第16話 乙女の秘め事

 きしむ音を立てながら木扉を開くと、そこはホコリの匂いが微かに残る暗闇だった。

 巨木を囲むように建てられた樹上の家ツリーハウス。塔のような太さのある古い木の幹に、竜巻で巻き上げられた家がちょこんと乗りました、というような不安定な景観の家だ。外見から比べると幾分か中は広い。ただ、ハーフリング用の家だからだろうか。木を張り合わせたような天井はいやに低く、手を伸ばせば触れるのではないか、という低さだった。

「まあ、そこら辺の床か椅子にでも座ってくれや」

 ずた袋をドサッと玄関付近に放ると、小さな一つ脚の丸テーブルに手を伸ばす。家を出る前の飲みかけだったのだろう。木製のジョッキの中身をあおるセバ。

 くりっとした瞳で、どこかしら愛らしい少年のようにも見える容姿だが、風雨にさらされたようなごわついた肌をしており、鼻から頬にかけては、大きな引き連れのあとがある。その顔つきは、大小様々な経験をしてきたとわかる貫禄のあるものだった。人によっては、警戒しかねない荒々しい顔つき。だがしかし、ウィルマーは余程心を許しているのだろう。親戚の家に遊びに来たかのように、てらいなく床に座り込んでいた。ベッドを背もたれ代わりにのけぞり声をかける。

「セバさん、いつ戻ってきてたんですか?」

「あ? んぁー、昨日だな。恩寵おんちょうの披露やるっつーから気になって来たんだが終わってやがってよぉー、もう、最悪だぜ」

 両開きの木窓を、順に開けていきながら、豪快に笑う。

 そんな様子を、映は玄関際に立って、ただ眺めていた。


       ◆


 セバとの話が盛り上がり過ぎたのだろう。ウィルマーに向けられた視線は、いまや針のようにするどくなっていた。

「【……ごめん、映。なんか話置いてけぼりにしちゃって】」

 立ち上がり、つ、とウィルマーが見やる映の顔は、品良く笑っている。端から見れば、久しぶりにお友達にお会い出来て良かったですわね、とばかりに微笑むお嬢様のようなふるまいだ。しかし、ウィルマーは良く知っている。この顔、大衆向けのバリバリ外向き笑顔だ。

「【わたし、洞窟でなんといったかしら】」

 声音こわねもかなり高めで爽やかな声を出している。

 しかし、その内容は怒る前の予兆のような静かな問い。あ、やばい、とウィルマーのひたいにじわりと汗がにじみ出す。映は間違いなく怒っている。

「(なんだろう……なんて言っていたっけ……!?)」

 変なことを言ってはまずいと焦り始めるウィルマーに、映はかすかに微笑んだ。小首をかしげ、頬に花を浮かべたような可憐な表情。

 女性がわざとらしく愛嬌をふりまくときほど怖いものはない。

「う、ウィル坊、お、お前……」

 震えた声で喋りかけてくるセバさん。言葉が通じずとも映の恐ろしさが通じたか! と振り向くと、ウィルマーはがしっと二の腕を掴まれた。セバさんがよろよろと顔をあげる。瞳孔が開き、手は震えている。

 あ、やばい。

 嫌な予感がして、ウィルマーはすっと身を引こうとするが、旅なれたセバさんの腕力はちょっとやそっとでどうにかなるものでは無かった。

 瞬間、鼓膜をつんざく大音声が放たれる。

「な、なんだー! その言葉はーーー!!」

 脳みそがえ物になりそうなほどに揺すぶられる。

 ウィルマーは忘れていた。ハーフリングという種族自体好奇心がとても強く、気になったものにはすぐ首を突っ込んでいくのが特徴なのだ。その中でも、セバさんは、特に好奇心が強い事で有名だった。昇降機のところで出会った時ですら、映の衣服に興味津々だったのだ。その上、未知の言語を喋ったりすれば、もう好奇心の火が燃え盛るのは止められはしないだろう。

「バカになる! バカになっちゃうよセバさん!」

 辺りが二重にも三重にも見えるほど揺すぶられていたところを急に手を離され、ウィルマーはたたらを踏む。勢い余って、ゴンと頭を棚にぶつけてしまった。ずいと上目遣いで近寄ってくるセバさん。

「その言語は、なんて言うんだ!?」

 その少年のようなキラキラとした瞳。あまりの圧に、思わずウィルマーは顔をらす。しかし、らした先には、より笑みの濃くなった映の顔があった。ぶわっと嫌な汗があふれてくる。

 だが、ウィルマーに危機感を抱かせるものが、それ以外にも視界に映り込み始める。棚の上から、小振りな壺が落ちかけようとしているのだ。このままだと、映の頭上に真っ逆様に落ちるだろう。いくら天井が低い部屋だとは言え、壺が頭上に落ちて大丈夫なわけがない。ウィルマーは、思わず身体を動かしていた。壺が棚から転げ落ち、一直線に落ちていく。ウィルマーが大股で一歩、二歩と跳ぶように走り、ドンと映の頭傍の壁に手を突いた。ウィルマーが映に覆い被さった直後、壺が赤い後頭部に直撃する。

「っ

 薄焼きの土ものが割れる音。中に入っていたのはなにかしらの蜜だったのだろう、割れた壺からあふれた液体が、でろでろとウィルマーの頭を伝っていく。ウィルマーを見上げる映の頬に、ぽつりと琥珀色の蜜が垂れた。鼻と鼻がれ合うような近さだ。

「【よくやったわ、ハチ】」

「【誰が忠犬だよ】」

 息を切らせながら苦笑するウィルマー。

 映は、視線をらさない。

「【……でも、良いきっかけになったわ。水浴びに行きましょう。私もう一秒たりとも我慢ならないの】」

 映に胸を押され、身を起こす。そうだ。映は、水浴びをしたいと言っていたっけ。

「【もう少し待ってよ】」

 振り返り、声を掛ける。

「セバさん、割っちゃってごめん」

「い、今のはなんといったんだ!?」

 壺の破片をものともせず、ずいずいと近寄ってくるセバさん。鼻息は荒く、目は血走っている。その姿は、かなり、怖い。

「あー、えーと、"少し待ってくれ"かな……」

 両手で制止をかけつつも身をすくめる。

「なるほど! "~ください"、はどの単語に当たるんだ……!?」

 しかし、それが何の役に立つのかという勢いだ。

 これはもう、そのままだといつまでも収まらないだろう。

「教える! 教えるから! 着替えと石鹸とか貰えると嬉しいかなあ……!?」

「よし、わかったぁ!!」

 ものすごい勢いで衣類棚を漁り始める。恐ろしいほどの新奇嗜好家ネオフィリア

 もともと旅の進め方を聞く上で、日本については触れなければいけないところだったが、何か間違えた気さえする。

 やたら高級そうな衣類を抱えて満面の笑みを浮かべるセバさんに、ウィルマーは苦笑した。


       ◆


「【これ本気?】」

「【後ろつかえてるんだからさっさと入ってくれー】」

 二人は山森の中の泉に来ていた。

 水車と水路が方々に立てられている鉱山の山中において、ここだけは自然な水が湧き出ているいこいの場となっている。

 密に立ち並ぶ樹木の中にぽっかりと空いた空間。初夏の青々とした葉が光を透かす、透き通る青の泉。楕円だえんに広がるその場所は、小さな湖のような広がりをみせていた。

 山野に住むものは、ここで洗濯もすれば沐浴もくよくもする。勿論服は全て脱いで、そこらの枝に引っ掛けて、だ。

 この大自然の中で裸になる。現代に生きていればすることのないだろう行為。散々ごねたが、どうともならないと悟って、映はセーラーブレザーのボタンに手をかけた。

「【……見たら殺すわよ】」

「【台詞がお約束すぎる】」

 デリカシーの無い赤毛のバカに小石を投げてやった。

「【っ!】」

 泉の入り口辺りで、こちらに背を向けて座っているウィルマー。蜂蜜かなにかを頭からかぶったせいで、とんでもない髪型で固まっているのが面白い。

 振り向こうにも振り向けなくて身体をわなわなさせているが、少しぐらいはおしおきが必要だろう。人が水浴びをしたいと言っているのにそれを放りっぱなしで延々とお喋りをしていたのだから。

 それに、不用意に日本語を話すからあんな事になる。私は口がきけない、という設定にでもしておけば良かったものを……と思うが仕方がない。あの小人とウィルマーとは、大分親しいらしいし、旅にも精通しているそうだから頼らざるを得ないだろう。随分とリアルな造形の世界で、恐れ入る。

 ――だが、世界がリアルでなければ困る理由が、映にはあった。

「【(……でも、それも良し悪しね)】」

 とため息をつきつつ、何度か逡巡した結果、胸元のボタンが弾け飛んだセーラー服を脱ぎ、泉の水にひたした。

 素肌が風にさらされている感覚が心地悪い。制服に目を落とすと、所々火にあぶられて焦げていた。そでを通すこともしばらくないだろうが、そのままというのも忍びない。しまうにしても捨てるにしても洗って綺麗にしてから"お疲れ様"をしたい。ここら辺は、母のしつけの賜物たまものだと思うし、一つ一つの着物を大切にしていた小さい頃の癖でもあると思う。植物油と灰で造られたという硬い石鹸で、汚れを落としていく。さすがというかなんというか、泡立ちは悪かった。

 水ですすいで今度は、スカート。徐々に空気に素肌をさらす面積が増えていくのが、本当に落ち着かないし、他の人が来たらどうしてくれるのだろう。

 ウィルマーいわく、基本的に沐浴もくよくは朝やるものだから昼に人は来ないはずとのことだった。

「【一つ、聞いて良いか?】」

 と後ろから声が飛んでくる。映は眉をしかめてさっと振り返るが、ウィルマーは依然として背を向けて胡座あぐらをかいている。

 ほんとにデリカシーが無い……と思うが、仕方がない。

「【なにかしら】」

「【俺は、日本に行きたいし、記憶の中に出てくる少女に会いたいって目標がある】」

 その言葉を聞き流しながら、映は下着に手を当て逡巡しゅんじゅんしていた。さっと辺りを見回すが、小鳥が鳴いている程度で、獣の気配すらしない。もう少し大きな布を貸して貰うんだった……と小さな布切れを手に肩を落とすが、今更しょうがない。

 そうだ、もういっそ下着をつけたまま入って水中で脱ぐかと思いつく。銭湯などでは許されざる行為だろうが、ここは異世界だし、むしろ外国ではそういう風景を見たことがあるし許される。

 なんとか自分を納得させて、爪先から泉に入っていく。

「【んっ……】」

 つめたい。けど気持ち良い。

 ごくりと、息をのむ音が聞こえた気がするが気のせいだろうか。まあ気のせいだろう。

 底が見えるほど透明な泉は、底の砂利を舞い上げて尚、日光を受けてきらきらと綺羅めいていた。腰を下ろすと、ちょうど胸元まで来るぐらいの水かさだ。徐々にテンションが上がってきた。ホックを外し、するりと肩紐から腕を抜く。一説によると、毎日洗わなくても良いらしい。ワイヤーなどの形が崩れるからだとかいうが、さすがに散々汗をかいたのだから洗いたい。

 でも、替えなんか持っていないから大事に使わないとなあ……なんて思いながら、さっと手洗いをして、近くの岩の上に置く。ウィルマーからは丁度死角になる辺りだ。

 この感じの世界の下着となると、有名どころで言えばコルセットとドロワーズになるのだろうか。ただ、こないだ資料調べにネットを巡回して見つけたのは、中近世のお城から、今で言う上下セット的なブラと紐パンが出土したというニュースだ。

 となると、この世界にもあっておかしくないのかも、と思うがむしろ無いと困る。そもそもコルセットなんかは、つけてくれる使用人が居て初めて使えるものだし……。

「【……聞いてる?】」

 と、自分の世界に入り込みつつある思考に、無粋な赤髪の声が突き刺さる。

「【聞いてないわ】」

「【……もう一度言うよ。一緒に旅に出ようって言って、映は受け入れてくれた。それはありがたいんだ。でも、今更だけど、映はそれで良いのか? 映も、日本から来たなら日本に帰りたいかと思ってたけど、そこまで強い気持ちは感じないんだ】」

 鋭いな。と映は思った。

 そう、別段映は、"ただ日本に帰ること"を目的にはしていない。

 望んで来た世界ではなかった。ただ、今の日本に、帰りたくなるほどの何かがあるわけでも無い。

 むしろ、現実から離れて新天地で生きたいとさえ、あの夜・・・は思っていた。

 でも。映には、この世界に来て一つ、望みが出来たのだ。絶望の中での光明。悪い事をし続けた自分への"蜘蛛の糸"。それを掴み、天へとたどり着く為に。

 映は、ウィルマーの旅に付き合う事にした。

 手洗いの終わった下着を、上と揃えて岩の上に置く。そのまま、映は、水の中に潜った。まとめずに入った黒髪がふわりと広がる。木漏れ日が水面を照らしてきらめく。口から漏れた気泡がふくふくと登っていく。気持ちが良い。衣服は洗ったが、まだ身体を洗ってはいなかった。でも、なぜか水に浸かっているだけで清らかになっていくような気がする。地底湖同様、なんらか精霊の力が働いているのかもしれなかった。

 水面に、慌てて現れた赤の色が見える。おぼれたとでも思ったのだろうか。ふと、唇の端をかすかに吊り上げ、映は勢いをつけて身を起こす。水をはじく長い黒髪。肌を落ちていく水の音。波の立つ泉。ウィルマーの顔が、目の前にあった。

「【気持ちを確かめるのは男らしくないわ、ウィルマー】」

 緑色の目は丸く見開かれ、腰を抜かしている。それを見下し、唇に指を当てる。

「【でも、私が道連れになるのは、あなたが、あなただからよ】」

 くすりと、笑う映。いつの間にか羞恥心しゅうちしんは消えていた。かすかな微笑みの内で、映の胸は、じわりと熱く高鳴っていた。

「【(やっぱりに反応が似てる)】」

 色恋沙汰にはうぶで奥手。人を引っ張っていく事が出来るリーダー気質。愛嬌があって、でもどこか内気。それだから、ただ明るい騒がしい子ではなく、大人しい子もの事を慕っていた。

 人気者。一言で言えば、そう評する事が出来るだろう。映は、ウィルマーのことを、昔から知っていた。

 いや、正確に言えば……違う。正しく言うと、こうだ。

 映は・・誠治・・のことを・・・・昔から・・・知っていた・・・・・

 この世界に来た時、説明を聞いた時、もしやと思った。そして、彼の前世の話を聞いた時、心臓が強く脈打った。そんなことが、あるのかと。

 最初は疑っていた。でも、洞窟を逃げ回る中で、徐々に確信していった。これは、あの子に違いない。本当に生まれ変わったんだと。

 そう確信した時、映の中に一つの仮説が浮かび上がった。それを実行する為に、映は旅に出る事を望む。

 でも。その事は明かせない。流れ星に託した願いを、口に出してしまったら叶わない。そんなジンクスを信じている乙女の秘め事。

 ――などでは決して無かった。この願いを叶えるには、まだ不完全な事がある。そして、この願いは、言えば必ず正気を疑われるだろう。だから、私は――、

「【服を着ろ――――!!!!!】」

 近くに畳まれていた着替え用のローブをこちらに投げつけ走り去っていくウィルマー。

 どこまでウブなのかしら……と呆れながら、映は泉から上がる。

 ローブを広げてみると、白を基調とした上品なものだ。フードが付いており、合わせが少し左に寄っている。裾には、金糸きんし刺繍ししゅうと宝石が散りばめられていた。確実に値の張るものだろう。

 こんなものをポンと他人ひとに渡すあの小人はいったい……と映は眉をひそめた。

 

       ◆


 その頃、セバは樹上の家ツリーハウスで落ち着きなく歩き回っていた。床は、所々壺の破片が残ってはいるものの、綺麗に片づいていた。

「まだまだ世界は飽きねぇな~」

 そんな事を言いながらぐるぐると狭い家の中を歩き回る。ぎぃぎぃと板張りの床が音を立てた。待ちきれない!とばかりに、布団に飛び込んで、ばたばたと暴れたかと思えばまた歩き回る。ふと、脚が、何かに当たった。布で出来た青い鞄だ。長方形の中心に、灰色の取っ手が二つ。底面近くのフチから伸びている。

 当たった瞬間に鞄が倒れ、中身がこぼれ出た。薄い本のような物が何冊かと、革で出来た細長い箱。小さい黒い布の小袋が顔を出す。

 セバが飛び上がり、その勢いで地面に飛び付いた。

 這いつくばり、食い入るようにその本を眺める。驚くほどに紙が薄い。どうやら、高い技術で作られているものだとはわかるが、何が素材かは到底判断がつかない。まったく見たことのない本だった。恐る恐る本を手に取るセバ。その本の表紙には、映の世界の言葉で"敷地"を意味する言葉がデカデカと印字されている。表紙にあたる部分に手書きの文字も書いてあるが、当然セバには分かるわけもない。だが、セバは、まるで芸術品を眺めるように、裏も表も丹念に眺め続けていた。

 この本に書かれている文字のことを、絶対に後で教えて貰おうと、セバは瞳を輝かせていた。

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