2-8.


 背筋が凍り付くというのはこういう時にこそふさわしい言葉に違いない。俺は凝縮した吹雪をいっぺんに浴びたような強烈な寒気を覚え、そのすさまじさと言えば時間までが凍結してしまったかのようにさえ感じたほどだった。俺と話していた奥田もスバルも似た感覚を味わっていたんだと思う。ふたりともある一点の方向を見たまま動けなくなっていたからな。その視線の先、教室の入り口のすぐ外で立ちすくんだ荒川輪子もまた、固まっていた。


 まるで、つい今しがたまで仲良く話していた親友が青天の霹靂もビックリなくらいに何の前触れもなく通り魔に刺し殺されたところを目撃した直後のように真っ青な顔をして。


 でも、停止したように思われた世界が息を吹き返すのは意外と早かった。


 鬼のような表情という言葉もあるけれど、荒川輪子は文字通り鬼と化した。その顔は見る見る憎しみに歪んでいき、その凄烈さたるや彼女の髪が烈火の如く全て逆立ってしまいそうなくらいだった。それだけで一年一組の教室を灼熱地獄に変えてしまいそうな怒りの感情をあらわにした荒川輪子はしかし、ゆっくりと前へ進み出す――その視線の先にいるのはただ一人の人間。


 復讐という言葉だけを胸に長年探し続けた相手のもとへやっと辿り着き、あるひとつの感情に身を委ねて決然と対面した時のような目で捉えられているのは俺――そして、俺が読み取った彼女が持つそのひとつの感情とは――殺す。


 「待て、待て」


 俺は慌てて制止したが、狂鬼と化した女は止まらない。


 死を覚悟した。よくガンアクション映画とかだと、死ぬ間際の登場人物が機関銃をやたら乱射するようなシーンがあるだろう? そんな感じで、最後の最後まで生存本能を失わなかった俺の頭が勝手に口を動かして言葉を紡ぎ出し――


 「これは違うんだ! 事故だ、不幸な事故なんだ。決してわざとやったわけじゃあない。だから落ち着け、な? 落ち着いて話そう。そうすれば何かしらわかり合えるかもしれない」


 

 荒川輪子の拳が振り上げられ――



 「そうだな、ここじゃ人も多いしもうすぐ授業も始まるし、時間と場所を変えよう。時間はそうだな、放課後がいいか? 場所は静かな場所がいいからな……喫茶店とかか? 近くにどっかしらあるだろ。詫びに何でも好きなもの奢ってやるよ。だからさ、おいちょっと」



 その細い腕には見合わない強烈なパンチが顔面目掛けて飛んできて――



 「何だ? 何が好きなんだ!? 女子だし甘いもん好きだろ! ならケーキでも何でもご馳走してやる――」


 この時俺が口走った言葉の数々について、俺は一切の質問を受け付けない。何故かって? だから言ってるだろ。俺はこのことに関して一切の質問への回答を拒否する。知らん。何も聞くな。答えようたって答えられないんだ。何故かって、俺だって別に言いたくてそんなこと言ったんじゃない。


 普段だったらそんな甘い物で女子の機嫌取りするなんていううだつが上がらない男がするようなマネは決してしなかったはずだけれど、何てったってこの時の俺は生きるか死ぬかの瀬戸際にいたわけで、気が動転していたんだ。つまり俺は正気を失っていた。我を失っていた。と、いうことで件のセリフ群は死を目前にして急に湧いてきた俺の隠されし第二人格――それはもはや別人と言っても構わない――のものなんだから、他人の言葉の真意を答えようたってそんなことマインドリーディングには精通していない俺にできるわけもない。すなわち答えらえない。証明終。(補足:ちなみにここで登場した第二人格は発生後すぐに消滅したため今後出番はないと思われる)


 この謎の真相がどうであれ、荒川輪子を止めることができず殴り飛ばされていたら、俺は女子の機嫌を損ねた挙句好物で釣るなんていうみっともない手段に出てそして失敗した恥ずかしい男子として未来永劫語り継がれることになったのだろうけど――


 驚いたことに、その暗黒の未来はすんでのところで避けられたらしい。


 俺ももう死んだと思っていたから、そうではなかったと気が付いてからその状況を理解するまで数秒を要したように思う。



 荒川輪子の拳は、鼻先数センチというところで止まっていた。プルプルと震えるほど握りしめられてはいるが、その白くすらりと綺麗な指の形が鑑賞できるほどに、文字通り目と鼻の先で、止められていた。



 燃え盛る目が獲物を百年は見逃さなそうな鋭さで向けられている。俺の頭ひとつ分くらい低いところから、見上げられる形になっているにも関わらず俺は腹を空かせた巨大な肉食怪獣を前にしたような暴力的な威圧感を味わっていた。その細い体とは思えないほどのエネルギーが溢れ出している。どこにそんな気迫を溜め込んでおけるんだ――という疑問はこの際どうでもよく、それ以上に不可解な謎が目の前に存在し――それはこの状況を見れば一目瞭然なことで、つまりは何故荒川輪子は俺の鼻の骨――下手したら頭蓋骨まで――を陥没させる寸前でその手を止めたのかということだ。


 いつの間にか現れた第三者が彼女の腕を握って制止していたとかそんな映画演出的なオチはもちろんなく、それはスバルや奥田含め周りにいた誰もがこの間一歩もその場から動けずにいたことからも裏付けされる。外的要因がないのだからそれは必然的に内的要因、すなわち荒川輪子自身の意思に起因するはずなのだけれど、だとしたらますますわからない。一刻も早く俺をブッ潰したそうにしていたのに、それだけの強烈な意志を一体何が押さえつけてしまったというのか――


 その答えは意外すぎるところにあるのだった。


 荒川輪子はやっと腕を下ろした。腸が煮えくり返って仕方なそうにしながらも目を逸らしたその横顔には悔しさの色がちらりと見え、俺は困惑する。命拾いしたということもそうだけど、この女子は一体何を考えているんだ?


 直後に左足の脛に激痛が走る。


 「いって!」

 

 殴るのはやめたけど、せっかくの機会だからちょっとやっちゃおうみたいなノリ(たぶん)で荒川輪子が蹴ってきたんだ。軽く憂さ晴らし程度の短い動作ではあったがそれは見事に急所に命中し、俺はしばらくじんじんと痛む患部を見舞ってやらないといけなかった。


 その間に荒川輪子は何食わぬ顔で身を翻し、倒れた自転車の傍に行って何やら色々いじっていた。傷がついてないかとか、壊れてないかとか確認しているのだろうか。幸い何事もなかったらしく(元より足が当たって倒れてしまっただけでそこまでの衝撃があったわけではない)、荒川輪子はまた俺の方へやって来ると悶えるけが人もどこ吹く風、奴隷を見るような目で俺を見下し、


 「咄嗟に出てきたのかもしんないけど、言ったからには今の言葉、嘘とかデタラメとか言ったらブッ飛ばすからね。殴るだけじゃ済まさないから」


 いやもう、既にブッ飛ばされかけたし蹴りも入れられたんですが……という率直な感想は心に留めておいて俺は、


 「ええと、嘘もデタラメも言ったつもりはないんだけども……いや何か言ったか? どの部分のことだ?」


 「うるさい黙って」


 オーマイガー。


 有無も言わさずぴしゃりと言う。


 荒川輪子は続けて、


 「言い逃れしようとするなら覚悟しといてよ。顔が誰だかわかんなくなるくらいボッコボコにしてやる」


 可憐な姿をしながら恐ろしいことを言う奴だ。でもさっきの彼女の本気を見た手前、到底笑うことはできない。その気になれば本当にやってやると、そのまっすぐな眼差しが告げている。


 「よくわかんないけどわかった。お前の言う通りにするよ。それで、俺はどうすればいい? 言い逃れしようにも、その対象がわかんねえからどっちの方向に逃げればいいのかすらわからんぞ」


 とにかく今は従っておかないと大変なことになりそうだったので俺は言ったのだけれど、


 「いいから黙ってて。後で言う」


 そう吐き捨てるなり荒川輪子は自転車を定位置に片付けると席についてだんまりを決め込んだ。今や見慣れたこの女子の通常モードである不機嫌状態に戻ったわけだけれど、ここ数日周りの空気をドロドロの溶岩のような肌触りに変えていた重苦しい殺気オーラは不思議と消えているようだった。まあ通常レベルの不機嫌だとしてもこの女子のそれは近づくには少々トゲトゲしすぎているので、授業が始まったこともあってこれ以降荒川輪子がクラスの表舞台に立つことはなく、一日が終わる頃には教室は元の平和な様相を取り戻していた。元に戻れなかったものがあったとするなら、それは俺の心しかない。


 後で言う、と告げた隣の女子にいつ何を言われるのかわからなくまた聞くこともできないままにヤキモキとただ時間が過ぎるのを待つしかなく、この日ばかりは授業の内容がほとんど頭に入らなかったくらいだ。果たして彼女が一体何のつもりでこのような行為に及んだのか――その謎が明かされるのは、しかして放課後になってからのことであった。

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