ある蕎麦屋

数年前のこと。

ある外国から帰ってからすぐの日、蕎麦屋に寄った。

日本に戻って、三度目の食事。

日本を発つ前日の夕飯も、この蕎麦屋だった。

ここはわさびが美味いので、ときどき来るようになった。

店構えはあまり気の利いたものではないが、接客がよい。

少し高い値段に相応。

20代後半だった当時の俺ぐらいの年齢が、質のよいお店に行きたい時にはちょうどよい。



この日は、いつも丁寧に給仕してくださる若い女将ではなく、アルバイトの若者と思しき女のコが迎えてくれた。

まだ十分に慣れていない、一人前に少し届かない、丁寧で几帳面な接客がとても清純だ。

湯呑みを置くとき、皿を引くとき、「どうぞ」や「失礼します」と言いながら、最後に必ずこちらの目をキュッと恥ずかしそうに見つめてくる。

女将の指導の下、客に対するときは必ず目を見るようにと言われているのかもしれない。

仕事を不足なく遂げようとする、その常識的な意志が清潔だ。


このお店はいつも混んでいるということはなく、かといって閑散ともしていない。

今日は、壮年から中年の男性5人組が、俺より先に陣取っていた。

彼らはこの女のコの気を引きたくて仕方が無い。

「もりを三個ね。あ、森三中」

などと、どうにか彼女の健気さにつけ込んで、業務的以上の会話を引き出そうとしている。

彼女が厨房に向かって、「もりを三つ、ざるを一つです」と伝えると、彼らは遠くから「当たり!よくできました」と、がなる。

彼女は聞いているのかいないのか、厨房との会話以外に関心を向けない。

5人の客に対して、4人前の注文であることを厨房に問われたのだろう。

「ええ、ざるを二人でシェアします」と答えていた。

すると彼らは「ざるを”シェア”だってよ!俺らもそう言えばよかったな」と、がなる。

彼女と会話をしたいのなら、彼女に向かってちゃんと話しかければいいのに、

そうするほどの勇気と機転と礼節を持ち合わせていないから、仲間内で話しているような体でちょっかいをかけ、彼女のほうから話しかけるように仕向ける。

人馴れしていない彼女はきっと萎縮しているだろうが、厨房との会話があることを盾にして、とにかく関心を向けなかった。



彼女は美しく真面目で、貴重であるから価値が高く、そうである自分の扱いをまだ心得ていなかった。

彼女に、美しくあることを恥じないで欲しいと思う。

しかし、彼女が美しくあることに怯えるのなら、それは正当なことだと思う。

美しさと付き合うのは簡単ではないからだ。

ましてや、美しく生まれたのは彼女の責任でないのだから。

彼女はまず、それを受け入れるところから始めなくてはならない。

自分の運命を受け入れ、付き合い方を学ぶことができるか。

今後の彼女の奮闘を思い、花開き熟していく行く末を思うと、その行く末を見てみたい気持ちで、心を惹かれた。


中年の親父どもよ、寂しさには同情するが、みっともなく垂れ流してはいけない。

愛と尊敬と理性で、形作って差し出さなければ。

あなたより若く、懸命にこの世の渡り方を学んでいる後輩に、あなたの経験と教養と叡智を示して導かなければ。

そして、教えることから謙虚に学ばなければ。

あなたの寂しさを埋めるのは、あなたの寂しいエゴから生まれる、他人への思いやりだと思う。



蕎麦湯を飲んで、ほっと一息ついた。

親父たちは、さきほど店を出た。

出掛けも幼く、みっともなかった。

俺は店内に一人になった。

いつの間にか、いつもの女将が現れて、湯呑みを代えてくれた。

「まだお時間はたっぷりありますから、どうぞゆっくりいらしてください」

閉店10分前に、俺が最後まで残った状況を見て、ゆるりと言ってくれた。

俺はゆったり5分以上かけてその湯呑みを干し、席を立った。

店を出ると、そこに板前が立っていて、快活に頭を下げてくれた。

俺はお礼を言い、少し歩くと、背中から小さく「ありがとうございました」と聞こえてきた。

振り返ると、板前と女将が頭を下げている。

俺は歩きながら彼らが頭を上げるのを待って、軽く目を合わせて会釈し、立ち去った。

ある若い女性の美しさと、彼女を形作るこの蕎麦屋の美しさが俺の心を喜ばせたことへの、お礼の気持ちを持って。

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