではないみたいです」


 アンニカが指先で虚空に魔術陣――幾何学式マギグラムを描き、渦巻く風が鳥をかたどったような精霊を召喚した。

 その精霊が、ふわりと風を起こす。すると、空気の一部が淡く紫に色づいた。


「文字の辺りに魔力の残滓が残っていますね……」

「うわっ、魔力を可視化したんだ」

「……初歩ですよ。普通の中学でも習います」

「あ、あはは……」


 笑って誤魔化すマーディーをよそに、アンニカの目は色づいた魔力を追う。

 空中に漂う紫色は、ふわふわと煙のように精霊管理室の外に続いていた。


「……デリック様が、魔力を垂れ流しにしたままどこかに移動したようですね」

「魔力を垂れ流しに――霊子経を開放したまま? それって……!」

「魔術の行使中に気絶した、と考えるのが妥当ですね……。しばらく経てば霊子経は勝手に閉じるので、デリック様なら魔力欠乏症に苦しまされることはないかと思いますが」


 あのデリックが気絶させられた――?

 にわかには信じがたかったが、とにかく重要な手掛かりだ。


「魔力の痕跡を辿ります。その先に――」

「デリックさんがいる可能性が高い。もしかしたらリリヤさんも……!」


 二人はうなずき合い、紫色の煙を追った。





 魔力の痕跡は、渡り廊下で繋がった別の棟に続いていた。

 精神科病棟。

 ……反射的に恐ろしげな印象を抱いてしまうが、別に精神病患者はお化けではない。そもそも今この病院には患者がいないはずだった。


 それでも、怖いものは怖い。

 暗い廊下はしんと静まり返り、自分とアンニカの足音ばかりが響き渡る。

 炎はこの棟には来なかったようで、床も天井も扉も無傷だが、だからこそ恐ろしい、という面もあった。

 危なそうな場所が危ないのは当たり前だ。しかし、もし危なくなさそうな場所が危なかったら、そちらのほうが恐ろしい。

 正常の中に異常が潜んでいるかもしれない……。日頃何気なく見過ごしているものの中に危険が混じっているかもしれない……。そんな、認識そのものを脅かされる恐怖。


「ダストシュートがありますね」


 だというのに、アンニカは目に付いたものを躊躇いなく、片っ端から調べていた。


「……ダメですね。開きません」

「た、たぶん患者が落ちたりしないように霊子ロックが――っていうかどこを探してるんだよ!」

「探すからには隅々まででしょう」


 魔力の痕跡は精神科病棟に入った辺りで途切れていた。そこでデリックの霊子経が閉じたのだろう。

 ここからは自力で探さなければならない。それこそ隅々まで。


(いやだぁぁぁ……)


 病室などを全部調べるのに一体どれだけかかるのか。マーディーは絶望的な気分になった。


「……この病室にもいませんね。次に行きますよ」


 アンニカがいてよかった、と心から思った。このメイド少女、恐怖感という機能が麻痺している。

 可愛げという点ではマイナスだが、今に限っては頼もしいことこの上なかった。


「――おや」


 何部屋目かのドアを開けようとして、アンニカはノブを握ったまま固まった。


「ど……どうしたの……?」

「……開きません。内側から鍵がかかっています」

「え……!? も、もしかしてデリックさん!?」

「開けてみましょう」


 どうやって、と訊く前に、アンニカはスカートの裾をたくし上げた。

 暗闇の中から突然、真っ白な太股が目に飛び込んできて、マーディーの心臓が激しく跳ねる。


「な、な、なにをっ……!?」


 顔を赤くして動揺するマーディーを、アンニカは見下げ果てたような目で見る。

 それから、太股のベルトから工具のようなものを抜き取った。


「ただピッキング道具を取り出しただけです。何を勘違いしているんですか、いやらしい」

「そ、そんなところに仕舞ってるほうがいやらしいだろ!?」


 というかピッキングって、と突っ込む前に、アンニカは十徳ナイフのような工具をノブの鍵穴に差し込んだ。

 カチャカチャカチャ、という音が数秒。


「……開きました」

「はやっ!」

「静かに。入りますよ」


 ほんの少し扉に隙間を開けて、中の様子を探る。

 ……一見、人影はなかった。


「いえ……床を見てください」

「あっ……!」


 誰か――おそらくは二人。二人の人間が、床に倒れ伏しているように見えた。


(まさか、デリックさんとリリヤさん……!?)


 動き出しそうな気配はない。最悪の想像が脳裏を過ぎり、固まっているうちに、アンニカがライトをその影に向けた。

 デリックとリリヤではない。

 天見隊の白い制服が見えた。


「この人たち……」


 危険はなさそうだと見て病室に入る。

 倒れているのは、天見隊の隊員らしき二人の男だった。


「……そういえば、見張りの天見隊が勝手にいなくなった、という話がありましたね」

「この二人が、その……?」

「……う……」


 男たちが身じろぎし、マーディーはビクッと肩を跳ねさせる。

 二人が持っているライトで目を覚ましたのか。

 彼らはゆっくりと身を起こしつつ、マーディーとアンニカを見上げた。


「き……きみたちは……?」

「知人を探している者です」


 アンニカが床に両膝をつき、男たちと目線を合わせる。


「起きたばかりで恐縮ですが、お話しを聞かせていただいても構わないでしょうか。なぜあなたたちがこんなところで眠っていたのか。それと、金髪のエルフィア人女性と黒髪のドワーフィア人男性について何か知っていれば――」

「だ……ダメだ」


 え、とマーディーは口を開けた。

 ダメ? 知らない、ではなく?

 そんな疑問は、しかし勘違いだった。


「きみたち、ダメだ……ここはダメだ! ……! ここには、化け物がいる!」

 

 ――ぞる……。

 と、何か大きなものが引きずられるような音が聞こえた。

 ――ぞる……ぞる……ぞる……。

 その音は、徐々に近付いてくる。

 一定のリズムで耳にへばりつくそれは、まるで足音のようで――


 マーディーは、アンニカは、背後を振り返った。

 息を呑む。アンニカは息を止める。

 ここでも、動いたのは彼女だった。

 ゆっくりと戸口に近付き、廊下の向こうを覗こうとする。


「――だ、」


 ここでなぜそう思ったのか、理由はわからない。

 きっと、彼女が麻痺させているものを、マーディーはまだ正常に持っていた。それだけのことなのだろう。

 この瞬間、こう叫べただけで、マーディーがこの場にいる価値は十二分に存在した。



「――ダメだッ! 戻れッ!!」



 アンニカの肩を掴んで引き寄せた直後。

 戸口の枠を、一本のが掴んだ。

 ようなもの、とマーディーがそう思ったのは、ひとえに絶対的な違和感があったからだ。

 5本の指。白めの肌色。

 そこまでは人間の手らしいのに、そこからが異常。


 

 いや、それどころか、

 ぶよぶよぐねぐねとゴムのようにしなり、戸口の枠を掴んでいるのだ。


「あ……あ……!」


 アンニカを抱きかかえるようにしながら、マーディーは全身を恐怖に凍らせる。

 異常は終わらなかった。

 むしろ増殖した。


 続いて、が戸口を掴む。


 いずれも骨が通っていない。ぐねぐねしたゴム製品のような質感。

 しかし、それは明らかに人間の右手だ。人間の右手から、あたかも魚のように骨だけを抜き取った代物だ。


 4本の右手で、自らを持ち上げるようにして、ついにその全体像が姿を現す。

 化け物だった。

 この世ならざる何かだった。


 ――8本の人間の腕が蠢き。

 ――マウンテンゴリラの胴体が這いずり。

 ――ヒグマの頭部が見下ろす。


 現実感が、一気に破壊された。

 もうすでに、ここは悪夢の世界だった――


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