エモーション、エモーション


学生のころ、ある講義の中で先生が語った話を、俺はまだよく覚えている。


俺がかよっていたのは私立大学の文系学部で、大学の勉強といっても気楽なものだったから、半分ほどの学生はまともに講義など聞いてはいなかった。

講義中に私語が飛び交うのは日常茶飯事で、講義をしている先生の声がろくに聞こえないこともあった。

そんな状況であっても、別に単位を取るのにそれほど支障はないことをほとんどの学生は(そして先生も)知っているから、実際に講義の内容に興味がある学生以外は、それで特に困りもしなかった。


さて、俺がよく覚えているその先生は、そんな状況の中では珍しく硬派な先生で、厳しい講義をすることで知られていた。

講義中に学生に多くの質問を振るし、私語には容赦しない。

そして何より、それに値するだけの講義をしようと、しっかりと準備して情熱を注いだ講義をつくりあげていることが、一度聞けばすぐにわかる。

だから、ある程度まともに勉強をしたいと思っている学生は、その先生に一目置いていた。


ある講義の冒頭でのこと、先生は先週の講義の最後に学生が提出したリアクションペーパーを、パラパラとめくりながらいくつか読み上げていた。

その中の一つに「講義中の私語が気になるから、気づいたときには先生から注意してほしい」というものがあった。

先生はそれを読み上げ、たしかに講義中の私語はけしからんと言った。

講義を聞くために学生は学費を払い、この場所に集まっているのだから、誰かがそれを妨害するのは明らかにマナー違反だと。


そしてそのあと、つづけて先生はこう言った。

「ならばなぜ、これを書いたあなたは、自分で注意しないの?」


別に教師という”権威”を頼むまでもなく、正しいと思うことを実行するのに他人の力など借りずに、自分で実行すればいいではないか、ということを先生は言った。

「まぁ、たしかに。」と、俺は思った。

それは社会学系の講義だったから、つまり先生はガヴァナンスの話をしていて、トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」的に、「自治を実現したまえ」と言っているだろうと、俺は理解した。

自分の意志の実現にいちいち政府を頼るような、お仕着せの民主主義を生きるのはやめたまえ、と。

そういうことをいちいち先生は言わなかったけれども、つまりそういうことを言っているのだろうと、俺は理解した。


そして、その先生の話の中で、特に俺の印象に残っているのは、そのあとに先生が語った部分だ。


誰かに注意を喚起して、ビシッと意見を聞かせて従わせるには、コツがある。

「嫌味をこめないこと」。

これがコツだ。

たとえばグダグダとおしゃべりをしている学生を見ると、たしかに腹が立つ。

しょうもない、情けない奴だと感じる。

しかし、そんな時でも言うことは一つだけ。

「君、静かにしてくれ。授業が聞こえない」

これ以上、何も言う必要はない。

それだけ言ったら、さっさと講義に戻る。

たしかに、いくつか付け加えたくなるのが人情だ。

「よくそんな態度で3年生になれたな」とか「つまらないピアス付けやがって」とか、何かしらチクッと言ってやりたくなる。

しかしそれらのあらゆることが、余計だ。

必要なことをビシッと言う。

言うべきことを言ったら、あとは相手にしない。

これが一番、効く。


先生が語ったこれらの話を俺は今でも覚えていて、今でもあれは正しかったなと思う。

こういう場合、”感情”や”想い”はノイズなのだ。

必要なのは相手への端的な要求と、場合に応じてその根拠だけで、それ以外はすべてノイズだ。

もしもこちらが”感情”や”想い”を込めると、相手もそれに呼応して”感情”や”想い”で応えてくる。

こちらが端的な要求だけを伝えれば、相手もその要求への「Yes or No」に応えざるをえない状況になる。

そして明らかに相手に非がある場合には、相手は黙るしかないのだ。




こういうことは、たとえば仕事をしていてもしばしば直面したりする。

誰かに何かを伝えたい時、基本的には「何を伝えたいのか」を整理して、そのために効果があることだけを端的に伝えるようにするのがいい。

もしも業務態度が不適切な部下がいるのなら、「今の態度では仕事にこういう影響があるので困る」ということを伝えればいい。

「お前最近調子乗ってるよな」とか、「本当にあなたという人間は能力があるのにもったいないことをしていると思う」とか、そういうことを言う必要はない。

褒める時も同じで、「あなたの仕事のこういう点で、こういう人たちがこんな風に助かっているよ。ありがとう」と伝えればいい。

端的な事実だけで十分であって、間違っても、人格的な話に持っていかない。

自分の人格も、相手の人格も、そこに含めない。


イメージと逆だと思われるかもしれないが、恋愛も実は同じだ。

そこに人格は含めないほうが、しばしば上手くいく。

誰かをセクシーだと思ったのなら、「あなたって本当にセクシーだよね」と言えばいい。

私の人生もあなたの人生も、そこには関係ない。

自分の喜びと相手の喜びのために、すべてを尽くすだけでいい。

こういうことが出来ていれば、恋愛も上手くいく。



では、なぜ多くの人が多くの場面でしばしば、上手くいかないと感じるのか。

上記のことを実践するだけでいいはずなのに。

できなくなる理由は、簡単なことだ。


「何を伝えるのか」、これがわからなくなるからだ。

「自分がどうしたいのか」「自分がどうなりたいのか」「状況がどうなっていればいいのか」。

こういうことが整理されないから、上記のように行動できない。


そして、それがおそらく、人間のありのままの姿なのだと思う。

仕事や社会的な場面では、基本的に「ゴール」や「社会的規範」があるから、状況を整理して、あるべき答えを見つけ出し、そのために伝えることを決めるのは比較的簡単だ。

恋愛も、当初のうちは単純だから、同じように簡単だ。

しかし社会的場面を離れた、プライベート空間における人の心や人生は、とても複合的で自由だ。

この複雑さや自由は大切なものなので、そこに付随する「上手くいかなさ」もまた、大切なものだ。

どこかから借りてきたような「型」や「解決法」で、無理に整理しないほうがいいと思う。

エモーションとロジックを行ったり来たりしている我々の姿は、たぶん正しいのだと俺は思っている。


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